サイババの御言葉 | 「私に」ではなく「私から」

日付:1969年11月22日・場所:プラシャーンティ・ニラヤム
第3回サティヤ・サイ・オーガニゼーション全インド大会 連続講話Cより

「私に」ではなく「私から」


この第三回全インド大会も、早くも閉会式となってしまいました。時間はつむじ風のように襲ってきて、目の前にある一切を吹き飛ばして過ぎ去っていきます。ですから、人は今の瞬間の義務に集中して、その行為の結果は、その行為を促し、その任務を可能にし、それを実行に移す機会を与えてくれた神に委ねなければなりません。時間は容赦なく刻々と過ぎていき、人は迫り来る運命から逃れるすべ術を知らぬまま、回り続けるカルマと因果の輪の中で生まれ、生き、死んでいきます。

苦悶と不安が人のハートを和らげたことはなく、冒険と業績が人を謙虚にさせたことはありません。人は自分がどれだけ憎しみと高慢の道を進んだかを誇っています。人は残虐と罪に耽っています。人は不道徳と偽りに不敬な満足感を示しています。人は自らを野獣にも劣るレベルにまで貶(おとし)めているのです。

この窮状によって、人は哀れみを誘っています。というのは、人は幸福へと続く道を間違って曲がり、この地獄へと落ちてしまったからです。悲しみを求める人は誰もいません。誰もが喜びを求めています。しかし、悲しみは二つの喜びの間の幕間(まくあい)であり、喜びは二つの悲しみの間の幕間であるということがわかった人は、激しく不快な嵐にも、好都合な嵐にも、心を揺さぶられることのない境地に到達しようとするでしょう! その平静の境地は最も望ましいものです。それは、いわゆるニルヴァーナ〔涅槃〕と呼ばれるものであり、心が完全に平静な状態にあるときには、運命の打撃や善悪による影響を受けないのです。というのは、その境地に到った人は、起こったことが果たして善いことなのか悪いことなのか、有益なのか無益なのかという判断を下す権利は自分にはない、ということがわかるからです。

霊性修行は体験を大きくしなければならない

この至福の境地に到達するためには、サーダナ〔霊性修行〕の生活を送らなければなりません。もし、一歩また一歩と歩き続けるなら、たとえその一歩がどれほど短かろうとも、100マイル〔約160キロ〕さえ歩くことができます! 大胆不敵に飛ぶ鷲(わし)でさえ、数フィート先へ着地するには、羽根を広げて風に立ち向かわなければなりません。前に進み出る意志、羽根を広げる意志がなければ、前進はたわいない夢にすぎなくなってしまいます。意志の力(イッチャシャクティ)を研ぎ澄まし、その力を進歩の道具に形作らなくてはなりません。それを果たした人は、他者への奉仕、宇宙大に拡大することにだけ、充足感を見出します。サーダナは、視野を広げ、体験を高めるもの、パラマートマ(至高の魂)に融合するためにジーヴァートマ(個我の魂)を熱狂させるものでなければなりません。それはこの質問から始まります。

「私は隣人たちの幸福のためにどんな貢献をしているだろうか? あるいはむしろ、私は隣人たちから何か取り立てているのだろうか?」

銀行に預金がある時にだけ、小切手を使ってお金を引き出すことができます。さらには、自分の財産を担保にして融資を受けることもできます。あるいは、銀行があなたに当座貸越(とうざかしこし)の貸付をしてくれるかもしれません。あなたが融資を受けることのできる財産は、「過去世での善行の結果として蓄積されている功徳」です。危急の場合に当座貸越から引き出せるものが、恩寵です。あなたが恩寵を得るに値するほど誠実で着実であれば、神はあなたに恩寵を降り注ぎます。融資を受けるには、保証を差し出すか、あるいは、担保として何かを差し出さなくてはなりません。保証は神の恩寵です。担保はあなたの信仰の篤さであり、あなたの全託です。また、弟子の功績と可能性を知っているグルも、保証と担保になり得ます。

しかし、あなたには、先祖から受け継いだ財産(蓄積されている功徳)の額に関する情報は何もなく、それを当てにすることはできません。その上あなたは、信頼できる保証や、条件を満たす担保となってくれるグルはいったいどこで得られるかも知りません。実際、そのようなグルは滅多にいません。それゆえ、不足の時に備えて神の恩寵を手に入れ、当座貸越を受けなさい。それが最善の出所です。自分の霊性修行(サーダナ)を、規律正しく、首尾良く行えば行うほど、あなたは自分自身と社会にとって有用な存在になるでしょう。

母親は子どもにとって最初の教師

本大会は、サティヤ・サイの理想を実践し推進することに携わるワーカーの大会ですから、私が今の時期に重要であると考えている幾つかの項目について、詳しく話したいと思います。

第一に、サティヤ・サイ・セヴァ・ダル(奉仕団)についてです。すべての州において、共通のバッジ、共通の霊的規律と学習カリキュラム、救急処置や社会奉仕の共通の実践訓練コース等を用意しなければなりません。現在セヴァ・ダルがあるのは、ボンベイ、マドラス、ケーララ、アーンドラと、他の幾つかの州ですが、それぞれのダルは、他の州でなされていることとは無関係に教育されてしまっています。

第二に、女性(マヒラー)サットサンガ〔善き女性の仲間の会〕についてです。インド文化において、母親は愛情深い尊敬の対象と見なされています。母親は、一家の主婦であり、子どもにとって最初の教師であり、最も大事な人格形成期にある継承者たちにインドの古来の文化を優しく伝える人です。母親と父親は、子どもが目の前で見て、模倣して学ぶ、社会的行動のお手本です。両親は信愛(バクティ)と全託(プラパッティ)を教えます。両親は、子どもたちの注意深く感受性の強い視線の前で平安(シャーンティ)と愛(プレーマ)のお手本を示します。ですから、親たちは、このオーガニゼーションが乗り出している霊的な覚醒に与るために鼓舞されなくてはなりません。

母親たちの間でのサーダナを推進することによって、若い世代に寛容と謙虚さを促進しなければなりません。母親は、種を発芽させて丈夫な苗木や木へと育てる、母なる大地です。塩を含んだ土壌は発芽を阻み、作物に被害を与えます。どんな人にも自分の生命と肉体の源としての母親がいます。ですから、母親たちは、心と体が強く、文化と人格において円熟しており、神聖な思考によって清められ、愛と献身を深く染み込ませていなくてはなりません。善良な母親は善良な国家を作ります。母親は、ティヤーガとヨーガとバクティ、すなわち犠牲と規律と信愛の宝庫です。母親たちの行動(カルマ)は、この三つの衝動に基づいていなければなりません。

安楽と崇高さは相伴わない

この国にサイ・サミティ(支部)が次々と設立されて6年になります。サミティは、バジャンや聖典の学習といった極めて初歩的な活動項目で始まりましたが、各サミティが他のサミティとの交流を通じて経験を得るにつれ、サミティの活動はより多様で徹底したものとなりました。この大会の後、地元に帰ったら、私は皆さんに、母親と子どもと青年たちの間に仕事を広げる可能性を探ってほしいと思います。女性(マヒラー)ヴィハーグ〔女性部〕を強化しなくてはなりません。女性(マヒラー)サットサンガのない土地では、女性(マヒラー)サットサンガを始めるようにし、その指導のもとにバーラ・ヴィハーラ〔子どもの仲間、子どもクラブ〕を始めなさい。

第三に、ナーガ・チッララ・サンキールタン〔ナガラサンキールタン〕についてです。「役員および会員にとって、午前4時30分に起床してオームカーラとスップラバータムを行った後に、他の人たちと共にバジャンを歌いながら1マイル〔約1.6キロ〕も歩くのは少々困難である」という不平の声が、この大会中、私の耳に入ってきました! あらゆる良いことは、辛い思いをして達成されなくてはなりません。安楽と崇高さは相伴いません。聖賢たちは苦しい生活を歓迎します。パーンダヴァ兄弟の母親であったクンティー王妃は、災難の連続という祝福がもたらされるようにと祈りました。というのは、一連の災難がクンティーの人生を美しい一連の祈りへと練り上げてくれたからです。そのおかげで、クンティーの心の目の前にはつねに神がいました。

苦難のおかげで、人はつねに油断なく警戒し、準備万端でいるようになるのです。苦難は、人の技能や知性の隠された才覚を明らかにします。苦難は、不屈の精神を強め、信仰の根を深めます。「役員には年6回を超えるナガラサンキールタンの参加を免除してほしい」という要望があったことに、私は驚きました! しかも、この要望は、年に600本も映画を見に行く人たちから出されたのです。そもそも、そんな提案が出されること自体が恥辱です! そのような人々にとっては、おそらく何時間も一緒にトランプをすることほうが、より神聖な儀式なのでしょう! ある人は、早朝の時間に女性が道を歩くことに反対して、別の異議を申し立ててきました! そして、「そのような行為はむしろ不面目なことです」と言いました! 映画のチケットを買うために女性たちが何時間も映画館の前に並ぶのは、不面目なことではないのですか? あるいは、バス停でバスが来るのを待つことについてはどうですか? 不真面目なことではありません。

サンキールタンは社会奉仕の最高の形

キールタンは、参加者に至福(アーナンダ)を与え、聞き手にも至福を与えます。それがキールタンの報酬です。キールタンは少しも恥ずかしいことではありません。キールタンは最高の形態の社会奉仕であり、自助修練です。疑ったり、ためらったりしてはなりません。たとえ他に参加者がいなくても一人でやりなさい。あなたは一人でこの世へやって来て、一人でこの世を去って行くのです。それならば、自分の村で通りから通りへと練り歩いてキールタンをしているときに仲間が集まってこないことを、なぜ嘆くのですか? 人々はあなたを嘲笑し、あなたを狂人と呼んだり、その動機を尋ねたりするかもしれません。しかし、あくまでも自分を貫きなさい。人々はじきに、あなたがどれほど幸せで、どれほど健康で、どれほど神聖であるかを見て、ゆっくりとあなたの周りに、神へと向かう道に、集まって来るでしょう。

男性と女性は、たとえ主人と妻であっても、別々の霊的宿命を背負っています。それぞれが自分のペースで歩まなくてはなりません。夫婦は、世俗の事柄については相互に関係し合い、相互に依存し合っているかもしれませんが、霊的な事柄においては、それぞれ自分の行路を切り開いていかなくてはなりません。家庭を和合の場にしなさい。そうすれば、村は仲の良い一つの家族となり、州は平和になり、国は幸福になり、世界は繁栄するでしょう。

サーダナの生活を送ると、あなたはさまざまな関係筋からの反対に遭うことでしょう。しかし、そんなものを重視してはなりません。まず、親類縁者たちがあなたを世俗的な追求に方向転換させようとするでしょう。クリシュナの宿敵は母方の伯父でした! ラーマには自分を森へ追放するよう求めた義理の母がいました! 皮肉屋や批判家に怖気づいてはなりません。そういった人々が親族の中に大勢いるかもしれません。

次に、世間の思惑があります。世間は、霊的な道を非難したり、あなたを笑い者にしたり、もっと酷いことをするかもしれません。神が地上にクリシュナとして降臨していた時には、シシュパーラやジャラーサンダ、他の中傷者の一群が、神の使命を果たさせまいと躍起になりました。

もう一つの妨害は、あなたが最も心を惹かれて選んだ神とは別の名と姿を持つ神を礼拝している人たちから来るものです。それが先祖代々からの贔屓(ひいき)であれ、単なる気まぐれな好みであれ、特定の一つの名と姿に愛着を持つ人々は、他の名と姿をした神を崇める人たちを迫害する傾向にあります。足の悪いジャッカルを撃ったことを自慢して生きるより、虎を追いかけて死ぬほうがずっとましです!

子どもは知識への尊敬の念を持っている

女性には、人々の道徳を復興させる中で果たすべき、重要な役割があります。それが、女性(マヒラー)サットサンガに新たな重点を置く理由です。女性は、子どもたちに叙事詩の物語を話して聞かせることができます。それは、犠牲や英雄的行為の話であったり、神を求めて遍在の真・善・美の中に神を見た聖賢の話であったり、小宇宙と大宇宙を等しく司る宇宙の神秘や、法の中の法を深く探求した偉人の話であったりします。キリストは言いました。「子どもたちを私のところに来させなさい」と。子どもは、驚き、新鮮さ、自由の感覚を持っています。子どもは、純真で偽りのない、知りたいという熱意を持っています。子どもは、知識と力への尊敬の念を持っています。子どもが感嘆と共に心に描くことができるような、ラーマやクリシュナ、ナチケータやドルヴァ、ウールミラーやシーター、ハヌマーンやアルジュナ、その他、大勢の人物について話してやりなさい。

先ほど、インドラ・デーヴィーが、「人は自分の子どもは愛して大事に育てるけれども、隣の家の子どもは愛さない」と述べました。実際、隣の家の子どもは厄介者にされています。この種の「私のもの」、「あなたのもの」という感覚が、人と霊的成長の間の障壁となっているのです。

神は、近くにいるものにも遠くにいるものにも、大きいものにも小さいものにも、万物の中に存在する中核です。あなたの意識を最大限に広げなさい。実を言えば、意識には全く限界などありません。それは、分割払いや、現金払いをしてできることではありません! そうです。それは、瞑想や、ジャパ〔マントラや神の御名を繰り返し唱えること〕や、ナーマスマラナ〔神の姿を想いながら神の御名を唱えること〕を通じて、あなたに内在する至高の権威者を絶えず憶念することによってもたらされる、内面の変容を通してのみ可能です。あなたが一たびその権威者を自らの身に顕現させるなら、あなたは自分の周りにいる気落ちした人や困窮した人たちの間で、奉仕と向上に役立つ道具になることができます。

神性は、ハートの中で芽吹き、意識の中で育ち、人間のあらゆる精神的、肉体的活動の中で花開きます。しかしながら、神聖原理はあなたの体験を超越しています。なぜなら、あなたは自分と全く同じ原理を持っている他者に最善を尽くす準備ができていないからです。与える準備ができた時、あなたは受け取る資格を得ます。それまでは、無理です。

IAS〔インド行政官〕やIPS〔インド警察官〕等々、高い教育を受けた人々の中にさえ、老いた両親を助ける者など滅多におらず、せめて自分が味わっている快適さのわずかでも両親に与えようとする者もほとんどいません。皆、自分の生活レベルを確保することに夢中になっています。どのくらい長くその生活レベルに留まれるのでしょうか? 多くの人に、苦痛や悲しみ、不満や嘆きを与えながら、巧妙に小賢(こざか)しく手に入れた一切に別れを告げなければならない日が、必ずやって来ます。両親、年長者、困窮している人々への奉仕は、それに関係したすべての人に喜びと満足を与えてくれます。徳と正義は、最後の審判の日に、あなたに有利になる証言をしてくれます。銀行預金も、所得税申告も、あなたのために証言してくれることはありません。

最後に、次の注意点を話して終わりにしたいと思います。自分の運命に対して、動揺したり、ためらったり、疑いを抱いたりしてはなりません。自分の実体を悟ることを渇望しなさい。その渇望そのものが、あなたに着実な努力と、あらゆる障害物を取り除く神の恩寵を授けてくれるでしょう。他の人々の手本となりなさい。実際の体験から生じた根拠もなしに、あれこれアドバイスをしてはなりません。他人の欠点を探さずに、自分の欠点を探しなさい。愛し、協力し、助け、奉仕しなさい。これが、村のサティヤ・サイ・ユニットのリーダーとしての、あなた方の第一の義務です。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.9 C35

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