サイババの御言葉

日付:1967年5月23日・場所:プラシャーンティ ニラヤム
ヴィヤーサ仙にまつわる御講話より

ヴェーダ ヴィヤーサ


ヴィヤーサ仙は人間(ナラ)に神の原理(ナーラーヤナ タットワ)を伝えるという大きな任務を果たしました。ヴィヤーサ仙は人間に神の神秘を解く鍵を与えました。そのようなことは、神からそれをするようにとの命を受けて生まれた者だけに可能なことです。そのため、ヴィヤーサ仙は、

ヴィヤーソー ナーラーヤノー ハリヒ
――ヴィヤーサ仙はナーラーヤナ神すなわちハリ神なり


と言われているのです。ヴィヤーサ仙は、『バーガヴァタ』、『マハーバーラタ』、プラーナ〔古代の神話集〕を通じて神の栄光を説きました。それに付随して、ヴィヤーサ仙は神の化身の神秘についても詳しく説きました。ラジオの受信機が、空気中に発せられたメロディーを私たちがキャッチすることを可能にするように、ヴィヤーサ仙は、私たちがあらゆるところに内在している神の光輝をキャッチすることを可能にしました。

ヴィヤーサ仙は最初の導師(アーディ グル)と呼ばれています。なぜなら、ヴィヤーサ仙はインドに存在する導師、そして、人類の導師の中で、一番最初の導師だからです。その役割に敬意を表し、私たちはヴィヤーサ仙を世界の導師(ローカ グル)と呼んでいます。

それぞれの任務には原動力となる存在が必要です。あなたがランプとオイルと燈芯を持っていても、誰かがそれに火をつけなければなりません。あなたが花と糸を持っていても、誰か能力のある人がそれらの花に糸を通して花輪にしたり、花束を作ったりする必要があります。あなたが地金を持っていて、それを宝飾品にしたいという願望を持っていても、手に職を持った金細工師がそれをそのように形作る必要があります。あなたが習練と切望を備えていても、グルがあなたを悩ましている問いの答えを与えてあなたを啓発する必要があります。

子供は平安の権化

人生は、美しく咲いたかと思えばしおれ、よい香りを放っていたかと思えば枯れてしまう花でできた長い花輪です。これは言い換えるなら、人生には良いこともあれば悪いこともあるということです。人は花だけを認識し、いくつかの花には幸せを、ほとんどの花には不幸を感じます。人は、それらをつないでいる糸であるブラフマ スートラを、短命な花に安定性を与える永久不朽の神の原理を、見ていません。嵐になると、雀は暖かな巣へと飛んでいきます。それと同じように、人は人生の嵐から逃れるために神の原理へと非難しなければなりません。

イエスが述べたように、人は子供になったときにだけ神から歓迎されるでしょう。イエスは、子供たちに私のもとへ来ることを許しなさいと言いました。子供には何かを追いかけたいという強い願望はありません。子供は憎しみや貪欲という激しい感情に牛耳られていません。だから子供は平安の権化なのです。

子供が大きくなると、エゴ、慢心、妬み、悪意、憎悪、怒りの奴隷となり、不安と恐れに打ちのめされてしまいます。ですから、人は子供に返って、大いなる平安(プラシャーンティ)であらねばなりません。霊性修行(サーダナ)は、不可能に見えるその変容を果たさせてくれます。もちろん、蛇塚をこぶしで叩いても、中にいる蛇は死にません。睡眠や休息や食物を控えること――言い換えるなら、自分が得たもので満足すること――をしなければなりません。そして、定められた規律を守らなければなりません。そうして初めて、あなたは自分自身を知ることができ、自分と宇宙は一つであるということがわかるのです。これは、人の内に存在するナーラーヤナ タットワ〔神の原理〕です。そのタットワ(実在の原理)こそが、あなたに、ヴィヤーサ仙とヴィヤーサ仙の追従者たちが定めた指針に従うことによってそれを発見したい、という気を起こさせるのです。

蛇塚(マインド/心)の中でとぐろを撒いている恐ろしいコブラ(五感の欲望)が、今、人の行いによってシューッと音を出し、鎌首を広げています。人は、コブラにおとなしく言うことを聞かせ、コブラと遊ぶことができるようにする、蛇つかいの技を知りません。皆さんは、蛇使いが笛で曲を奏で、その調べでコブラがおとなしくなるのを見たことがあるでしょう。神の御名を歌いなさい。神の栄光を歌いなさい。そうすれば、五感の貪欲というコブラは無害になります。だからこそ『バーガヴァタ』は、バクティ〔信愛/神への愛〕、キールタナ〔神の栄光を歌うこと〕、ナーマ スマラナ〔神の御名を唱えながら神を憶念すること〕を力説しているのです。

ハートに愛がなければ神に接触できない

ダクシャ ヤグニャ〔プラーナに出てくる神話の一つ〕で知られるダクシャ〔ブラフマー神の息子〕は、いったんはシヴァ神の原理(シヴァ タットワ)に近づきましたが、報いを欲する心(アペークシャー)があったために、その状態を失ってしまいました。ダクシャとは違って、無欲(アナペークシャー)という方法によって優れた人(ダクシャ)になるならば、あなたはシヴァの原理に帰融することができます。バクティの真髄である愛(プレーマ)は、無欲の上に建てられます。報いを欲する心があれば、愛は取引材料となり、下心に汚されていない愛ではなくなってしまいます。

あなたは、『マハーバーラタ』、『バーガヴァタ』、18のプラーナ〔古代の神話集〕、『ブラフマ スートラ』など、ヴィヤーサ仙が組み立てたすべての聖典に精通した人になることができるかもしれませんが、こんこんとわき上がる愛(プレーマ)がハートの中にないならば、愛の権化(プレーマ スワルーパ)である主に接触できる望みはありません。

ラジオの電波が空間を通じてラジオ番組の音声をいたるところに運ぶのと同じように、憎しみ、嫉妬、悪意、醜聞、派閥争いの声も、世界中の空間を汚しています。同様に、愛、思いやり、共感、感謝、称賛の声は、世界中の空間を調和で満たします。善い思考と善い言葉によって大気をきれいに健全に保つことは、すべての人の義務です。解脱のためのこの基本的な素養を身につけていない人は、ハブのない車輪、バターのないホエイ、月のない夜空、スィンドゥーラ〔ヒンドゥー教徒の既婚女性が髪の生え際や分け目に付けるクムクムの赤い粉〕を付けていない主婦のようなものです。

人間にこの英知を授けるために、神は限りない慈悲により、人間となって降臨します。そうしなければ、人間は獣のレベルに身を落としてしまうことでしょう。まったき誠意をもって、大いに満足して、無条件で自分のエゴを主に委ねることを学ばない限り、神は人のハートに住んでいるにもかかわらず、その人が神を顕現させることはできません。悔い改める求道者を満たす苦悩は、自らを顕現させるようにと主を動かします。その時、人はその法悦の中で、私はあなたであり、あなたは私であるということを経験します。胃袋に一日に二度食べものを詰めて屋根の下で寝ることは、大したことではありません。

心を解脱の道具にする

車輪は時の終焉まで回転し続けます。おめでたい真の勝利は、人が色欲、怒り、貪欲、執着、慢心、悪意という、心に宿る6つの悪魔に勝利することです。あなたが善行をし、善い仲間を保ち、心を善い思考に浸らせるとき、悪魔たちはあなたの中で生きていることはできなくなります。

ヴィヤーサ仙は、ヴェーダを4つにグループ化しました。ヴェーダの木に咲く花はヴェーダーンタ(結末の真髄)であり、その果実は至福の果実(アーナンダ パラ)です。その果実を認識し、それを味わうことを切望し、それを勝ち得る方法を発見するには、心(マインド)を訓練し、しつける必要があります。心は外を向いた道具です。心が外界の網の中へと逃げる時、いっしょに行かずに、心だけ行かせなさい。心がもがき苦しんでいる様子を見なさい。心に執着しないことです。そうすれば、心は必ず鍛えられ、洗われて戻ってくるでしょう。この霊的な鍛錬は確実に心を制し、心を束縛のための道具ではなく解脱のための道具にするでしょう。

バイラーギャ(無執着)、バクティ(信愛と全託)、そして、これらが導く先であるグニャーナ(至高の実在を悟ること)――この3つは、シヴァ神が手に持つ三叉戟(トリシューラ)によって表されています。無執着とバクティの段階を通って英知を深めなさい。そうすれば、自分はシヴァの化身だということがわかります。シヴァの原理(シヴァ タットワ)を明らかにするためには、心を英知の火で形がなくなるまで溶かさなければなりません(グニャーナアグニ ダグダ カルマーナム)。これは、ラーマクリシュナがダクシネーシュワル〔住職を務めていた寺院/ドッキネッショル〕で達成したことでした。ラーマクリシュナは、霊性修行の集中過程によって自らを素晴らしい宝石へと変えました。ラヴィダース〔15世紀の詩聖〕が不滅となったのは、履物を縫製している間、一針ごとに主クリシュナの御名を唱えて精を出して働いていたからです。

人は自分の意志を神の意志と同化させなければならない

筋肉の力、機械の力、政治の力、軍事の力、科学の力――これらはすべて、神の恩寵の力と比較すれば、無力です。無力な贈りものを願い求めてはなりません。神はあなたが最も必要としているものを知っています。それを授けてもらうという恩寵を願い求めなさい。贈りものの種類は神に任せなさい。その贈りものは、幸運かもしれませんし、不運かもしれません。痛みかもしれませんし、喜びかもしれません。不名誉かもしれませんし、敗北かもしれません。神に任せなさい。神が一番よく知っています。

あなた自身を神に捧げなさい。これは、ギーターでの主の勧告、「マーメーカム シャラナム ヴラジャ」〔ただ私に全託せよ〕の意味することです。神の意志に委ねることは、あなたが達成する必要のある唯一の義務であり、あなたが実行しなければならない唯一の仕事です。あなたがそれをするならば、神はあなたに害が近づかないことを保証します。「マー シューチャハ」――嘆き悲しむことはない、と神は言います。〔バガヴァッド ギーター18章66節〕

これは、人類は神の御足にひれ伏すべきであると神が憂慮しているということではありません。人間は心(マインド)を清めるべきです。人間は、大いなる者、壮麗なる者、至高なる者、普遍なる者を礼拝しなければなりません。全託することによって、人間は自分の意志を神の意志と同化させなければなりません。その普遍なる偉大な者というのは、ナーラーヤナ〔神〕です。ヴィヤーサ仙は、自らの『バーガヴァタ』を通して、すべてのものの中に存在するナーラーヤナの原理を明らかにしました。ですから、世界は常にヴィヤーサ仙に感謝していなければなりません。

カーマ〔情欲〕ではなく、ラーマを、アートマラーマ〔真我であるラーマ〕を選び、それを瞑想し、そうすることで至福を引き出しなさい。あるいは、決まったタイム スケジュール従って瞑想しなさい。そのタイム スケジュールを思い起こす必要がなくなるまで、瞑想をしていることさえ意識しなくなるまで、瞑想しなさい。

あるいは、ガーヤトリー マントラ、もしくは、同様の重要なマントラを、意味とありがたみに注意を払って唱えなさい。あるいは、神の御名を、その御名に付随する栄光のオーラと共に憶念しなさい。それらの音節の音には治癒と回復をもたらす特性があります。だからこそ、聖仙たちによってそれらのマントラが置かれたのです。

無執着だけが喜びを確実にすることができる

あるいは、自分の才能と自分が得たものを、人への奉仕に捧げること、つまり、人間という目に見える神の具現への奉仕に捧げることができます。あなたが他の人に奉仕し、その人の苦痛を和らげているときにはいつでも、あなたが和らげているのはあなた自身の苦痛であるということを思い起こしなさい。

牛が沼地にはまり、助けも得られず、もがいていました。どうにか抜け出そうと懸命になっている牛を、大勢の役立たずが見物して喜んでいました。その道をサンニャースィン〔出家行者〕が通りかかりました。その不幸な動物を見ると、その行者は衣を脱ぎ、頭巾も放り投げて、そのぬかるみに飛んで入りました。牛に蹴られ、必死に抵抗されて暴れられたにもかかわらず、行者は牛を土手に引き上げました。群衆は行者の強がりと腕っ節を笑いました。誰かが行者に「どうして我関せずで道を行くことができなかったのですかい?」と問いました。行者は答えました。「牛が苦しんでいる姿が私の胸に切り込んできて、私は一歩も先に進めなくなった。私は自分の胸の痛みを取り除かなければならなかった。こうすることがその痛みを治す方法だった。私は牛を救うためではなく、自分を救うためにやったのだ」

あなたは自分に奉仕しているのです。あなたが別の人に与えた害をほくそ笑んで眺めている時、あなたは自分に害を与えているのです。別の人などいないのです! 奉仕について助言する権利があるのは、霊性の進歩の段階に到達した人だけです。

あなた方は、神は善人を危害から守り、悪人を苦しめると思っていますが、それは正しくありません。善人の善が善人を守るのです。悪人の悪が悪人を痛めつけるのです。神は照覧者です。

人のハートは、涼やかで、柔らかく、心地よい道具へと変わらなければなりません。月の光のように涼やかで、柔らかく、心地よい道具へと変わらなければなりません。そういったわけで、満月の日はヴィヤーサ仙に感謝の気持ちを捧げるために特別に扱われているのです。ヴィヤーサ仙は、その過程の鍵を人に伝えました。信愛、献身、そして、遍在にして全知なる神の荘厳さに集中することによって心の気まぐれを制御するプロセスの鍵を、人に伝えました。

五感が求めるものへの執着(ラーガ)があるならば、あなたは決して病気(ローガ)から解放されません。ティヤーガ(捨離/無執着)だけが、真の喜び(ボーガ/至福)を確実にすることができます。これは、あなたはこの世界から逃げ出すことができるという意味ではありません。それは決してできません。世界は常にあなたと共にあります。あなたはこのアシャーンティ(平安のないこと)の世界(混乱と動揺)の中でプラシャーンティ(最高の類いの平安)を勝ち取らなければなりません。

その過程であなたを助け、あなたが越えてきた距離をあなたに気づかせるために、主はテストをするかもしれません。あなたはそれを、あなたが成し遂げたことを実証するためのチャンス、信用と評価を勝ち取るためのチャンスとして、歓迎しなければなりません。逆の反応をしてはなりません。学生はテストを求めるべきです。そうすれば、自分で測った高さ〔越えてきた距離〕を判断することができます。抗議したり逃げたりしてはいけません。

信仰という基盤の上に、サティヤ〔真理/真実〕、ダルマ、シャーンティ〔平安〕、プレーマ〔愛〕という4本の柱を建て、その上にこの世での人生というあなたの邸宅を建てなさい。それはあなたがこの世で得ることのできる最も豊かな財産です。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.7 C22

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