サイババの御言葉

日付:1964年2月17日・場所:ペヌコンダ
ヴィジャヤナガル王国のクリシュナデーヴァラーヤ王即位記念日の御講話より

かがり火


私は、芸術家、詩人、文学者の皆さん、そして、芸術の助成に関心のある皆さんに話ができることを嬉しく思います。皆さんは、ヴィジャヤナガル王国の皇帝であり、詩、演劇、彫刻、絵画、音楽、舞踊、そして、文学を愛好し、これらのメディアを通してヒンドゥーのダルマを復活させた、クリシュナデーヴァラーヤ王の即位を記念してここに集まりました。時を超越するヴェーダを元に成長してきたバーラタ(インドの正式名/神を愛する者の国)の文化は、この国を西洋人が支配した時に受けた見え透いた援助のせいで、しばらくの間、西洋式の生活と考え方の影響によって押しつぶされていました。今、バーラタ国民の弱点を取り除くことによって、バーラタ文化を再発見して復興しなければなりません。人々は、途方もなく強力な永遠なる宗教のメッセージであるサナータナ ダルマ〔古来よりの永遠の法〕の受け取り手でいるには、あまりにも弱くなりすぎています! 私たちは人間のことをヴィヤクティ〔目に見える顕れ〕とも呼びますが、それがなぜだか皆さんは知っていますか? それは、私たちは人間にヴィヤクタをもたらすこと、つまり自らの神性を顕現させることを期待しているからです!

イーシュワラサルヴァムーターナーム フルデーセー、アルジュナ、ティシタティ
「主はすべての生き物のハートに宿っている、おお、アルジュナよ!」


と、主クリシュナはバガヴァッド ギーターの中でアルジュナに言いました。これは真実であるということを身をもって示し、神が自分のハートにいることに気づき、神を顕現させなさい。これは個々人の責務です。

ヴィジャヤナガル王国の歴代の王たちは、美徳、勇気、愛国心、ダルマへ愛、寛大さ、ヴィジョン、政治的統治力を持っていました。王たちは多くの寺院を建立しました。老朽化した寺院を修復しました。多くの貯水池と町を建設しました。王たちを思い出し、王たちがしてくれたことに感謝するのは良いことです。しかし、皆さんが犯すべきではない間違いが1つあります。それは、ただ過去を回想するだけで満足してはいけないということです。なぜ自分がすでに横断してしまった道を見渡すのですか? なぜ過去の業績が現在の熱意を抑えてしまうことを許すのですか? 皆さんは、自分はヴィジャヤナガル王国の国民がしたように、彫ったり、建築したり、塗装したり、歌ったりできるだろうか? と問います。そのような問いは、弱さのしるしであり、恐れで萎縮している印です。

臆病に隙入る余地を与えてはならない

あるとき、隠者が道でコレラの女神を見かけました。女神は村の人口を減らした帰り道でした。隠者は女神に、何人に手をかけたのか尋ねました。「10人だけです」と女神は答えました。しかし、実際には、犠牲者は100人でした。コレラの女神はこう説明しました。「私は10人しか殺しませんでした。残りの人は恐れによって死んだのです!」

人間はアートマ スワルーパ(真我の化身)、つまりアバヤ スワルーパ(無畏の化身)〔恐れなき者〕です。もし人間が自分の本性を知れば、弱さや臆病に隙入る余地を与えることはなくなるでしょう。

文化の主な目的は、心の落ち着き、心の勇気を養い、すべての人に他の人々との親密な関係を築かせることです。あなたは「コーハム」(私は誰だ?)という泣き声を口にしながら生まれてきました。あなたが逝く時、あなたは笑顔で「ソーハム」(私は神だ)と宣言しなければなりません。これは、クリシュナデーヴァラーヤ王が育んだダルマのメッセージです。この教訓をこの集会から家に持ち帰りなさい。あなたは今、目、Eyeで見ています。この3文字の物理的装置は、その3つの文字でサットワ・ラジャス・タマス〔浄性・激性・鈍性〕という3つの属性を表しています。明瞭で、偏見がなく、執着のない「私」〔自分〕と一緒に見なさい。そうすれば、あなたは一なるものだけを見ます。もしあなたがあなたを見ても、それは自分のことを「私」と呼んでいるすべての存在なのです。

ウパニシャッドが宣言している称号を獲得せよ

この唯一の目的(ラクシャ)を放棄したせいで、あらゆる混乱(アバラクシャナ)が発生したのです! たった今、ベズワダ ゴーパーラ レッディは、古代の経典と聖典を専門とするパンディト〔学僧〕たちは私たちの文化のマーナサ サローヴァラ(聖河ブラフマ プットラの水源である聖湖)であると述べました。しかし、今日では、パンディト〔学僧〕たちを称える人はほとんどいません。文化のより高尚な面は、総じて無視されています。人々はそれよりも映画スターの私生活について詳しく知っています。ますます多くの人がそうしたゴミに興味を示しています。人々は、同じ通りでパンディトが苦労して歩いている姿を気にもしません。人々は、自分の町にいる詩人や画家の名前を知りません。これは教育のある階級の人々の悲劇です。彼らには価値観がありません。

私は、皆さんがプッタパルティ ナーラーヤナーチャルのような文学者たちをここに呼び寄せた今日という日はすべての人にとっても至福の夜明けであると感じています。なぜなら、文学は至福と平和を与えるもの、与えるべきものであるからです。皆さんは文化と文学を促進する統治者を称えます。であれば、皆さんは、今でも統治者には伝統を継続する責任があるということを認識しなければなりません。統治者は、人々のエネルギーと知性を道徳的な活動や社会と調和したプログラムへと向けさせなければなりません。

私は常に、3つのSの活動、すなわち、宗教活動(サナータナム)、社会活動(サーングヒカム)、文化活動(サームスクリティカム)を奨励しています。もしそれが、時が偉大なものであると認めた価値を復活させること、あるいは、損傷した善良な社会の構造を再構築すること、あるいは、衰退しつつある美術に厳格さを取り戻すことをしているならば、皆さんは私の祝福を当てにしてよいでしょう。私は常に人々に、支持を求めて訪ね回る人に与えられる称号ではなく、ウパニシャッドが霊性の求道者にとって最高の勲章であると明言している、アムルタッスヤ プットラーハ、「不死の子供」という称号を勝ち得るようにと訓戒しています。

自分の祖父は偉大な学者だったと誇りに思っていても、それが何になりますか? サンスクリット語で人間は「マヌジャ」といいますが、これにはマヌから始まった高潔な祖先という意味があります。あなたの最大の宝物である、あなたに内在する神性を誇りに思いなさい。

私はここにいる詩人や作家に次のことを言わなければなりません。サラスワティーは女神であり、創造主であるブラフマー神の配偶者です。あなた方は誰もが崇めるこの女神の信者です。サラスワティーは英知と解脱を授けます。サラスワティーが授けてくれる最高の恩恵に忠実でありなさい。

もしあなたが世俗的な五感の飢えを満たすために食物を与えているなら、それで満足してはなりません。安っぽい名声を求めることであなたの理想を低くしたり、一般の人々の好みを俗悪にしてはなりません。ロウキカ シュリンガーラム(世俗的な性の快楽)の代わりに、アロウキカ アートマアーナンダム(世俗的でない神我の至福)を与えなさい。愛の拡大、動機の浄化、思いやりの気持ち、違いに対する寛容、個々人の努力に対する敬意の増大に貢献しなさい。

なんとしてでも、過去の英雄たちと現在の恩人たちに感謝の意を表しなさい。そして、善い思いと善い行いと善い言葉によってゴールに到達したいという熱意に満ちなさい。カルッル スッバ ラーオは、ラヤラシーマのさまざまな場所でこの祭事を祝うために苦労してきた25年について語りました。彼には、地区の名称をチェデド地区やダッタマンダラ地区といった古い名称からラヤラシーマ地区という名称に変えなければならないという苦労がありました。彼は、ただのマータル(言葉)によってではなく、もっと多くのムータル(お金の入った袋)によって援助されなければなりません。このような祭事はもっと頻繁に祝われるべきであり、私ももっと頻繁に参加するつもりです。

実際、プッタパルティは16マイル〔約25.7キロ〕しか離れていませんが、私が今回のようにペヌコンダに来たのは2度だけです。1度は運動競技会の主賓としてクリシュナラーオに連れてこられた時です。そして、クリシュナデーヴァラーヤ王が私を連れてきた、今です! 私は、私の喜びをすべての人と分かち合うのを楽しみにしています。ですから私は、皆さんは私を招待しなければならないと思っています。そうするなら、私は皆さんと一緒にいるつもりです。私は皆さんがまだ私を理解していないということを知っています。皆さんは私を遠くから見ているだけです。皆さんの町を通り抜けて何千人もの人が私のところに行くのを見ているだけです。その人たちの信心と歓喜をほんの少し理解しさえすれば、皆さんは十分に報われるでしょう。私は心配していました。心配という言葉がこの気持ちを言い表す言葉であるならばですが、私は、この国の最果てから、そして外国からさえ人々がやって来て恩恵を得ている一方で、ペヌコンダの人々は私の至福を分かち合うチャンスに応じていないことを心配していました。

ペヌコンダ〔ペヌ=大きな、コンダ=山〕は、山にちなんで名付けられた町で、大きな山ではありますが、あまりにも長く石の山であり続けています。皆さんのハートが、コンダ〔山〕に、つまり、大きな山〔ペヌコンダ〕の頂にならなければなりません。そして、その頂上は、アルナーギリのように、知識のジョーティ(光)が、かがり火のように輝いていなければなりません。

学び、体験し、幸せになりなさい。制し、方向づけ、守りなさい。あなたに私への信心、神への信心がなくても、それは少しも問題ではありません。自分を信じなさい。それで十分です。というのも、あなたは本当は誰なのでしょう? あなたがそれを知っていてもいなくても、あなた方一人ひとりが神なのですから。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.4 C7

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