サイババの御言葉、御足に捧げる一輪の花

日付:1970年3月4日・場所:プラシャーンティ ニラヤム
マハーシヴァラートリ祭でセヴァをするセヴァダルへの御講話より

御足に捧げる一輪の花


私は今までに、セヴァ(無私の奉仕)の理想や技術について何度も話してきましたが、セヴァがもたらす喜びを皆さんが経験するようにと、こうやってまた呼びかけをしているのです。皆さんに今ここで差し伸べられている機会の素晴らしさについて、説明を加える必要はないと思われます。喜びでハートを満たすことによってハートを清浄にし、その喜びを他の人々と分かち合いなさい。この魅力的な姿をとった神を崇めなさい。セヴァに必要な資格を吟味してみると、自惚れ、貪欲、妬み、憎しみ、競争心などに汚染されていない、純粋なハートが肝要であることがわかります。また、生命力、美徳、そして正義の源である神への信仰が、必須であるということがわかります。セヴァは、万人のハートに内在する神に捧げる礼拝です。人に、どの州の出身かを尋ねたり、どのカーストや信条に属しているかを聞いたりしてはいけません。あなたが他人と思うその人の中に、あなたが最も愛する神の御姿を見なさい。実を言うと、その人は「他人」などではありません。その人は、神の生き写しであり、あなたも同じくそうなのです。あなたは、ある「個人」を助けているのではありません。あなたは、その人の内にいる「私」を愛しているのです。私は、その人の姿をとって、あなたの目の前に立っているのです。ですから、エゴが頭を出す隙間がどこにあるでしょうか?

義務は神であり、仕事は礼拝です。どんなに小さな仕事であっても、それは神の御足の前に供えられる一輪の花です。愛という宝でハートを満たし、お祭りのためにここにやって来る巡礼者に接しなさい。

どんな類の奉仕もすべて礼拝の行為である

ここでの任務が終わって、祭りが過ぎ、以前の本業と、一時は捨てた習慣を再び始めるために故郷に帰る時、そのバッジ〔セヴァダルが着けるバッジ〕をポケットにしまい込んではなりません。これは三日間の見世物(タマーシャ)ではありません。これは生涯続く巡礼の歩みです。そのバッジは、生涯ハートに刻まれてなければいけません。どこであれ、気分の悪い人、落ち込んでいる人、慰めのない人、病人を見かけたら、そこはあなたの奉仕の場です。血球の一粒ひとつぶ、神経の一本いっぽんが、愛で、そして、その愛を見捨てられた人々と分かち合いたいという熱望で、躍動していなければいけません。愛がハートを満たしたとき、ハートは神に変容したのです。なぜなら、神は愛であり、愛は神だからです。カビール、トゥッカーラーム、聖フランシスコ、ラーマクリシュナといった、インドや他の国々の偉大な聖者たちを不滅の存在にしたのは、まさに、愛、そして、愛から流れ出る思いやりでした。

プラシャーンティ ニラヤムに10年、15年、20年と、長期間に亘って滞在している人々もいますが、体だけが年をとり、セヴァをしたいという熱意は育っていません。プラシャーンティ ニラヤムでの生活は、救済へ導くセヴァの道に対する信念を深めるものでなければなりません。どのような姿勢を持つかが重要です。行われる奉仕は小さいものかもしれません。あなたには、何百万人もの人々を助ける計画に参加する機会がないかもしれませんが、足の不自由な子羊を持ち上げて塀の向こう側に渡したり、盲目の子どもの手を引いて混雑した道路を渡してあげることができます。これらも礼拝の行為なのです。

「バガヴァッド ギーター」の本が25パイサ(1ルピーの4分の1)で売っていて、幼稚な小説が10ルピーするかもれません。どちらの方が価値があるでしょうか? どちらが、卑金属を金に変質させることができるでしょうか? セヴァは、霊性修行者に通常勧められる、ジャパや瞑想、礼拝や犠牲の儀式よりも、効果的です。その理由は、セヴァは、エゴを消滅させること、至福を手に入れること、という2つの目的を果たすからです。

あなたの近くに座っている人が悲しみに沈んでいるときに、あなたは幸せでいられますか? いいえ、それはできません。赤ちゃんの痛々しく泣く声が聞こえたとします。あなたは可哀想に思って、涙ぐんでしまいます。それはなぜでしょうか? 両者の間に目に見えない絆があるからです。人間のみが、そうした思いやりの性質を所有しています。人間のみが、他の人が幸福なときに幸せに感じ、他の人が不幸なときに不幸に感じることができるのです。人間が万物の霊長であり、動物的進化の頂点であるのは、そのためです。人間のみが、セヴァをすることができるのです。それが人類特有の栄光であり、固有の能力であるのです。

神に奉仕できるのは、人に奉仕することによってのみである

毎年、ダシャラー祭、降誕祭、そして、シヴァラートリの祭りの前に、私は皆さんに、霊性修行としてセヴァをする誓いを立てるように戒めています。はっきり言うと、私はまだ皆さんの働きぶりには満足していません。しかし、私は、皆さんを指導すること、皆さんに仕事を託することをあきらめたわけではありません。それはなぜかというと、私は、皆さんがいつかはこの理想を理解するだろうという希望を持っているからです。これは、私にとって自然のものである、慈悲の性質の一例です。その性質が、セヴァの理想を実践しようとする皆さんの小さな試みさえも、私に評価させるのです。

皆さんは、何のために、旅に伴う高い費用とさまざまな苦労にもかかわらず、遠くからここに来たのですか? 私のそばにいるため、そして、私の恩寵を勝ち得るためではないのですか? それならば、なぜあなた方は、ひとたびここに到着するや、私以外の人との人間関係や、私以外の人の好意を求めるのですか? なぜあなた方は、私のそばに来ることや、私の恩寵を授かることができなくなってしまう溝にはまってしまうのですか? 他のことはすべて忘れて、私の指示に忠実でいなさい。私はただ、あなた方を霊的なセヴァと愛の道へ導きたいだけです。草履の山を見張ることや、喉が渇いた人に水を持って行くことや、門の所に立つことを頼まれたからといって、恥ずかしく思ってはいけません。特典も喜びも、人々を助けるために費やす皆さんの能力と時間の使い方の中に含まれています。皆さんは私に仕えたいと切望します。あなたが神に仕える者に奉仕することと、私に奉仕することは、同じ満足感を私に与えるものであるということを知っておきなさい。誰に奉仕をすることも、私に奉仕することです。私は、すべての者の内にいるからです。

皆さんが病人や悲しむ人々に与える安らぎと歓喜は、すべて私に届きます。なぜなら、私は彼らに内在しており、彼らが呼び求める神は、私にほかならないからです。神はあなたの奉仕を必要としていません。神が足の痛みや腹痛で苦しんだりするでしょうか? 敬虔な人々に仕えるように務めなさい。主なる神に仕える人に仕える人(ダーサーヌダーサ)になりなさい。人に奉仕することこそが、あなたが神に奉仕できる唯一の方法です。

謙虚さと手際のよさを備えて人々に奉仕しなさい

あなた方は皆、パーダセヴァ(御足をマッサージすること)を熱望しています。もし、私がそれを切望するすべての人にそのチャンスを与えたなら、私の足はどうなってしまうでしょう? そして、私の回りにどれほどの人々が殺到することでしょう! 状況からすると、当然、それを切望する人の望みをすべて叶えるわけにはいきません。しかし、私の足はどこにでもあることを知りなさい。

サルヴァタッ パーニパーダム

すべての場所に、神の御手と御足がある


と「ギーター」は述べています。ヴェーダの「プルシャ スークタム」には、

サハッスラシールシャー プルシャハ
サハッスラークシャッ サハッスラパート

至高の統治者は、千の頭と、千の眼と、千の足をもつ


と述べています。ここに集まる何万人もの人々の頭と眼と足は、私の頭と眼と足です。彼らの面倒を見、彼らを尊重し、彼らの世話をしなさい。そうすれば、ジャパや瞑想や礼拝をしたことになります!

サルヴァ デーヴァ ナマスカーラハ
ケーシャヴァム プラティ ガッチャティ

あらゆる神々への尊敬はすべて
唯一者なるケーシャヴァへと流れ行く


というマントラがあります。私はそれに手を加えて、新しいマントラをあなた方に与えることにします。

サルヴァ ジーヴァ ナマスカーラハ
ケーシャヴァム プラティ ガッチャティ

一人ひとりの者たちに捧げる尊敬と奉仕は
自動的に唯一者なるケーシャヴァへと流れ行く


ケーシャヴァとは何を意味しているのでしょう? ケーシャヴァとは至高の神を意味し、ケーシャヴァ〔豊かな毛髪の者〕の一本の髪の毛にすらも、ブラフマー、ヴィシュヌー、シヴァの三位一体、すなわち、神の創造、維持、破壊の力が象徴されているのです。

ここに集まってくる人々に、愛、知性、謙虚、手際の良さをもって奉仕しなさい。そうすれば、人々は村へ戻って友人や親戚に次のように言うでしょう。

「プラシャーンティ ニラヤムで会った人たちは、一番近い親戚よりも、愛を込めて接してくれた。日陰に座らせてくれたり、よく私たちの所へ来て、健康について尋ねてくれたり、医者を連れて来てくれたり、病人には薬をくれたりした。何か質問をすると、いつも穏やかに、優しい言葉で話をしてくれた」

すべての人を敬いなさい――重要でない人も身分の低い人もいない

バッジは、それを着けた人が、着けていない人々に権利を振るう資格を与えるものではありません。バッジを着けているからといって人を無情に扱ったり、傲慢になったり、人を弾圧することは、バッジを侮辱することになります。ひとたびバッジを付けるという祝福を受けた以上は、だらしないお喋りや、だらしない生活、卑しい振る舞いなどをしたり、喫煙、ギャンブル、飲酒、人の中傷といった悪い習慣に耽ったりしてはなりません。たとえあなたが、リーダーとしての地位を獲得するという野望を持っていたとしても、何年もの間、人々への誠実なセヴァを重ねることなしには、それを実現することはできません。自分のキャリアをそうした基盤の上に築かなければ、指導者としての地位は、わずか5年ほどのお祭り騒ぎに終わるでしょう!

ここでできるセヴァに関する詳細について話しましょう。高齢者や病人が炎天下に座らされていないように注意し、喉の渇いた者がいたら、騒がずにその全員に水を供給しなさい。反社会的な人やスリがいないか目を配りなさい。彼らは、前世での借りを返すために、帰依者たちよりも早くここに到着しています!秩序が保たれているか、すべてが安全であるかどうかを確認するために、夜、敷地内や宿舎を見回りに行くグループをいくつか決めなさい。敷地内を清潔に保つための予防策を講じなさい。さらに、敷地内の静かな環境を保持するようにしなさい。

静寂が保たれているかどうか見回っているとき、大声で話している人に対して、大声で注意してはいけません。あなた自身が小声で話して、他の人にも小声で話すよう勧めなさい。大声で話す人に、なぜ声を小さくしなければいけないかを説明しなさい。理由が説明されれば、彼らはあなたに同意し、目的を理解するでしょう。すべての人に敬意を払い、どの人も最高の敬意を示すに値する相手であるかのごとく話しかけなさい。重要でない人や身分の低い人は誰一人いません。サイは万人の内にいます。あなたが誰かを侮辱するなら、それはサイに向けられた侮辱です。大声で泣き叫ぶ子どもをぞんざいに扱わず、優しくなだめなさい。あなた方は、身体的な病を患っている人々に安らぎを与えることに従事しなさい。私は、霊的な病、精神的な病を患っている人々に安らぎを与えることに従事します。奉仕は礼拝であり、奉仕の行為の一つひとつは神の御足に捧げる一輪の花であることを、人々は忘れています。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.10 C6

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