サイババの御言葉:神への道の種類

日付:1965年3月26日・場所:カーキナーダ市
ヴィッドワン マハーサバーの御講話より

神への道の種類


ダルシャンを求め、霊的な事柄を学ぶことを切望する求道者たちの人の波は、この行事〔ヴェーダを復興するためのヴェーダ学者の会〕の主催者にとって、そして、この都市の権威ある人々にとっても、初めての経験であることでしょう。しかし、私に言わせるなら、これは何も不思議なことではありません。そして、私のメッセージも何ら新しいものではありません! それはヴェーダのメッセージであり、時間によって試され、それを実践に移した大勢の人たちによって保証されているものです。その貴いメッセージが、人々の注意を引き続けたいと欲している者たちのせいで、忘れられ、無視されています。人は、取るに足りないあまりに多くの物事に忙しく、この世に滞在している本来の目的を見落としています。このメッセージを大切に持ち続けるべき手、そして、インドと世界の国々の人間を救うことのできる手、その手自らが、それを握りつぶそう、否定しようとしています。

これがまさに、これまで受け継いできた平安と喜びをインドの民が失ってしまった理由です。インドの民はその鍵を失って苦しんでいます。他の人類同様、インドの民は、物質世界という、変化と混沌をまぬがれないものの中から小さな喜びを搾り出すために、絶望の中でもがいています。どうしてアダルマ〔ダルマでないもの〕から喜びが生まれることなどできるでしょう? どうして道徳と美徳を無視することで喜びを得ることなどできるでしょう? 「ダルモー ラクシャーティ ラクシタハ」――ダルマはダルマを守る人を守ります。

感覚を制御しなければ、人は、目隠しを着けていない馬のようなものです。くびきを掛けられることを拒む雄牛のようなものです。そのような人のサーダナ〔霊性修行〕は、時間とエネルギーの無駄です。人間の気質の特徴は、識別力と、無執着と、概要を捉える理智が備わっていることです。ですから、人間は、この真理を発見し、それに焦点を合わせて、揺るぎない平安を得ることができます。

人が通り抜けなければならない三つの段階

ヴェーダには三つの部門があります。カルマ〔行為〕、ウパーサナ〔礼拝〕、グニャーナ〔英知〕です。カルマは、信心と信愛〔バクティ〕を強め清める活動を扱う部門です。ウパーサナは、人格神への礼拝を扱う部門です。それは、内なる目撃者である至高神にすべての行いを捧げ、内在の御力にすべての技能と経験を全託するというものです。カルマとウパーサナの二つは、人に一意専心、すなわち、エーカーグラターを授けます。この二つの結果として、意識は瞬時にしてグニャーナ(英知)を、すなわち、自らが神自身であるという事実を、認識することができます。これら三つの段階はすべて、通り抜けなければならないものです。種は撒かれなければならず、苗木は守られなければならず、果実は味わわれなければなりません。

人は今、一意専心どころか、多に心を向けています。一つにコーヒーに心を向け、二つに映画に心を向け、三つにラジオに心を向ける等々です! これは、空洞の非実在に必要以上の注意を向けて、聖なる修行の感覚を磨き養う物事に十分な注意を払わないという結果を招いています。これこそが、不敬と不正と堕落が国土に蔓延している理由です。誰もがこれらの事態を非難しています。他者を非難する人は、同じ状況に陥ると自分も同じ過ちを犯します。人は誘惑を拒むほど強くなっていないのです。しっかりと立っている人は誰もいません。それはアートマという岩盤を見つけていないからです。人々は自分のアートマの実体について何も知りません。経典のすべて、賢者や聖者の教えのすべては、内なるアートマを知り、その岩盤の上に人生を築くことです。

その岩盤を見つけるには何が必要でしょう? あなたは、自分自身の内側に入って、自らの本性と、自然界の真実を瞑想することができなければなりません。この探求の術を知ること、そして、それを実践することは、インドのすべての子供の特権です。すべての国のすべての求道者の権利です。それこそが、人を本当に惨めさから救ってくれる富です。その他のものはすべて、単なる影、蜃気楼、空中の楼閣にすぎず、それらに価値を感じた肉体と共に散ってしまいます。

無宗教を促す行為

実際には、有神論者と呼ばれる人たちが、自らの不品行によって、この国の無神論者たちを助長させているのです。無神論者たちは、聖人たちの欠点を見つけては喜び、年長者に反対する話をしては喜び、皮肉な批判を喜び、中身のない儀式偏重を喜んでいます。これら一切は本人に跳ね返ってきます。それがラーマであれ、クリシュナであれ、ラーマクリシュナであれ、サイ ババであれ、メヘルであれ、ハラナータであれ、サティヤ サイであれ、たとえ自分には崇めることができなくても、悪口を言ってはなりません! 評判が欲しい、追随者が欲しい、誇示したい、見せびらかしたい、建物が欲しい、金持ちの信者を感心させたい、と強く思うことが、憎しみという洪水と、盲目的な批判を引き起こしています。そこでは明らかに憎しみが愛に勝っています。カーキナーダ市では、サイ ババ寺院と他の寺院の間にライバル意識があることを私は知っています。資金集めやお祭りを互いに競い合っています。そうすることで、あなた方はその神聖な名を汚しています。

サイ ババを礼拝する場所について私が言及したことはないということを、皆さんは見てきたはずです。それとは反対に、私は私の名前でお寺を建てようとする試みに対しては、それを思いとどまらせるよう強く働きかけます。私はそういう人たちには、そうする代わりに国中にあるお寺を修繕して役立たせるよう求めます。「礼拝堂建設計画」は、儲かる霊性ビジネスになっています。人々は、鴨になりそうな人のリストを持って歩き回り、私の名前でその人たちから寄付を搾り取ります。このビジネスでは、かなりの陰口、敵意、妬み、貪欲が引き起こされ、それは、あらゆる場所に互いに相手を罵り合う派閥争いをもたらしています。なぜ、サイナータ〔サイ ババの別名、主なるサイの意〕の宣伝、メヘルの宣伝、ハラナータの宣伝をして歩き回るのですか? 自分の主の名前を前に押し出すことは、他人のグルや神の名前を汚すことへと容易に悪化し、それは両方の主と弟子を辱めることへとつながります。

霊性の領域に近道なし

もし誰かがあなたのところに来て、「サティヤ サイ ババが私の夢に来て、ババの宣伝活動を私に委託しました。できる限りのお力添えをお願いします」などと言っても、信じてはなりません。夢の中でも、起きている間でも、私は誰にもそのような仕事は委託しません。そのように語る人々は詐欺師です。彼らをそのように見なして、容赦なく扱いなさい。また、あなたに何やら見せて、「サティヤ サイ ババは私のことが大好きで、これをくださいました」などと言い、それから助けを請う者もいます。これは神聖原理そのものへの侮辱にほかなりません。

霊性の領域に近道はありません。実際、バクティ〔信愛〕はグニャーナ〔英知〕よりももっと難しいのです。なぜなら、「私」ではなく「貴方」という態度を身につけるには、神として人格化された高次の力に完全に全託しなければならないからです。エゴ〔自我意識、アハンカーラ〕は完全に砕かれなければなりません。「神に気づかれずして、そして、神がそれを引き起こすことなくして、草の葉一枚、風にそよぐことはない」という信心が、心に植え付けられなければなりません。バクティは暇な時にする仕事ではありません。感覚の欲望を消し去り、ハートの汚れをすべて取り除きなさい。そうすれば、ハートは鏡のように神を映し出すでしょう。

霊性修行はおおいに必要です。燃えている炭の上に木炭を乗せるだけでは十分ではありません。勢いよく団扇を煽いで風を送らなければなりません。そうすれば、木炭にも火が付いて、赤々と燃える炭になります。プッタパルティにいるだけでは十分ではありません。私のサンカルパ〔決意〕を勝ち得るには、サーダナに従事しなければいけません。あなた方は、「前世の行為の結果の重荷は、なぜ容易に振り払えないのですか?」と尋ねるかもしれません。いいえ、それらは破壊できます。綿の山が火の粉一つで燃やされてしまうように。

グニャーナーグニ ダグダ カルマーナム
英知の火花は一瞬にしてカルマの結果を取り除く


行為の結果は、晴れた日にバスが道を走っているとき、バスの後ろについて来る砂ぼこりの煙のようなものです。バスが砂利道や砂利で舗装された道路に入ると、ほこりは少なくなりますが、まだ、ほこりは上がります。最終的に、バスがアスファルトで舗装された道に入ると、もうほこりは出ません。泥道はカルマ〔行為〕、砂利道はウパーサナ〔礼拝〕、ほこりの上がらない舗装された道はグニャーナ〔英知〕です。人間の技能と努力によって過去のカルマの重荷を減らすことは可能です。

平安よりも大きな財産はない

腕組みしながら、コーヒーがほどよい熱さに冷めるのを待つ必要はありません。もう一つカップを持ってきてもらい、一つのカップからもう一つにカップにコーヒーを注いで冷ますことができませんか? 神の恩寵という飲み物を飲むためには、霊的な事柄においてもそれと同じ熱望、同じサーダナを示さなければいけません。先ほど、スッバラーオがスピーチの中でイエス・キリストのことを話しました。イエスは偉大でした。なぜなら、イエスは、サーダナの価値と、サーダナを成功させる平常心を示したからです。

真実よりも高位の義務はありません。平安よりも高位の富はありません。西洋の流行と西洋の道徳律を無分別に追随するのはやめなさい。それらが今、人の神性の品位を低下させているのです。敬意と謙遜という価値を培いなさい。今、私は話を終えなければなりません。なぜなら、皆さん方、何千という人たちが、動くことも小声で話すこともせず、3時からずっと炎天下、座り続けているからです。これはまさにプラシャーンティ〔おおいなる平安〕です。これは真のバクティです。霊的な物事においては、規律に身を置けば置くほど、多くの喜びと平安を味わうことができます。

この大集会の一切の手配は、急な話であったにもかかわらず、エンジニアリング・カレッジの校長がすべて取り仕切ってくれました。カレッジの学生たちは、校長のリーダーシップの下、おおいに規律ある態度で皆さんに奉仕してくれました。皆さんは、彼らの疲れ知らずの行動と、今日、彼らが皆さんの至福を引き出すのを手伝ってくれたことに対して、彼らに感謝しなければいけません。実に、現在あるカレッジの中で、このカーキナーダ・カレッジは、学生たちの間の明らかな霊的な衝動によって私に感銘を与えました。学生たちは、将来のインドの繁栄の真の推進者です。学生たちは強力な長所を培い、勇気を持ち、社会の役に立つことに熱心な人とならねばなりません。もし学生たちの将来が、物質と霊性の両方の面でよく練られれば、学生たちは光り輝き、国に高名をもたらしてくれることでしょう。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.5 C16

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