サイババの御言葉:一体性の中の一体性

日付:1968年5月12日・場所:ダルマクシェートラ
ダルマクシェートラ竣工式の御講話より

一体性の中の一体性


霊的な価値に関するインドの聖者の基本的な教えが悲惨なほどおろそかにされているために、利己的な貪欲と残酷な競争がこの国のハートからあらゆる幸せと平安を奪っています。生活は人工的で活力のないものとなり、不安と恐れでいっぱいです。この重大事に、あなた方ボンベイの皆さんは自分の街にこのダルマクシェートラ(正義の館)〔ダルマの場〕を建立しました! この原子爆弾(アトムの爆弾)の時代に、あなた方は真我の至福(アートマの至福)のための祭壇を築きました! これは実に、あなた方の信心と信愛のしるしです。それはこの国の理想への信心であり、聖者たちによって育まれた最高の伝統への信愛です。至福の探求の種は人々のハートの中で眠っています。それを発芽させて養分を与える人、花開くまで世話をする人もいますが、多くの人はその種の存在に気づかずに、イバラやアザミといった、苦味と醜い憎しみを生む木を育てています。

人間は、ギャンブルのような進化の過程の中で自然界から投げ出された単なる生き物ではありません。人間には、特別な意味、特別な使命、無比の役割があるのです。人間は人という「型」に入れられた神です! クリシュナ神は「バガヴァッドギーター」の中で断言しています。

ママイヴァームショー ジーヴァローケー ジーヴァブータッ サナータナハ
(私の一部が生命の世界の中で個人へと変容した)

(バガヴァッドギーター15章7節)

人を動かし、人に動機を与えているのは、神です。ですから、人はその一体性の一つのユニットであり、死にゆく「型」の中に置かれた、この死にゆく世界の背後に置かれた、不死の子どもなのです。人の使命は、自分が生じた源である神に帰融することです。天界はこの世の上にある常春(とこはる)の領域ではありません。天界は内なる体験であり、至高の至福の状態です。

修行のために定められた二つの規律

  

「あなたはどこから来たのですか?」と尋ねられると、あなた方はすぐに、「デリーからです」、「カルカッタからです」、「ティルヴァナンタプラムからです」などと答えます。しかし、これらはあなた方の体がどこからボンベイへ来たかを示す場所です。体の中には、体の根源、支え、頼りとして「体」(デーハ)と区別可能な、体が生じた源である「体に宿る者」(デーヒ)が存在します。それはあなた方の理解を超えています。それをよく調べて、答えを発見しなさい。これは人間の務めです。膨大な無知を克服して、あなたの個別性の支えであるのみならず、一なる神の力の多様な無数の顔を持つ火花の源であり、支えであり、頼りである存在を悟ったときに、初めてあなたはこの役割から解放されるでしょう。これ以上遅れてはいけません。時間は飛ぶように過ぎていきます。あなたの真価を悟るこという甘露を飲むことを切望することによって、インスピレーションを得なさい。

知識は、分析的な方法を用いて、物事や感情や体験を喜ばしいものと喜ばしくないもの、有害なものと有益なもの、存続するものと一時的なものに分類することを進めたときに得られる、と言われています。しかしながら、高次の知識は、一体化するものであり、多に見える一なる存在を人を気づかせるものであり、嘘偽りが含まれているものの中から真実を浮かび上がらせるものです。この真実を発見するために、古来の諸聖典は二つの規律を定めています。一つは外的なもので、もう一つは内的なものです。つまり、外側と内側のものです。外側のものは、無欲の行為(ニシカーマ カルマ)です。これは、献身と礼拝として従事する行い、あるいは、報いが得られるかどうかは意に介せず、果報への執着なく、義務感を持って、喜んで行われる行為です。内側のものは、ディヤーナ(火花である人間の源である光輝を瞑想すること)です。カルマ(行為)はダルマ(正義)によって規制されなければいけません。そのとき、カルマ(行為)は人をブラフマン(御自らを含む全宇宙の根本的な真理)へと導きます。

心がいつも神に浸っているようにさせなさい

もちろん、私たちの中には、この規律の詳細を演壇の上から熱く説明して語ることのできる者もいます。そのような者たちは、この国の聖者は平安と歓喜への道を探求し、説いていると、誇らしげに熱弁をふるいます。けれども、体験を伴わない解説は、説得力とは結び付きません。体験の深みから出てくる言葉には、人を納得させる誠実さの響きがあります。真理を体験することによってのみ、愛を育てることができます。なぜなら、真理は、とても包容力があり、一つに結びつける力があるので、どんな違いも見ないからです。真理は流れであり、愛は泡です。真理は光を照らさなければなりません。あなたは真理を通して愛を体験することができます。愛を通して真理を見ることができます。神を愛し、すべての生き物の中に神を見なさい。あるいは、個人から始めて、万物を包むまで愛の輪を拡大していきなさい。

心(マインド)がいつも神に浸っているようにさせなさい。心に万物を神として見るようにさせなさい。これが一意専心と言われるものです。もし心がそのように定まっていれば、心は他人の短所や欠点を探す癖をやめるでしょう。心は、汚れたもの、くだらないものの後を追いかけなくなるでしょう。取るに足りないもの、束の間のものを集めるのをやめるでしょう。体が光の入ったケース本体である懐中電灯なら、五感は電球であり、心は電池です。しかし、体にはスイッチとしての理智が付いてなければいけません。そのスイッチがあれば、体が望ましくない方向に向けられることはありません。そして、体は人が神聖な運命へと前進するのを助けるために使われるでしょう。

今日竣工したサティヤディープ(真理の灯火)〔ババの住居〕の建つキャンパスは、ダルマクシェートラ〔ダルマの場〕と名付けられました。これは、純粋で澄んだ水を希求している乾いた土地へと流れていく、サティヤ、ダルマ、シャーンティ、プレーマ(真理、正義、平安、愛)というメッセージが発せられる場所にとって、大変ふさわしい名前です。

勝利はつねに、貪欲のためにではなく、正義のためにある

  

ダルマクシェートラという言葉は、「バガヴァッドギーター」の最初に出てくる言葉です。この天の調べの一番最初の詩節、

〔ダルマクシェートレー クルクシェートレー サマヴェーター ユユッツァヴァハ
マーマカーハ パーンダヴァース チャイヴァ キマクルヴァタサンジャヤ

ダルマの地、クルクシェートラに、戦おうとして集まった、
我らの一族とパーンダヴァの一族は、何をなしたか、サンジャヤよ〕

において、マーマカーハ(「私の者たち」の意。盲目の王ドリタラーシュトラは溺愛による執着とエゴによる幻惑によって自分の息子たちをそう呼んだ)、つまり、貪欲と激情によって動機づけられた者たちと、パーンダヴァーハ(パーンダヴァ兄弟。もう一方の者たち、善と正義の者たち、白い者の息子たち、純粋なる者の息子たち)の戦場となるクルクシェートラ〔クル族の地の意〕は、すでにダルマクシェートラ(正義の地)へと変わったものとして語られています! なぜなら、勝利はつねに正義のためにあり、人間を盲目にする貪欲と激情のためにあるのではないからです。なぜなら、主なる神は正義の側に付くからです。神は御者であり、御者として選ばれた者であり、進んで御者として仕えます。ダルマクシェートラという言葉は、思い出させるものであり、警告であり、教訓であり、インスピレーションであり、光です。あなた方はこの名前を自分のハートに受け入れなければいけません。なぜなら、そこでも正義の軍勢と貪欲の軍勢が戦闘で渡り合い、正義の軍勢は主なる神によって勝利を助けられるからです。

ヒマラヤ山脈はバーラタ〔インド〕の頭であり、カンニャークマーリー(コモリン岬)は両足です。ボンベイは胃袋で、プラシャーンティ ニラヤムは心臓です。胃袋は食べ物を受け取って体の各部に力とスタミナを分配します。あなた方の責任は大きいのです。もしそれを怠るなら、国のすべて、そして、国が支えている存在すべてが苦しむことになります。あなた方は、来週ここで開かれるサティヤ サイ オーガニゼーションの世界大会という責務を引き受けました。これは、愛、そして、人は皆兄弟であるということを示す大きなチャンスです。あなた方が教育して組織した青年男女のセヴァダル(奉仕団)は、インド全州のインスピレーションと手本になるでしょう。もし正しく導かれれば、インドの若者たちは、模倣の危険、そして、無謀に空想の世界に入り込むことから救われることができます。そして、自分たちの熱意と才能を最も発揮することのできる場である、愛と思いやりに満ちた建設的な活動へと導かれることができます。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.8 C17

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