サイババの御言葉:ヤントラとマントラ

日付:1964年2月19日・場所:ヴェーンカタギリ
ラシャーンティ ヴィッドワン マハーサバー連続講話Aより

ヤントラとマントラ


人間の内には計り知れない能力が潜在しており、引き出されて使われるのを待っています。人間は多くの才能を持っていますが、それらは日の当たるところに出されなければなりません。人間は、万物を愛したい、自らの喜びと悲しみを同類の人たちと分かち合いたい、自らの理知の好奇心をもっと知って満足させたい、原質〔プラクリティ〕が人間の内に目覚めさせた畏敬と驚嘆の念の背後をこっそりとのぞいて見たい、という衝動に駆られます。人間はあらゆる物事に関する情報を世界の隅々から集めることができますが、自分の心(マインド)の隅々で何が起こっているのかを知りません。人間は自分以外の誰が誰だかを知っていますが、「自分は誰か?」という単純な問いの答えを知りません。

それは、人間はそのことを自問し、その謎の糸口を自分で探さなければないということです。人間は、その答えを知ることは必須であるとは感じておらず、世の中を手探りで歩き回り、自分の道を暗中模索することに甘んじています。自分は何者かを知らずに、人間は軽率に他人を判断し、レッテルを貼り、誹謗中傷さえしています! これが、今の人間の生活の中味のなさと、憎しみと、恐れが、静かに世界に広まっていることの根本的な理由です。

インドのヴェーダとシャーストラがその答えの鍵を持っています。ヴェーダとシャーストラは、もしあなたがそうしたいと思うなら、自分でそれを発見するプロセスをあなたに教えることができます。英語のアルファベットは26文字しかありませんが、さまざまに組み合わせることで何万冊もの本が書かれています。それと同じように、ヴェーダが与えている見解やヒントは少しかもしれませんが、それを応用したものがアクシャラの全文献〔文字で書かれているあらゆる聖典〕を説明しているのです。「アクシャラ」という言葉には「文字」と「不滅」という両方の意味があります。バーラタ(インド)に生まれた人間は皆、それらの訓戒の手本とならなければなりません。なぜなら、「バー」には「光輝」、すなわち、人間に内在している光輝、プラカーシャという意味があり、「ラティ」には「それを顕現したいという願望、それを味わいたいという願望」という意味があるからです。その栄光に従う生活をすれば、あなた方は皆、完全なものへと変容するでしょう。

神の原理

あなた方は、人間の姿(ナラーカーラ)の中に入った無形なるもの(ニラーカーラ)であり、有限の役割を担った無限なるものであり、有形の極小のものに見えている無形の無限なるものであり、相対者のふりをしている絶対者であり、体として振る舞っているアートマ(真我)であり、単なる肉体という仮面をかぶっている形而上的な存在です。

万物の基盤は普遍なるアートマです。空の下に家が建てられる以前にも、空はそこにありました。空の空気は家の中に入り込み、しばらくの間、家中に充満していますが、その後、家は崩れて瓦礫の山と化します。一方、空は一切何の影響も被りません。同様に、アートマは体中に充満しており、体が土に返っても存在し続けます。

目に見えず説明のつかない同一の電流は、電球や扇風機、暖房機や冷房機、水撒機の中に入ると、それぞれを単体で動かしたり、全部同時に動かしたりします。同様に、神の原理が万物を動かしているのです。

イーシュワラ サルヴァ ブーターナーム
〔神は万物に内在する〕

それが内なる中核であり、神の火花であり、最も小さなものよりも小さく、最も大きなものよりも大きいものなのです。極小のものを見るには顕微鏡を使わなければなりません。離れたところにあるものを自分の目の近くに持ってくるには、望遠鏡の助けを求めます。これらは「ヤントラ」(物質でできた道具)です。奇妙な矛盾する特性を持つ内なる中核を見るのを助けてくれる道具は「マントラ」呼ばれます。マントラは、あなたがそれを瞑想するときあなたを救ってくれる定型句です。マントラは、その実際的適用を強調すべきときには「タントラ」(祭式や儀式)とも呼ばれます。大いなる冒険を成功させるには、マントラの効力を信じること、定められている手順の有用性を信じること、さらに、中核の存在を信じることのすべてが必要不可欠です。これは、科学者にとって道具の効力を信じること、手順の正しさを信じること、自分がもっと知ろうとしている物質の存在を信じることが必要不可欠であるのと同じです。

夜からの解放

あなた方はこの問題に取り組まなければなりませんが、それはこの問題が始まったまさにその場所から始めなければなりません。無知は知識によってのみ治すことができ、闇は光によってのみ滅ぼすことができます。ですから、議論を交わしても、脅しても、説得しても、闇を強引に退散させることはできません。まばゆい閃光――それで十分です。それで闇は退散します。啓蒙という閃光を得るための準備を整えなさい。光はすでにあなたの中にあります。けれども、光を抑え込む要因が重くのしかかっているために、光は姿を見せることができずにいるのです。光が姿を見せると「夜からの解放」が起こります。それは「モークシャ」(解脱)と呼ばれています。今、そのための努力をしていようが、いまいが、誰もが解脱に到達しなければなりません。解脱は必ずやって来る苦闘の終わりであり、万人が向かっている目的地です。

しかし、どうか解脱に到ることを恐れないように! 解脱の段階を災難だと考えてはいけません。解脱は災難の終わりです。解脱はあらゆる辛い悲しみの死であり、喜びの誕生です。その喜びは衰退を知らず、悲しみの死を知っています。その悲しみはもう二度と生じてきません。

では、どうやってその段階に進む準備をしたらよいのでしょう? その答えは「モークシャ」(解脱)という言葉の中にあると言っておかなければなりません。「モー」は「モーハ」(幻惑。火花を発するもの、けばけばしいもの、一時的なもの、はかない屑によって惑わされていること)を指しており、「クシャ」は「クシャヤ」(衰退、消失、崩壊)を意味しています。それはあなたに、錯覚を起こさせる魅力的な対象物へと心(マインド)が飛んでいかないよう引き止めておくこと、解脱へ向かう真っ直ぐな道の上にい続けることを要します。

錯覚を否定することで錯覚を避けよ

耐えられないほどの太陽の熱さが、あなたの体のメカニズムによって、いかに36度8分という快適な体温に抑えられ、和らげられ、低められているかを考えてみなさい。ですから、あなたも、音、感触、形、味、香り(シャブダ、スパルシャ、ルーパ、ラサ、ガンダ)のやかましい声から生まれる原始的な激情の破壊的な力を厳しく監視し、それらを快適な生活をもたらしてくれる、ほどほどのレベルにまで弱めるべきです。あなた自身が、自分は奴隷であるという錯覚を創り出しているのです。否定しなさい。その錯覚にあなたを支配する機会を与えてはなりません。そうれば、それがあなたに傷害を与えることはなくなるでしょう。誰かがこう言われました。

「あの井戸の中にあなたの影がある」

その人は、言いました。

「いいや、そんなことはない」

しかし、そう言いながら、その男は事実を確かめに行きました。

男は井戸まで歩いていって、井戸の中を覗きこみました。すると驚いたことに、それは事実でした。井戸の中に自分の影があったのです! かわいそうに、男は自分が覗いたときに影ができるのだということを知らなかったのです! マーヤー(幻、幻力)をテストしてはなりません。マーヤーの所在を突き止めるよう努めなさい。そうすればマーヤーは自ら現れます。マーヤーを否定することによってのみ、あなたはマーヤーを避けることができます。実体に集中することによってのみ、あなたは逃げることができます。井戸の中にあろうと、井戸の外にあろうと、影に価値を持たせてはなりません。なぜなら、結局、それはただの影だからです!

錯覚は、欲望(カーマ)あるいは渇望(トリシュナ)となって、人間につきまといます。人間は、五元素、すなわち、空元素から成る音(アーカーシャのシャブダ)、風元素から成る感触(ヴァーユのスパルシャ)、火元素から成る形(アグニのルーパ)、水元素から成る味(ジャラのラサ)、地元素から成る香り(プルティヴィーのガンダ)の複合物であり、欲望は、五元素の性質である、音、感触、形、味、香り(シャブダ、スパルシャ、ルーパ、ラサ、ガンダ)を呼び求めます。人間は、自らの中の空元素によって、耳を満足させる甘美な音を求めるよう促され、自らの中の風元素によって、肌に喜びをもたらす滑らかで柔らかなものを追いかけるよう促され、自らの中の火元素によって、姿形の美しさで目に訴えるものを求めるよう促され、自らの中の水元素によって、舌がおいしいと感じる食べ物と飲み物を切望するよう促され、自らの中の地元素の内なる衝動によって、鼻に香水や芳香やよい匂いを楽しませようと仕向けるようにと促されます。欲望(カーマ)には、頭が二つあるクローダ・ローバという名前の一人の息子がいます。それは怒り〔クローダ〕と貪欲〔ローバ〕という二つの頭がある怪物です。欲望と怒りと貪欲という三つの悪意ある陰謀によって、あなたは永続する幸福を奪われているのです。

本当のあなたである君主となりなさい

あなたは自分の神聖な身分を自覚することなく、低俗な付き合いを喜んでいます。自分を不名誉へと引きずり込む卑しい激情の奴隷となって、あくせく働いて汗を流しています。君主になりなさい。それが本当のあなたです。蓮のようでありなさい。蓮は池の底のぬかるみに生まれながら、太陽を見るために全くの意志の力で水面に顔を出し、太陽の光を浴びます。蓮は水の元素の中で生まれ育ったにもかかわらず、水との接触を捨て去ります。同様に、あなたを形作っている五元素は激情と結び付くようあなたを駆り立てますが、あなたも五元素の激情を避けるべきです。あなたはどれくらい長く、道化師やボロ切れのような端役に甘んじるつもりですか? あなたはそれで恥ずかしくないのですか? あなたに大志はないのですか? なぜあなたは自分でかぶった仮面の下に本当の才能を覆い隠しているのですか? それらはすべて、価値がゼロの役です。あなたの権利であるヒーロー(英雄)の役を引き受けて輝きなさい!

私があなた方に、ヒーローの役にふさわしくなる方法、劇の監督であるスートラダーラ(糸を引く者)からその役を得る方法を教えましょう。霊性修行の道に入るのです。あなたの経験それ自体が、その道の妥当性と価値を語ってくれるでしょう。

ラジオの受信機を設置し、あなたが聞こうとしている放送局の周波数を選び出し、その周波数に正しく合わせれば、聞きたいラジオ番組をきれいに、はっきりと聞くことができます。あなたの耳は、あなたが正確に周波数に合わせているかどうかを教えてくれます。それと同じように、一つのマントラの形(マントラスワルーパ)を選び、しっかりと細かく注意を払ってそのマントラを唱え、そのマントラを瞑想し、あなたの内なる神の声の方を向きなさい。

霊性の求道者が道の途中で出会う障害の一つに、周囲のやかまし屋が浴びせる皮肉や非難があります。彼らの助言や嫌味を心に留めてはなりません。彼らは、社会生活のくだらない、些細で、はかないものや、五感の快楽の専門家であるだけです。昨今の人々の大部分は、深く根付いた無知という災難から人間を救うことのできるヨーギ(ヨーガ行者)やパラマハムサ(最高の苦行者)たちの生涯よりも、映画スターの生涯に関心があるのです。

三本の紐を撚り合わせて作ったヤマの縄

死の神ヤマは、パーシャという輪縄の罠を使って、獲物を自分の館に引っ張っていくと言われています。ヤマは自分が必要なときに縄を提供してくれる縄工場を持っているわけではありません。あなたが自分で縄を作って、自分の首に掛けてもらう準備を整えておくのです。ヤマはただその縄を持って、あなたを引っ張っていきさえすればよいのです! その縄は三本の紐を撚り合わせたものであり、その紐とは、エゴ、五感で感じる快楽への執着、欲望(アハンカーラ、ヴィシャヤヴァーサナ、カーマ)です。

もつれ合う五感に捕らえられている人たちを敬ってはなりません。人には、所有している自己に関する知識、たとえば、内在者や超越者の知識の度合いに応じた敬意を示しなさい。砂糖きびの値段はどうやって決めますか? 砂糖きびに含まれている砂糖の量に応じて決めるのではありませんか? オレンジは詰まっている果汁に応じて値段を付けるのではありませんか? それと同じように、人間も自分が得た真我の知識に応じた名誉に値するのです。真我の知識だけが、着実さと力を授けることができます。真我の知識がなければ、あらゆる放棄の宣言、信愛の主張、慈善の行為は、口先だけの、皮一枚のものでしかありません!

大事なのは、決意の表明ではなく、決意の固さです。決意の表明は言葉の羅列にすぎません。あなた方はバガヴァッドギーターの700の詩節(シローカ)を暗記しているかもしれませんが、私を信じなさい、もし決意を固めて一つの詩節を実践することさえしないなら、ギーターを丸暗記して覚えた時間、唱えた時間は、すべて無駄になります。覚えることは障害にさえなるかもしれません。なぜでしょう? なぜなら、覚える技能が頭に影響して、慢心で頭が一杯になってしまうからです。

ダルマは決して裏切らない

バガヴァッドギーターは手段であり、それによって、あなた自身の神との関係(バガヴァタ バーヴァ)に浸ることができます。もしそれに浸れば、減少しない至福、減少することのできない至福(アーナンダ)、永遠の至福(ニッティヤーナンダ)を得るでしょう。あなたは無知をまとっているために、自分は小さいと感じ、惨めに感じています。そして、悪い人、貪欲な人、残酷な人は皆、自分よりも幸せで、それは不当なことだと感じています。それゆえ、あなたは傷つき、こんなにも誠実で、こんなにも愛に満ち、こんなにも善良である自分が苦しまなければならないのは不公平であると感じています。このことをよく考えてごらんなさい。彼らはあなたが想像しているほど幸せなのでしょうか? そして、あなたの状況はあなたが思うほどひどいのでしょうか? 少し調べてみれば、自分でわかるでしょう。彼らは絵が描いてある毒入りの壺にすぎません。はちみつの絵は、表面に薄く塗装されただけの、うわべだけのものです。彼らのハートは平安を知りません。彼らはあなたより惨めでないとしても、あなたと同じくらい惨めなのです。

道徳的に正しいこと、すなわち、ダルマは、決して裏切らないということを信じなさい。ダルマは、他のいかなる手段を通じて得られる喜びよりも大きな喜びを保証してくれます。ラーマはラーヴァナ〔十の頭がある羅刹王〕を滅ぼしました。それは、一つの頭が十の頭を制した勝利、集中力が注意散漫を制した勝利でした。ラーヴァナはプラクリティ〔原質、シーター妃〕を欲しがって、プラクリティに価値と意味を与えたプルシャ〔原人〕、つまりラーマを捨てました。もしプラクリティ、すなわち物質世界を欲しがるなら、あなたは自分の地位を下げ、あなたの実体を否定し、ラーヴァナの種族に加わることになります。

また、神はプラクリティの外にいる、あるいは、物質世界のほんの一部であるあなたの外にいる、などと想像してはなりません。神は、あなたの中に、あなたの後ろに、あなたの脇に、あなたの前にいます。神はあなたの「目」の「目」であり、あなたの「私」の「私」です。本当の自分は神であるという揺るぎない自覚を通じて、ヨーガ、すなわち神との結合を切望しなさい。ヨーガを切望しなさい。そうすれば、あなたが本当に必要な楽しみ(ボーガ)は何でもやがて与えられるでしょう。もし反対に、楽しみそのものを欲しがるなら、あなたは終わりです! あなたは病気(ローガ)に恵まれることになると覚えておきなさい!

自分はアートマ(真我)であるという燃えるような確信を持って生きなさい。これこそが永遠の教えの中核です。アートマとは、あなたの目を通して見、あなたの耳を通して聞き、あなたの指を通して触れ、あなたの足を通して動く者です。これが根本的な「あなた」です。その「あなた」は、称賛されて得意になることも、非難されて意気消沈することもありません。もし誰かがあなたにけちをつけてきたら、次のようにして自分の中で答えを出しなさい。

「この人は私の体を非難しているのか? それなら、私が何を気にする必要などあるか? この人は私が自分ですべきことをしてくれているのだ。肉体という酷い監獄への執着を捨てるということを。

あるいは、この人は真我に非難を浴びせているのか? 真我の清らかさに影響を及ぼすこと、真我の栄光を汚すことなど、いかなるものにもできはしない。だから、うろたえることなく、落ち着いていよう」

それでは一連の罵詈雑言はどうなるのかと、あなたは尋ねるかもしれません。郵便で送られたものを名宛人(なあてにん)が受取拒否をしたときのように、それは送り主に戻ります。

私はあなた方に、家に戻って、以上の助言と考えについてじっくり考えるよう指示します。聞いたことを思い出してよく考えなさい。とりわけ、古代の聖典の中にある宝石、何世紀にもわたって体験という試金石によって試された宝石を、あなた方に運んできてくれた人たちから聞いたことを。

サナータナ ダルマ〔古代よりの永遠の法〕は、聞くこと、要点を繰り返すこと、集中することという、三段階の工程を推奨しています。聞くことは、あなたに学習をさせるだけです。聞いたことの意味を集中して瞑想することは、教師が意図したとおりの教えの果実をあなたに与えてくれます。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.4 C9

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