ヒスロップ博士講演
1994年9月27日 神戸センター

オーム・サイ・ラム
 私にとって、日本の皆さんにお話しできることは、非常に大きな光栄です。日本は美しく、また古くからある国です。歴史家によると、皆さんの国の歴史は一万年以上前にさかのぼると言われています。実は、私はカナダの国籍をもっているのですが、一方で、カナダの歴史はまだ非常に浅いものです。私は幼いころカナダの農村地帯に住んでいたのですが、そこにアメリカ・インディアンに属する一人の老人が住んでいました。その老インディアンの話によりますと、子どものころ近くの丘に登って周りを見渡すと、バッファローだらけで他には何も見えなかったということです。当時はどこまでも続く大草原にバッファローがあちこちで草をはんでいて、その他には道も家も村もまったく何もなかったそうです。皆さんの歴史はたいへん古いものであり、私の国の歴史は非常に新しいものでありますが、世界で最も古いと言われている文明をのぞいて見るのは、私たち双方にとってたいへん意義深いものだと思います。

ここで、インド亜大陸における聖人賢者たちの、ずっと昔からの歴史を見てみることの意義深さについてお話ししたいと思います。その文明はヴェーダーンタ哲学(1)と呼ばれ、深い哲理をもっています。ヴェーダーンタ哲学は現在、世界中に広がる勢いを見せています。また、ヴェーダーンタ哲学の広がりの中心は、サティア・サイ・ババという一人の人物の言葉と行動の上にかかっているように思います。 インド人たちはサティア・サイ・ババのことを、この時代における神の化身と見なしています。アヴァターとは神の化身のことです。私たち人間が無限の存在と接触できるように、また、自分たちの本質を見つけることができるように、無限の存在が人間という有限の肉体をまとって化身してくる――それがアヴァターであると言われています。つまりアヴァターの目的は、人間の生活のレベルを高めて、人間が「もともとそこからやって来たもの」、すなわち「神」に戻るための道を開くこと、また、人間以外のすべてのものを殺生しているというひどい状況を変えさせることです。

私が初めてババにお会いしたのは、1968年1月のことでした。それまで私と妻は8年間毎年ビルマ(ミャンマー)を訪れていました。それは、ヴィパーサナ(2)と呼ばれる仏教徒の瞑想を、クライス・スウバキンという師のもとで学ぶためでした。ビルマを離れて帰国する直前に、ロシアの女性でインドラ・デーヴィというヨーガの先生がそこにやって来て、その先生から、インドに一人の聖者がいて、その聖者に会うと人の人生は完全に変わってしまい二度と元に戻ることはないということ、そういう力をもった聖者がインドにいるのだ、という話を聞きました。私はそれまで16歳から一生懸命、霊的な道というものを追及していましたが、長い間の霊的探求にもかかわらず、自分はまだ神ではなくジャック・ヒスロップだというふうに意識していました。ですから、私たちの人生を変えることができるというその人にたいへん興味をもちました。そこで、次にビルマに行く前に、その人のところに立ち寄ってみようと決めたのです。

私の妻はインドの気候が大嫌いであるにもかかわらず、私と一緒に行くことに同意してくれました。その前の年、私たちはスイスでクリシュナムルティー(3)のキャンプに参加していたのですが、そのとき人込みに押されて妻が足を骨折してしまいました。妻は有能なスイスの医者にかかり、足に足かせをかけて包帯で巻いてもらいました。帰国後、包帯をとってみると妻の足は曲がってしまっていました。アメリカの医者に診てもらうと、一生元には戻らないと言われました。妻は、もし、その人が人間の人生を変えることができるなら、私の足も変えることができるのではないかと考えました。

私たちが初めてインドへ行ったとき、スワミは私の妻の足を見ると「心配しなくてもよろしい。足は大丈夫です」とおっしゃいました。そして、一年もたたないうちに、何もしていないのに妻の足は元どおりになりました。

当時のアシュラムには新しい建物はまったくなく、非常に古いボロボロの建物が何軒かあっただけでした。インド人以外の外国人は8人しかいませんでした。部屋の一つに外国人女性を詰め込んで、もう一つの部屋に男性たちが入りました。ところが、しばらくするとアシュラムの人がやって来て、「皆さん、一つの部屋に入ってください。スワミが間もなくここにお見えになって皆さんにお会いになるそうです」と言いました。私たちが床に座っているとスワミが入って来られました。そして、私たちの前を行ったり来たりなさいました。歩いたというのは正確な表現でなく、「空中に浮かんで滑っていた」という表現が一番適切だと思います。本当に足はまったく床に触っていなかったように感じます。私はその人(スワミ)に心がひかれてしまい、非常に大きな集中力をもってその人を見つめていました。美しくあちこち浮かんで動かれるその姿と、美しい目と、すばらしいほほ笑みに、私は釘づけになってしまったのです。自分と自分の周りのことすべてが、自分の意識から滑り落ち、私は自分の内面 に深く沈潜していました。

私の友人も私の家族も、みんな私のことを、非常に西洋的な乾いた心の持ち主で、愛することを忘れてしまった人間だと評していました。内面 に深く沈潜していたとき、突然、自分の中の乾いた西洋人の愛のない心に、一つの小さな何かが動くのを感じました。それは非常にデリケートな動きで、蝶の羽根がはばたいたときに生じるかすかな風のような感じでした。私は「動いているもの」は、「愛」であることに気がつきました。しかもそれは、私の乾いた西洋人の心の中で起こっていたのです。そして、その瞬間、私はスワミご自身が私のところに入ってきて、愛として顕れていらっしゃるのを直感しました。そのとき私は考えました。「まったく見も知らない人の心の中に、招かれもしないのに、愛という形で入って来ることのできるこの人は、いったい何者なのだろう?」。そのとき、私が得た答えは、「神に違いない。見ず知らずの人の心の中に愛として入ってくることなど神以外にできることではない」と強く感じたのです。それから間もなく、私たちはさまざまな体験をするようになりました。そうした体験を通 じて、スワミという不思議で奇跡的な存在の全貌が少しずつ見えてくるようになりました。

翌年、私たちは再びインドを訪れ、バンガロールのホテルに宿泊し、毎日ホテルからスワミのアシュラムにタクシーで通 いました。当時はヒッピーが世界中にいた時代です。インド全土に、アメリカやヨーロッパ、その他の国々から来たヒッピーたちがうろついていました。インドのあちこちの町の道に座って、ギターを弾いたり、麻薬を飲んだりというヒッピーばかりでした。西洋人のヒッピーを子どもにもった親たちは、よくババに「行方不明になった息子、娘たちを探してください」という手紙を書いていました。そして、スワミの力で、あるヒッピーの娘を探すことができました。そこで、娘の両親がニューヨークから来てアメリカに連れて帰ることになりました。

アメリカから来た両親は、インドのタクシーのシステムがわかっていなかったために、アシュラムまでタクシーに乗ってくるとそのままタクシーを帰してしまいました。そのため、アシュラムを出るときにタクシーがありませんでした。二人は私たちの乗っているタクシーに便乗してバンガロールまで帰ることができるかどうかたずねてきました。私は「もちろんかまいませんよ」と答えてタクシーに乗りこみました。そのときタクシーには6人が乗っていました、運転手、私、妻、お嬢さん、ご両親の計6人です。

当時、ホワイトフィールドからバンガロールまでの道路は、右と左の二車線しかありませんでした。インドのタクシーの運転手に限ったことではありませんが、とかく運転手というものは待つことが嫌いです。このとき、タクシーはバスの後ろについて走っていたのですが、タクシーの運転手はバスを追い越して先に行こうと考えました。そこでタクシーはバスの左に少し出ました。前を見るとライトが一つ見えました。運転手は、おそらくそれは街灯か何か動かないものの光だろうと判断し、アクセルを踏みました。インドのタクシーはアクセルを踏んでもすぐにはスピードが出ず、だんだんとスピードが上がってきます。車がバスの横に並んだとき、私たちは運転手が重大なミスを犯したことに気がつきました。前方に見えた一つの光はどこかの街灯などではなく、非常に速いスピードでこちらに向かってくるトラックの、片方しか点いていないヘッドライトだったのです!
  タクシーがバスの横に並んだとき、前からものすごいスピードでそのトラックが走ってきて、ライトが私たちの目を直射しました。私たちはみな、本当に死を覚悟して目をつぶりました。なぜ死を覚悟したのでしょう? 普通正面衝突しそうになると、どちらかの車が道の脇に突っ込んでそれを逃れようとします。正面 衝突したら生き残るチャンスはまったくありません。けれども、道の横の溝に突っ込めば、少なくともチャンスだけは残されます。このとき、道路の路肩には道具類が積んであったため、避難できる場所はまったくありませんでした。工事の機材が人間の高さくらい積まれていたので、車が突っ込む余裕すらなかったのです。ですから、次の瞬間には正面 衝突が起こる状態でした。そのため、目の前に来た車の光が目に飛び込んできたとき、私たちは目をつぶって死を覚悟したのです。
 ところが、何事も起こりませんでした。振り向いて窓から後ろを見ると、さっき目の前に見えたトラックのテールランプが見えて、それが後方に走り去っていきました。これは本当に不可能なことです!

次の日、私たちはプラシャーンティ・ニラヤムに行ってババの御足にひれ伏し、「私たちの命を救ってくださり本当にありがとうございました」とお礼を申し上げました。するとスワミはお笑いになって、「本当に昨日はたいへんでしたね。あなたはあまりのショックに私のことを思い出すことも忘れていましたね。でも、私はあなたたちを救いましたよ」というようなことをおっしゃいました。そしてスワミは、そばにいたテルグ語を話す医者たちに、昨日何が起こったかということを、あったとおりにお話しになりました。
 私はスワミに「スワミは時間と空間の両方を入れ換えてくださったわけですね?」と言いました。それに対してスワミは笑っていらしただけで、何もおっしゃいませんでした。

私が今ここに身につけているロケットや左右の指輪は、スワミからいただいたものです。スワミはさまざまな物を帰依者たちにお与えになります。スワミは命を救うほど大きなことではないにせよ、家族のさまざまな安全を確保してくださり、こういった物質的な物もくださるのです。物質的な物を空中から取り出してお与えになることは、スワミが子どものころからいつもなさっていることで、スワミはこのことにあまり重きを置いてはいません。スワミは、物質的な物を帰依者にお与えになったり、さまざまな災難から帰依者を救ったり、不治の病から人々を救ったりすることに関して、「そういった取るに足りないことに対して私が事を行うのは、私の帰依者を私が本当に与えようとしているものを欲しがる気持ちにさせるためです」とおっしゃいました。

スワミが私たちに本当に与えたいと思っているものとは何でしょう? それは私たちが、「自分は人間ではなく本当は神である」ということを認識することです。実際に超常現象が起こると、人は普通 の常識からは考えられないような認識に達しますが、それはいつ起こるかわかりませんので、心の準備をしておいてください。

スワミは、「私は神です。しかし、あなた方もまた神なのです。ただ一つの違いは、スワミはそれに気がついているけれども、あなた方はそれに気がついていないということだけです」とおっしゃいます。普通 に考えると、「何だ、この人は人間のくせに自分を神だと言っている」というふうに考えます。私たちが本当に注意深くスワミを見つめていると、スワミというお方はあらゆる自然の法則をつかさどるお方であると同時に、生死さえも自分の手の中にもっておられるお方だということに気がつきます。

スワミには人間の生死をつかさどることができるということに関して、ここでウォルター・コーワンというアメリカ人が生き返った話をいたしましょう。ウォルター・コーワンという人はすでに老人で、奥さんはエルシー・コーワンといってアメリカでサイ・ババ関係の出版物の本屋を始めた方です。あるとき、スワミがマドラスでセヴァク(奉仕者)のための大きな大会を開いたときのことです。参加者が多く、すし詰め状態の中で、みんな床に座っていました。そこにコーワン夫妻が登場しました。コーワン夫妻は大切なゲストでしたので、みんなに見えるようイスの上に座るようにと言われました。
 次の朝、マドラスに一つの噂が流れました。それは昨夜アメリカ人の老人が死んだという噂でした。そのとき私と妻は、それはウォルター・コーワン氏に違いないと考えました。そこで、コーワン夫妻が泊まっていたホテルに行って、夫人に話をうかがうことにしました。

夫人は言いました。「昨夜、確かに主人は死にました。私はホテルの廊下を歩いて行ってラタンダルという人に助けを求めました」。
 ラタンダル夫人はインドのサイ・オーガニゼーションで重要な位置にあった方です。夫人はボンベイの方で、社交界でも非常に有名でした。夫人のご主人はインドのある州の知事でした。今から40年くらい前のことですが、ラタンダル夫妻はスワミの話を聴くとすぐに帰依者になり、当時スワミがいらしたブリンダーヴァンに移ってきました。ラタンダル夫人はスワミがブリンダーヴァンに来られたときには、すべての食事をお作りになって、いつもスワミがいらっしゃる場所にいらっしゃいました。
 これに関して、大事なことを次にお話します。コーワン夫人から助けを求められたラタンダル夫人は、コーワン夫人と二人で部屋に入って、ベッドの上で横たわっているウォルター氏の体を持ちあげ、救急車を呼んでその遺体を老人ホームに運びました。その後、ウォルター夫人とラタンダル夫人はスワミのところに助けを求めに行きました。ところがスワミは、「何も心配することはありません。明日10時になったら私はそこに行きます」とおっしゃいました。次の朝10時にコーワン夫人が老人ホームに行くと、すでにスワミとラタンダル夫人はそこにいました。そして、驚くべきことに、そこには亡くなったはずのコーワン氏の元気な姿があったというのです!

私は一度死んで生き返ったコーワン氏に体験談をうかがいました。「自分の遺体が老人ホームに運ばれたとき、私はずっとその上にいて自分を見ていました。そこにスワミがやって来て、私を空のもっと高いところに連れていきました。そこには大きな建物がありました。空の高いところにあった建物の中には(日本で言うところの)エンマ大王がいて、その他の係の人と一緒に自分(コーワン氏)の一生の歴史を読んでいました。スワミは、『私はこの人間に用事があるから生かしてくれないか?』とエンマ大王にかけあい、私に『肉体に戻りなさい』とおっしゃったのです」。コーワン氏は肉体に戻りたくはなかったのですが、神様の命令なので戻らなければならなかったそうです。肉体に戻ると、コーワン夫人がコーワン氏を病院に連れていったということです。

後日、スワミはセヴァの大会で女性の奉仕者たちに向かって長い間講話をなさいました。それからスワミは、そこにいた女性一人ひとりに美しいサリーをお配りになりました。私たち夫婦とインド人の友人は、壁の近くの壇上のイスに座っていたので、スワミが一瞬たりともその場所を動かれなかったことを証言できます。
 御講話が終わるとスワミは「一緒に病院に行きましょう」とおっしゃいました。車の中でスワミは、「私が講話をしている最中にコーワン夫人が助けを呼ぶ声が聞こえました。コーワンが死んだので助けてくださいと言うので、スワミは病院へ行ってコーワンを助けました」とおっしゃいました。そのときスワミは帰依者の家へ昼食に行くところで、私とインド人の友人もそこにいました。帰依者のところに着くと、スワミは私に、「残念ですが、いっしょに食事をすることはできません」とおっしゃいました。「スワミは前の日にコーワンの命を救いました。ところがコーワンがまた死んだというので、今、スワミは再びコーワンを助けてきました。ですから、あなたがこのヴィブーティをコーワンのところに持って行って、半分を胸に擦り込み、残りの半分は口に入れてあげなさい」とスワミはおっしゃいました。そして、「この建物を曲がったところに車がいて、中にヒスロップ夫人が乗っているのが見えるでしょう」とおっしゃいました。スワミは最初、私とインド人の友人だけを帰依者のところに招待し、私の妻は呼ばれてはいませんでした。けれども、妻は少しでもスワミの近くに行きたいと思い、タクシーで後を追い掛けてきていたというわけです。
 それから私は病院に着き、コーワン夫人に会いました。夫人は言いました。「主人がまた死んでしまったので、スワミに助けを求めると、スワミがいらして再度命を助けてくださいました」。それから私は、スワミからお預かりしたヴィブーティをお渡ししました。

一度目にコーワン氏が死んだとき、コーワン夫人は朝10時に病院に行きました。スワミとラタンダル夫人はその一時間ほど前に到着していました。スワミとラタンダル夫人が病院に着いたとき、何があったのでしょう? ラタンダル夫人は今から二年前に、ようやくそのとき何があったかを話してくれました。
 老人ホームに着くと、スワミとラタンダル夫人は二人でコーワン氏の遺体が収容してある部屋に行きました。遺体は白い布で覆ってあって、魚のように冷たかったそうです。本当に完全に死んでいたわけです。スワミはコーワン氏の横にお立ちになり、コーワン氏のお腹をたたきながら、「コーワン、起きなさい。コーワン、起きなさい」と二度おっしゃいました。けれどもコーワン氏は起きなかったので、スワミがもう一度「コーワン、起きなさい」といってお腹をたたくと、コーワン氏は動き始め、起き上がったのでした。

スワミが人間を死から救ったという例はこの他にもたくさんあります。「私が生と死について教えてあげましょう。それをみんなよく聴いて命の本当のところを悟りなさい」とスワミはおっしゃいます。生と死をつかさどる力をもっているお方の教えに、私たちは耳を傾ける価値があると思います。私たち多くの帰依者にとってスワミは神ご自身です。私たちは神の帰依者なのです。スワミは私たちの命の面 倒を見てくださいます。スワミは、「もし、あなた方が私のほうを向いて私に帰依する心をもつなら、私は皆さんの面 倒を見ます」とおっしゃいます。このことに関して二つ、三つお話ししましょう。そして、そのことがより良く皆さんの意識に入るようにしたいと思います。

ほとんどの皆さんはご存じだと思いますが、ババは三回化身し、顕現なさいます。最初にシルディのサイ・ババとして現れ、次に今のサティア・サイ・ババとして、その次にはプレーマ・サイ・ババとしてです。この三回にわたる化身の最初の化身であったシルディのサイ・ババは、前世紀に少し北のインドに住んでいました。シルディ・ババは「おまえたちは何を心配するのだ?」とおっしゃいました。「何を食べよう、何を着ようということに一切心を用いるなかれ」とおっしゃいました。「私に帰依する者の家では、食べるものと、着るものに事欠くことはない」ともおっしゃいました。
 シルディ・サイ・ババとその帰依者たちのことは、皆さんも本を読んでご存知かと思いますが、今のババ(サティア・サイ)の言葉が本当だということも、あちこちで証明されています。『バガヴァット・ギーター』の中で、クリシュナ神は次のように述べています。「私のことだけを思い、他のことを一切考えずに私に帰依する者に対して、心が調和に満ちている者に対して、私はその者のすべての面 倒を見、またその者の要求をすべて叶える」。
 今のババは、「サイは愛です。サイを信じるということは、不安と疑い、そして恐れから自由になることを意味しています」とおっしゃっています。「宇宙をつかさどる神にそのようにすがることができるというのに、どうしてあなたは不安や恐れを抱くのでしょう?」とババはおっしゃいます。「もし、あなたがすべてを神に任せれば、神はあなたを守り、あなたを導きます。そのように神に帰依する者を守ります。そのためにこそ、神は化身として地上に顕れたのです」と、神ご自身が宣言なさっているのです。また、神はそれをなさるともおっしゃっています。
 先程の繰り返しになりますが、『バガヴァット・ギーター』の言葉に、「私は、私だけを本当に心から慕い、他の事を一切考えない人々、心が調和に満ちている人々の、すべての要求を満たし、その者を守る」というものがあります。「いったん神に全託すれば、神は恩寵を与えます。町にいても、村にいてもあるいは空の上にいても、私はあなた方を守り続けます。私はあなた方の唯一の避け所です。いったん、自分は神のものであるとして心を完全に定めてしまうなら、神はその者の必要をすべて満たし、あらゆる危害から守ります」。シルディ・サイ・ババが自分の帰依者たちのさまざまな困難を救おうとしたその熱意は、本当にたいへんなものだったということです。私はアメリカのサイ・オーガニゼーションのことをよく知っています。アメリカのサイの帰依者たちを見てみますと、彼らはまったく苦しんでおらず、問題ももってはいません。

次に、皆さんが霊性の道を歩むと心に決めたとして、どのようにその道を歩むことができるかということに関して、いくつかお話をしたいと思います。まず、「決して急ぐことはない」ということをお伝え申し上げます。スワミは「人類のすべての人々は、必ず自分が元来たところ、すなわち神に戻る運命にあります。それは人類一人ひとりの運命なのです」とおっしゃっています。しかし、みんなが同じ時にそこに到達するわけではありません。
 スワミはおっしゃいます。「私たちが何度道で転んで泥にまみれたとしても、転ぶたびに自分で起き上がって歩き続けてこそ、ついには必ず神に到達するのです」。しかし、皆さんが、遅いよりも速いほうが良いと思うのであれば、霊性の道をたどることによって、それも可能になります。神に至るには二つの道があるとスワミはおっしゃっています。神と一つになる道の一つは「信愛の道」(4)と呼ばれます。もう一つの道は「英知の道」(5)と呼ばれます。

さて、今の時代はカリ・ユガと呼ばれていますが、スワミを含めてあらゆる聖人賢者が同じ一つのことを言っています。この時代においてすべての悩みを取り去り、神と一つになって、言葉では言い尽くせないほどの至福を味わうためには、心から神を愛し、帰依することだと言っているのです。この「信愛の道」は、子猫が親猫に面 倒を見てもらっているということに例えられています。子猫は何もしないで、ただ親猫が子猫を口にくわえてあちこち運んでいるわけです。一方、「英知の道」というのは子猿に例えられます。子猿は必死になって母猿にしがみついています。母猿はあちこち動き回るので、子猿は自分の命を守るために必死で母猿にしがみついていなければ、振り落とされてしまうのです。
 スワミは「あなた方は皆、筆舌に尽くし難い至福の極致を体験し続けることができます」とおっしゃっています。そして、その至福を体験するためには「英知の道」あるいは「信愛の道」において、それに必要な代価を支払わねばならないともおっしゃっています。スワミは両手を差し出して、「この手をごらんなさい。この手はゴミを金に変えることもできます。岩をダイヤモンドに変えることもできます。また、天を地に変えることもできます。けれども、『人の心を神に向ける』ことだけはできません」とおっしゃいます。

今から何万年以上も前に、ジャーナカ王という王がいました。王の霊性の師であったアシュトパクラというグルは言いました。「あなたはこれまで行ってきた行為の結果 では自由を得ることができなかった。であればどうして、これまで行ってきた『自由を与えることのできない行為』をいつまでも繰り返し続けるのか?」。ですから、自分を振り返り、これまで行ってきたすべての行為は永遠の幸福をもたらすことができなかったという事実をはっきりと認識し、これからは永遠の幸福を得るために自分の意志で霊的な生活を始めようと心の底から決意するなら、何をすべきかはスワミが教えてくださいます。一方で、人生が終わってからこのような決断を下しても、霊的な方向に向かっていくことはできません。決意をしてください。決意を先延ばしにしてはなりません。

私はスワミに質問しました。「死ぬときには非常に混乱するものですが、その混乱を回避する方法はあるのでしょうか?」。するとスワミは、「死の瞬間に自分をコントロールする方法はありません。死の瞬間にはあなたのあらゆる過去がそこに凝縮されてやって来るので、まったくコントロールできない状態になってしまうのです」とおっしゃいました。

(通訳者による補足:ヒマラヤに住んでいたあるヨーガ行者が死ぬ瞬間、鼻先をハエが一匹飛びまわっていたためにハエに心が向いてしまい、次の世をハエになって生まれて来たという話があります。スワミご自身の話によりますと、ヒスロップ博士の前世はヒマラヤで修行していたヨーガ行者であったそうです。ヒスロップ博士が「私は何でアメリカに来てこんな一生を送っているのでしょうか?」とスワミにおうかがいしたところ、「あなたが亡くなる瞬間に心に思ったことによって、そうなったのです」と言われたそうです。そして、「死ぬ 時に自分の心をコントロールすることは至難の技です。死ぬ瞬間に心を神に向けたいと思うのであれば、今、この瞬間から、一生通 じて神の御名を唱え続ける訓練を始めなさい」とおっしゃったそうです)。

あるボンベイの商人が、死ぬ瞬間に神の御名を唱えるというゲームに勝つ方法を考えつきました。商人には7人の息子がいました。商人は、死ぬ ときに神の御名を唱えれば死んだあと神のところに行けると思い、自分の子ども7人全員に神様の名前をつけました。「自分が死にそうになったら自分の回りに子どもたちが集まるだろうから、そうしておけば、自分は息子たちの名前を呼ぶだろう。これで自分はゲームに勝てる」と考えたのです。
 さて、商人が死ぬ時がやって来ました。子どもたちが呼ばれ、商人の床の回りに集まって座りました。商人は自分の回りに集まった子どもたちを見て、「おまえたち全員がここに集ってしまったら、店の面 倒はいったいだれが見ているんだ?」と言いました。つまり、頭の中で考えただけでは死ぬ 瞬間を乗り切ることはできないわけです。スワミがおっしゃったように、死ぬ 瞬間には自分のすべての過去がそこに凝縮して集まってくるのです。

霊的な生活を送ることに関連して、わりと最近のことですが、プラシャーンティ・ニラヤムのサイ大学の学生たちに向かって、ババは一つ重要なことをおっしゃいました。ババは、「霊的な生活というのは神との融合であり、神と一つになることでです。それ以外は霊的な生活ではありません」とおっしゃったのです。雲が雨になり、川ができ、海に流れていって、海と一つになる、という過程があります。川が海に流れ込んで海と一つになってしまうと、川は川という個性を完全に失ってしまいます。それと同じように、神に帰依する人間も、神と一つになってしまえば、個人としてもっていた個人の歴史、個人の性格、個人の名前のすべてを失い、神と一つになり、神しか残らないようになるのです。そうなればヒスロップという人間もいなくなりますし、ヒスロップの歴史というものもなくなってしまいます。

霊的な修行と称されるさまざまな瞑想法を一生懸命行うことに関して、ババは「意味がない」というふうにおっしゃっています。そういった技術、つまり、各種の瞑想法は、自分が神ではないというふうに考え、つまり、自分以外のところに神があるように考えて、神でないものから神になろうとするものであり、それはまさしく幻想の上に成り立っている努力をする見本でしかありません。ですから、それは何にもならないのだということをおっしゃるのです。霊的な生活に到達するには、常に神のことを思い、本当に心から神を愛し、神と一つになる――それしかないわけです。ですから、スワミは「もし、あなたが自分の神性、つまり自分が神であることに気づこうと思うなら、一日中スワミのことを考え、心からスワミを愛しなさい」とおっしゃっているのです。神を愛することによって神と一つになるということは、おそらく女性の方にとっては非常に理解しやすいことだと思います。なぜなら女性の根本は愛であるからです。男性は理屈が入るので難しく思う方があるかも知れません。

こうやってお話ししてきたことすべての背景にあるものは何かと申しますと、「存在するものはすべて神であり、神以外のものは存在しない」という事実です。神以外のものであるように見えるのは、マーヤーと呼ばれる力によってそういうものが見えるだけの話です。子どもが夕方、光のない道端にたっている(くい)を見て、それをオバケだというふうに考えるとします。子どもは現実にはそこにないものを見ているわけです。これはマーヤーの働きを的確に表しています。「マーヤー」とは「誤って見る」という意味です。杭がオバケに見えることはマーヤーであって、本当にオバケが存在しているのではなく、オバケが存在しているように見えるというだけの話です。子どものお父さんは、もし必要とあらば、夜が明けるまで子どもをそこに立たせて、それはオバケではなく杭であるということをはっきりと見せることができます。
 心をいつも神に向けておくことができない一番大きな原因は、自分を神とは別 の存在であると考えることです。それ自体でっちあげです。ですから、私たちが100%の集中力をもってババを見つめていれば、神を見つめることによって、「幻」すなわち「マーヤー」は消え去ってしまいます。そういう状態になると突然その人は、自分というものはまったく存在せず、自分はもともと神であり、昔から今に至るまで神しか存在していなかった、ということに気づくのです。

霊的な生活を送るにあたっての最善の道は、「朝起きてから夜寝るまでスワミと共に手をつないで一日を過ごす」という方法です。これが一番良い方法です。スワミは、神の光、神の太陽そのものです。私たちの心の中にある悪い性質は、あたかも夜にだけ咲く花のようなものです。神の太陽であるスワミと共に動いていれば、つまり太陽の前では、悪い性質は跡形もなく消えてしまいます。怒り、妬み、憎しみといった悪い性質は、私たちが意識しなくとも、まったく努力しなくとも、ババという神の光と共にいることで、自然となくなってしまいます。本当に完全になくなってしまうのです。精神科のところへ行ってさまざまな療法を受けるよりもはるかに効率の良いやり方です。私がスワミにこの方法を教わってそれを始めたとき、私の中には本当に悪い性質が残っていました。そうやって毎日朝から晩までスワミと一緒に手をつないで動くということを始めてから二、三年くらいたって気がついたことですが、いくら怒ろうと思っても怒れませんし、人に焼きもちをやこうと思ってもやけないのです。そうしたあらゆる悪い性質がなくなってしまったのです。本当にそれら悪い性質は神の光の中で焼きつくされ、なくなってしまったように思います。
 スワミは常に遍在です。つまりあらゆる時に存在し、あらゆる場所にいらっしゃるという意味です。私はそれが本当であるということを実感することを数多く体験していますし、多くの信者の方々も体験していらっしゃると思います。目を覚ましたとき、ベッドの横にスワミが立っていらっしゃると考えてください。心の中でスワミを思い描いてください。
 スワミの御姿を思い描くことができないと言う人がいますが、それはウソです。ここにいらっしゃる女性の中には、自分の愛するお母さんを思い浮かべることのできない人は一人もいないと思います。男性の中には、自分の車を思い浮かべることのできない人は一人もいないと思います。それと同じように、自分のベッドの横に立っているババをはっきりと思い浮かべてください。そして、スワミの手をとって一日中あちこち動いてください。トイレに行きたくなったら、スワミに「ちょっと待っていてください」というふうに言うこともできます(笑)。職場に行ったら、スワミに、「私は今から仕事をしなければなりません。もし、スワミばかり見ていたら私はクビになるでしょう」と言うのです。それに対してスワミは、「あなたが意識を集中している意識の先に、私はいます」とおっしゃいます。
 ですから、自分の仕事に集中してください。集中して仕事をしているとき、あなたはスワミと手をつないでいるときとまったく同じようにスワミと一緒にいることになるのです。それによってもう一つのすばらしい結果 も得られます。

私たちの人生におけるあらゆる問題は、私たちの心が作らせているものです。心の仕事は、その問題を見つめ、その問題を解決することです。ところが、問題解決が済むと、心はあちこちさまよい歩いて、あらゆることを考え出します。「あの人は私にこんなことを言った」とか、「あの人はボスに言いつけた」とか、「私はガンだ」とか、あちこちから怒りの種を見つけることができます。「自分はあいつに仕返しをしてやろう」などと考えるわけです。そのような心の動きによって欲望が生じ、欲望によって行動が生じます。そして、その行動の結果 が私たちの将来を完全に支配してしまうのです。ですから、用事(仕事)が終わったら心をすぐに神に向けなければなりません。このこと関して、スワミはそれがいかに重要なことであるかということを示す一つの物語をしてくださいました。

昔あるところに王国があり、そこに一人の王様がいました。王様は非常にたくさんの問題をかかえていたので、神様にお祈りをしました。お祈りをすると、それに応えて神様が顕れ、「何が欲しいのか?」とたずねました。王様は、「神様、どうか有能な秘書を一人ください。私の国は混乱状態にあります」と言いました。神様は、「わかった。では、すばらしい召し使いを一人与えよう」とおっしゃいました。それから神様は、「しかし、一つだけ気をつけておかなければならない。もし、その召し使いにすることがなくなったら、召し使いはおまえを殺してしまうだろう」と言いました。ところが王様は、国にあまりにも多くの問題があったので、その召し使いが仕事をやり終える瞬間が来るなどとは思えませんでした。そのため、神様の言ったその言葉を忘れてしまいました。ところが、気がついてみると、その召し使いは本当に有能で、あらゆる問題を解決してしまっていて、あと一日もすればすべての仕事が終わってしまうということになっていたのです。王様は神様の言葉を思い出して、再び神様にお祈りをしました。すると神様が顕れて、「今度は何が欲しいのだ?」とたずねました。王様は「もう少しで召し使いの仕事が終わります。そうしたら召し使いは私を殺してしまうでしょう。どうか助けてください!」と懇願しました。神様は王様に教えました。「おまえはこれから召し使いに12mほどのレンガの壁を作らせて、その壁をよじ昇らせ、昇り終えたら下まで降りて、下まで着いたら今度は昇る、ということを繰り返させなさい」。永遠に仕事を見つけさせ、それをさせなさいというわけです。

ババはこの物語について説明してくださいました。「壁は神の御名です。召し使いはあなたの心です。ですから、心が何か一つの仕事を終えたら、すぐに神の御名を唱え続けさせなさい。そうしないと心はあなたに向かってきて、あなたを破壊してしまうでしょう」。

霊的な生活を送ることに関してババがおっしゃった二つの非常に重要なことをお話ししましたが、それを日常生活の中で実践していくと、それには本当に大きな力があり、すばらしい結果 を生むことがおわかりになってくると思います。

 

訳注:
(1)サンスクリット語でヴェードは「英知」、アンタは「究極」を意味し、即ちヴェーダンタとは「究極の智識」を意味する。聖シャンカラチャリアもヴェーダンタの流布に貢献し、近代ヴェーダンタの祖と言われている。
(2)ヴィパーサナ瞑想は仏陀の行っていた瞑想に極めて近い瞑想法であると言われており、近代でも多くの人が取り組んでいる。ヴィパーサナとは「物事をあるがままに見る」という意味で、「自己観察」を通 して心のわだかまりを解きほぐす、実際的な方法。永年ミャンマーの仏教徒の間で伝承されてきたが、それ自体にはまったく宗教的な色彩 がなく、どのような背景を持った人でも受け入れ、実践することができるという。
(3)ジドゥー・クリシュナムルティ:1895年5月11日にインド南東部のマドラス州の近くにあるマダナパルという町でバラモン階級の家系に生まれる。14歳のときアニー・ベサント(1847-1933インド独立運動の指導者のひとり)により〈世界の教師〉の器として神知学協会の指導者に見いだされ、後に〈星の教団〉の指導者となるが、1929年に真理に対する深い洞察からこれを解散。1930年には神知学協会からも脱退し、あらゆる組織や制約から開放される。以後、講話と著作を通 して人々の覚醒を促し続けた。彼の説いた真理に至る方法としての「自己認識」と「自己凝視」は高く評価されている。「真理」は私たちの内部にあるものであり、私たちが自分自身の中で動いている思考の全構造を理解して、自我や「私」を完全に終焉させたとき、この真理が私たちの中に顕現されると彼は言う。 1986年肉体を去る。
(4)バクティ・ヨーガ
(5)グニャーナ・
ヨーガ

 

翻訳:サティア・サイ出版協会