サイババの御言葉

日付:2004年10月23日・場所:プラシャーンティ ニラヤム
ダシャラー祭のヴィジャヤダシャミーの日の御講話より

母なるインドの尊厳と名誉を守りなさい


カイラーサ山の主がその神聖な姿を顕わした
頭には三日月を飾り、もつれた髪からガンジスの冷水が流れ落ちる
眉間には第三の眼が輝き、首元は黒苺の光沢のごとき紫紺色
腕と腰に大蛇を巻きつけ、全身ヴィブーティ〔神聖灰〕に覆われている
額はクムクムの赤い点で飾られ、血色の良い唇はキンマの汁でさらに赤く
耳元にはダイヤをちりばめた金の耳輪が揺れる
浅黒い全身は神の光輝を放射している

(テルグ語の詩)

愛の化身である皆さん!

皆さんは毎日、イーシュワラの原理(神性)について力説する様々な講演者の話を聞いてきました。多くの人は、イーシュワラ〔シヴァ神〕を、髪がもつれていて、蛇を装飾品として身につけている姿で想像します。しかし、それはイーシュワラの本当の姿ではありません。イーシュワラはいたるところに充満しているのですが、信者たちは自分たちの想像で、イーシュワラは様々な種類の装飾品を身につけていると考えているのです。

バーラタ人〔インド人〕のなかには、自分たちが崇めている様々な神の姿や礼拝している神像を物乞いのレベルにまで落としてしまうという、気質の上での弱さがあります。実を言えば、この神聖なバーラタ〔インドの正式な国名/神を愛するものの意〕の国に物乞いはおらず、存在し得ません。誰かをあなたより劣っていると見なし、その人があなたからお金を期待していると想像するのは、弱さの印です。そのような偏狭な気持ちがあるために、他国から来た人々はインドを貧しい国と見なし、物乞いであふれていると考えるのです。これは完全な誤解です。バーラタが貧しい国であったことはかつて一度もありません。ただ経済的に遅れているからというだけで、人々を物乞いと見なすことはできません。この世界に物乞いは一人もいません。もし誰かが経済的援助を求めたり、食べ物をくれと頼んだりすると、その人たちは物乞いとして扱われます。実際には、誰かを物乞いにしている責任は私たちの側にあるのです。人々は、物乞いを自分たちより劣っている人と見なし、冷遇しています。バーラタは豊かで繁栄した国です。皆さんは、この国に物乞いはいないことに気づき、それ相応に行動しなければなりません。なかには神を物乞いのレベルに引きずり下ろす人々もいます。そのような人々は自分の願いが叶うと神を賞賛します。彼らは「ああ神様、私の願いを叶えてくれたら、あなたにお金か物品を奉納します」と祈ります。

神は貧しくないのですから、神が創造した人間も貧しいはずがありません。同胞のなかに物乞いを作り出して冷遇しているのは、人間なのです。そのような下劣で卑怯な慣習は捨て去るべきです。なかにはヴェンカテーシュワラ神がお金を必要としていると考える人々もいます。そのような人々は、神はお金欲しさに自分たちの仕事をして願いを叶えてくれるだろうと考えています。こうして、彼らは神を物乞いのレベルに引きずり下ろしているのです。それは重大な誤りです。神は物乞いではありません。皆さんは神を自分の父親であり母親であると見なすべきです。神への愛と人間同胞への愛を育てなさい。決して誰かを物乞いと見なして冷遇してはなりません。困窮している人々に助けを差し伸べなさい。神への愛と罪への恐れを育てなさい。誰かが助けを求めてあなたに近づいてきたからというだけで、その人を弱く劣った人と見なしてはなりません。その人を辱めてはなりません。万人への愛と尊敬を強めるなら、あなたの生来の神性が目の前に顕現することでしょう。すべての人をあなたの兄弟姉妹として遇しなさい。誰のことも決して物乞いと見なしてはなりません。あなたは与える人であり、誰か他の人はあなたの恩恵を受け取る人であると考えるのは、大きな誤りです。

権力者に賄賂を贈って仕事を手に入れようとする実業家たちがいます。賄賂を贈ったり受け取ったりするのは重大な罪です。賄賂を要求するのは、施しを請うのと同じです。そのような卑しい習慣に余地を与えるべきではありません。古の時代より、バーラタは道徳と倫理を守り、世界の他の国々に模範を示してきました。残念なことに、今、そのような価値が忘れられています。空腹な人々に愛を込めて食べ物を与えなさい。しかし、彼らを物乞いとして見下してはなりません。この国では、物を乞うことを受け入れたり奨励したりすべきではありません。人々はあなたのところへ来て食べ物を乞うかもしれません。それは、その人々が物乞いであるということではありません。ただあなたが彼らに食べ物を配るからといって、あなたが彼らより優れているわけではありません。彼らに愛を込めて話しかけ、飢えを満たしてあげなさい。しかし、決して彼らを侮辱してはなりません。バーラタ人は自分たちの同胞を物乞いにすることによって、母国に不評を招いています。バーラタは貧しい国ではありません。さもなければ、かつてのあれほど多くの外国の支配者たちによる侵略をどう説明できますか? 大勢の外国の君主たちがこの国に侵攻し、この国の富を略奪しました。

貧富の問題は、人が自分を他人と比べることから生じます。誰かがあなたの家の玄関先に来て「母よ、どうかお恵みを」と言っても、その人を物乞いのように扱ってはなりません。その人を他の人と同じように遇し、その人の身になってあげなさい。あなたのところへ来て食べ物を乞ったからといって、その人があなたより劣っているわけではありません。ただ自分の食べものを買うお金を持っていないからといって、その人は貧乏人で、あなたは大富豪だということにはならないのです。もし、母国の名声を守りたいのなら、同胞を尊敬しなさい。第一に、母国への愛を育てなさい。自分がバーラタ人であることを誇りに思いなさい。あなたは多くの崇高な魂たちの生誕地である神聖な国に生まれたのです。昨日、皆さんは、女性たちがバーラタをヴェーダの国、ウパニシャッドの国、バガヴァッドギーターの国として褒め称えるのを聞きました。皆さんはつねにバーラタの栄光と高尚さを心に留めて、それにふさわしく身を処すべきです。そうして初めて、皆さんはバーラタ人と呼ばれるにふさわしくなります。あなたの行動は、あなたの言葉と一致しているべきです。ただバーラタの栄光を褒め称えるだけで卑しい態度で振る舞うのは無益です。

堪忍寛容は、この神聖なバーラタの国における真の特質
この国の甘美な感情は、人の母親に対する感情

(テルグ語の詩)

バーラタをあなたの母親と見なしなさい。バーラタへの愛と敬意を育て、バーラタの尊厳と名誉を守りなさい。もしあなたが自分の母親を貧しいと考えるなら、どうして自分を豊かであると考えられますか? 太古よりバーラタは、神聖な聖典と叙事詩を通して万人に知識という富を授けてきました。そのような国が貧しいと見なされたりするはずがあるでしょうか? あなたの肉体の母親は貧しいかもしれませんが、あなたの母国は貧しくありません。この神聖な国は、あらゆる国々の中で最も偉大であるという名声を得てきました。そのような国を貧しく弱いと見なすことによって、不敬を示すべきではありません。私たちがバーラタの中に見出す道徳と高潔さは、他のどの国の中にも見出すことはできません。バーラタは黄金の宝物箱のような国です。それほどの国に生まれていながら、金や銀を探しに行く必要がありますか? しかし、残念なことに、人々はそれほどの黄金の国を軽視し、おろそかにしているのです。教育を受けた人々は、バーラタの古の栄光を復活させようという誓いを立てるべきです。ところが、悲しいことに、教育を受けた人々でさえ、バーラタの偉大さを理解できていません。

今日、道端で物乞いを見かけたとしたら、それは私たちがお金を与えることで物乞いを奨励していることが原因です。決して物乞いにお金を与えてはなりません。もし、彼らが食べ物や着るものを必要としていたら、もちろんそれらを与えてかまいませんが、物乞いの習慣を助長してはなりません。

バーラタは、あらゆる国々の中で偉大な名声と評判を得ています。しかし、地位や権力のある人々が、不正行為によって祖国に悪評をもたらしています。誰も賄賂を贈ったり受け取ったりする悪い行為に携わるべきではありません。政府でさえ、この点に関して戒められるべきです。政府は賄賂や物乞いの横行をやめさせる手段や方法を見出すべきです。物乞いたちはお金を与えられるべきではありません。物乞いたちは独立独歩〔自立〕の機会を与えられるべきです。恵まれない人々にあらゆる支援と協力の手を差し伸べて、彼らの生活が向上するよう助けなさい。この世においては、万人が平等であることは不可能です。必ず不平等にならざるを得ません。

今日、人々は、利己心と私利私欲から、神さえも物乞いのレベルに引きずり下ろしています。皆さんが寺に参詣すると、寺の僧侶はダクシナ〔献金/謝礼〕としての数枚の硬貨を期待して、皆さんの目の前に皿を持ってきます。人々はその皿にダクシナ(献金)を置いて、僧侶からプラサーダム〔神の恩寵/供物のお下がり〕を受け取っています。このダクシナを求めるという慣習も、施しを乞っているのと同じです。そのような物乞いの手段に頼らないようにしましょう。思いと言葉と行動において豊かになりましょう。あなたはお金が欲しくてたまらないかもしれませんが、決してお金を乞ってはなりません。教養を身につけた人々は、路上で物乞いをして時間を費やしている人々に教訓を与えるべきです。皆さんがたまたま物乞いに出会ったら、その人にこう言うべきです。

「愛しい人よ、あなたは母国バーラタの息子です。あなたの母は貧しくありません。母はあらゆる点で豊かなのです。古代から、母なるバーラタはすべての国民の面倒を見てきました。その母の息子でありながら、あなたが物乞いをするのはふさわしいことではありません」

物乞いに与えるためにポケットに小銭を入れておいてはなりません。物乞いに何枚かの硬貨を分けてやることで、あなたは幾らかの満足感を得るかもしれませんが、その課程において、あなたは自分の母国に悪評を招いてもいるのです。皆さんは母国の威信と名声を守るべきです。皆さんはバーラタの理想的で価値ある息子となるべきです。あなたは母国の名声を守るために生まれてきたのだということを確信しなさい。そうでなければ、バーラタの息子として生まれてきたことが何の役に立つでしょう?

皆さんは、私たちの学生がラーマ物語〔ラーマカター〕を歌うのを聞いたことがあるはずです。その中に、ラヴァとクシャ〔ラーマの双子の息子〕が、悲しみに暮れている母シーターを見て慰めようとする話があります。二人はシーターに尋ねます。

「母上、どうか母上が悲しんでいる理由を教えてください。もし、母上の涙をぬぐうことができなければ、僕たちが生きていても何になるでしょう? 子どもだからといって、僕たちを見くびらないでください。実際、僕たちは主ラーマよりも強い力を持っているのです。ですから、ああ母上! どうか泣かないでください。母上がお泣きになれば、国中が荒廃してしまいます。母上の立派な息子であるからには、母上の苦しみや悲しみを取り除くことが僕たちの義務ではないでしょうか? 僕たちは、命に代えても母上の関心事に応えて母上を幸せにして差し上げる覚悟です。」

不幸なことに、私たちは今日、ラヴァとクシャのような理想的な息子を見つけることができません。昨今では、人々は意志薄弱になっています。人々は犠牲の精神に欠けています。いわゆる偉大で裕福な人々でさえ、狭量な心を捨てていません。私は彼らが同胞である人間を物乞いにしているのだと感じています。人は、他者を助けることにかけては決して「ノー」と言うべきではありません。

ある時、ある裕福な男がグル〔導師〕のところへ行って英知を授けてほしいと頼みました。その男のポケットには札束が詰っていました。男が自分のもとに座った時、グルは五ルピー紙幣を手に入れるために商人の店に弟子の一人を遣わしました。しばらくすると、弟子はその店が閉まっていたと言って帰ってきました。グルは弟子を別の店に遣わしましたが、またしても弟子は手ぶらで帰ってきました。このようなことがしばらく続きました。しかし、裕福な男は、これらの出来事を見ていましたが、自分のポケットから五ルピー紙幣を出そうとしませんでした。すると、グルはこう言ってその男を穏やかに叱りました。「おまえのポケットには紙幣が詰まっているのに、私がそれを最も必要としていても、おまえには五ルピー紙幣を手放そうという気持ちすらない。犠牲の精神を育てることもしないで、どうして英知を手に入れることが期待できようか?」その実業家は、即座に五ルピー紙幣を取り出してグルに捧げました。しかし、人は強制からではなく愛から慈善行為をなすべきであると言って、グルはその紙幣を受け取りませんでした。

誰かが食べ物を求めて家の戸口にやって来たら、あなたは心からその人を家の縁側に招き入れ、豪華なご馳走を出して満足させてあげるべきです。この世界では、入手できるすべてのものは、万人に等しい分け前があります。今、人々は犠牲の精神に欠けています。人々は、犠牲に関する講演をすることにかけては熟練していますが、自分の説教したことを実践する段になると、ただの一銭もポケットから出す気がありません。行動に移せないのであれば、それを説教したとて何の役に立つでしょう?

マナッスィエーカム ヴァチャッスィエーカム カルマンニェーカム マハートマナム
(思いと言葉と行動が完全に一致している人は高潔な人である)


他の人々に奉仕するためにお金を借りる必要はありません。何であれ、あなたが持っているものを同胞と分かち合いなさい。これが、皆さんがバーラタ人の尊厳と名誉を守るべき方法です。物乞いのレベルに成り下がった人々のせいで、今、母国の評判は落ちてしまいました。物乞いが増えているのは、教育を受けた人々のせいです。教育の目的は何でしょう? 物乞いを生み出すことですか? 私はそのような教育には賛成しません。

ある人は、文学修士や文学士のような高い学問の資格を取得して、
高い地位に就いているかもしれない
富を蓄え、慈善行為をなし、名声と評判を獲得しているかもしれない
身体の力に恵まれ、長生きして健康な人生を楽しんでいるかもしれない
ヴェーダを学び教える偉大な学者であるかもしれない
しかし、神の真の信者に匹敵し得る者は誰一人いない

(テルグ語の詩)

人々は、神への信愛がないために、強さに欠け、心が弱くなっています。母国への愛もありません。その結果、人々は母国に悪評をもたらしています。皆さんは、母なるインドの尊厳と名誉を守って、初めてバーラタの価値ある真の息子と呼ばれるのです。あなたは偉大な学者かもしれませんが、母国の名誉を守るためにあなたの学識が使われないなら、それには何の価値もありません。ラーマクリシュナ パラマハンサ、ヴィヴェーカーナンダ、ラビンドラナート タゴールといった高潔な人々の伝記を詳しく調べれば、彼らは皆、人々に卑劣な心を捨てるよう熱心に説いていたことがわかります。皆さんは誇りを持って「私はバーラタの息子である」と宣言すべきです。先ほど話をした男子学生はそのことに触れました。もし皆さんがバーラタの真の息子と呼ばれたいのなら、犠牲の人生を送るべきです。もし必要が生じたら、お腹を空かせた人々に食べ物を与えるために自分の食事を抜く覚悟さえすべきです。

『ラーマーヤナ』の中でバラタが身を持って示した犠牲の精神は、他に類を見ないものでした。ラーマが森へ入った時、バラタは国王の座に就く予定でした。しかしバラタは、ラーマにアヨーディヤーに戻って王位に就いてくださいと懇願するために森へ向かいました。森の中でラーマと一緒にいたラクシュマナは、遠方からバラタが側近たちと共にやって来るのに気がつきました。ラクシュマナはバラタがラーマと戦うためにやって来るのだと誤解して激怒しました。ラクシュマナは怒った口調で言いました。

「義母カイケーイーは我々を森へ追いやった。今や、その息子は我々が森の中で平和に暮らすことさえ望んでいないのだ。それゆえ、あやつは軍隊を引き連れてこちらへやって来るのです。兄上がお許しくださるなら、私があやつにふさわしい教訓を与えてやりましょう。」

ラクシュマナの激しい言葉に反応して、ラーマは言いました。

「ラクシュマナ、おまえはアヨーディヤーの王座を欲するようになったのだと思う。おまえはアヨーディヤーに戻って王座に就いて、王国を治めるほうがよい。私は森でバラタを私のそばに留めおこう。バラタは犠牲と気骨のある人間だ。バラタの犠牲の精神は無類のものだ。おまえはバラタの高潔な意志を誤解している。」

そうしているうちに、バラタがそこへ来てラーマの足元にひれ伏しました。

「愛しい弟よ、おまえのご両親はお元気か?」

これは、ラーマがバラタに尋ねた最初の質問でした。ラーマは自分の生母であるカウサリヤー妃のことではなく、義母カイケーイー妃の安寧について尋ねたのです。カイケーイーの名を聞くと、バラタは猛烈に怒りました。

「あの邪悪な女のせいで、兄上は森で暮らさざるを得なくなったのです。名前を聞くだけで、私は吐き気を催します。どうかその名前を出さないでください。」

ラーマはバラタの肩に手を置いて、バラタをなだめて言いました。

「バラタ、母カイケーイー妃は崇高な女性である。彼女のおかげで私の名は栄光を与えられ、津々浦々にまで広がるのだ。外側の振る舞いに基づいて判断して彼女を悪く言ってはいけない。カイケーイー妃のハートは崇高な意図に満ちているのだ。」

こうしてバラタに話をした後、ラーマは真っ直ぐに義母カイケーイー妃のもとへ行き、足元にひれ伏して言いました。

「義母上、あなたの祝福のおかげで、私はここでつつがなく暮らしております。私のことはご心配なさらないでください。バラタをアヨーディヤーの国王の座に就かせてください。バラタに統治の規範をお教えください。14年の期間が満了したら、私はアヨーディヤーに戻り、また皆さんとお会いしましょう。父上のなさった約束を守ることは私の義務です。たとえ自分の両親の命令を聞いたとしても、それだけでは十分ではありません。人は、統治者によって定められた規則と規範を厳しく守り、同胞の安寧と幸福のために懸命に努力すべきです。そうして初めて、人は理想的な市民と呼ばれ得るのです。」

ラーマの統治する国の住民として、私たちはラーマの手本に従って人生を送るべきです。ラーマの言葉は、ラクシュマナの心に消すことのできない印象を与えました。ラクシュマナはラーマの足元にひれ伏し、自分の感情の爆発を後悔しました。ラクシュマナは言いました。

「兄上、遠くからバラタと軍隊を見た時、むらむらと怒りが沸き上がってきました。しかし、今、真実を知り、兄上のなだめの言葉を聞いて、私の心は安らかに落ち着いています。」

ラーマはバラタに、外側の筋書に流されるのではなく、内側を向いて至福を体験するために努力するようにと助言しました。バラタがラーマにアヨーディヤーに戻ってほしいと懇願しはじめた時、ラーマは愛情を込めてバラタをそばに引き寄せて、言いました。

「バラタ、おまえの意図は疑いなく高潔なものだが、おまえは我らの父上の命令を心に留めておくべきだ。おまえは自分の母上の助言に従わなくてはならない。それこそが私を喜ばせることのできる唯一の方法なのだ。友人や親族だけではなく、すべての人に愛を分かち与えなさい。犠牲こそが、おまえに真の喜びを授けることができるのだよ。」

主ラーマの言葉を聞いて、聖仙ヴァシシュタは喜びの涙を流しました。ヴァシシュタ仙は言いました。

「ラーマ、ご自分には何の過ちもないというのに、あなたは森で暮らすよう強いられています。そして、ご自分に対して為された不正のことは忘れて、他の人々の善だけをごらんになっています。我らはあなたの寛大さに実に感動しております。とはいえ、我らはあなたがアヨーディヤーにラーマの王国を樹立なさって、皆に喜びを与えてくださることを願っております。」

ラーマは微笑んで答えました。

「今はラーマの王政ではなく、バラタの王政です。今後は、国はバラタの国と呼ばれるべきです。」

それほど高潔な犠牲の人たちのおかげで、バーラタ〔インド〕は繁栄し、高貴な地位を手に入れたのです。尊厳と名誉の点からすれば、バーラタに匹敵する国はどこにもありません。太古のインドの人々は、国の安寧のために犠牲の生活を送りました。自国のために犠牲を払う以上に偉大な犠牲はありません。偉大さは、何千万ルピーも費やして慈善行為をすることにあるのではありません。あなたの思いと言葉と行動が愛に満ちているべきです。同胞の苦しみを軽減するために努力すべきです。あなたが自分を愛するのと同じように、すべての人を愛しなさい。これはあなたのダルマです。ダルマとは、慈善行為をすることだけを意味するのではありません。ハートを正しい感情で満たし、利己心と貪欲を捨てるべきです。つねに社会の安寧を心に留めていなさい。あなたの同胞を「他人」と見なしてはなりません。あなたの愛をすべての人に分かち与えなさい。仲良く暮らし、一体性を育てなさい。愛によってのみ、あなたは他の人々のハートを勝ち取って、その人たちを変えることができます。それゆえ、今必要とされているのは、愛を培い、他の人々に愛を分かち与えることです。神への愛と、あなたより不幸な人々への慈悲を強めなさい。これが教育の真髄です。両親に奉仕して、両親を幸せにしなさい。あなたが家庭で自分の母親の苦しみを気遣わないなら、他人に愛を与えても何の役に立つでしょう? あなたの第一の義務は、両親を愛し、両親に奉仕することです。その後で、他の人々に愛を分かつことができます。これは主ラーマがバラタに教えたことでした。ラーマはバラタに言いました。

「バラタよ、宝の蔵をお金で満たすことに意味はない。お金を人々の安寧のために役立てて、初めておまえは名声を得て、臣民たちのハートを勝ち取るだろう。」

ラクシュマナとシャトルグナはスミトラー妃の息子でした。ラクシュマナはラーマに付き従いましたが、シャトルグナはつねにバラタと共にいました。ラクシュマナとシャトルグナの二人は、最高の愛と献身で兄に仕えたのです。困難の時も、二人は兄のそばにいて、相談を受け、あらゆる点で兄を支援しました。それが、スミトラー妃のもとに二人が生まれた目的でした。この一切は神のマスタープラン〔基本計画〕の一部でした。ラーマはバラタに、自分の母親への憎しみを捨てて、心から母親を愛するよう熱心に説きました。一切は起こるよう運命付けられていたことであり、カイケーイー妃は責められるべきではないと、ラーマは言いました。ラーマが態度を和らげず、アヨーディヤーへは帰らないという決意を示したため、バラタは、せめてラーマのパードゥカー(履物)をラーマの代わりに王座に就かせるためにお与えくださいと懇願しました。

ラーマーヤナの中で、「スミトラー」という名に値するほど重要な地位を占める名前を見出すことはできません。スミトラー妃は美徳の鑑であり、その名のとおり、すべての人にとって「善き友」〔ス=善い、ミトラー=友〕でした。スミトラー妃によって為された犠牲は、カウサリヤー妃によって為された犠牲に比べても、さらに大きなものでした。スミトラー妃の美徳の幾つかは、カウサリヤー妃やカイケーイー妃の中にすら見られません。森へ出発する前、ラーマはカウサリヤー妃の祝福を求めました。その時、ラーマはスミトラー妃の住まいへ赴きました。ラーマはスミトラー妃の前にひれ伏して言いました。

「義母上、私は父上のご命令に従って森へ参ることをとても嬉しく思っております。しかし、あなたとお別れすることを悲しく感じています。どうか私にあなたの愛と祝福を降り注いでください。他には何一つ求めません。」

そう言って、ラーマはスミトラー妃に何度も平伏を捧げ、いとま乞いをして森へ向かいました。三人の王妃の中でスミトラーは最も高潔でした。ヴァシシュタ仙やヴィシュワーミトラ仙でさえ、スミトラー妃の高潔な性質を褒め称えました。私たちは他人の偉大さを受け入れるべきであり、自画自賛に耽るべきではありません。他人の偉大さを称えるために、時おり、私たちは謙虚になって自己を拭い去る必要があるのです。

学生諸君! 決して他の人々を見下してはなりません。寛大な心を育て、敬意を持って万人を遇しなさい。他人を自分の兄弟と見なしなさい。もしお腹を空かせた人があなたのもとへやって来たなら、両腕を広げてその人を歓迎し、豪華な食事を与えなさい。決して誰かを物乞いや貧しい人と見なしてはなりません。この神聖なバーラタの国に生まれた以上、人は物乞いや貧しい人にはなり得ません。全員が裕福なのです。あなたが誰かを物乞いと見なすなら、それはあなたの感情の中にあるあなたの欠点が外界に映っているにすぎません。

ラーマ神がシヴァ神の弓を持ち上げた時、シーターの喜びは際限のないものでした。シーターの祈りは応えられたのでした。ラーマは正義と愛の化身であるがゆえ、シヴァ神の弓を一本どころか十本持ち上げるほどの力があったのです。ラーマ、ラクシュマナ、バラタ、シャトルグナの四兄弟とその妻たちの間には、完全な一体性と調和がありました。彼らは一個のオレンジの果実の様々な部分のようなものでした。ある日、スミトラー妃は、オレンジの皮をむいて一房取り出すたびに「これはラーマ、これはラクシュマナ・・・」と言いました。スミトラー妃は一房一房が四兄弟と妻たちを表していると考えたのです。スミトラー妃は、シーター、ウールミラー、マーンダヴィー、シルタキールティほどの徳高い義理の娘がいて、とても幸せでした。義理の娘たちも最高の愛と気遣いを持って義理の母たちに仕えました。

四兄弟とその妻たちは、つねに共通の心を持っていました。だからこそ、ラーマの王国の名声があまねく広まったのです。この神聖なバーラタの国に生まれたのであれば、皆さんは真のバーラタ人らしく生きるべきです。皆さんのハートは甘美さに満ちているべきです。あなたの助けを必要としている人々を避けてはなりません。それどころか、つねに奉仕する機会を待っているべきです。こうした犠牲の精神だけが、あなたに真の幸福を授けることができます。

今日、私たちは神聖なヴィジャヤダシャミーの祭日〔ヴィジャヤ=勝利の、ダシャミー=十日目〕を祝っています。人々はナヴァラートリーの九日間の祝祭期間に様々な儀式を執り行いました。私たちは、自分の人生の毎日がこの九日間と同じくらい神性であるようにと望んで祈るべきです。

皆で共に行動しよう、皆で共に成長しよう
皆で一つに団結し、知識を分かち合おう
不和なく、友情を持って共に生きていこう

(テルグ語の詩)

仲良く暮らし、知性を正しく使って、両親を幸せにしなさい。あなたがこのようにして人生を送るなら、毎日が祝祭や祝典となり、全世界が喜ぶことでしょう。私は、皆さんがこの九日間に学んだすべてを実践に移すことを望んでいます。いつも明るく朗らかでいなさい。決して深い悲嘆にあるかのような顔をしてはなりません。私たちの学生が決して不機嫌な顔をしないことを、私は嬉しく思っています。学生たちはいつも快活です。今後は、あらゆる違いを忘れて、あなたの愛を皆に分かち与えなさい。すべての人に奉仕しなさい。

〔バガヴァンは「ラーマ ラーマ ラーマ シーター」のバジャンで御講話を終えられました。〕

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Dasara Discourses 2004 C5

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