「サティヤ サイ ババは霊媒師や仲介人を必要としない」

アニル クマール教授とのサットサング (2015年1月9日)

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アニル クマール カマラージュ(Prof. Anil Kumar Kamaraju)
南インド、アーンドラ プラデーシュ州出身。ラージャラーム モハン ロイの創設したブラフマサマージを三代にわたって信奉する家庭に生まれる。1970年にサティヤ サイ ババの帰依者となる。サティヤ サイババを学長とするサティヤサイ大学のブリンダーヴァン校の校長を経て、現在はサティヤサイ大学植物学教授。また、サイババの指名により、長年にわたりババの御講話の英語通訳を務める。アシュラムでは外国人帰依者を対象とした「サンデーサットサング」というレクチャーを毎週日曜日に開講し人気を博している。世界中のサイ オーガニゼーションから講演者として招かれることも多く、日本には1992年と2010年に来日。一男三女の父。著書に『サティヨーパニシャッド』上・下(サティヤサイ出版協会刊)などがある。


サイ ラム

今、本当に必要とされていることは和合・一体性です。ババからの最初の御言葉は「一体性こそが神である」というものでした。繰り返します。「一体性こそが神である。」その意味するところは、一体性のないところには神性も見られない、ということです。ですから、私たちの日常生活において、さらには霊性を志向する組織にあってはなおさら、この和合の精神を持つことが絶対的に必要なことなのです。

サティヤ サイ ババは宗教ではありません。サティヤ サイ オーガニゼーションは宗教組織ではありません。サティヤ サイは分派を持ちません。これらはボンベイで行われた第一回世界会議でババが話されたことです。繰り返します。「サティヤ サイは宗教ではなく、サティヤ サイは分派を持たず、また、サティヤ サイはどのような特定のグループにも属しません。」

あと二つ、私たちがよく考えなければならない御言葉があります。 バガヴァン シュリ サティヤ サイ ババは「全ての形は私のものであり、全ての名も私のものである」とおっしゃいました。私たちは御言葉を読むことはとても得意ですし、引用することはもっと得意で、分かち合うことは最高に得意です。でも、正直なところ、実践することはそれほどでもありません。実践が全くできていない、と言っているのではありませんよ。そうではなくて、一体性ということに関しては、日常生活の中であまり実践されていない、ということです。ババが一体性は神であるとおっしゃる時、それは、一体性が欠けているなら、そこで神聖さが体験されることはなく、また、神聖さとは程遠いという意味です。ですから、皆さん、今、本当に必要とされているのは一体性です。なぜなら、「一体性こそは神」だからです。

このことに関して、ババがおっしゃっていることを見てみましょう。枝は多く、花も多く、果物もたくさんあるかもしれません。また、枝は長く、四方に広がり、花や実をつけることでしょう。でも、その根は一か所に存在します。根は一つのところにあって、枝は四方に広がります。今お話していることは、おわかりですよね。プッタパルティで誕生したバガヴァン シュリ サティヤ サイ ババの根は、疑うことなく、その根がある場所に存在しています。だからこそ皆がここに集まるのです。だからこそ、インド国内のものであっても、国際的なものであっても、あらゆる大会がここで開かれるのです。だからこそ、世界中の様々な場所から、人々がここに集うのです。何といっても、この場所で、ババは肉体をまとって八十五年を過ごされたのですから。

全ての場所には重要性があります。全ての場所がそれ自体の意味を持っています。ベツレヘム、エルサレム、メッカ、アムリトサル、ティルパティ、グルドワーラー、マスジッド、その他様々な聖地や寺院には、それぞれの重要性があります。神は遍在です。それに異論はありません。それでも、私たちは寺院に行きます。神は全知ですが、それでも私たちは祈りを捧げます。神はあらゆるところにまします、と知ってはいても、私たちはそれぞれの要望を持っています。

ですから、ここで明確にしておきたいのですが、サティヤ サイの根っこは、ここ、プラシャーンティ ニラヤムにあるということです。それは、全世界がここにやってくるからですし、ババがここで人生を過ごされたからでもあります。ババはまた、「全世界がプラシャーンティ ニラヤムという木の下に、木陰を求めてやってくるだろう」ともおっしゃいました。プラシャーンティ ニラヤムは巨大な菩提樹の木で、世界中からあらゆる人が庇護を求め、木陰の安らぎを求めてやってくるところです。ですから、皆さん、枝が四方八方に伸びようとも、花や実の大きさや形が違っていようとも、根っこはここ、一か所だけにあるのです。根っこはあちこちに飛び回ることはありませんし、一か所に収まっています。同様に、この場所が中心になっているということは、もうどうしようもないことなのです。

生命に二つの中心があるでしょうか?心臓は左胸にあります。右側にもう一つ心臓があって、膝の近くにも他の心臓があって、などということはできません。それなら、心臓がない方がいいでしょう。それぞれの手足に心臓はありません。身体全体が心臓の場ということでもありません。でもそれは、身体の他の部位が役に立っていない、ということではありません。心臓は血液その他全てを身体の隅々にまで送り届けます。心臓は一か所にあります。心臓が、朝には膝のところへ行き、夕方には手のところに行く、ということはありません。けれども、心臓という中心から身体の様々な場所に、酸素やエネルギーや血液が届けられます。これと同じように、世界中のサティヤ サイの帰依者にとって、中心としてのハートはプラシャーンティ ニラヤムのことなのです。二つ目の心臓、三つ目の心臓、四つ目の心臓、というものはありません。心臓が切除されたり、心臓の機能が停止したりする、ということはあるかもしれません。しかし、心臓の位置は一か所であり、機能しているか、していないかのどちらかです。同じように、プラシャーンティ ニラヤムは世界中の帰依者にとっての心臓部であることを理解していきましょう。第二の場所はありません。

私はババの御言葉だけを申し上げています。私はそれほど想像力豊かではありません。見えないものが見えるわけでもありません。また皆さんを説得しようとも思っていません。今、ここで大切なことは、ババの御言葉を確認することです。ババがどのようにおっしゃっていたのかを確認すること、それだけです。

聖書は、生き方、人生とは何か、人生の目的とは何か、を教えてくれます。人生の目的は聖書の中にはっきりと示されていて、キリスト教徒はそれに従います。コーランは、人生とは何か、どのように生きるべきかをイスラム教徒に伝えます。グル グラントは人生のあり方、行動の指針をシーク教徒の共同体に伝えます。同じように、ダンマパダもまた、仏教徒に日々の生活のあり方を伝えているのです。このように、全ての宗教がその基本となる聖典を備えていて、それぞれの信者がそれに従っています。ヒンズー教徒はギーター、キリスト教徒は聖書、イスラム教徒はコーラン、シーク教徒はグル グラント、仏教徒はダンマパダと、それぞれの聖典に従っています。私たちもまた独自の聖典に従っています。何か疑いが湧くと、私たちは聖典に立ち返ります。精神病院から抜け出てきた人でもなければ、(教えの源に立ち返ることをせずに)「私の判断が全てです」と言うことはないでしょう。しかし、どんなに聡明な人であっても、聖書を超えることはできません。どんなに能力があっても、人はヴェーダ以上の存在ではありえません。どんなに才能があっても、人はダンマパダ以上ではありえません。どんなに創造的であっても、人はグル グラント以上ではありえないのです。なぜかというと、それらの聖典は究極の教えの源だからです。

現代の社会においてさえも、全ての国には法律があって人はそれに従っています。インド刑法というものがあります。インド刑法、私たちはIPCと呼んでいますが、これをもとに私たちは審理し、評価し、決定を下すわけです。「私には独自の刑法がありますから」、とは言えないわけです。独自の刑法を持っているかもしれませんが、それでも人はインド刑法に従って処罰されます。このように、法典は一つ、聖典も一つ、神は一つとなっているのですから、それらがたくさんあったらおかしくなりますね。根っこは一つなわけです。これまで見てきました例からも明らかなことですが、一体性こそが神と言えます。

さらにババは、「霊性とは何か?」とおっしゃいます。霊性とは、バラバラになっているものを一なるものへともたらすもの、です。仕立屋に行くと、最初、布地はバラバラの状態、そのままの状態です。仕立屋がすることは、このバラバラの布地を一つにまとめ、縫製して美しい洋服に仕立て上げるということです。霊性の目的は和合・一体性にあります。分裂があるところに霊性はありません。一体性のないところに霊性はありません。霊性はバラバラなものを一つにするものである、とババがおっしゃっているからです。ババはその例として、針を挙げられました。針によって、様々な布地が縫い合わされ、一つの美しい洋服が作られます。

それでは、分裂とは何でしょうか?異なる宗教とは何でしょうか?異なるグループとは何でしょうか?分派とは?ある宗教には千二百もの宗派があると、聞いたことがあります。今の時点では、その数はさらに増えているかもしれません。どうしてこのような状況なのでしょうか?否定すべきことでしょうか?反対すべきことでしょうか?私は反対しているのでしょうか?いいえ。宗教は存在します。宗教は分裂しています。宗教はたくさんあります。霊性は一つです。それがサティヤ サイ ババです。

ババは鋏(はさみ)を例に挙げられました。大きな布がたくさんの小片に裁断されます。これらは異なる宗教です。これらの布の断片が縫い合わされ、一つの洋服となります。それが霊性です。

皆さん、私たちは(外側の)ババを追いかけるほど思慮に欠けてはいませんね。そこまで分別に欠けてはいないでしょう。指輪や腕時計のようなものを求めてババを追いかけるほど愚かではないはずです。それは皆さん理解されていると思います。私は、指輪のためにババの御足に来たのではありません。ですから、たとえもし、誰かが私に指輪をくれるとしても、私はその人のところへは行きません。なぜなら、指輪が目的ではないからです。なぜ、そこに行かなければならないのでしょうか?皆さんがここに来る理由は、指輪やペンダントではありません。それは明らかなことだと思います。指輪やペンダントをスワミから受け取った人は、何千人に一人の割合でいるかもしれません。でも、その他の人々はどうなるのでしょう?指輪をもらった人が、人類で最高の部類の人間だと思いますか?それは、多くの場合、否です。それでは、なぜ、スワミはそれらをお与えになるのでしょう?それは恩寵としてです。スワミの慈悲として。お守りとして。それだけです。宣伝のためではありません。人をランク付けするためではありません。私は博士号を持っているから、スワミからの指輪を持っている、とか。私は少将だから、スワミからの腕時計を持っているとか。そんな人たちは精神病院に入ったほうがいいのです。物質化されたものは全て、サイの恩寵であり慈悲の印です。それらは広告宣伝のためではありません。それらは勲章ではありません。それらは持ち主の功徳を認めるものではありません。指輪やペンダントなどをもらった人の人生を調べてみれば、ここにいる皆さんより立派なものだとは決して言えないでしょう。皆さんのほとんどは、そのような人よりも立派なのです。繰り返しますが、皆さん、私たちはこうした小物を求めてスワミのところに来たわけではありませんね。誰かが皆さんに指輪やペンダントやネックレス、その他の小物を授けてくれたとします。もしそうした物に執着してしまったら、私たちは全く取るに足らない存在となってしまいます。私たちは安っぽい存在ではありません。私たちは低俗ではありません。よく言われることですが、さもしい人がこのような小物に惹かれるのです。

私がなぜ、このようなことを申し上げているのでしょう。私が申し上げていることは、標準的な物の見方に基づいています。一方的な物の見方をしているわけではありません。極端な物の見方をしているわけではありません。そのことを検証しなくてはいけませんね。

バヒラーギシャーストリという名の偉大な学者がいました。彼は毎年、ダシャラー祭の世話役をしていました。そのダシャラー祭の時、スワミは彼の奥さんのためにネックレスを物質化されました。(ダシャラー祭が終わって)故郷のダルマヴァラムに帰郷する時のことでした。駅に着き、奥さんがある場所に腰を下ろすと、様々な場所に座っていた帰依者全員が、「ババから出してもらったものだ。物質化されたものだ」と口々に叫びながら、そのネックレスを見に行きました。こうした振る舞いに問題がある、と言っているのではありませんよ。どうか誤解しないでください。それが悪いことだと言っているわけではないのです。ただ実際に起こったことを申し上げているだけです。

そこにいた人たちは皆、その物質化されたペンダントを見に行きました。私はある場所に立っていました。バヒラーギ シャーストリ氏は奥さんと一緒にいました。その時、私の心(マインド)を二つの思いがよぎりました。もし見に行かなかったら、他の帰依者たちは私が帰依者ではないと思うだろう。顔も名前もよく知られた男が、もし行かなければ、人々は、私がその女性に嫉妬していると考えるかもしれない。心(マインド)はそんな風に考えます。心(マインド)とはそんなものです。嫉妬や妬みを持っていると非難されるか、帰依者ではないというレッテルを張られるか。私は安全策を取って、見に行くことにしました。そして、彼女の首を飾っている鎖を見てから、ナマスカールをして戻ってきました。

その時、僧侶であり、学者の長である夫のバヒラーギ シャーストリ氏が、そこに立っていました。彼に匹敵するような学者はいません。全てのヴェーダに通じている学者です。私は彼のところへ行きました。彼とは親しい間柄でした。「先生、スワミはとても素晴らしいネックレスを母上(奥様)にお与えになりましたね」と私は言いました。その言葉に何か悪いところがありますか?それはお世辞でも、批判でもなく、ただありのままを述べただけです。「ここにいる母上のために、スワミが素晴らしいネックレスを物質化された」と。

この言葉に対して、バヒラーギ シャーストリ氏は即座にこのように反応しました。どうか、よく聞いていてください。先生は何と言ったでしょう?「アニル クマールさん、あなたからそんな言葉を聞くとは思ってもいませんでした。あなたが口にするような言葉ではありませんな。」その時、私は震えていました。この方はババに大変近しい、八十歳の大老です。私は、全てのヴェーダのマスターであるこの方の足の塵にさえも匹敵しない存在です。それで、私は大きな罪の意識を感じました。私は言いました。「先生、すみませんでした。何か失礼なことを申し上げたのであれば、お許しください。」

先生は次のように答えました。「肉体そのものが、かりそめの、はかない、いつかは朽ちて死すべきもの、燃やせば灰になるものであるというのに、この物質化されたネックレスが永遠に存在すると思いますか?指輪は永遠なものだと思いますか?この私の肉体ですらも永遠ではないというのに。この肉体が朽ちる時、腕時計に意味があると思いますか?」ですから、皆さんにはこのことに気づいてほしいのです。先生は「アニル クマール、そんなことは問題ではないのだ」と言いました。

私のイヤリングもそうです。もし皆が、私はこれを貰った、あれを貰った、と言い始めたら、ババはすぐにそのようなことをおやめになるでしょう。ですから、物質化された物は、ババからの愛、思いやり、慈愛の贈り物として見るべきなのです。ババからの贈り物は、あなたのエゴを際立たせるものであるべきではなく、あなたの生涯における画期的な出来事にすべきでもありません。それらは王冠や金メダル、あるいは何かを達成した印として見るべきものでもありません。そうではないのです。

スワミは肉体を脱がれたので、肉体として私たちの間を歩かれることはありません。指輪をもらえる、というのは抗しがたい魅力かもしれません。私はそこに行くべきでしょうか?皆さんの思いを聞かせてください。どこかに、私にネックレスをくれる人がいる。私はそこに行くべきでしょうか?私はそんなに節操のない男でしょうか?私には識別心というものがないのでしょうか?私には知性はないのでしょうか?私に判断力はないのでしょうか?私に、ババの御教えやメッセージを理解する力はないのでしょうか?私は、単なる物に過ぎないのでしょうか?そんな存在でしょうか?あるいは、私は貪欲なのでしょうか?もし、一つの指輪が私を救ってくれなかったら、一つの指輪が私の人生の質を高めるのではないなら、どこからかもらってきた指輪に何らかの価値があると思いますか?きっと、その指輪は私のエゴをさらに増長させることでしょう。「私が」、とか、「私の」、という想いが強まるでしょう。無私の心はさらに遠のいていくでしょう。ここにいる皆さんに心から申し上げたいことは、どこかの誰かからもらえるとしても、こうした指輪やペンダントやネックレスに惑わされないでください、ということです。 

最初に申し上げたポイントは、この場所、プラシャーンティ ニラヤムというサイの世界の根っこを堅持するということです。二番目のポイントは、こうした小物に心を動かされたり、惑わされたりしないように、ということです。三番目のポイントは、(遍在の)神に気づくということ。四番目は、宗教は分断する鋏のようなもので、霊性とは布を縫い合わせる針のようなものである、ということ。あと他に、ババはどのようなことをおっしゃいましたか?今申し上げたことは、全てババの御言葉ばかりです。どうかご理解ください。

手を切った時、片足を切断した時、解剖室で身体の一部を切除した時、どんなことが起こるでしょう?身体は弱ります。血液も失われます。身体の様々な部位が切断されてしまえば、血液が失われ、身体が弱まります。ですから、どのようなことがあっても、いかなる分裂も生じさせてはなりません。どのようなことがあっても、分裂の力に加担しないようにしましょう。ババははっきりとおっしゃっています。「身体を切断してはなりません。そうすれば身体は弱まるばかりです」と。「私たちは分裂して、弱くなってはなりません」と、バガヴァン シュリ サティヤ サイ ババはおっしゃっています。次にババがおっしゃったことは、それは何度も言われたことですが……私たちのほとんどはどうしてしまったのでしょうね。それはマーヤーなのでしょうか?私にはわかりません。とても多くの人が、ババのおっしゃったことを忘れて、つまらないことに流されています。ババは何回も繰り返しおっしゃっています。「私はインタビュールームの中にも、外にも、どちらにも遍在する照覧者である」と。

一本の糸があります。糸は切れることがあります。しかし、たくさんの糸を集めて、布を織ってしまえば、糸が切れることはありません。(糸が布の中に)織り込まれればそうなります。同じように、もし私たちが分裂してしまったら、私たちは弱くなります。他の人のゴシップや批判の的となって、乏しい精神性を世間に晒すことになります。世界の人々はどのように私たちを見るでしょうか?今日まで、世界の人々はサティヤ サイの帰依者は模範であると考えています。今日まで、人々はサティヤ サイ オーガニゼーションはお手本となる組織であると考えています。どの組織も匹敵しえない組織であると。これまではそうでした。私たちが分裂してしまったら、あるいは、この一連の残念な出来事や金ぴかものやガラクタに夢中になってしまったら、サイの御名を失うことになります。私たちの信望も失われます。スワミの御名も汚されてしまいます。その原因の一端を私が担うのでしょうか?スワミによってたくさんのことを助けてもらい、たくさんの恩寵をいただき、何年もこの組織にいながら、スワミの御名に泥を塗るのでしょうか?分裂が許されるでしょうか?

誰かがババの代理として話すことが許されるでしょうか?若い少女が立ち上がって言いました。「アニル クマールさんの代わりに私が話をします。スワミは私(少女)に『あなた(アニル クマール)の口を閉じなさい』とおっしゃいました。」若い女性、少女でした。彼女は私に何と言いましたか?「スワミは私(少女)に『あなた(アニル クマール)の口を閉じなさい』とおっしゃいました。」私はそこで「はいそうですか」とすぐに口を閉じるような人間ではありません。私には経験があります。私はなんと言ったでしょう?「スワミは私(アニル クマール)に『あなた(少女)の口を閉じなさい』とおっしゃいました!」(笑)そんなことが言えますか?ババははっきり「私が連絡を取るために、霊媒師を使うことは一切ありません」とおっしゃいました。はっきりとおっしゃったのです。(拍手喝采)

私たちはどれほど愚かなのでしょうか?神ですらも救いようがないほどです。「私には霊媒師は必要ありません」と、ババはおっしゃいました。それにもまして、さらに大切なのは、「私とあなたの関係は、直接の関係、愛から愛への関係、ハートからハートへの関係です」というスワミの御言葉です。「私とあなたの直接の、愛から愛への関係、ハートからハートへの関係」とババがおっしゃるなら、私の祈りを全てババが叶えてくださるのなら、私の祈りすべてにババが応えてくださるのなら、ババの代わりを務める霊媒師は必要でしょうか?なんと浅はかなのでしょう。どうしようもありません。

不思議な夢を見る人々もいます。「私の夢の中にスワミが出てきて『あなたは私に二百五十万ルピー(約四百八十万円)を寄付しなければなりません』と、私におっしゃいました。」「私の夢の中でスワミが『あなたの乗っている車、ジャガーをここに置いて帰りなさい』と、私におっしゃいました。」その時、私はどう返事するでしょうか?言葉通りに受け取るほど愚かなのでしょうか?私たちは純真であってよいのですが、無知ではいけません。賢者ではないとしても、愚かになるべきではありません。ある人から「あなたの車を置いて帰りなさい」と言われたら、どうしますか?ある人から「自宅を他の人に譲ってどこかに行きなさい」と言われたら?私はどうすべきでしょう?私は自分の車も、家も、生命も惜しくはありません。しかし、スワミはそのような指示を、あなたにではなく、私に直接おっしゃることでしょう。スワミは、あなたにではなく、私に指示なさるでしょう。車の持ち主は私なのですから。その車が私の物であれば、スワミは私の夢に出て来て、私に直接おっしゃるでしょう。スワミは直接私に「これこれの額のお金を慈善事業に寄付しなさい」と、おっしゃることでしょう。スワミは直接私に「あなたの名前でこれらの財産を寄付しなさい」と、おっしゃることでしょう。あなたの夢の中に出て来て、私に依頼する、なんてことはありません。それがあなたのおじいさんの財産とか、義理のお母さんの財産であったら、話は別ですが。(夢の中でスワミからこう言うようにと指示されたとは)なんと愚かな主張でしょう。

私が皆さん一人ひとりに心からお願いしたいのは、スワミの仲介者であると主張するそのような人に決して惑わされないでください、ということです。仲介者はいません。神は郵便配達人ではありません。違います。かつて、スワミとの会話の中で、私がスワミに「誰々さんが私に、このことをスワミに伝えてください、と言っています」と申し上げたことがありました。それは何かいけないことでしょうか?スワミが何とおっしゃったかわかりますか?「お前は郵便配達人なのか?」「私と直接話すよう、彼に言いなさい」とおっしゃいました。別の機会のことです。私はスワミに「スワミ、彼には何とお伝えすればよろしいでしょうか?」とお尋ねしました。それに対して、スワミは「私が直接彼に話します。あなたは座っていなさい」とおっしゃいました。ババは、皆さん一人ひとりに対して直接、ハートとハートを通じて、面と向かってお話しになります。このようなスワミの御教えを知っているというのに、どうして誰かがババの代理人であると信じることができるでしょうか?その人の指示をババからのものとして受け止めることがどうしてできるでしょうか?私が、インドの大統領の代わりに話をすることができますか?私が、アメリカのオバマ大統領の代わりに話をすることができますか?「オバマ大統領が私に『あなたはすぐアメリカに帰るべきです』と言っていましたよ。」あなたはなんと言いますか?「オバマ大統領は私に『私は帰らない』と言っていました。」そんなことは言いませんよね?ですから、皆さん、金輪際、仲介人とか代理人とかを認めないようにしましょう。それだけです。神は私たち一人ひとりの中にいらっしゃいます。

アンタランガ サイ(内在者であるサイ) アナータナータ サイ(寄る辺なき者の主であるサイ)
アンタランガ サイ(内在者であるサイ)
ディーナバンドゥー サイ(貧しき者の友であるサイ) カルナースィンドゥー サイ(慈愛の海であるサイ)
アンタランガ サイ(内在者であるサイ)

私の中にサイがいるのに、あなたは私に「自分はサイとあなたの仲介者です」と言うのですか?

私は、価値のない存在でしょうか?私は(神をハートに宿すことに)ふさわしくない存在なのですか?サイのメッセージを直接受けることは私にはできないのでしょうか?それであなたは「自分はサイの代理人である」と伝えに来たのですか?神は常に内在しています。アンタランガ サイ(内在者であるサイ)。ババも、ギーターも、イーシュワラも、アルジュナも同じことを教えています。アルジュナは、神は自らのハートの中に在る、と理解しました。神はあなたのハートの中にいます。いいえ、私のハートの中に神はいません、と言うのですか?神は他の人のハートの中にいると?他の人のハートの中にいる神が、私のハートに語りかけるのですか?とても愚かなことです。神は私たち一人ひとりのハートの中にいます。神は私たちに直接語りかけます。皆さん、このことこそ、今確認すべきポイントなのです。今まさに私たちは重要な局面にいるのです。

中には、大変困った、不都合な状況に陥っている人もいます。そうあるべきか、あらざるべきか。五十年もの間ババの御教えに従っていながら、脇道に逸れてしまう。そうあるべきでしょうか、あらざるべきでしょうか?彼らは生きているのでしょうか? 死んでいるのでしょうか?五十年連れ添った奥さんに、「君は僕の奥さんなの?」と尋ねているようなものです。五十年間、一緒に暮らしてきたのにですよ。「彼女は誰だい?」と、私が言うわけです。誰かに「彼女はあなたの妻ですよ」と言ってもらうのでしょうか?

今、起こっていることはそれに似ています。誰か他の人の言葉に従うことは、内なるババとの関係を否認することです。内なるババを追いやってしまうことです。私たちはそのようなことはしません。ババを仲介する人はいません。他の人の夢によって指示されることはあり得ません。一人ひとりが自らの人生を生きるべきです。(人の夢の中ではなく)自らの夢で起きたことが大切です。ババからの直接の指示が大切です。ババから一人ひとりに直接の指示を出してもらうのです。皆さんは私に指示を与えることはできません。もう、このようなことを理解し実践し、確固たるものとしなければならない時期・状況にきています。私たちは政治屋ではありません。政治屋は、朝、ある党に所属していたと思えば、夕方には別の党の人になっています。午後には、両方の党からお金を得ています。こちらでも指輪、あちらでも指輪。私は最高の帰依者です、と。忌まわしいことです。ひどい話です。霊性とはご都合主義ではありません。自分に都合良く歩むことではありません。霊性とは確信です。どんなことが起ころうとも、揺らぐことのない確信です。

この観点から、昔の科学者たちについて考えてみましょう。全世界がガリレオを非難しました。全世界がマリーを非難しました。マリー キュリー夫人です。全世界がメンデルを非難しました。全世界がダルトンを非難しました。そして、全世界がダーウィンを非難しました。それでも、彼らは自らの姿勢を変えることはありませんでした。ダーウィンは自然淘汰の理論を手放さず、他の学説に鞍替えすることもありませんでした。ガリレオは自身の考えを変えませんでした。コペルニクスも。過去の偉人たちは、全世界を相手に一人で立ち向かいました。

イエスキリストも。全世界が彼を非難しました。イエスキリストは死に至るまで意志が揺らぐことはありませんでした。十字架にかけられても、なお真実は永遠であると。

マンスールもまた偉大な帰依者でした。彼は「私は神である」と宣言しました。王は「わしは、その神とやらを見てみたい。マンスールをここに連れて来い」と言いました。マンスールは王の前に連れて来られ、そこに立たされました。王は「おまえが、あちらこちらで言いふらしていることをここでも言ってみよ」と言いました。「私は神です。」「彼を牢獄に入れろ。」「お前は何様なのだ?お前は囚人だ。そうじゃないのか?」「いいえ、私は神です。」「わかった、やつを牢屋から出せ。」王はそう告げて、マンスールの両足を切断しました。「さあ、お前は今、何者なのだ?不具者か?「障害者か?お前は誰なんだ?」「私は神です。」その言葉を聞いて、王はマンスールを殺しました。ババがおっしゃるには、マンスールの遺体が焼かれた後の灰は、風に吹かれると、「私は神である」と響き始めたということです。

これこそが霊性です。どんなことが起ころうとも、私は自分の言っていることを信じる、と。これは私の確信である、と。心があちこちとさまようのは政治屋の心と同じです。心の焦点が物質次元にある時、心は四六時中変化し続けます。そのような心は利己的な心です。私たちが目指すものは世俗的なレベルではありません。霊性のレベルです。「私が」や「私の」という意識はここでは受け入れられません。ですから、ババのおっしゃったことを思い起こす必要があります。ババは、蟻は集団で行動する、とおっしゃいました。鳥もまたグループで飛ぶ、と。私たち人間は、この一体性のお手本から学ぶことはできないのでしょうか?蟻でさえも一体性を体現しているというのに、私たちはそれを模範とすることもできないのでしょうか?一体性は最も大切なことです。個人のレベルですら、二本の足が調和して動かなければ、正しく歩けなくて、つまずいて転んでしまいます。五本の指が調和して働かなければ、一片の食事も口に運べず、食べることはできません。二つの目が一緒に働かなかったら、片方の目が左を向いて、もう一方の目が右を向いていたら、私は二人の男に出し抜かれてしまうでしょう。左目で自分の妻を見て、右目で誰か他の奥さんを見ることはできません。そんなことはできませんね。肉体一つとっても、完全な共時性、完全な一体性、完全な調和が存在しています。

それでは、そのような個人が集まったら一体性は達成できないのでしょうか?それもまた、宗教の名のもとに行われている状況と同じでしょうか?あちらでも「神はババです」と言って、こちらでも「神はババです」と言っているのに、互いに争っています。なぜでしょう?まるでババに対する特許を持っているかのように、「私のサイ ババ」と言う人がいます。あたかも著作権があるかのようにです。ババが、「私はあなたのものです」と言う時、私たちは「あなたは私のものです」と言います。なんという悲劇でしょう。サイは私たち一人ひとり、全ての人のものです。誰か特定の人が独占できるようなものでもありませんし、あなたよりも私の方がスワミをもっと持っている、とも言えません。バランスは存在しているのでしょうか、電気の陰陽のバランスのように。

ババは私にこのようにおっしゃいました。「真実はどこにあるのか?」と。ババが私の夢に現れました。私も夢を見ますよ。私の夢は本物だけど、お前の夢は偽物だとは言えないですよね。なぜ他の人の見る夢に私が従うべきなのでしょう?こんなことは、本当に初歩的な質問で、私たちはそれに向き合わなければなりません。できるだけ早くこの問いに向き合う必要があります。

ババの御教えをできるだけ多くの人と分かち合ってください。何十倍も何百倍にも、できるだけ多くの人と。それが私たちがすべきことです。

私たちには二つの役割があります。一つは個人として。もう一つはサイの帰依者として。私たちには、個人としてだけではなく、サイの帰依者としての役割があるのです。サイ オーガニゼーションの一員として。サイ ファミリーの一員として。アクティブワーカーとして、セヴァダルとして。バル ヴィカス教師として。スタディーサークルのメンバーとして。サイ ファミリーのメンバーとして、共同体における役割があります。個人の役割と共同体における役割、二つの役割です。一つは個人としての霊性修行、もう一つは共同体全体としての霊性修行です。

個人としての霊性修行は、個人の役割です。断食を何日間行うとか、何日間眠らないとか、バガヴァッドギーターを何回読むとか、何時間、瞑想するとか、これらは全て個人に関する事柄で、それに口を挟む気は全くありません。「私はこれこれのことに従います。」「どうぞ、どうぞ、なさってください。私には関係のない事柄です。」「私はこれこれのことをします。」「どうぞ、どうぞ、やり続けてください。ただしご自分でおやりになってください。」あなたのスワミを押し付けないでください。個人的な事柄を他人に押し付けることはできません。あなたはウェスタン(西洋)キャンティーンの食事を好むかもしれませんが、私はスパイスの効いた食事が好きなのです。ジャムとバターがついたパンを食べろと、私に強制することはできません。体質や消化器官に合わないこともあります。西洋ではあまり辛すぎるのはよくありません。無理やり唐辛子を見せることもできません。その人は唐辛子を見ただけで身体が反応して熱くなってしまうのです。

食べ物の話はさておき、舌の好みが異なっているのに、自分の好みを他の人に押し付けることはできるでしょうか?それは愚かなことですよね?それは傲慢さの極みではありませんか?それはエゴではないでしょうか?自分の見解を他人に押し付けること、従うまでは容赦しないこと。それはスターリンのやり方です。ヒットラーのやり方です。それは霊性における毛沢東主義です。

まとめますと、個人の霊性修行、個人の霊的実践、個人の覚醒、個人のやり方は、それぞれの個人に任されています。全ての人に霊的な覚醒、究極原理を探究しなさい、と命じることはできません。「ありがとうございます。でも私はこれ以上何も探究したくないのです。ほっておいてください。」もし誰かが「三回礼拝するのが最適である」と言ったら、「どうぞやってください。三十回でもいいですよ。」あなたは自分に合った道を選べばいいのです。あなたの個性や体質に合った道を選んで下さい。あなたにとってよい道を選んで下さい。あなたの空腹を満足させるものを食べてください。あなたの乾きを癒すものを飲んでください。全ての料理を食べなくてもいいのです。たくさんの料理があるのですから。

一九七五年のことですが、インディアナ州のケンタッキーというところで、私が菜食主義であるということを知った人々が、私にボウルに一杯入った食事を持って来てくれました。「アニル クマールさん、菜食のお食事です。どうぞお召し上がりください」と。その食事は何だったでしょう?ボウルの中に何が入っていたでしょう?それはマッシュポテトでした。ジャガイモが全部つぶれてぐちゃぐちゃになっていました。「それを食べなさい」と言われたのです。私は「それは菜食料理ではありません」と言うべきだったのでしょうか?菜食ではないと。「それは菜食ではないのですか?」「いえ、菜食です。」でもそんな風に出されたものを食べられますか?無理です。礼儀として、私は笑って、「お気遣いいただきありがとうございます」と言いました。その人たちがいなくなると、私は台所の流しにそれを捨てました。ですから、相手の理解の如何を考慮せずに、自らの見解や結論を他人に押し付けることはできないのです。相手の意識のレベルが自分と同じか同じではないかを念頭に入れずに。その波長のレベルを考慮せずに。もしいつもそうしていたら、人々はあなたを避けるようになるでしょう。

まとめますと、個人の霊性修行、個人の霊的実践はそれぞれの個人に任されています。しかし、サイ ファミリー共同体にいる私たち、サイ オーガニゼーションのメンバー、サイの各協会のメンバー、サイのアクティブワーカー、長年に渡ってババから恩寵や祝福を受けた人たちは、基本的な事柄を理解できているでしょうか?基本的な事柄について、私たちはババの御教えを守っているでしょうか?私は自分の思いや言動をチェックしているでしょうか?

ババを実際に体験してきたのですから、私たちにババの複製は必要ありません。ババと私たちの間の仲介者も要りません。 私たちと神との密接な関係に介入してくる人は欲しくありません。神との直接的関係とは、帰依者と神のものであり、第三者が間に入ってくるものではありません。そうではないのです。

皆さん、私たちはサイ ババに帰依しています。私たちはサイ ババの御足にお仕えしています。帰依者が分断されるべきではありません。ババの代理人と名乗る人物を、どのような人であっても認めるべきではありません。代理人と称する人たちに注目すべきではありません。そのような人物から贈り物を受けるべきではありません。

あなたのポケットの中には本物の紙幣があるというのに、あなたは偽札を追い求めるのですか?今ではなく、私が若かったころのお話です。現在の年老いた私の話ではなくて、私の若かりし日のことです。(笑)誰でも歳は取りたくありませんよね。昔のことです。私が若かったころ、コーヤンブットゥール(タミルナードゥ州第二の都市、コインバトル)は偽札で有名でした。昔の話ですよ。今は違います。本物の紙幣を持っているというのに、偽札を求めるべきなのでしょうか?偽札をつかんだら、逮捕されてしまいますね。それで終わりです。ですから、皆さんはババから、本物の、生きた、生涯の体験を直接得てきたのですから、他の人のところに行く必要はないわけです。

なぜ、他の人にお願いをしなければならないのでしょう?ババからインタビューを受けたというのに、あなたからインタビューを受けなければならないのですか?何と愚かなことでしょう。誰かから「朝、あなたにインタビューを授けましょう」と言われたら、 「すみません、今日は無理です」と言ってください。「あなたは明日ここに来ますか?」「すみません、明日は忙しいのです。さようなら。」「あなたにインタビューを授けましょう。」「結構です。あなたのインタビューは必要ありません。」なぜでしょう。ババは インタビューではなく、インナービュー(内なるババを見ること、内なるババとの交流)が大切だとおっしゃいました。なんと素晴らしい御言葉でしょう。なんと貴重な宝石でしょう。ババは「インタビュー」ではなく、「インナービュー」とおっしゃいました。もし誰かから「インタビューを授けましょう」と言われたら、私たちはその人に「インタビューは、あなた自身のためにしてください。あなたはまずインナービューを得なければなりません」と言うべきです。

誰かからネックレスやペンダントをもらったら、あなたの重荷になります。私はもう欲しくありません。

たとえ、ある人が「私はババの仲介者(霊媒)です」と言ったら、あなたも「私も神が私を通して働く媒体です」と言えばよいのです。電線が「私は電気を通す媒体です」と言うことはありませんが、(もし、電線自体が話をすることがあれば)、端っこの電線は、「私も、電気を通す媒体です」と言うでしょう。もし、ある電球が「私は光っています」と言い出したら、別の電球が「私も同じように光っています。実際のところ、私はあなたよりも明るく光っています。あなたは五百ボルトですが、私は千ボルトですよ」と言い出すことでしょう。

おわかりでしょうか?私たちは自分の内面に潜在する力を知るべき時期に来ています。その潜在する力が、実現に表面に現れ出るべきです。潜在性を現実のものとしなければなりません。例えば、種が土に蒔かれますね。種の中には木という潜在性が宿っています。種が発芽して、成長して木となっていきます。種が木へと成長すると、種の潜在性が現実のものとなったわけです。スワミは私たちのハートに種を蒔かれました。どうしたらそれがわかるでしょう?

「サティヤ サイ スピークス」は六十六巻あります。それらの書籍は、私たちを向上させるために十分ではないでしょうか?誰かがあなたに何か助言を与えるべきでしょうか?スワミはご自身で十巻の「ヴァーヒニー」シリーズを著されました。青年向けに十五巻分のスピーチを残されました。

「アニル クマールに何か助言をもらおう」とは、皆さん思いませんね。そのようなことを考えるなら、皆さんは愚かです。(もし、それに応えて私が皆さんに助言を与えたなら)私は皆さんの二倍愚かです。既にスワミが残してくださった莫大な宝物があるというのに、なぜ他の人に教えを求める必要があるのでしょう?

ある人が「アニル クマールさん、ある講座を受講したいのです」と、頼みに来ました。とある学校、職業訓練校での話です。「ストレスマネージメント」、「いかにして緊張を和らげるか」といった講座です。「どうぞ、受講してください。」「費用はどれくらいでしょう?」「それほどでもありません、五千ルピー位です。」「講座の期間は?」「一週間です。」「五千ルピー払って一週間?」もし、(それほどの短期間でそれほどのお金を払って)ストレスとは無縁になったとしたら、これまでの聖者や賢者たちは愚か者であったということになるでしょうか?彼らはなぜ長期間に渡って森の中で修行したのでしょう?なぜでしょう?五千ルピーが手許になかったから?そんなバカなことはありませんね。先ほど、私は講座を受けたいという人に、五千ルピーを払って受講しなさい、と言いました。もし、行きたいのであれば、行ってかまいません。けれども私はその若者に対して「ババが青年に向けてご講話をなさっていますよ」と助言しました。「夏期講習シリーズ」という題名の本です。この国だけでなく、世界中の若者が必要とする全てのものが、その本の中に含まれています。ババは人格形成について言及されています。心(マインド)の制御というテーマも取り扱われています。ストレスや緊張状態にある時にどのように対処すべきかも示されています。身体の処し方、時間の管理―バガヴァンはこれら全てのことを語っています。「でも私は五千ルピー払ってそこに行きたいのです。」「お金の無駄です。」

インドにティルパティという名の場所があります。そこに行くと、髪の毛を上手に剃ってもらえます。このティルパティは巡礼地なのですが、お布施として厖大なお金を集める中心地でもあるのです。スワミが私の夢に現れて、「スワミは私があなたに百万ルピー(約百九十三万円)をあげることを望んでいる」とおっしゃたとしたら、どうなるでしょう?あなたの髪を剃りますよ。ババは私たちを救済(save)に来てくださったのであり、髪の毛を剃り(shave)に来られたのではありません。ババは受け取るためではなく、与えるために来られたのです。ババは何度もおっしゃいました。「私の手の平はいつも下を向いている。上に向くことは決してない」と。

もし、皆さんに朝食、昼食、夕食が出されて、その他諸々の手厚いおもてなしがあって、言葉遣いも丁寧な対応がなされたとしても、その後に請求書を見せられたら、それはどういうことでしょうか?(お金を支払う)レジがあるのでしょうか?スーパーマーケットに行くと、あれやこれやを買った後、最後にレジでお金を払いますね。霊性とはお金がやりとりされる場所でしょうか?

こんなことをこの場でお話しするとは私も全く思っていませんでした。こんなに長々と話すことになるとは、考えも及びませんでした。でも、なぜかそのようになってしまいました。愛するバガヴァンは、私がこのテーマで話すことをお望みになったのでしょう。この、お金と霊性に関する認識は、今まさに必要とされていることあり、サイの共同体の一員としての私たちの義務です。「自分は我が道を行く」「自分のやりたいようにする」とは言えません。あなたは家でリラックスしながらゆっくりしていていいのです。けれども共同体の中にいるときには、そのような義務を負います。ババの帰依者であれば、なおさらです。今、目の前に突き付けられている危機的な状況から目を逸らさないことが、私たちの義務です。

しかし、なぜか、少数の人を除いて、インド人には「静かにして事を荒ら立てないようにしよう」と考える人が多いのです。「あなたは愚かです。」「はあ。」「あなたはおバカさんです。」「はあ。」「それは間違っていますよ。」「はあ。」「正しいのはこれです。」「そうですか?」正々堂々と意見を述べません。そして「沈黙は金」と言います。しかし状況が違います。ババははっきりとおっしゃいました。「何かが間違っていたら、それは非難されるべきだ」と。あなたは、「それは間違っている」と言うべきです。「はあ、はあ。」「あなたは牛のようにうなずきながら、羊のようにただ歩いている動物なのですか?それとも政治屋ですか?」私は自分自身に問いかけるべきではないのでしょうか?私は、自らの見解を表明できないのでしょうか?

皆が「とても暗い」と言っている時でも、私は「いいえ、光がありますよ」と言うことができます。「暗くない」と言えませんか?「暗い」?「そうですか?」「目は大丈夫?」ですから、牛のようにうなずいたり、羊のように歩いたりしないようにしましょう。

勇気を持ちましょう。ババを含めた世界中の人々が、あなたの母は母ではありません、と言ったとしても、そうであったとしても、「私の母は私の母です」と、私は言うでしょう。母は母です。千人の人がいれば、千通りの考え方があります。スワミはスワミです。プラシャーンティ ニラヤムはプラシャーンティ ニラヤムです。スワミがおっしゃることは、直接、一人ひとりに届きます。スワミがくださるものは、直接、一人ひとりが受け取ります。祝福も直接スワミからです。こうしたことは、今、私たちが熟考し、決定し、ともに活動していくために、大変重要なことです。

でも、なぜでしょうね、私たち一人ひとりの中にいらっしゃるスワミが、この話を聞くように仕向けられたのでしょうか。私は想像もしていなかったのですが、私の中にいらっしゃるスワミが、この機会に話をするように仕向けられました。

一つだけ言えることがあります。あらゆる場所で、私が申し上げてきたことです。皆さん全員が同意しないかもしれませんし、どちらにしても、私は招かれざる客かもしれません。私が心からお伝えしたいことは、もちろん、お聞きになりたくない方もいらっしゃるとは思いますが、それはそれで結構です。私も時間とエネルギーを使わなくて済みますから。私がお伝えしたのは、声を大にして申し上げたいことは、「神は唯一なる存在である」ということです。あらん限りの声で叫びたいのは、「プラシャーンティ ニラヤムは深く根付いている」ということです。ここが世界の中心です。私は、最後の息を引き取るときまで、声を大にして申し上げるでしょう。「神と人との間には直接の対話がなされる」と。

長い時間辛抱強くご清聴いただき、ありがとうございました。

シュリ サティヤ サイ ババに栄光あれ!ジェイ!

 





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