Gayatri 850


ガーヤトリーマントラとは、ヴェーダとは。

豆知識

ガーヤトリーマントラは「ガーヤトリー讃歌」とも呼ばれています。

ガーヤトリーマントラの最初の四つの言葉
「オーム、ブール、ブヴァッ、スヴァハ」は、
ガーヤトリーマントラの特色とも言える部分です。

この部分を除いて「タット・・・」から唱えると、
それは「サーヴィトリー讃歌」と呼ばれるマントラとなります。

つまり、
最初の四つの言葉があると「ガーヤトリー讃歌」、
最初の四つの言葉がないと「サーヴィトリー讃歌」と、
名前の異なるマントラになるというわけです。

2010/08/25


 

唱えることについて

スワミは、
「できるだけ多くのガーヤトリーマントラを唱えるべきです。」
とおっしゃっています。

その一方で、
「あせったり急いだりすることなく、
 一語一語はっきりを明確に発音すべきです。」
ともおっしゃっています。

「ガーヤトリージャパには実際のところ
 なんの制限もありませんが、
 伝統的には108回繰り返すことが必要とされています。
 不幸なことに、回数が定められると、
 その努力は無意識のうちに何としても数をこなそうという
 強制的な断行へとおとしめられ、
 ガーヤトリーマントラの
 力と荘厳さを黙想するという喜びに影を落とします。
 ガーヤトリーマントラへの愛と敬意、
 そして、約束されている果報を信じることのほうが、
 さまよう心でただ機械的に唱えることよりはるかに重要です。」

ガーヤトリーマントラを唱えることで恩寵を得るのではなく、
ガーヤトリーマントラ自体が恩寵なのです。

文中カギカッコ内は書籍「ガーヤトリーマントラ」より

2010/09/01


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.1

E・B・ファニブンダ著『ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン』
サティヤ・サイ・ブックス・アンド・パブリケーションズ・トラスト
(インド)刊1997年版
第六章グニャーナ・ヤグニャより



1975年のある日、
アーディヤートミカ(霊的)な論議の最中に、
ババは著者〔ファニブンダ氏〕にこうおっしゃった。

「地上にアヴァターが降臨する前、
 リシ〔聖仙〕たちは特定の人間の姿をとった神など
 考えてもみませんでした。
 リシたちは神を至福という姿で描写していました。
(ババは最古のヴェーダの時代についてお話になっていた)同様に、
 ガーヤトリーは、九つの様相を究極の無形の実在を表現し、
 ブッディ〔理智〕の様相を激賞しているのです」

著者は、
このグニャーナ・ヤグニャの章の締めくくりに相応しい題材として、
ガーヤトリーについて書くようにと言われたのだった。

ガーヤトリー

著者は、いささか尋常でない状況のもとで、
ババからガーヤトリーマントラの神秘を口伝された。
それは1972年の御降誕祭から四日後の、
著者にとってこの上なく吉祥な日のことだった。
先のグルプールニマーに、ババは著者に、
アーディヤートミカな学習を追い求め、
サーダナとして奉仕活動を行うよう指示をしてくださった。
著者は霊的事柄の最も初歩のことにさえ
まったくの無知であったため、
学識のあるパンディットや学者と共に
それらについてひっきりなしにババに尋ね、
まったく迷惑をかけ続けていた。
とはいえ、その日、
著者とパテル医師(バローダという旧藩国出身者)ともう幾人かが、
ババの部屋で多岐にわたるババの霊的な話に耳を傾けていた。
その最後にバテル医師がガーヤトリーマントラのことを尋ねた。
ババはそれをとても簡潔に説明し、玉座からお立ちになった。
著者にとって、サンスクリット語の言葉は
ギリシャ語やラテン語のようなものだった。
それゆえ、著者は簡単な言葉で
ガーヤトリーについて説明していただきたいとババに求めた。
ババの返事はこうだった。

「今ではなく、後で」

そして、冗談のようにこう付け加えた。

「私の両親が外で待っています」

著者は大変がっかりしてババの部屋を出、
パテル医師と共にヴェランダの階段に座った。
夕方のバジャンはすでに始まっており、
ババもご自分の部屋からお出になった。
信者たちにダルシャンを与えた後、
ババがやって来てパテル医師と論議をなさった。
著者はその機会を利用して、ガーヤトリーについて再度尋ねてみた。
しかしながら、まったく驚き、そして、愕然としたことには、
ババはガーヤトリーマントラについて説明する代わりに、
著者に自分の後をついてガーヤトリーマントラを唱えるようにと
おっしゃったのだ。
言わずもがな、
バジャンのコーラスの大音響のため
よく聞き取れなかったにもかかわらず、
著者は後についてそれを繰り返した。著者は、
まったくもって自らの愚かな無知に対して
失望し、腹立たしく思った。
主ご自身がガーヤトリーマントラを唱えてくださっているというのに、
著者はその準備ができていなかったからである。

次回につづく



ガーヤトリーマントラの本




『ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン』
熱心なババの帰依者で優秀な歯科医師でもあったE・B・ファニブンダ氏が、70年代にババから授かった多くの教えと体験を綴った本。8章にガーヤトリーマントラに関する詳述がある。


E・B・ファニブンダ
理学士、口腔外科学士、英国王立外科医学院口腔外科特別研究員、英国王立写真協会会員。故人。

2010/09/03


 

スワミが教えてくださる
ガーヤトリーマントラ Vol.2

前回よりの続きです。



翌1973年初頭、
ババが再び正確な発音と正しいリズムで
ガーヤトリーを唱えるために
教授してくださるときに向けた準備は、
より整っていた。
ババはご親切にも、著者に自信がつくまで、
何度も何度も繰り返し著者の発音をチェックし、
正してくださった。
終わりに、著者は尋ねた。

「スワミジー、ガーヤトリーマントラは、
 正しく唱えないと害をもたらすと聞いたのですが、
 それは本当ですか?」

ババはお答えになった。

「そうです。
 それは唱える人を闇で包むという逆影響を及ぼします。
 けれども、
 愛をもって唱えるなら、
 神はそれを受け入れます」

こうして、著者は、
「神の恩寵を発動させるには、
このマントラには愛が不可欠である」
いうことを学んだのだった。

「スワミジー、ガーヤトリーとは何ですか?」

「よろしい、
 ガーヤトリーはシャブダ ブラフマンです。
 ガーヤトリーはブラフマンのように
 すべてにみなぎっています」

と、ババはおっしゃった。

シャブダは音を意味するが、
ブラフマンの音とはいかなるものか?

ブラフマンの音はヴェーダである。

ゆえに、ガーヤトリーはヴェーダのまさに基盤にあり、
「ヴェーダマータ」すなわち「ヴェーダの母」という名前に
値するのである。

ガーヤトリーは顕在している宇宙全体にみなぎっている。

ガーヤトリーは、この体験され、
認識されている宇宙の背後にある
「基盤」であり、「実体」である。

ゾロアスター教の読師たちは、
アフンバルの二番目の二連句を想起するかも知れない。
そこには顕現している宇宙の基盤の別名、
「マズダーイ」が出てくる。

ガーヤトリーマントラは
24音節の韻律〔チャンダス〕から成っており、
概して各行八音節の三行連句に配置される。

それゆえ、
この独特な韻律(「トリパディー」〔トリパダー〕)は
「ガーヤトリー韻律」とも呼ばれており、
初期のリグヴェーダの多くの詩節は
この韻律で作られている。

その結果、
そうした詩節のいくつかは
「ガーヤトリー」と呼ばれるようになった。

それらと
リグヴェーダの第三マンダラにおける
第16スートラの10番目のマントラ、
ガーヤトリーマントラを混同してはならない。

この段階において、
この特定のマントラを
「ガーヤトリー」と呼ぶ理由を理解する必要がある。

「ガーヤトリー」という言葉は
ガーヤンタム トリーヤテー イティ」から派生した。

これは、
唱える者を救う(守る)ものが"これ"なり、という意味である。

かくして、この神聖な「ガーヤトリー」という言葉自体が、
このマントラの存在理由を説いているのである。

次回に続く

2010/09/04


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.3

前回よりの続きです。
※今回よりタイトルが変更になっています。



これで、ガーヤトリーマントラに
「ガーヤトリー」という単語がまったく存在しない理由も、
今、理解できたはずである。
唱える者を救う、あるいは守るものが、“これ”なのだ。

では、“これ”とは何か?

それはシャブダ ブラフマー、
別の言葉で言い換えるならヴェーダのマントラである、
と定義されている。

このことに関連して、
私たちは「マントラ」という言葉についても、
いくらか理解するよう務めねばならない。

それは
「ブラーフマナム ブラーフマナ ヴァーハナム」
と述べられている。

この意味は、
ブラーフマ〔ブラフマンの知識があるもの〕は
ブラフマンの乗り物である、
というものである。

ババはこうおっしゃっている。
 
「ここでのブラーフマという語は、
 マントラを意味すると理解されています。
 その内的意味は、
 “ヴェーダの具現であるプルシャは
  自らの乗り物としてマントラを有している”
 というものです。
 
 単に“オーム ナモー ナーラーヤナ”であるとか、
 “オーム ナモー シヴァーヤ”
 と唱えることがマントラとなり得るのではありません。
 
 マントラには二つの側面があります。
 第一の側面は“マナナ”〔反芻〕です。
 これは、自分が学んだことはすべて、
 “心の中に入れるべし”という意味です。

 第二の側面は“トラーナ”です。
 これは、心の中に入れたものはすべて、
 “しっかりと心に据え置くべし”という意味です。
 (“トリヤテー”、“トラート”、“トラーナ”〔という言葉〕は、
 守る、保つ、救出する、救うという意味をもつ
 “トライ”を起源とする)
 もし、人生を続行し、
 自分に定められた仕事をするならば、
 神を心の中に入れて、
 心の中にしっかりと据え置くことによって、
 人生は幸福に満ちたものとなるでしょう。

 ここで、これらの語の内的意味を見てみましょう。
 ヴェーダの引用句が有する意味と、
 さまざまな歴史家が解釈している意味は異なります。

 なぜなら、
 歴史家たちは解釈に
 個人的な考えを挿入しているからです。
 ヴェーダは人間を起源とするものではありませんが、
 歴史は人々によって創られ体験されたものです。

 それゆえ、
 歴史には変更や付加や修正がなされる可能性がありますが、
 人間を起源としないヴェーダには、
 そのような可能性はまったくありません。

 なぜなら、
 ヴェーダは“音”(ゴーシャ)を聴くことによって
 得られたものであり、
 シュルティ〔神聖な音、聴くことによって学ばれるもの〕
 と見なされているものだからです。
 
 それは直接、
 主と結びついており、
 主の息を吸い、
 主の息を吐いています。

 ブラフマンはこうしたマントラに乗り、
 それゆえ、
 “ブラフマナスパティ”と呼ばれます。
 (“パティ”は“カルタ”、すなわち状況の主の意)
 もし、ブラフマンを操りたい、
 あるいは、
 ブラフマンの恩寵を得たいと望むなら、
 まず、ブラフマンの乗り物、
 すなわちブラフマンが乗るマントラを操らねばなりません」

次回に続く

2010/09/05


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.4

前回よりの続きです。



以上のご説明により、
今、私たちは自らの“神の目”に、
さらにもう一つの画を
思い浮かべる位置にやって来た。

読者の皆さんは、
「私はゴーシャ〔音〕です」
というババの宣言を思い出すことだろう。

この状況において、
この宣言は「ババはブラフマンであり、
マントラに乗っている」ことを意味する。

リグヴェーダには、
「語」にとっても、
「発言」にとっても、
その基盤はブラフマンであると述べられている。

私たちの語と発言は、
自分の周囲にある
さまざまなものと結びついているだけでなく、
自分の人生のさまざまな様相とも
結びついている。

これに関連して、
ババはこうおっしゃっている。
 
「シャブダ、すなわち音は、
 すべてのものの基盤です。
 音は単語を生じさせ、
 それら多くの語は、
 私たちが周囲に見るものを意味します。
 それゆえ、
 私たちには(そうした語によって示される)
 人生の8つの様相があります。
 
 シャブダ ブラフマン――音に関連する様相
 チャラーチャラ マイー――動くものと動かないものとに関連する様相
 ジョーティル マイー――光輝の様相
 ヴァーング マイー――発言の様相
 ニッティヤーナンダ マイー――絶え間ない幸福の様相
 パラーットパラ マイー――この世と別の世の様相
 マーヤー マイー――幻の様相
 シュリー マイー――繁栄の様相
 
 これらの様相はすべて、ブラフマンです」
 
これらの様相はすべてババに包含されており、
ババに包含される偉大なる
威風と威厳を把握するには、深い黙想を要する。

次号に続く

2010/09/06


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.5

前回よりの続きです。



ガーヤトリーとヴェーダに関連して、
さらにもう一つ、
明らかにし、正しく理解しておく必要のある名称がある。

それは「チャンダス」という名称である。

チャンダスは、韻律、韻律の科学を意味し、
また、マントラとブラーフマナを含む
“シュルティ”にも当てはまる。

ババは、どんな韻律にも
チャンダスという名称を用いるのは正しいことではない、
とおっしゃっている。

チャンダスという名称は
ヴェーダの韻律に関してのみ使われるべきものである。

ガーヤトリーは“シャブダ ブラフマン”であるがゆえ、
既知の韻律すべての基盤であり、
そのため、
「チャンダサム マータ」
 〔チャーンダサーム マータハ。ヴェーダの韻律の母の意〕
という名前もまた、
ガーヤトリーにとって妥当なものである。

しかしながら、
ババによって指摘されたチャンダスという語の由来は、
単なる辞書の定義とは比較にならないほど、
意味の深さと神聖さをこの語に与えている。

ババはこうおっしゃった。
 
「不滅をもたらし、
 死から遠ざけてくれるマントラは
 “チャンダス”と呼ばれるべきである、
 と述べる出典もあります。
 それゆえ、
 ブラフマンを理解し、
 自らとブラフマンは同一であると見なしていた偉大なリシたちは、
 リグ ヴェーダや
 ヤジュル ヴェーダや
 サーマ ヴェーダのマントラを唱えることによって
 不滅を得ようとしていたのです。
 聖火に“ハイス”(精製バターの供物〔ハヴィス〕)をくべて
 神に捧げる際、
 そうしたリシたちは、
 不滅をもたらしてくれるであろう、
 生命を与えるマントラを唱えていました。
 それらのマントラを唱えることによって、
 リシたちは“チャンダス”という語に独特の意味を与えたのです」

次回に続く

2010/09/07


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.6

前回よりの続きです。



ここでの不滅という言葉の意味を、
体の中に永遠に命が存続する状態のことだと
解釈してはならない。
ババはこうおっしゃっている。

「体には生と死がありますが、
 アートマには生も死もありません。

 アートマの永遠性を理解できるようになることが、
 不滅を得るということの真の意味であり、
 私たちはその不滅を得ることができる
 プロセスについて探求しなければなりません。
 
 良い行いをすること、
 良い仲間と付き合うこと、
 日常生活に関するあらゆる物事について
 良い思いを持つことのみならず、
 神聖なマントラを唱えることで得られる
 シャクティ〔力〕を吸収することによって、
 私たちは不滅という性質を手に入れることができるのです。

 リシたちは、
 私たちにその道を示しています。

 日常生活との関連で、
 私たちが行う良い仕事は陰極のようなものであり、
 ヴェーダのマントラを唱えることで得られる
 神のシャクティは陽極のようなものです。

 陰極も陽極も適切な強さのものでなければなりません。

 私たちは良い行いをすることによって
 陰の電極を良い状態に保つことができますが、
 もし、神聖なマントラから得られる力への敬意を持たないなら、
 陽の電極はなく、
 私たちは十分な強さを得られなくなります。

 陰と陽の間の密接な関係を認めることは必須です。

 どのマントラにも、
 そのマントラによって示されてきた適切な道があります。
 
 マントラを唱えている間、
 私たちの祖先は、
 清浄を守ることと、
 その特定のマントラによって要される道に、
 注意を払いました。

 なされている仕事と、
 その仕事をするという行為と、
 その仕事をしている人は、
 一体化しているべきです。

 そうであるとき、
 初めて仕事は神聖なものと見なされ得ます。

 同様に、
 マントラと、マントラを唱えることと、
 マントラの果報を、
 正しく理解し、調和させ、一つにすべきです」

2010/09/15


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.7

前回よりの続きです。



「チャンダス」という名前を
正しく理解することによって、
私たちは今、
「ガーヤトリー」という語の真の様相を
正しく認識する位置に来た。

その様相は、
「それはあれであり、
 唱える者を死すべき運命から守り、
 保護し、
 救う」

という言葉によって明かされている。

これは要するに、
このマントラは
唱える人の内にある陽の電極に必要なシャクティを与え、
そのシャクティが
日々のタパス〔苦行〕という陰の電極と結びついたとき、
不滅という様相、
すなわち、清らかで、澄みきった、
生も死もない不動の純粋さという、
アジャハ
〔アジャ、生まれることなく存在する者〕とも呼ばれる状態を
確実にすることができる、
ということを意味している。



ガーヤトリーマントラの本




『ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン』
熱心なババの帰依者で優秀な歯科医師でもあったE・B・ファニブンダ氏が、70年代にババから授かった多くの教えと体験を綴った本。8章にガーヤトリーマントラに関する詳述がある。


E・B・ファニブンダ
理学士、口腔外科学士、英国王立外科医学院口腔外科特別研究員、英国王立写真協会会員。故人。

2010/09/16


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.8

前回よりの続きです。



ガーヤトリーとヴェーダの関係の
もう一つの様相は、
伝統的に擬人化をもって描写される。

ガーヤトリー パラメーシュワリー、
すなわち、至高の女神は、
ヤジュルヴェーダと
リグヴェーダと
サーマヴェーダから成る
三本の脚をもつ者として描かれる。

胴体はミーマーンサー
(インド哲学の六つのダルシャナ〔六派哲学〕のうちの一つ)
から成り、頭はアタルヴァヴェーダである。

すべてのヴェーダの中で、
なぜ、
アタルヴァヴェーダは
それほど重要視されているのか、
と問う人もいるだろう。

ババはそれを次のように説明なさっている。


次号に続く

2010/09/17


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.9

前回よりの続きです。



ババはそれを次のように説明なさっている。

「すべてのヴェーダの中で、
 アタルヴァヴェーダは最も古く、
 最も重要なものであるという特徴を持っています。
 
 また、アタルヴァヴェーダは、
 自然とは何か、
 そして、
 物質を司る法と
 魂を司る法についての叙述を、
 私たちに与えてくれています。

 私たちはまた、
 この世に存在する悲痛
 (正反対のもの、
  “ゴーラ”〔恐ろしいもの〕と
  “アゴーラ”〔恐ろしくないもの〕の様相)から
 逃れるためにはどんな道を行くべきかについて、
 このヴェーダから学ぶことができます。

 アタルヴァヴェーダは
 他の三つのヴェーダから分離しているものではありません。

 実際、アタルヴァヴェーダは、
 他のすべてのヴェーダの中に隠れて存在しています。
 
 というのは、
 ヴェーダのマントラはすべて、
 始まりと終わりがあるからです。

 最初に発せられる音と
 最後に発せられる音〔オーム〕は
 “プラナヴァ”と呼ばれています。

 プラナヴァは
 アタルヴァ(定まっていて変わらない)と同じであるということが、
 アタルヴァヴェーダの中で宣言されています。

 もし全宇宙の中にブラフマンを見たいなら、
 目をプレーマ〔神聖な愛〕で満たさねばならないと、
 アタルヴァヴェーダは述べています。」

次号に続く

2010/09/18


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.10

前回よりの続きです。



ゾロアスター教のアヴェスタ経典には、
アタルヴァヴェーダとの共通点が多く存在する。

アヴェスタ経典の“双子の神霊”という哲学
〔ゾロアスター教の
 善神スプンタ・マンユと
 悪神アンラ・マンユは
 最高神アフラ・マズダーの二相として
 存在するとするもの〕は、
アタルヴァヴェーダに述べられている
“ゴーラ”〔恐ろしいもの〕と
“アゴーラ”〔恐ろしくないもの〕という
ブラフマンの側面そのものである。

次号に続く

2010/09/21


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.11

前回よりの続きです。



マントラ シャクティ〔マントラの力〕は
目に見えないものであり、
推論するしかない。

たとえば、
マントラが唱えられ、
供物が祭火に捧げられるとき、
私たちは供物が灰に帰すのを見ることができる。

これは「プラティヤクシャ」と呼ばれる、
直接見ることによる知覚である。

しかしながら、
灰へと帰す物質は、
マントラシャクティによって
それが向けられる先である人へと運ばれる。

これは目には見えず、
推論するしかない。

こうした推論による認知は
「パロークシャ」と呼ばれる。

こういったマントラシャクティによる運搬の証拠、
あるいは成果は、
必要とされる“叡智”を獲得し、
必要とされる“タパス”〔苦行〕を積んだ人によって
得ることのできるものである。

言い換えるなら、
陽の電極と負の電極が清く輝いているときにのみ、
完全な接続が果たされることが可能となり、
約束された結果がやって来るのである。

マントラシャクティの果報を得ることについては、
一切微塵の疑いもない。

なぜなら、
そうした果報を得ることは、
個人的な体験の範囲内にあるものだからである。

ババは、完全にヴェーダに精通した者のみが、
推論に基づいた、
この伝送をもたらす接続を理解することができる、
とおっしゃっている。

一例として、
ババは次のように述べている。

次号に続く

2010/09/23


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.12

前回よりの続きです。



一例として、ババは次のように述べている。

「バンガロールからデリーに
 旅をしているとしましょう。

 飛行機のパイロットは
 デリーの飛行場ともバンガロールの飛行場とも
 連絡を取り合っていますが、
 飛行機と両方の飛行場が
 コンタクトをとっているという証拠は
 目には見えないということは、
 皆さんにもわかります。

 この場合、
 私たちには“プラティヤクシャ”
 すなわち直接の証拠は見えませんが、
 飛行場と飛行機に設置されている
 通信機器に存在する力が、
 互いにコンタクトを取ることを可能にさせています。

 これは“パロークシャ”
 すなわち推論上の接続です。

 神と人との接続を直接見ることは不可能ですが、
 “パロークシャ”によって、
 マントラの仲介を通しての
 神と人との接続を感じることは可能です。

 インドラ神やルッドラ神〔ルドラ神〕やヴァルナ神の御名を
 唱えている間になされる供犠は
 本当にそれらの神々に届いている、
 という推論は、“パロークシャ”であり、
 マントラの力を知る者によって十分に理解可能です。

 マントラの力を知る者にとって、
 それは直接の証拠同然のものです。

 ですから、もし、
 そこに結果が現れてほしいと思う所に適切な、
 相応しいマントラを唱えるならば、
 必ずや疑いなく、
 結果が現れるべき所に結果が現れるでしょう」

2010/09/24


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.13

前回よりの続きです。



これに関連して、ババは、人がもし
その供物が
届かなければならない所を知らないなら、
あるいは、
もし供物を運んでいる存在を知らないなら、
果報はないとおっしゃっている。

ババは、手紙が書かれ、
外国の特定の住所に住む人宛に
投函された場合、
郵便配達人に任じられた人たちを
知らないからといって、
あるいは、
手紙の宛先である場所を
見たことがないからといって、
手紙が配達されないのではないか
と疑うことなどあろうか、
という例をあげていらっしゃる。

もちろん、
疑いなどしない。

同様に、
マントラ シャクティは
郵便配達人に任じられたのであり、
荷物を運ぶのは
配達人の義務である。

私たちの義務は、
ただ手紙に正しい宛先を書き、
必要な額の切手を貼ることである。

それがタパス〔苦行〕である。

ババはおっしゃっている。
 
「ヴェーダを深く理解して、
 初めてヴェーダの中にあるマントラの意味が、
 関係し、
 接続していることが見えてきます。

 ヴェーダのマントラと神との間の
 密接で分かつことのできない関係を
 理解しないかぎり、
 ヴェーダは、
 無名の筆者によって書かれた、
 さまざまな単語と
 文字を寄せ集めた
 取るに足らない書き物のように見えるでしょう」

次回につづく

2010/09/26


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.14

前回よりの続きです。



今日、ヴェーダのマントラは、
意味のない俗語としての、
いわゆる「科学的な働き」と見なされており、
人々はどんな言葉も(たとえば「花」)
マントラとして用いることができると信じている。

人々は、
そうした偽マントラを唱える人の反応や、
超越瞑想(TM)等々という名前によって
偽装された他のさまざまな肉体の状態を
図表やグラフにするために、
種々の電気器具さえ使う始末である。

すでに読者の皆さんは、
神と関係のない語は
マントラとは呼べないということが
お分かりのはずだ。

なぜなら、そうした語は
マントラという言葉の意味するものには
含まれておらず、
それゆえ、
そのような偽研究や偽マントラは、
感覚下で行われる的確で正確な科学的調査にも、
感覚を超えた真剣な霊的探求の領域にも属さない。

それらの中間には何もない。
まさに、
「所有者のない土地」のごときものは存在せず、
それは映画館で上映される映画にたとえられる。

映写機が回っていて、
上映されている映画のイリュージョンを
実際に体験しているわけでもなければ、
映写機が回っておらず、
映画の恒久的な基盤であるスクリーンの
ありのままの姿を正視しているわけでもない。

映画が上映されている間にスクリーンを見て、
スクリーンを調べることが可能だろうか?

映画の一コマ一コマを調べることで、
スクリーンについて
何か学ぶことができようか?

スクリーンが存在するためには
映画は要らないが、
映画を見るためにはスクリーンは
おおいに必要である。

同様に、
科学という道具が有するすべての力、
あるいは、人の持つ話す力や考える力は、
映画のようなものであり、
その力が存在するのは、
神なるブラフマン、
永遠のスクリーンによるものである。

過ちは、
人の持つ力は神とは関係のないものだと考え、
人の力を使って神を調査しようと試みることにある。
普通の人でも、
科学者でも、
あるいは別の何者かでも、
その基盤に気づくためには、
名と姿という映画を楽しんでいるという、
自ら入った昏睡状態から目覚めなければならない。

不幸なことに、
今の世界の状況は映画館のようなものであり、
そこで人々が興味を示すのは架空の映像のみである。

皆、
映画が終わると立ち上がって歩き出す。

誰もそこにずっと存在するスクリーンには関心をよせない。


次回につづく

2010/09/27


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.15

前回よりの続きです。



多くの惑わされた人たちが
マントラの神聖な性質を認識しないまま、
スピリチュアリティーを
商売にしている人々から
マントラを買おうとする。

彼らは後に、
瞑想において
ある種の段階に到ったと主張するが、
そうした段階はどれも、
暗示によってその気にさせられた、
さまざまな度合いの自己催眠であり、
一時的に身体的な陶酔感や幸福感を
作り出しているにすぎない。

読者の皆さんは、
そういったものの何たるかに気づき、
それらと神聖なマントラを混同すべきではない。

今日、
人をたぶらかすスピリチュアル系の偽物が、
アメリカや他の西欧諸国で
大規模な悪事を働いている。

情報に通じる科学誌や医学誌さえもが、
眉をしかめることもなく、
それらのたわ言の餌食となって、
取るに足らないナンセンスに
社会的地位という虚飾を施している。


次回につづく

2010/09/28


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.16

前回よりの続きです。



ヴェーダの語の正しい意味を理解するのは、
その語をリシ〔聖仙〕たちに伝えた神、
すなわちブラフマン自らが説明しない限り、
非常に難しい。

それゆえ、
ヴェーダの語の意味を
説明し詳述するための拠りどころは
ヴェーダの中に含まれていると言われている。

人は、
完全なる拠りどころは
ヴェーダの中にのみ授けられている
という理由を、
努力して理解しなければならない。

神聖なヴェーダの語は、
ヴィヤーサ仙が
人々の幸福のために
収集して書き留めるまで、
グル〔導師〕とシシヤ〔弟子〕という
切れることのない鎖を通して、
太古(サナータナ)より私たちに手渡されてきた。

ヴェーダは、
現在組織されている
どの宗教が現れるよりもずっと以前から、
また、
どのアヴァターの降臨よりも以前から、
存在している。

それゆえババは、
ヴェーダは全人類のものであり、
特定の一つの宗教にのみ
限定されるものではない、
とおっしゃっている。

次回につづく

2010/09/30


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.17

前回よりの続きです。



同様に、
ヴェーダのマントラは、
現存のどの言語の発生時よりも、
ずっと以前に現れた。

ゆえに、
永遠なるシャブダ ブラフマンを
現代の限られた言葉で説明を試みることは、
1メートルの物差しで
宇宙の長さを測ろうとするようなもの、

あるいは、
脚ほどの長さの計量棒で
海の深さを測定しようとするようなものである。

まさにこの理由により、
ヴェーダのマントラを、
たとえば英語やヒンディー語に訳したり、
それらの言語で書き換えたりすることは、
不可能なのだ。

なぜなら、
それは決して同じヴァイブレーション、
つまり、
同じ音になることはないからである。

次回につづく

2010/10/03


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.18

前回よりの続きです。



また、ブラフマンは
心と知性が生じる前から存在しているので、
心と知性によって
ブラフマンを理解することはできない、
とも言われている。

部分に全体を説明すること、
測ることが可能だろうか?

同様に、
現代の物理科学、生命科学、心理学、超心理学はすべて、
人間の限られた
言語、知覚、限られた思考(物質的な道具によって引き上げられたもの)
の産物であり、
ブラフマン、すなわち神性を理解するには
最もふさわしくない。

それゆえ、
ババはこうおっしゃっている。

「限られた言葉と限られた経験によって
 無限の様相を描写することは、
 不可能です。
 ヴェーダやマントラに精通したマハリシ〔大聖仙〕たちは、
 言葉でブラフマンの様相を
 説明、描写することは
 不可能であることがわかっていたので、
 もっぱら無言によってブラフマンを表現しました。

 ブラフマンを考察するのに適った方法は
 体験のみであり、
 ブラフマンを説明することは
 適切な行為ではないと言われてきました」

次号に続く

2010/10/04


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.19

前回よりの続きです。



では、
どうしたら人はヴェーダのマントラを習得し、
理解することができるのか?

読者の皆さんは、
「私はゴーシャ〔音〕です」と告げたお方、
そして、
ヴェーダ プルシャでもあられるお方が、
この問いへの答えをくださっている
ということを忘れてはならない。
その答えは「アームナーヤ」である。

ババはおっしゃっている。

「ヴェーダにおける“アームナーヤ”
 という語には特別な意味があります。
 シュラヴァナとマナナとニディディヤーサナ、
 すなわち、
 傾聴と熟考と消化吸収を、
 絶え間なく、
 途切れることなく実践することのすべてが、
 “アームナーヤ”
 という包括的な一語で言い表されているのです。

 もし、
 “アームナーヤ”に取り組まなければ、
 マントラの先端に到達して
 “あれ”と“これ”の同一性を
 確立することは不可能です」

次号に続く

2010/10/05


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.20

前回よりの続きです。



さて、
ヴェーダのマントラの予備的な様相を
いくつか習熟したところで、
今、私たちは、
ガーヤトリーマントラと、
ガーヤトリーマントラの発声と、
ガーヤトリーマントラのご利益を
理解しようと試みる位置に来た。

霊的なものごとと結びついている
多くのものと同様に、
読者の皆さんがひとたび
ガーヤトリーマントラを
唱えることに取り組めば、
すべては円滑になる。

ガーヤトリーマントラは、
プラナヴァシャブダ〔原初の音、オーム〕と、
マハーヴィヤーフルティと、
マントラで構成されている。

オーム
ブール ブヴァッ スヴァハ
タット サヴィトゥル ヴァレーンニャム
バルゴー デーヴァッスヤ ディーマヒ
ディヨー ヨー ナッ プラチョーダヤート
 
オーム、すなわちプラナヴァ

ババは
音には三種の音があり、
それらは、
サーマーンヤ、ヴァルナ、ムーカ
として知られているとおっしゃっている。

ババはそれらを次のように説明なさっている。

次号に続く

2010/10/06


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.21

前回よりの続きです。



ババはそれらを
次のように説明なさっている。

「サーマーンヤは、
 物質界と関係する音のことです。

 サーマーンヤは、
 ものが落ちたり、
 割れたり、
 溶けたり、
 動いたりするときに出る音です。

 たとえば、
 雨が降る音や、
 雷が鳴る音、
 川が流れる音、

 あるいは、

 消化をする音、
 まぶたが瞳を閉じる音、

 あるいは、

 薔薇の花びらにしずくが
 落ちる音といったものです。

 これらはすべて、
 サーマーンヤの音を生じさせます」

次号に続く

2010/10/07


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.22

前回よりの続きです。



「ヴァルナは、
 話される言葉の音です。

 ヴァルナは
 明確な意味と意図を有しています。

 ヴァルナは、
 一人の心臓の鼓動から
 もう一人の心臓の鼓動に流れるものです」

「ムーカは、
 “静寂の音”、すなわち、
 ブラフマンがマーヤー
 (同様にブラフマンによって生じたもの)に
 覆われた原因である
 原初の動きとして知られています。

 これは、
 “オーム”、すなわち
 “プラナヴァシャブダ”
 (プラヌは振動するという意)です。

次号に続く

2010/10/08


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.23

前回よりの続きです。



 “オーム イティ エーク アクシャラ ブラフマン”
  ――オームの一語はブラフマンなり。

 オームに潜在する
 多大な力を黙想しながら、
 オームをゆっくりと繰り返し
 唱えなさい。

 “A”〔オ〕は(臍から生じ)
 喉から現れます。

 “U”〔―〕は舌の上を回転し、

 “M”〔ム〕は唇の上で終わります。

 オームは
 人間の喉から生じ得る
 あらゆる言葉の要旨です。

 オームは
 ヴェーダの中のあらゆる教えの要点であり、
 至高神への
 あらゆる礼拝の方法の要点です。

 オームは
 普遍なる絶対者の象徴である
 原初の基音です。

次号に続く

2010/10/09


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.24

前回よりの続きです。



“M”〔ム〕の後には、
耳では聞こえない(ムーカ)残響が存在します。

これは、
属性を持たず、
無形で、
抽象的な、
ニラーカーラ パラ ブラフマンです。

オームは、
可能な限りゆっくりと、
次第に音量を上げていき、
“M”〔ム〕で頂点に達するように
唱えなければなりません。

そして、
“M”〔ム〕に至ったら、
音量を上げていったときと同じ時間をかけて、
可能な限りゆっくりと、
カーブを描くように音量を下げていき、
ハートの中の空洞で響きながら、
だんだんと無音へと消えていくようにします。

次号に続く

2010/10/13


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.25

前回よりの続きです。



そんなに長くは息が続かないと考えて、
〔息継ぎをして〕オームを
二つに区切ってはなりません。

“A”〔オ〕と
“U”〔―〕と
“M”〔ム〕は、

目が覚めている段階、
夢を見ている段階、
熟睡の段階を象徴しています。

一方、
静寂によって表される
(トゥリーヤという)四つ目の段階は、
これら三つの段階を超越しています。

その静寂の深みに潜っていくと、
宇宙的なオーム、
すなわち、
宇宙に満ちるプラーナ(生命の振動)から発生した
プラナヴァが聞こえます。

次号に続く

2010/10/14


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.26

前回よりの続きです。



その音を聞くためには、
可能な限り
自らの実在の中心に
近づかなければなりません。

それゆえ、ウパニシャッドは、
自らを
ウパニシャッドと称しているのです。

“ウパ”は近づく、
“ニシャッド”は座る、
という意味です。

行って、
近くに座りなさい。

そうすれば、
超越した魂から
魂へのささやきを
聞くことができます。 

次号に続く

2010/10/16


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.27

前回よりの続きです。


ギーターは
“オーム タット サット”
と述べています。

“タット”〔それ〕とは、
感覚によって分離されたものとして知られる、
物質界を指し示すものを意味します。

“サット”は真理、実在、
すなわち、“is”です。

あなたが“サット”を
“タット”として認識したとき、
それは“これ”、“サブジェクト”となります。

それは、もはや、
分離されたオブジェクトとして
留まっていることはなくなります。

このサブジェクトとオブジェクトの融合は、
オームとして顕現します。

それは、
人間の個という花が果実へと成長し、
自らの内なるエッセンスという
甘い果汁で自らを満たし、
ついには自らを
木から解放することを象徴しています」

次号に続く

2010/10/17


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.28

前回よりの続きです。



オームの発声、
すなわちオームカーラの吟唱は、
次のようになされるべきである。

読者の皆さんは、
オームという音を明瞭に発声するには、
話し言葉のように
最初に舌や口底や両唇を使うための
特別な努力を払う必要はない、
ということに注目しなければならない。

舌は口底の上でリラックスさせる。

一度、深呼吸をしてから、
わずかに〔口を開いて〕歯と両唇を離し、
“A”の音を出して
喉で振動させることができるようにする。

喉でその振動を感じる。

その音が自然に上昇し、
舌の後ろの空間(口腔咽頭)に入っていくと、
“A”の音は
“O”の音へと微妙に変化する。

その音が舌の上を転がると、
口にその振動が伝わり、
唇は非常にゆっくりと閉じはじめる。

上唇と下唇の間のすき間は
徐々に狭くなり、

音は“O”から“U”の音へと
再び微妙に変化する。

最終的に、
音は両唇と出会い、
“M”となって振動し、
その振動は口と両唇のみならず、
鼻の中、
目の周り、
頭蓋骨全体で感じることができる。

次号に続く

2010/10/19


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.29

前回よりの続きです。



唇に至ると共に、
“U”の音は
“M”の音と融合し、
オームカーラの音量は最高点に達する。

その“M”の音から
徐々に音量が下がり始める。

音 量が下がっていく間、
“M”の音は徐々に弱まり、
無音へと融合する。

無音へは二つの呼吸のサイクルの間
〔息を吐いてから次に息を吸う前〕に
到達するようにし、
苦しくない程度で
可能な限り長く延ばす。

呼吸の停止と共に思考の停止が生じ、
まったくの平穏が
次第に心(マインド)を包み込んでいく。

それを味わい、
それを楽しむのだ。

なぜなら、
それは理解を超越する平安だからだ。

次号に続く

2010/10/20


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.30

前回よりの続きです。



次のサイクルのオームカーラは、
その平穏の深みにいるうちに
唱えるようにする。

その平穏は、
心が完全にその深みに沈むまで、
さらに増大し続ける。

それは
“内なる自己”の住まい、
真のプラシャーンティ マンディール
〔至高の平安の宮居〕の、
敷居である。

もし、
物理的に大気圏外を
探査することが
偉大な冒険であるならば、
自らの内なる空間の中に入ることは、
さらに
もっと偉大な冒険である。

なぜなら、
“内なる自己”は
すべてに満ちており、
ブラフマンとまったく同一であるからだ。

これが人間の本性である。

次号に続く

2010/10/21


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.31

前回よりの続きです。



「静止して、
 我は神であると知れ」〔詩篇46:10〕と

詩篇の作者〔ダビデ〕は言った。

内なる空間という
神聖な領域に入ることを勝ち得るためには、
内なる自己の恩寵を求めることが必須だ。

この結合を確立するには、
陰の電極と陽の電極は清らかで
明るくあらねばならない。

ババは、
シャブダ ブラフマンであるガーヤトリーは
プラナヴァ〔オーム〕の労作であり、
明瞭な理智を授けるがゆえに、
真理(真我)は
一切歪められることも、
損なわれることもないまま、
その中に映し出されると説明なさっている。

それゆえ、
アディヤートミカ〔霊的〕な
人生への入門式は、
ガーヤトリーの黙想を経て果たされるのだ。

次号に続く

2010/10/22


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.32

前回よりの続きです。



このようにして
プラナヴァシャブダ
〔オームの音〕が唱えられることから、
読者の皆さんには、
どの言語のアルファベットの文字も
すべて“A”と“M”の間に
存在するということが明らかになったであろう。

それゆえ、
喉から出るいかなる音も、
軟口蓋(なんこうがい)、
舌、口底、頬、歯、唇の
動きと位置、
および、胸腔(きょうこう)による圧力によって
いくぶんか形を変えられた、
それらのコンビネーションの一つなのである。

どんな言語の言葉も、
根本的に
AとOとUとMの音の
加減だけで生み出されるのだ。

次号に続く

2010/10/23


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.33

前回よりの続きです。


プラナヴァシャブダの音には
あらゆる呼吸の音が
含まれていると言う人もいるかも知れない。

これに関連して、
オームはヴェーダの骨子であり
要旨であると言われており、
それゆえ、
オームはヴェーダゴーシャ
〔ヴェーダの吟唱によって生じる音〕、
すなわち
ブラフマンと同意語である。

オームと
すべてに満ちる遍在なる至高者との
同一性を認めるとき、
人は神性、
すなわち真理の反映に好適な
内的投与を引き起こす、
このマントラの潜在力を
高く評価することができる。

この理由により、
オームは
ヴェーダのマントラの
前後に加えられているのである。

次号に続く

2010/10/24


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.34

前回よりの続きです。



ババによって明かされている
オームカーラのもう一つの様相がある。

ババはおっしゃっている。

「オームカーラという基本の音から、
 私たちは
 多くの異なる音を得ていますが、
 それらの音は
 単にオームカーラが
 形を変えたものにすぎません。

 そうしたオームカーラを背景に、
 マハリシ〔大聖賢〕たちは
 ラーマを、
 “ラーモー ヴィグラハヴァーン ダルマハ”
 と呼んだのです。

 これは、
 ラーマはダルマの化身なり、
 という意味です。

 ちょうど三つの支えとなる音、
 “A”と
 “U”と
 “M”と  同じように、

 ダルマの化身としてのラーマには
 三人の支えとなる人物、

 ラクシュマナと
 バラタと
 シャトルグナ  がいました。

 “A”の音はラクシュマナにたとえられ、
 “U”の音はバラタにたとえられ、
 “M”の音はシャトルグナにたとえられます。

 つまり、
 ラクシュマナと バラタと シャトルグナは、
 ラーマを
 ダルマの化身ならしめているのであり、
 また、
 三者の結合はオームカーラでもある
 ということです。

 それゆえ、
 この内なる意味は、
 オームカーラにほかならないラーマは、
 地上にダルマを確立するために降臨した、
 というものなのです」

次号に続く

2010/10/26


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.35

前回よりの続きです。


ババによるこのご説明は、
ラーマがアヴァター〔神の化身〕として
降臨していたときのカラー
〔サンスクリット語で16の相あるいは光輝の意〕の
配分に関する内的意味の、
新しい観点でもある。

ここで読者の皆さんは、
ラーマは16のカラーのうち
15のカラーを有しており、
残りの一つは
ラクシュマナとバラタとシャトルグナに
分け与えられたという、
本書の一章で述べた話を思い出したことと思う。

次回に続く

2010/10/27


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.36

前回よりの続きです。



さらにババは、
ちょうどプラナヴァ〔「オーム」〕が
人格を変えて
求道者に恩寵をもたらすことのできる
強力なマントラであるように、
「ラーマ」も同様に
強力なマントラであると
おっしゃっている。

またババは、
どちらのマントラも
数霊術的に
同じヴァイブレーションを有していると
指摘なさっている。

“A”は0と等しく、
“U”は2と等しく、
“M”は5と等しい。

ゆえに、
AUM〔オーム〕は7と等しい。

そして、
“R”は2と等しく、
“A”は0と等しく、
“M”は5と等しい。

ゆえに、
RAMA〔ラーマ〕もまた7と等しい
というわけだ。

次回に続く

2010/10/28


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.37

前回よりの続きです。



『ラーマーヤナ』は、
ババによって明らかにされた
神聖な意味と照らし合わせて読まれるとき、
インドの古典としてのみならず、
人類すべてにとっての神聖な叙事詩となる。
 
「『ラーマーヤナ』の説く偉大な教訓は、
 “カーマ”(欲、情欲)は
 富や権力や学識の有に関わらず
 人の没落をもたらすが、
 “ラーマ”〔神〕は
 成功を確実なものとする、
 というものです。

 魔王ラーヴァナは、
 ラーマはダルマの化身であり、
 それゆえ
 何ものにもラーマの計画を
 妨げることはできない、
 という苦い教訓を得ました。

 ダシャラタ王は、
 寵愛する妃の
 卑劣さの言いなりになることで、
 寵児ラーマを
 追放の身とさせました。

 ラーマは、
 たとえそれによって、
 ラーヴァナの手中から
 妃を救出するための、
 長きにわたる捜索と苦闘に
 我が身を費やすことになろうとも、
 ダルマがそう要求している
 と感じたがゆえに、
 自らの妃を追放の身とさせました」

これらは
ババがお与えくださった、
『ラーマーヤナ』の中に
秘められている不朽の価値の、
ほんのわずかな事例にすぎない。

次回に続く

2010/10/29


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.38

前回よりの続きです。


ヴェーダでは、
人体の中に在って
自ら光輝を発するブラフマンに、
三つの名前が付けられている。

それは、
「ヴィシュワ」(存在、普遍的実在)、
「タイジャサ」(光輝、意識)、
「プラグニャー」(神聖叡智)である。

先に、静寂、
すなわちオームカーラの
トゥリーヤの段階
〔熟睡状態を超越した魂の第四の段階〕は、
内なる宮居の敷居であるということが述べられ、
読者の皆さんは
その静寂の崇高な平安を
味わうことを委ねられた。

しかし、今、ここで問いが生じた。

人はアートマのダルシャンを得るために、
いかにして
その敷居を越えたらよいのか?

神聖なるその秘訣は、
オームカーラ、
および、
人体に内在するブラフマンと
オームカーラとの結びつきを背景に、
ババによって明かされている。

ババは次のようにおっしゃっている。

次回に続く

2010/10/30


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.39

前回よりの続きです。



「オームカーラの

 “A”の音は
  覚醒〔起きている状態〕と結びついており、
 “ヴィシュワ”とも呼ばれています。

 “U”の音は
 “タイジャサ”と結びついており、
 非常に微細です。

 “M”の音は
 “プラグニャー”と結びついており、
 原因体と関連しています。

 これらブラフマンの三つの様相は、
 体内に存在しているのと同時に、
 世界にも
 “ヴィラータ”、
 “ヒランニャガルバ”、
 “アヴィヤークルタ”
 として存在しています。

 これに関連して、
 覚醒状態に存在する
 インドラはヴィラータの姿を有し、
 人々に
 あらゆるアイシュワルヤ(富)を授けます。

 スーリヤ(太陽、アーディッティヤ)は
 夢見状態に存在し、
 ヒランニャガルバの姿、
 すなわち、
 魂を包んでいる微細体を有しています。

 ヴァースは熟睡状態に存在し、
 状態を保護しています。

 (アヴィヤークルタとは、
  原初の、根本的な、原因となる状態のこと)

 これら三者は、
 覚醒、夢見、熟睡の状態に
 対応しているにもかかわらず、
 各状態において
 単独で働くことはできません。

 ブラフマンこそが、
 完全に独立しており、
 基盤として在り続け、
 自らの望みどおりに
 三者を働かせている者なのです」

次回に続く

2010/10/31


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.40

前回よりの続きです。


人間の体の中にある
これらブラフマンの三つの様相、
“ヴィシュワ”、
“タイジャサ”、
“プラグニャー”は、

 覚醒状態、
 夢見状態、
 熟睡状態にも相当する。

それゆえ、ババはこうおっしゃっている。
 
「オームカーラ、
 すなわちプラナヴァは、
 “ヴィシュワ”、
 “タイジャサ”、
 “プラグニャー”という名前が
 すべていっしょになって結合する場所です。

 もし、
 プラナヴァ、すなわちオームカーラの、
 背後にあるものに近づきたい、
 知りたいと思うなら、
 ヴィシュワをタイジャサの中に入れ、
 タイジャサをプラグニャーの中に入れる
 試みをしなければなりません。

 そのようにして三つを
 結合させることによってのみ、
 実際にアートマ、
 すなわち人間の神の部分の、
 ダルシャンを得ることができるのです」

2010/11/03


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.41

前回よりの続きです。


 “A”の音が“U”の音と結合し、
 “U”の音が“M”と結合して、
 初めて完全な“オーム”の音となるのです。

 三つの音が結合しなければ、
 オームカーラの
 完全な音にはなりません。

 同様に、
 覚醒の状態、
 夢見の状態、
 熟睡の状態を

 一つに結合することさえできれば、
 すなわち、

 体の粗大な様相、
 微細な様相、
 原因の様相を

 一つに結合することさえできれば、
 神聖な魂〔アートマ〕を
 垣間見るチャンスが得られるのです」

次回に続く

2010/11/05


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.42

前回よりの続きです。



マハーヴィヤーフルティ
 
ブーフ〔ブールの主格・呼格〕、
ブヴァハ、
スヴァハ

――これらは、

地(ブーフ)、
空(ブヴァハ)、
空より上(スヴァハ)から成る

三つの世界を意味する
三つの秘語である。

古代のリシたちによれば、
人の魂が経る14の領域(世界)が存在し、
ブーフ、ブヴァハ、スヴァハは
上界である七つ領域のうちの
初めの三つである。

〔七つの世界の名前を唱えることを
 「ヴィヤーフルティ」、
 初めの三つの世界の名前を
 「マハーヴィヤーフルティ」と言う〕。

生まれ、死に、
また生まれてくるという輪廻が
この三つのローカ〔世界〕で起こるがゆえに、
それらの語を
唱えて神に輪廻からの
解放を懇願するのだと言われている。

しかしながら、
三語のより深い結びつきを調べ、
それと同時に、
三語のあらゆる多様性の
唯一性を認識しない限り、
この三つの秘語の内的意味を把握することは難しい。

次回に続く

2010/11/06


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.43

前回よりの続きです。



トリローカ、
すなわち三界は、
空間を内包している。

さて、
空間は時間がなければ存在し得ない。

それゆえ、
三界はトリカーラ、すなわち、
過去、現在、未来、
および、
朝、昼、夜
と関連している。

三界は、
時間と空間に条件付けられるがゆえ、
各世界の密度が徐々に
高くなったり低くなったりする
という点において、
トリグナ、すなわち、

タマス〔鈍性〕、
ラジャス〔激性〕、
サットワ〔浄性〕いう三属性、

さらには、

粗大な様相、
微細な様相、
原因の様相とも

関連している。

次回に続く

2010/11/07


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.44

前回よりの続きです。



ババはこうおっしゃっている。

「プラジャーパティ(万物を司る者、万物の長)
 との関連において、
 これらの様相の
 一体性と唯一性が認識されたとき、
 初めて

 “ブーフ”、
 “ブヴァハ”、
 “スヴァハ”

 という語を理解、実感することが
 できると言われています。

 これらは、個別には、

 インドラ(ブーフ、地)、
 ヴァーユ(ブヴァハ、空)、
 アーディッティヤ(スヴァハ、天)

 によって象徴されますが、
 プラジャーパティという語には、
 これら三つの全体性という
 意味も含まれているのです」

次回に続く

2010/11/09


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.45

前回よりの続きです。



マントラ

ガーヤトリーは普遍なる祈りであり、
慈悲や恩赦を請うのではなく、
真理がゆがめられることなく映るよう、
澄みきった理智を請うものである。

ババは、
ガーヤトリーマントラは
国や信条にかかわらず、
すべての男女が唱えてかまいません、
なぜなら、
それは、理智が人を真剣なサーダナ〔霊性修行〕の
結果たる成功へと導いてくれるよう、
理智を起こして目覚めさせ、
強めるために、
太陽と三界に満ちる輝かしい力に
呼びかけるものであるからですと、
おっしゃっている。

次回に続く

2010/11/12


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.46

前回よりの続きです。



どんな仕事をしようと考えるにしても、
その仕事をするのに必要な能力を
持っていなければならないというのは常識である。

車の運転を習うにせよ、
講義の準備をするにせよ、
新製品のマーケティングの戦略を練るにせよ、
科学的なリサーチに取り組むにせよ、
手にある仕事に着手する前に
確かな準備をする必要がある。

同様に、
自分の内なる神性を理解し、
最終的に真理を知ること、
つまり、
その真理と一つになれるよう、
神性に着手する前にも、
準備が必要だ。

もし、
どんなサーダナも
犠牲もせずに神性を知ることを期待するなら、
そのような人は、
星に向かって吠え、
自分の思いどおりに星が落ちてくることを
期待する犬にも値する位置にいる。

一人の人間が
限られた時間制限のある
科学調査プロジェクトに取り掛かるには、
少なくとも
二、三十年のトレーニングと準備が必要であるなら、
無限であり、
時間を超越している「あれ」を知ろうという
プロジェクトに取り掛かるには、
さらにどれほどの努力と学習が必要かということが、
読者の皆さんも自ずと判断できよう。

このことに関連して、
次にあげるババの御言葉は、
大切に心に留めておく価値がある。

次回に続く 

2010/11/13


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.47

前回よりの続きです。



1.信仰は、
  無知な者たちの嘲り、
  世俗的な者たちの揚げ足、
  低級な心の持ち主の笑いに
  耐え得るものでなければなりません。

2.浮き沈み、損得、悲喜に憂いてはなりません。
  浮き沈みを作っているのはあなたです。
  けれども、
  もし気に留めなければ、
  すべては一つの平らな状態になります。

3.自分自身について論理的に考えて、
  サルヴァ ブランマ マーヤム
  〔すべては神の幻影である〕という真理を
  確信しなさい。
  万物には神が充満しているのです。

4.忠実にサーダナ〔霊性修行〕を行い、
  一度サーダナをすることを決めたなら、
  決して躊躇してはなりません。

5.心に神の英知を植え、
  その苗木に愛という水をやり、
  信仰と勇気という肥料を与え、
  バジャン〔神への賛歌〕と
  サットサング〔善人との交わり〕
  という殺虫剤で害虫を寄せ付けないようにしなさい。

次回に続く 

2010/11/14


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.48

前回よりの続きです。



ガーヤトリーマントラは神性と同意語である。

ゆえに、ガーヤトリーマントラは、
十分な謙虚さ、敬意、理解、信仰、
そして愛をもって接されねばならない。

なぜなら、
ヴェーダは神の息吹であり、
ガーヤトリーはヴェーダの基盤なのだから。

ガーヤトリーマントラは、
一時の気まぐれや思いつきを
満たさんがために

軽々しく唱えはじめるものではない。

ガーヤトリーマントラは
非常に神聖なものであり、
もし、約束された果報を期待するのであれば、
所定の作法をもって接しなければならない。

ガーヤトリーに関して
ここに書かれていることはどれも、
著者がババの恩寵と慈悲を通して学んだことであり、
さまざまな霊的書物から引用したものではない。

ヴェーダプルシャとしてのババは、
この上なき著者であられるのだ。

次回に続く

2010/11/15


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.49

前回よりの続きです。



ガーヤトリーは三部に分けられる。

第一の部分はプラナヴァ〔オーム〕と
マハーヴィヤーフルティ
〔七界のうちの最初の三界の名〕から成っている。

オーム、ブール ブヴァッ スヴァハ

ここで唱者は、
三界、すなわち体験の領域を照らす、光の栄光を黙想する。

第二の部分は、
その光から生じる栄光、光輝、恩寵を描写している。

タット サヴィトゥル ヴァレーンニャム
バルゴー デーヴァッスヤ ディーマヒ

第三の部分は、
光として宇宙に満ちている
生来の知性を目覚めさせることを通じて
最終的な解脱を求める祈りである。

ディヨー ヨー ナッ プラチョーダヤート

このマントラを唱えることを教えられたら、
その者はドヴァイジャ〔ドヴィジャ〕、
すなわち二度生まれた者〔再生者〕と呼ばれるようになる。

唱者はガーヤトリーマントラによって清められ、
ヴィップラハ〔ヴィップラ〕(賢者、聖賢)へと変容する。

心からすべての不浄が取り除かれ、
その男性あるいは女性は、
その時、
ヴェーダを学ぶ資格を与えられたのだ。

かくして、
ガーヤトリーはヴェーダを学ぶ権限を授けるのである。

次回に続く

2010/11/16


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.50

前回よりの続きです。



シャブダ ブラフマンは音であり、
音は単語の基盤であるがゆえ、
単語は語り、
すなわちヴァークの基盤だ。

ヴェーダの専門用語であるこのヴァークという語は、
それゆえ神の英知を運ぶものである。

神のこの様相は、
語りの女神サラスワティーとして知られ、
この女神の乗り物であるハムサ、
すなわち白鳥(ハムサヴァーヒニー)と共に
描かれてきた。

サラスワティーは
私たちの思考と単語を語りへと変換し、
その目的のために、
思考と単語を運ぶものとして
私たちの呼吸を用いる。

先に説明したように、
呼吸のプロセスそのものが
ソーハムという語を形成しており、
これは白鳥の上に乗る思考や言葉の象徴でもある。

ガーヤトリーは
シャブダ ブラフマンであり、
チャンダス〔ヴェーダ〕の不死の様相とも
結びついているために、
ソーハムという語は
「ハムサ ガーヤトリー」と呼ばれることもある。

ババは次のようにおっしゃっている。
 
「ソーハムという音は、
ハートの奥底から出現する
ハムサ ガーヤトリーの様相と同意語です。

それゆえ、
ソーハムの音は神聖であり、
ヴァースフ〔ヴァース。ヴィシュヌ神〕
という名を持っているのです。

ヴァース、
ルッドラ、
アーディッティヤ

という三つの名前は、
互いに同意語です。

三つは異なって見えても、
同一のものを表しているのです。

トリカーラ〔三つの時〕であれ、
トリローカ〔三界〕であれ、
トリグナ〔三属性〕であれ、
どれもそうした様相のうちの一つとして現れ、
同一の働きをします。

自分のハートを神に差し出し、
自分の注意を完全に神に定めた人にのみ、
ヴァークヴァーニー
〔ヴァークの音の意、サラスワティー女神〕は
ヴェーダという形をとって
その人のハートの中に入っていくのです。

なぜなら、
無駄なくだらない考えを持ち、
他者に害を及ぼす人は、
ヴェーダの禁令に反しているからです。

短く、はかない、私たち人間の生涯において、
かなりの数の言葉を覚えて、
ヴェーダに定められていない
数々の行為にふけることは、
非常に神聖ならざることであり、
ヴェーダは
そうした行為を認めていません。

あなたに心が与えられたのは、
あなたが神聖な思いを
抱けるようにするためであり、
あなたに話す能力が与えられたのは、
あなたが他者にとって
好ましく、役に立つ、よい言葉だけを
話すことができるようにするためなのです」

次回に続く

2010/11/17


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.51

前回よりの続きです。



さらに、
ブーフ、
すなわち「地」と関連するマントラとしての
「ソーハム」という語のもう一つの側面も、
ババによって説明がなされている。

ババはこうおっしゃっている。
 
「もし、
作家が物語や劇を創作したいと思ったら、
まず心でそれを思い描き、
それから書きはじめ、
最終的に、
心に描いたものを土台に物語を構築します。

それと同じ方法で、
神が(自らのパラブラフマンとしての様相において)
創造したいと欲したとき、
神はまず土台を創りました。

その土台は音でした。

この原初の音が最初に思い描かれ、
創造されたものであり、
それは音であるがゆえに、

ヴァーチャスパティ 〔声や話す言葉の主の意〕、
ブリハスパティ 〔祈りや信愛の主の意〕、
プラジャーパティ 〔被造物の主の意〕

と呼ばれてきました。

ヒランニャガルバと名づけられた
創造の始めのものは、
“ブー”という最初の音を出しました。

その音を出した後、彼は
“ブーラディ”〔ブーリ、多〕の姿を創造しました。

それゆえ、
ヴェーダによると、
私たちの地球という創造物は
“ブーミ”や“ブーマムと”呼ばれているのです。

それは
“スティラプラヴァーハム”〔永遠の流れの意〕
とも呼ばれてきました。

なぜなら、
それは始まりも終わりもない創造物であるからです。

“ブーマム”には
神聖で永遠なるマントラという意味もあります。

この語の内的意味は、
“ブーミ”、すなわち私たちの地球は、
マントラと
ブラーフマナ〔ブラフマンによって与えられたもの〕の
形をとって生まれたというものです。

シャーストラ(聖典)が
人間の内に

“ヤントラ”〔保つための道具、機械〕と
“マントラ”と
“タントラ”〔織機、経糸、基をなす原則、規則〕という

三つの様相を創ったのは、
そのためです。

ヤントラは体、
マントラは息、
タントラは心臓です。

私たちは、
人間の息がどのようにしてマントラとなるかを
理解しなければなりません。

それは、
呼吸の中には
“ソーハム”という言葉が含まれており、
息を吸って吐くとき、
私たちは絶えず
“ソーハム”という言葉を発しているからです。

“ソーハム”とは
“私は神である”ということを意味しており、
このマントラはスワスワルーパ〔人の実体〕なのです」

これは私たちの真我の姿を意味する。

次回に続く

2010/11/18


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.52

前回よりの続きです。



1974年6月、ババはホワイトフィールドで
約400人の子どもたちに
ウパナヤナの儀式
〔学生期(がくしょうき)に入るにあたり
ガーヤトリーマントラと聖(せい)紐(ちゅう)を授与する儀式〕
を執り行い、
ガーヤトリーに関する御講話をしてくださった。

ババは
ガーヤトリーマントラの初めの九つの言葉には、
“究極の実在”に関する
九つの描写が含まれているとおっしゃった。

それは次のとおりである。

1.オーム
宇宙の基盤としての音、ブラフマン。

2.ブーフ
地、物質的なもの。

3.ブヴァハ
空、虚空(こくう)、霊妙なもの。

4.スヴァハ
天、ブヴァハより上の領域、原因となるもの。

5.タット
「それ」を表す。
究極の実在は単純に「それ」と呼ばれる。
なぜなら、
それは言葉や言語を通した説明を許さないからである。

6.サヴィトゥル
太陽の中にある
生命を与える力と同等のものと見なされている
サーヴィトリー女神を表している。

7.ヴァレーンニャム
崇拝する。

8.バルゴー
輝き、光、照明。

9.デーヴァッスヤ
神聖な光輝、すなわち恩寵。

この祈りを構成している残りの行:
 
ディーマヒ
私たちは黙想する。

ディー
理智を表す。

ナッ プラチョーダヤート
頼むこと、強く迫ること、祈ること。

ババは、
この祈りは
母なる神に向けられているとおっしゃっている。

「おお、母なる神よ、
私たちの心は闇に包まれています。

どうかこの闇を遠ざけ、
私たちの内なる光を強めてください」と。

さらにババは、
ガーヤトリーは、パンチャームキー、
すなわち五つの顔がある女神であるとも
言われているとおっしゃっている。

その五つの顔、すなわち様相は、
ブラフマンを顕現させ、映し出すと、
ババはおっしゃっている。

その五つの様相は、
 
オーム
ブール ブヴァッ スヴァハ
タット サヴィトゥル ヴァレーンニャム
バルゴー デーヴァッスヤ ディーマヒ
ディヨー ヨー ナッ プラチョーダヤート
 
である。

パンチャは五を意味し、
これら五つの様相は、
体内のパンチャブータ
(アーカーシャ〔空〕、ヴァーユ〔風〕、
アグニ〔火〕、ジャラ〔水〕、プリティヴィ〔地〕)
を構成しているものすべて、
および、人体のパンチャコーシャ、
すなわち五つの鞘を表している。

これら五つの様相の意味と、
創造された宇宙との間の関係を完全に理解するには、
ババの『ギーター ヴァーヒニー』の中の
『プラシュノーッタラ ヴァーヒニー(神問神答)』の
最初の二章を参照なさい。

しかしながら、
もし、人体のパンチャブータのつながりのすべてを把握し、理
解しているならば、
それはガーヤトリーの五つの顔の
内的意味の真価を認め、
このマントラが
いかに人間存在の完全性に影響を及ぼすことができるかを
理解する位置にいるということであり、
ここに述べられていることで十分であろう。

さらには、
このマントラは、内なる備品のみならず、
外的な行為器官、
すなわち
カルマインドリヤ〔カルメーンドリヤ〕をも浄化可能であり、
それゆえ、
それらの器官を使って行う仕事は
神聖化されるということも、
認識するようになるだろう。

ガーヤトリーマントラへの
力と潜在力に対する絶対の信心は、
必要とされるこのマントラへの
熱意と敬意と愛の度合いを育んで、
初めて求道者の内に芽生えてくる。

ババは次のようにおっしゃっている。
 
「今日からガーヤトリー ジャパによる
サンディヤー礼拝
〔サンディヤーと呼ばれる
日の出と正午と日の入りの刻に行う礼拝〕
を始め、熱意を高めつつ、続けていきなさい。

あなた自身のため、
そして人類社会のために、
しっかりと味わいながら元気よく行いなさい」

次回に続く

2010/11/19


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.53

前回よりの続きです。



著名な科学者J・B・S・ホールデンは、

「ガーヤトリーマントラは、
この世のあらゆる研究所の
ドアに刻まれるべきものである」

と書き述べている。

幼い子どもと生徒たちへの
ババのアドバイスは以下のとおりである。
 
「毎日ガーヤトリーを唱えなさい。

それは
三界〔地上界・虚空界・天界〕と
三グナ〔鈍性・激性・浄性〕と
三つの時〔過去・現在・未来〕の
様相を取り囲む限界から
皆さんを解放し、
ブラフマンの光輝へと導いてくれるでしょう。

ガーヤトリーは心(ハート)を
浄化するために唱えるべきです。

ガーヤトリーは
太陽光線のように
あなたの内なる闇を払います。

今の子ども時代は、
皆さんにとって黄金の時です。

心を開いてガーヤトリーマントラを唱え、
人生で成功を収めなさい。

木の幹が木を支えるように、
ガーヤトリーは人の身体を支えます。

ガーヤトリーなしでは、
人生という木は枯れてしまうでしょう。

ガーヤトリーを唱え、
同時に両親を神と見なして敬うなら、
その両方の果報が共に働いて一つに結合し、
皆さんに光と輝きをもたらして、
人生に大きな影響を生み出すでしょう」

次回に続く

2010/11/20


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.54

前回よりの続きです。



ガーヤトリーマントラのいくつかの言葉の発音は、
サンスクリット語で書かれた場合の発音とは少々異なる。

このマントラの発音に関する手引きである。

オーム
ブール ブヴァッ
*ルとブ(rとb)は、つなげて発音する。
 
スヴァハ
* スとヴ(sとuとv)は、つなげて発音する。
*「スヴァ」と「ハ」の間に、ごくわずかな間を入れる。
 
タット
* ト(t)は、短く発音する。通常の発音の半分の長さ。
 
サヴィトゥル
* サ(s)は、強く発音する。
* ル(r)は、短く発音する。通常の発音の半分の長さ。
 
ヴァレーンニャム
* ー(e)は、古代のように「a」と発音すべき。
* ン(n)は、強く発音する。
* ニャ(yu)は、つなげて発音する。
* ム(m)は、強く発音する。
*「ヴァレー」と「ンニャム」の間に、ごくわずかな間を入れる。
 
バルゴー
* ー(o)は、強く発音する。
*「ゴ」と「ー」の間に、ごくわずかな間を入れる。
 
デーヴァッスヤ ディーマヒ
*デ(d)は、弱く発音する。
*ヤ(ya)は、つなげて発音する。
 
ディヨー ヨー
*ー(o)は、弱く発音する。
*「ヨー」と「ヨー」の間に、ごくわずかな間を入れる。
 
ナッ(ナハ)
*ッ(ハ)(ah)は、つなげて発音する。
 
プラチョーダヤート
*プ(p)は、弱く発音する。
*プラ(p)は、つなげて発音する。
*ヤ(y)は、強く発音する。
*ト(t)は、短く発音する。通常の発音の半分の長さ。
*「チョー」と「ダヤート」の間に、ごくわずかな間を入れる。
 
伝統的には、
「タット」の前に二つ目のオームを入れる。

しかしババは、
そうする必要はない、それは除かれている、
とおっしゃっている。

読者の皆さんには、
適任者が唱えるガーヤトリーを
注意深く聴くことが勧められる。

なぜなら、
書き言葉は口で大雑把に伝えるものよりも劣るものであり、
それをもって
発音の微妙なニュアンスを示すことは不可能であるからだ。

もとの文字〔デーヴァナーガリー文字〕とは異なる
アルファベット〔カタカナ表記も同様〕においてはなおさらだ。

ババは、
あせったり急いだりすることなく、
一語一語をはっきりと明確に発音すべきです、
とアドバイスなさっている。

ババは、
幼い少年の話をお話しになる。

その少年は父親からガーヤトリーマントラを与えられ、
108回唱えることを楽しんでいた。

しばらく後に、
父親は息子がずいぶん早く吟唱を終えていることに気づき、
疑いが生じた。

そこで、父親は調べてみることにした。

すると、少年は一度しかマントラを唱えず、
後の107回は「以下同文」と繰り返していたことがわかり、
大いに驚いた、という話だ。

吟唱が気の進まない日々の日課へと
堕落することを許すべきではない。

次回に続く

2010/11/21


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.55

前回よりの続きです。



人はいつガーヤトリーマントラを唱えるべきか?
 
「毎日食器を一日三回洗う必要があるのと同じように、
私たちの心も一日三回洗い清める必要があります。

それはトリカーラ サンディヤー
〔夜明けと正午と日没という
三つの時間帯(トリカーラ)に
ガーヤトリーマントラ等を唱える礼拝〕
と呼ばれています」
 
以上の指示はババが与えてくださったものである。

定められた時は、
夜明けと正午と日暮れであり、
これらの時間に加えて、
ババは、
ガーヤトリーマントラは、
夜を含めて、いつでも、どこでも唱えてかまいません、
とおっしゃっている。

加えて、
食事をとる前、
および、
入浴時に頭に水をかけるときに唱えるべきである。

ババは、
ガーヤトリーマントラは食べ物を清め、
料理を用意した人の心に浮かんだ
悪い想念などといった、
かすかなヴァイブレーションの悪影響を取り除き、
さらには、
食べ物に含まれているかも知れない
病原菌の有害な影響から人を守ります、
と説明なさっている。

吟唱時には水を一すすりすべきである。

自分の頭に水をかけるなら、
それは自らに内在するシャブダ ブラフマンへの
アビシェーカ〔灌頂〕となる。

石鹸と水は体の外側をきれいにするものであり、
ガーヤトリーマントラは
個人の内なる備品の浄化に対処するものなのだ。

ガーヤトリーマントラは、
移動しているときでも、
歩いているときでも、
働いているときでも、
眠ってはいないまでも
ベッドで横になっているときでも、
寝ながら夢を見ているときでも、
どこで唱えてもよいのだ。

人は何回ガーヤトリーマントラを唱えるべきか?

ババは、
食前に三回、あるいは九回、もしくは十一回とお勧めになっている。

なぜなら、
ガーヤトリー ジャパには
実際のところまったく何の制限もないが、
伝統的には一〇八回繰り返すことが必要とされており、
不幸なことに、
回数が定められると、
その努力は無意識のうちに何としても数をこなそうという
強制的な断行へとおとしめられ、
ガーヤトリーマントラの
力と荘厳さを黙想するという
喜びに影を落としてしまう。

ガーヤトリーマントラへの
愛と敬意、
そして、
約束されている果報を信じることのほうが、
さまよう心でただ機械的に唱えることよりも
はるかに重要なのだ。

神は「以下同文」には決して騙されない。

とはいえ、
ガーヤトリーマントラは、
唱えれば唱えるほど、
より大きな利益がもたらされる。

次回に続く

2010/11/22


 

ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン
Vol.56(最終回)

前回よりの続きです。



最後になるが、ババはこうおっしゃっている。
 
「内なる目の力を強めるために、
太陽エネルギーを引き下ろさなければなりません。

それは人間に潜在している魂の力です。

魂の力が強まると、
理智と感覚器官と道徳的な感情が活性化され、
実り多い道に沿って導かれるようになります。

太陽が輝いているとき、
暗闇は脳を混乱させたり、
真理を覆い隠したりできますか?

太陽のように光り輝く神性が、
光明をもってあなたを祝福するとき、
影が広がること、
無知が混乱を招くこと、
エゴイズムが人の目を見えなくさせることが
できますか?

ですから、
あなたの理智が光明を授かることができるよう、
太陽の光輝を引き下ろすために
ガーヤトリーに頼りなさい」

次回に続く

2010/11/23


 

 

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