サイババの御言葉

日付:1969年9月3日・場所:プラシャーンティ・ニラヤム
クリシュナ神降誕祭の御講話より

同じ網にかかっている蜘蛛


今日のような祭日が暦に記されているのは、霊性修行にいくらか奮闘した後に、怠けたくなったり、満足して居眠りしたりしがちな心を目覚めさせるためです。祭日は警鐘のようなもので、前方への旅、地平線の向こうにある目的地へと向かう人々のために、年間を通じて合間合間に鳴るのです。「タスマート ジャーグラタ ジャーグラタ!――それゆえ、気をつけよ、気をつけよ!」と聖仙たちは言います。目覚め、立ち上がり、目的地に到達するまで止まってはなりません。

人はこの世の恵みを渇望するべきではありません。人は神の恩寵という恵みを切望すべきです。その切望は、その心痛を和らげるために御姿を現すようにとクリシュナを促します。バーラタ文化は、経典の内的意味や、儀式や祝典のより深い意味を強調してきました。バーラタ文化は象徴を喜びますが、ベールを裂いてその象徴の中に潜む原理を学ぶようにと、つねに求道者を奨励してきました。バーラタ文化は、神聖なヴェーダを唱える者たちに、賛歌や祈りの文言の意味を完全に意識して詩節を唱えるよう助言しています。

私たちは今日、クリシュナの降臨をお祝いしています。クリシュナの御姿をとったアヴァターラ(神の化身)には、途方もなく大きなさまざまな神秘が潜んでいます。「ブリンダーヴァン」(ブリンダの森)は、人生という込み入った密林です。ブリンダーヴァンで主クリシュナが飼っていた「牛」〔ゴー〕たちは、主の世話がなければ自分では何もできない人間たち以外の何ものでもありません。「ゴークラ」(牛の群れの意)というのは、バーガヴァタム(クリシュナ神の栄光の物語)の中で、クリシュナが牛たちの番をしていた地に付けられた名前です。「ゴー」には、肉体の中に閉じ込められている人という意味もあります。ですから、「ゴークラ」は人が住んでいる地なのです。

皆さんも知っているように、「ギーター」はテルグ語で光線を意味します! そして、ウパニシャッドの中で、神は「青黒い厚い雨雲から放たれる稲妻」のごとし、と描写されています。クリシュナは、その青黒い雲の「青」です。ヴェーダは「ニーラ トーヤダ」〔青黒い雲〕と述べ、バーガヴァタムは「ニーラ メーグハ」〔青黒い雨雲〕と述べています。これはどちらも、クリシュナは空や海と同じくらい深遠なので、クリシュナの色は海や空の色である、という意味です!

あなたのハートに主をつなぎとめ、しっかりと捕らえていなさい

ヴェーダに言及されている光線というのは、ギーターのこと、クリシュナのギーターのことです。ゴークラ村の純朴で誠実な牧女(ゴーピー)たちは、あらゆる茂みや木陰の中やその背後にクリシュナを探しました。なぜなら、クリシュナは牧女たちを魅了していながら、いつも牧女たちから離れていたからです! これは神を探し出すもう一つの方法を表しているにすぎません。私たちは、神は自分たちの中にいるはずだとわかっていますが、神は私たちが神の甘さに浸るためにしている苦労を上手くかわします。クリシュナはあなたのハートの奥に隠れています。あなたはクリシュナを自分のハートにつなぎとめ、しっかりと捕らえていなければなりません。クリシュナは逃げますが、私たちに捕まらないようにと急いで逃げるので、ミルクをこぼし、そのミルクを踏んで付いた足跡を残していきます。そうです、この教訓は、あらゆる美しいもの、あらゆる善良な行い、あらゆる感謝の涙、あらゆる思いやりのため息の中にクリシュナの足跡を見出して、愛と美徳の香りを漂わせながらあなたのハートの木陰に潜んでいるクリシュナを見つけなさい、ということです。

誰かに月を示す必要がある時、人々は、まるで月が木の枝の真上にあるかのように「あの木の枝の先を見て!」などと言います! 月に到るまでは長い長い道のりですが、皆さんは丸い円盤が涼しく心地よい光を放っているような月を遠くから見ることができます。それと同じように、バーガヴァタムや他の叙事詩や詩は、あなた方に主を示し、それによってあなたの中にもっと主に近づきたいという思いが募り、そうしてあなたが主に近づくのを手助けしているという、まさにそういうことです! そういった書物はどれも、あなた方が神への飽くなき切望に満たされるまで、ある段階から別の段階へとあなたを導き、ますます神の恩恵を明らかにしていきます。その切望それ自体が報酬です。その切望は、神の意志をあなたが待ち望んでいる形へと変えます。「転がる石に苔は付かない」と言われています。置かれたままの石は苔で覆われています。神の魅力を正確に叙述している本から本へと転がっていく心は、物欲という苔に覆われることがありません。

主にはお気に入りも敵もない

神は欲望には引き付けられません。神に欲望はありません。神は完全で、自由で、いつでも満足しています。神には、嫌悪しているものや、好んで引き付けられる対象はありません。神には親類縁者の束縛はありません。ある詩人はこう詠いました。

おお、クリシュナ! おお、ゴーパーラ!
私はあなたが私に優しくしてくれることや、
あなたの慈悲を求める私の訴えに
あなたが心を動かされることなど期待していません。
あなたはその御手であなたの伯父〔悪人〕を殺めたということを
私が知らないとお思いですか?
あなたに乳を飲ませようと愛想よくあなたのところにやって来た乳母〔悪鬼〕を、
あなたは殺めました!
あなたはご自分の最愛の帰依者であったプラフラーダの
父〔羅刹王〕に微塵の慈悲もかけることなく、息子プラフラーダが見ている中、
苦痛を負わせて彼を殺めました!
あなたは托鉢を装ってバリ王〔羅刹王〕に近づき、
彼が自分の持っていたものすべてを喜んであなたの御足に置いた時、
あなたは彼の頭を踏みつけて冥界に突き落としました!
そのような無慈悲なハートが、
私の惨めな状況に動かされることなどどうしてあり得るでしょう?


そうです! 主はあらゆる執着を超越しています。主にはお気に入りも敵もいません。主とあなたの間の距離を決めるのは主です。モークシャ〔解脱〕とは、モーハ(執着)がクシャヤ(絶滅)に達する段階です。そうであれば、モークシャ〔解脱〕を授ける神が執着の制限を受けることなどどうしてあり得るでしょう?

神には願望も欲望もありません。神は与えることもなければ、与えるのを控えることもありません。神は永遠の照覧者です。このことをあなた方が理解できる言語で言うならば、神は郵便配達人のようなものであり、宛先に届ける手紙の内容は気にしません。ある手紙は勝利を伝え、別の手紙は敗北を伝えるかもしれません。あなたは自分が働いた見返りを受け取ります。あなたが善いことをすれば、その見返りに善いことが返ってきます。もしあなたが悪ならば、あなたに返ってくる悪を受け入れなさい。これは法であり、助けもなければ妨害もありません。

激性のマハートマと浄性のマハートマ

ラーヴァナ〔羅刹王〕はマハートマ(偉大な人物)です。女羅刹と称されるタータキーもマハートマです! つまり、二人は超人的な能力と神秘の力を持っていました。すべての者は神です。神はすべての人の内にいて動機をもたらす者です。ラーヴァナとタータキーの二人がマハートマであるというだけでなく、誰もがマハートマです。二人は感情の起伏や激情に囚われた激性のマハートマで、自分がされたことはほんのわずかなことでもなかなか忘れず、すぐに恨みます。一方、ラーマとラクシュマナは浄性のマハートマで、ダルマと徳によって授けられ得る能力と力の化身です。

赤く熱くなった鉄のハンマーは、冷たい鉄のハンマーで叩いて形を変えることができます。それと同じように、感情の起伏や激情で赤く熱くなった人は、怒りや憎しみの熱をまったく知らないハンマーで叩くことができます。これが、ラーマがラーヴァナを倒して滅ぼすことができた理由です。それはなぜでしょう? サットワ〔浄性〕という言葉は、強さ、力、活力、バイタリティーを意味します。なぜならば、美徳は力であり、善は力だからです。人が怒るのは、その人が弱いからです。人がいばり散らすのは、その人が臆病だからです。人が嘘をつくのは、その人が自分は罰を受けるに値することをしたということがわかっていて、その罰を喜んで歓迎するには弱すぎるからです!

純真無垢な状態でダルマ クシェートラ(ダルマの地)に生まれた人間の赤ちゃんは浄性に満ちていますが、年が経つにつれて激性と鈍性の苔を付けていき、クル クシェートラという戦いの地に身を置くようになります。これは各人の人生におけるマハーバーラタの物語です。クル クシェートラは、マーマカーハ〔「私の」と言う人々〕とパーンダヴァーハ(公正な人々)が戦う場です。そのことはギーターの一番最初の詩節の中で公言されています! それが真に意味するものは何でしょう? 一方には、「私のもの」や「私たちの」といった感覚がもたらす激性と鈍性の衝動があり、もう一方には、神のものであり、神によって育くまれたものである、愛、忍耐、真実、正義という公平で汚れなき浄性があります。この二つの軍隊の戦い、つまり、引きずり下ろそうとする軍隊〔激性と浄性〕と持ち上げようとする軍隊〔浄性〕の戦いは、停戦を知りません。毎日の入浴は清潔さを保ち、毎日の戦いは邪悪な敵を自分に攻撃が届かない距離に留めます。

昆虫にとっても人間にとっても世界は同じ

クルクシェートラの戦いは18日間続きましたが、その最中、ヴィヤーサ仙は悔恨の念で心を引き裂かれました。というのも、両者は共に自分の血族だったからです。そのため、ヴィヤーサ仙はその兄弟殺しの大虐殺に目を向けることができませんでした! ある日、ヴィヤーサ仙はあまりにも自責の念にさいなまれた末、血に染まった平原を急ぎ越えていきました。そこではさらなるホロコーストの一日が始まろうとしていました。ヴィヤーサ仙が道を急いでいる時、一匹の蜘蛛が地面を走っていくのが目にとまりました!

「なぜそう急ぐ?」とヴィヤーサ仙は尋ねました。蜘蛛は道を駆け下りると、脇にあった蟻塚を這い上がり、そのてっぺんから返答しました。

「アルジュナの戦車がもうすぐこの道を通るということを、あなたは知らないのですか! もしその戦車の車輪の下敷きになったら、私は終わりです」

ヴィヤーサ仙はその返事を笑い、こう言いました。

「そなたが死んでも、誰も涙で頬を濡らしはしない! そなたが殺されても、世界は損失を受けない! そなたが消えても、穴があくことはない!」

その屈辱は蜘蛛の逆鱗に触れました。蜘蛛は怒りに震えました。蜘蛛は叫びました。

「何だと? おまえは驕った聖仙だ! おまえは自分が死ぬと大きな損失になるが、私などまったく惜しまれることはないと思っている。私にも愛する妻と子供たちがいるのだ。私にも家庭があり、食糧の蓄えがあるのだ。私もおまえたち人間と同じぐらい生きることに固執している。私は、飢え、渇き、悲しみ、痛み、喜び、歓喜、そして、親類縁者との分離の苦悩を抱えている。私にとって、この世は、人間や他のものたちにとってのこの世と同じなのだ。」

ヴィヤーサ仙は頭を垂れ、黙って歩を進めながら、「サーマーンヤム エータット パシュビルナラーニ――人にとっても獣にとっても、こういったことは皆同じ――」とう句をつぶやきました。しかし、ヴィヤーサ仙は、こう独り言を言い、道を進んでいきました。

「究極なるものの探求、真善美を求める切望、根底にある一なるものに気づくこと――これら英知の属性は、人類だけが持っている比類なき宝なのだ。」

クリシュナは木陰であり戦場である

この英知によって、人は蜘蛛の中に、そして、空間の境界内に存在するあらゆるものの中に、神を見ることができるのです。入れ物は違うかもしれませんが、中身である神は同じです。海水の味は、あなたが試しにトラック一台分味わったとしても、ボウル一杯味わったとしても、水差し一杯でも、あるいは、一すすりでも、一滴を舌の上に垂らしたとしても、塩辛いでしょう! 神の味は、原子においても、宇宙においても、友人においても敵においても、病原菌においても、全世界においても、味わうことができます。それが悟りであり、解脱であり、啓蒙であり、啓示です!

「サルヴァム ヴィシュヌマヤム ジャガト」(世界は神で満ちている)。この世という変化の相には遍在の神が充満しています。聖者ティヤーガラージャは歌いました。

「おお、シーターラーマ! 無限なる慈悲により、あなたは蟻の中でも、三大神の中でも輝いておられます!」

クリシュナは木陰にも戦場にもいて、法螺貝を吹いたり、うっとりするような笛を奏でたりしながら、人間の思考と言葉と行動の一つひとつの背後に存在する目に見えない力を、いつでもどこでも、鞭と車輪で巧みに操っているのです。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.9 C17

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