サイババの御言葉:メディテーション(瞑想)

日付:1972年・場所:ブリンダーヴァン
第1回夏期講習における御講話より

メディテーション(瞑想)


イスラム教徒はアッラーの名において祈り、
ユダヤ人はエホバの名において祈り、
ヴィシュヌ派はプッラーブジャークシャ〔ヴィシュヌ神〕の名において祈り、
シヴァ派はシャンブ〔シヴァ神〕の名において祈りを捧げる
祈りを捧げられる者、それは神であり、神はすべての者に幸福と繁栄を与えるだろう
神は1つだが、様々な民の集団に、異なる名で呼ばれ、祈りを捧げられるのである


多くの人は、ただ自分の小さな胃袋を満たすだけの食べ物を得るために、自分が得た教育を使っています。人に完全な幸福を与えないなら、そのような教育は一体何の役に立つでしょう? 人類同胞に神へ到達する道を示すことができないなら、どうやって人は自分の正当な存在理由を見出せるでしょう?

日の出を見ると、人は元気づけられ、とても幸せに感じます。沈む夕日を見ると、希望に励まされ、明日を心待ちにします。けれども、日の出から日の入りへと移る繰り返しのなかで、自分の寿命が日ごとに短くなっていることにはほとんど気付いていません。すべての人が良い経験をしたいと望んでいますが、良い経験を得るためにはどうしたら自分自身を向上させることができるか、どうしたら自分の心を変容することができるのかは、考えていません。人生の早い時期から死の直前まで、人は皆、ただ尋ねるばかりです。

「自分はこの人生からどんな利益を得られるのか?」
  「自分はこの人生からどんな喜びを得られるのか?」
  「自分はこれら一切からどんな利益を引き出すことができるのか?」

しかし、これらの質問の別の側面を考えることはありません。

「自分はどうしたら世界の役に立てるのか?」
  「自分はどうしたら社会の役に立てるのか?」
  「自分が接する人々に自分はどんな良いことができるのか?」

といった質問はしないのです。人は自分の喜びと利益のためだけに時間を費やしています。この状況を正しく探求して理解するなら、人はいつでも自分のために何かを手に入れる用意、受け取る用意はできている、という結論に達するでしょう。これは人生に対する自分勝手な態度です。人々は喜んで他人に何かを与えたり、手渡したり、寄付したりする気がありません。けれども、人生は一方通行ではありません。人は、与え、受け取る心構えをすべきです。

その神聖な任務と義務を視野に入れ、シャーストラ〔法典〕は4つの人生の目標(プルシャールタ)を規定して人に与えました。その人間の4つの義務は、「ダルマ」〔正義、本分〕、「アルタ」〔富〕、「カーマ」〔欲望〕、「モークシャ」〔解脱〕です。この4つの中で最も重要な人生の目標であり、究極のゴールであり、実際、集中しなくてはならないものは「モークシャ」(解脱)であると、経験豊富で学識のある学者のほぼ全員が口をそろえて言うでしょう。すると人は、

「もしもモークシャ〔解脱〕が最上で究極の目標ならば、なぜアルタ〔富〕とカーマ〔欲望〕も列挙されているのだろうか?」

と自問します。

「アルタ」〔富〕と「カーマ」〔欲望〕という2つの言葉には何の意味もないわけではありません。「モークシャ」〔解脱〕は、最高の、崇高なゴールです。「モークシャ」〔解脱〕は人の目的地です。

目的地であるその崇高な地点に到達するには、梯子の用をなす何かに頼らねばなりません。人はその崇高な地に行くこと、登ることを望んでいるのですから、梯子はその行程で大いに役に立つでしょう。様々な段から成る梯子にも支えは必要です。その支えは大地です。それはしばしば自然界とも呼ばれます。ですから、人は、自然界あるいはダルマと呼ばれる大地に支えられている、「アルタ」〔富〕と「カーマ」〔欲望〕という2つの側面と踏み段から成る梯子を手に入れようと努力しているのです。人はその梯子の助けを借りることによって、「モークシャ」〔解脱〕という崇高な地点に登ること、到達することを望んでいます。支えは大地であり、目的地は「モークシャ」〔解脱〕です。支えである大地は、「ダルマ」すなわち人の行いです。その支えを得て、「ダルマ」と「モークシャ」〔解脱〕を最も重要な目標としたときにのみ、中間にある「アルタ」〔富〕と「カーマ」〔欲望〕という2つの踏み段は、意味のあるもの、人間にとって何らかの有意性のあるものとなるのです。しかし、基盤であり目的地である「ダルマ」と「モークシャ」〔解脱〕を無視するならば、「アルタ」〔富〕と「カーマ」〔欲望〕は無意味なものになってしまうでしょう。

この地球に生まれた人は皆、ある程度はこの世界の本質と意味を理解すべきです。「ダルマ」はこの創造された世界全体を支えています。そして、私たちも自分の行いにおいて「ダルマ」に従うべきです。あなた方はラーマの生涯の物語についてのわかりやすい話を聞きましたね。人生とは何でしょう? それによって人は何を理解するのでしょう?

私たちは息を吸っては吐く呼吸を人間の命の支えであると受け止めて、呼吸を自分の命と見なしています。吸う息と吐く息はどんな音がしますか? 私たちに聞こえるその精妙な音に含まれている内面的な意味は何でしょう? 人は毎日、何度も息を吸っては吐いていますが、息を吸うことと吐くことの意味も、さらには、その回数の意味さえも、立ち止まって理解しようとはしていません。「ソーハム」というのが、息を吸い込んで吐き出す方法です。「ソー」は「あれ」という言葉を表しています。「あれ」は神、すなわちブラフマンを意味します。ですから、「ソー」は「神」を表しています。「ハム」は「私は」あるいは「私に」という意味です。このように、息を吸って吐き出すときに出る「ソーハム」という音は、「私は神である」ということを意味しています。音の中で最も重要な音はプラナヴァ〔オーム〕と呼ばれています。そのプラナヴァと呼ばれる1つの音から、他のすべての音が生じました。その状況は、

エーコーハム バフッスヤーム
一なるものから多くが生まれた

という格言によって述べられています。

私たちのバジャンでは、ハーモニウムと呼ばれる楽器を使います。他の人たちは時たまピアノなどの楽器も使います。私たちはハーモニウムで何をしますか? ハーモニウムに空気を入れます。それだけです。しかし、空気を入れることによって、1つの鍵盤を押すと1つの音が出るようになります。別の鍵盤を押すと別の音が出ます。このように、様々な鍵盤を押さえることによって、空気と呼ばれる1つの物質から様々な音が出ます。中に入れた空気は1種だけですが、種類の異なるおびただしい数の音が聞こえます。その異なる音の一切は、一体どこから生じているのでしょうか? それはハーモニウムに入れた同じ1つの空気から生じます。基、すなわち源は、空気であり、それはオームカーラの音〔プラナヴァ、オーム〕のようなものです。私たちは基音であるオームカーラから非常に多くの音を得ています。多くの音はオームカーラの変形にすぎません。こうした背景があるからこそ、大聖仙たちは、ラーマのことを、

ラーモー ヴィグラハヴァーン ダルマハ
ラーマはダルマの具現なり

と述べたのです。

オームカーラには、A〔アカーラ〕、U〔ウカーラ〕、M〔マカーラ〕という3つの主音があります。ダルマの化身であるラーマには、支えとなったラクシュマナ、バラタ、シャトルグナという3人の人物がいました。この2つの似ている点は、ラクシュマナ、バラタ、シャトルグナが一緒になってダルマの化身であるラーマを作り上げるということです。Aの音〔アカーラ〕はラクシュマナ、U〔ウカーラ〕はバラタ、M〔マカーラ〕はシャトルグナに喩えられます。この3つの組み合わせがオームカーラであり、ラーマです。ですから、私たちは、オームカーラにほかならないラーマが、ダルマを打ち立てるために地上に降臨したことの、内なる意味をよく理解しなければいけません。

ウパニシャッドの教えを理解しようとするとき、人はオームがブラフマンと同じもの(エーカアクシャラム ブランマー)であることを学びます。

エーカメーヴァ アドヴィッティーヤム ブランマー
(ブラフマンは唯一無二なる者)

偉大な賢者や、彼らが説いたこうした偉大な格言(マハーヴァーキャ)について考えるとき、全世界は不二一元(アドワイタ)であることに気付くでしょう。すべては1つ、ただ1つです。たとえ二元論の支持者たちが不二一元論の真理を受け入れること、賛同することがなくとも、不二一元論はどんな不利益をこうむることもありません。いつか正しい探求がなされれば、二元論者も、信仰心のある人も、ない人も、ヨーガ行者も、世俗的な富と悦楽に浸っている人も、どんな人間であろうとも、まさに、すべての人が不二一元論を最も真理なる哲学として受け入れざるを得なくなるでしょう。この世界について深く正しい探求をするとき、あなたは世界は本当に1つであり二元性は存在しないということに気付くでしょう。そして最終的に、不二一元の存在自体がこの世におけるその証拠となるでしょう。多様な見かけは、あなたの幻想の反映にすぎません。これは無知という言葉に当てはめることもできます。違いや区別、多様性は、実に、唯一性から始まりました。それらは多という根幹から始まったのではありません。

ウパニシャッドの中に、とても教養があり、自らがグル〔導師〕であった人物の話があります。彼はウッダーラカという名前で、シュヴェータケートゥという息子がいました。シュヴェータケートゥは何度か父ウッダーラカの御足のもとで教育を得ようとしましたが、父はそれに賛成しませんでした。その理由は、息子であれば父親と共に自由に行動してしまい、息子にとっても父親にとっても、弟子とグルという正しい関係を遵守することはとても難しい、というものでした。息子は常に師は自分の父であると考えて、父と息子という概念を持ち続けるでしょう。それは父と息子の間にある愛情のためです。執着のあるところ、愛情のあるところ、帰属意識のあるところには、情けがあります。それでは、正しい規律をもって最大限の教育を施すことは不可能です。ウッダーラカは、執着という関係があれば、教育は完全なもの、正しいものにはならないということを理解していたために、息子のシュヴェータケートゥを他のグルのもとへやり、息子に正しい教育が施されることを望んだのです。

しかしながら、シュヴェータケートゥは幼く、経験がなかったために、それを間違って解釈しました。おそらく自分の父親はあまり学問がなく、自分を教える能力がないために、自分は他のグルのもとに送られたのだと考えたのです。シュヴェータケートゥは数年間そのグルの家に滞在し、教育をすべて終え、高い教育を得たという自惚れを抱いて、父の家に戻りました。それに気付いた父は息子に尋ねました。

「おまえは何を学んだのか? おまえが学んだ様々な体系はどんなものか? ブラフマンについて学んだか? もしそれを学べば他には何も学ぶ必要はなく、すべてを知ることとなる、あの学派を学んだか?」

ウッダーラカはこのような質問をしました。父がそれらの問いを尋ねている間、息子は甚だふさわしくない態度をとっていました。そのとき、まだシュヴェータケートゥは、もしこの数年の間に自分が学んだことを話しはじめたら、父親はまったく理解することができないだろうとでも言わんばかりの、自分は父親よりもずい分と教育と学問があるかのような優越感を漂わせていました。父は息子の見当違いな自惚れと未熟な状態を容易に見て取りました。息子は、神はこのようなものだ、あのようなものだとひけらかし、父親に答えようとしました。

ウッダーラカは、もし自分が言葉でブラフマンについての真理を息子に話そうものなら、息子はまったく何も理解できないだろうと感じました。そのため、喩えを用いて息子に教えるほうが良いと考えました。ウッダーラカは、水の入った壷と、1つかみの砂糖を持ってきて、息子に見せました。砂糖を見せた後、ウッダーラカは砂糖を全部壷の水の中に入れ、砂糖が完全に溶けるまでかき混ぜると、息子を見て尋ねました。

「私は砂糖を持ってきてこの壷の中に入れた。おまえはこの壷のどこに今、砂糖があるか、私に言うことができるか?」

息子は壷をのぞき込みましたが、もちろん砂糖を見つけることはできませんでした。父親は壷の底から水をすくい、その数滴を息子の舌の上に垂らして尋ねました。

「味はどうだ? おまえはこの壷のどこからでも水をすくい、味わうことができるだろう?」

息子は、砂糖は今や壷の中の水の一滴一滴の中にあり、砂糖は壷のいたるところに存在していることを認めざるを得ませんでした。すると父親はこう言って説明しました。

「おまえが、今、砂糖がいたるところに存在するということがわかったように、ブラフマンは、属性のあるもの(サグナ)の形をまとってこの世界にやって来て、この世界でおまえが周囲に見るあらゆる生物、あらゆる物の中に住んでいるのだ。おまえの目でブラフマンだけを切り離して見ることはできない。おまえの手でブラフマンだけを掴むことはできない。しかし、ブラフマンをこの世界の状態の中で経験することによってブラフマンを知ることだけは可能だ。おまえが肉体を持ってできることは、遍在でありすべてに浸透しているブラフマンを経験することより他にない」

濃密な経験を手にして、初めて人は不二一元論について語る資格を持ち、神の性質、神の遍在などについて表現することができます。経験をして、初めて人は神の遍在性について語る資格、権利、権限を持ちます。経験をしていないのに、机上の知識だけで、まるで自分は本当にすべてを知っているかのように神と神の遍在性についてペラペラとオウムのように話すのは、子供じみたことです。神性の不二一元を体験をして、初めてあなたは不二一元論を語ることができるのです。不二一元論を、普通の言葉や、あなたが物質界の中で自分の身の回りで行う一般的なやり方で、教えたり説明したりすることは不可能です。

自分の指を口に当てたとします。指を口から離した後、あなたは指を水で洗いたくなりますね。1人の人の四肢〔指〕と器官〔口〕にそれほど大きな違いがあるとき、世界全体の調和と一体性をどう説明したらいいのでしょう? 世界のあらゆる生物、生きとしいけるものすべての中に唯一なる神がいるということは、あなたが学ぶことであり、信じられることです。そして、体験した人の話を聞いたり、聖典を読んだり、シャーストラ〔法典〕に耳を傾けたりすることによって、その信仰を築くことができます。

神は世界中のすべての生きものの中に存在するという真理を取り上げて、それについて調べてみると、個々の生き物には、経験的にも、外面的な様相にも、大きな違いがあることがわかります。蟻の場合を取り上げてみましょう。蟻がそばに近づいてきたら、あなたはただ蟻を払いのけるだけです。蛇が近づいてきたら、恐れをなして逃げだします。2つの生物に対してこれほど違った振る舞いをするという事実は、あなたがあらゆる生物の中に神が同じように存在しているという感覚を体験できていないことを示しています。自分が日常生活の中で実行していないことを、どうやって説明することなどできますか? ですから、不二一元を理解して説明するのに、ただ言葉や引用を用いるだけで満足していてはいけません。不二一元の感覚を体験する努力をしなくてはいけません。でなければ、危険なことになるでしょう。あなたが不二一元という言葉から理解していることとは正反対の状況に置かれるかもしれません。

あるとき、いつも不二一元論のことを話している人物が村にやって来ました。彼はある家に行って施しを求めました。家の女性が表に出てきて、施しを求めるその学僧(パンディト)に言いました。

「生のお米を差し上げても困りますでしょう? 沐浴に行ってからまた戻ってきていただけませんか? その間にご飯を炊いて、食べられるようにしたお米を差し上げます」

弁証法と、説法と、言葉で不二一元論を説明することだけに通じていたその学僧は、こう言いました。

「ゴーヴィンデーティ サダー サナーナム」
  (ゴーヴィンダ〔クリシュナ神〕の御名を唱えることは、沐浴するに等しい)

沐浴をしに行く必要はないと、学僧は言いました。すると、その家の女性は答えました。

「ラーマナーマムルタム サダー ボージャナム」
  (ラーマを思って御名を唱えることは、いつも食べ物を食べているに等しい)

そして、その学僧に、どうぞ立ち去ってくださいと言いました。

もしも本当にゴーヴィンダの御名を唱えることが沐浴に等しいのであれば、それは食べ物を食べることとも等しいはずですね? このように、言葉に頼ること、議論的になること、不二一元論の文字的な意味だけを理解することは、あなたを大変難しい状況に至らせるでしょう。行うべき正しいことは、初めは属性を持った御姿(サグナ ブラフマン)を受け入れ、それから徐々に、実践と霊性修行を通してその状況を克服し、不二一元の体験に到達することです。属性のあるもの、形あるものには、常にあらかじめ決められた場所があります。ですから、まず、その決められた場所で、決められた時間に、霊性修行に専心し、喜びと利益を引き出さなくてはいけません。

神はいたるところに存在するのに、なぜ特定の場所に行かなければないないのか? なぜ巡礼に出て、特定の場所で神を探さなければならないのか? といった疑問が浮かぶのは、もっともなことです。不二一元論を説明する言葉の中に含まれているエッセンスを吸収し、それを自分の体験へと変容できるのであれば、特定の場所に行く必要はまったくありません。どこにも行く必要はありません。けれども、言葉で不二一元論について語ることに満足しているだけで、まったく体験がないならば、特定の場所に行くことが必要です。巡礼をしなければいけません。そうです。あなたは何であれ、属性のあるもの(スグナ)と呼ぶもの、形あるもの(サカーラ)と呼ぶものに、何らかの形を求めているのです。そのために場所と時間があるのです。しかし、もしその感覚を乗り越えた後に属性のないもの(ニルグナ)や、形のないもの(ニラーカーラ)を求めているというのであれば、場所と時間の制限はありません。

牛の場合を見てみましょう。牛の体内には血液が流れています。その血液が変化したものが牛乳です。私たちは牛乳が実質的に牛の体中に存在することを推察できます。けれども、牛の耳をつかんで搾ったら牛乳は手に入りますか? あるいは、牛の尻尾をつかんで搾ったら牛乳は手に入りますか? 牛乳を手に入れたければ搾ればいいのですが、特定の場所からしか搾り出すことはできません。ですから、それと同じように、神が遍在で、あらゆる場所にいたとしても、あなたが神を見たいのであれば、神を顕現させたいのであれば、場所と時間を選ばなくてはなりません。

ウッダーラカが息子に与えた教訓では、砂糖は最初、まるで特定の形があるように見えました。形と属性のある砂糖を水の中に入れることによって、砂糖は形をなくし、味もいくらか失われました。ウッダーラカは、味と形のある砂糖から始めることで、姿形のないもの、属性のないものの性質を教えることができました。

もしあなたが若者なら、時間と御姿を定めることから人生を始めて、礼拝に取り掛かりなさい。それから、礼拝を積み重ねていくことによって、あなたはある段階に到達します。そのとき、あなたは礼拝によって、形や味等々のある一滴をすくって大海の中に入れることができます。すると、そのしずくは大海と混ざり、のちにそれは無限なる1つのものに見えるようになります。このことについて、あなたが後に体験することになる、無形で、あらゆる場所に存在し、時間に縛られないものに相対する、あなたが初めに体験した、属性があり、時間を持ち、特定の形を持つものについての喩えをあげてみましょう。

現在の私たちのこの会合を基にして見てみましょう。今、私は立って話をしており、あなた方は私の話に耳を傾けています。しかし、私もあなた方も全員がこの会場の中にいます。あなた方は私が今話していることを1時間ほど聞くことができます。時間は1時間です。会場を見てみると、小さな会場で、広い敷地の中にあり、あなた方も1つの集団としてその中にいます。あなた方の中では私も1人の人間です。会合が終わると、皆それぞれ自分の場所、自分の村へ帰っていきます。村に帰ったあなたは、会場で起こったことを回想し、「あの晩スワミは自分たちに話をし、全員が会場に座り、スワミはこういうことを話していた」と、いつか心の中で考えるでしょう。あなたが記憶を呼び起こした瞬間に、私自身を含め、私たち全員があなたの中へ入ってきます。ですから、今あなたの心の中に収められた光景は、あなたが知っている映像として一生存在し続けます。けれども、形と属性を持つこの講話は、いくらかの経験と喜びを1時間だけあなたに与えたのみです。目で姿を見つめ、講話に聞き入った1時間に、あなたが体験と喜びを得たために、その体験はあなたのハートと頭の中に一生存在し続けることになります。けれども、もしもこの1時間にこれが起こっていなかったら、もしもあなたがこのすべてを見ていなかったなら、これは決してあなたの記憶に焼き付けられることはありません。ですから、属性と形がある相について、軽々しく話したり、無視したりすべきではありません。それを受け入れ、その助けを借りて、属性のないもの、形のないものというゴールに到達しなさい。

このプロセスは、瞑想と言われたり、ディヤーナと呼ばれたりしています。今、世界で多くの人が瞑想という言葉の意味を様々に教えています。瞑想とは何を意味するのでしょう? 何について瞑想し、誰が瞑想するのでしょう? 何のために瞑想するのでしょう? 瞑想することのできる対象がない限り、瞑想することは不可能です。「瞑想の対象」はディイェーヤと呼ばれます。同様に、集中の対象がなければ集中することはできません。「瞑想の対象」があるならば、では、瞑想しているのは誰なのでしょう? つまり、第3の存在がいるはずで、それは「瞑想する者」(ディヤータ)であり、あなたです。「瞑想する者」(ディヤータ)と呼ばれるあなたは、「瞑想」(瞑想の作業、ディヤーナ)の道を通して、「瞑想の対象」(ディエーヤ)に到達し、その対象を体験しなくてはなりません。この3つは3つの要因と呼ばれています。それは、「敬意を受ける者」、「敬意を表す者」、「敬意を表す作業」です。「瞑想する者」が「瞑想の対象」に専心して「瞑想の作業」を遂行すれば、「瞑想する者」、「瞑想の対象」、「瞑想の作業」の3つは結合して1つに合体し、そのとき初めてあなたは唯一性を獲得します。

「愛する人」、「愛される人」、「愛する作業」は、3つの要因です。愛(プレーマ)においては、愛を与える者、愛を受け取る者、愛の作業の3つすべてを1つと見なします。そして、それを通じて愛の原理(プレーマタットワ)が流れ出します。3つのうちどれか1つでも欠けていれば、完全性を顕現させることは不可能です。愛する者と愛する作業の2つが存在しても、愛される者がいなければ、それは無駄になります。他にも、愛する者と愛される者が存在するのに、その2つの間に愛がなければ、それは無駄になります。あるいは、愛する作業があり、愛される者がいたとしても、愛する者がいなければ、それもまた無駄となってしまいます。ですから、瞑想(ディヤーナ)と呼ばれるものは、これら3つの唯一性です。3つにはどれも、同じ大きさの愛が存在しています。これは、「愛は神」、「愛に生きよ」という言葉で表されています。

私たちは瞑想の道を正しく探求する必要があります。瞑想の道は永遠なる者に到達するための大変すばらしい道です。あなた方は、ここ数日、ウパニシャッド、ヴェーダ、ダルシャナ〔六派哲学〕、シャーストラといった経典に含まれている内容に耳を傾けていますが、もし目的地に辿り着くための道である瞑想の意味するものを理解していなければ、聴いたことはすべて単なる机上の知識のままあり続け、あなたの中でアレルギーを引き起こすかもしれません。

瞑想には時間が重要です。その重要な時間は「ブラフマ ムフールタ」〔神の刻〕と呼ばれています。瞑想のために自分の好きな御姿を選び、午前3時から午前6時までの「ブラフマ ムフールタ」と呼ばれる時間の中の毎日同じ時間に、その御姿を瞑想しなくてはいけません。瞑想にはやり方と規律が多少あります。その特定のやり方を無視したり、必要ないと思ったりしてはいけません。

このことに関する小さな喩えがあります。私たちは果物の苗を植えましたが、苗が小さいうちは柵で囲って守ろうと思います。若木のときは、なぜ柵で囲って守ろうとするのでしょうか? それは、山羊や羊といったような動物がやって来て、若木を食べつくして台無しにしてしまうかもしれないからです。私たちは若木が大きく育つことを望んでいるので、木の周りに柵をするのです。けれども、若木が大木に育てば、柵はすべて取り外します。なぜ木が大きくなると柵と防護をすべて取り外すのでしょう? 柵を取り外すということは、若木のときに葉や枝を食べつくして台無しにしたかもしれない山羊や羊や牛などの動物たちが、今度は、大きくなった木が与えてくれる避難場所と木陰を求めてやって来ることを意味しています。最終的にあなたに解脱(モークシャ)をもたらしてくれる実習〔瞑想〕は、最初の段階の若木と見なすべきです。実習には規律と呼ばれる柵が絶対に必要です。その理由は、悪い仲間、悪い考え、悪い交際、その他の悪いものが、実習という若木のところにやって来て、若木をだめにしてしまうかもしれないからです。悪いものがやって来てだめにされないようにするためには、自分を守ってくれる柵として、規律を受け入れて遵守しなくてはなりません。瞑想による解脱を求める者である若木が成長して大きな木になれば、悪い考え、悪い仲間、悪い想念が近寄ってきても、木は訪問者すべてに喜びと幸せ与えるのみであり、悪者たちは木にどんな害も及ぼすことはできません。

瞑想を始めるとき、瞑想に入りたいとき、「蓮華座」(パドマアーサナ)と呼ばれる姿勢をとらなければならないのはそのためです。今、蓮華座を組む場合、たとえあなた方の中に悪い性質や悪い想いがなかったとしても、あなた方が身に着けている足首のところで細くなっているぴっちりしたタイプのズボンは、蓮華座で座る障害になります。

地べたに直接座ってはいけません。木の板か、敷物か、それに準ずるもの上に座りなさい。さらに、むき出しの木の板に座るのもいけません。上に布を敷きなさい。初めは木の板に座って少なくとも約1センチ半以上は地面から離れるようにして始めなさい。木の板を使うのには理由があります。それは、大地には伝導と拡散の力があるからです。瞑想に座ると、瞑想中、あなたの中に神聖な力を持った電流が流れるので、それを大地の引力によって乱されないようにしなければいけません。そのために板が必要なのです。家の中に電気を敷くときには、アースと呼ばれる特別に作られた電線を地中に埋めます。それと同じように、自分の体を自分の家と見なし、体という家の中で神聖な電流を作って流している間、地面から自分を絶縁することや、自分の中の力が外へ流れ出したり地中に消えてしまったりするのを防ぐことといった、必要とされるあらゆる予防策をとらなければいけません。古代人たちが木の板の上に座るようにと教えたのはそのためです。

ブラフマ ムフールタの時間である4時半に起床することも、とても良い習慣です。あなた方は若く、心も体もまだまだとても健康で丈夫です。そうした良い実践は、今の若い年齢のときに始めて身につけなかったら、少し歳をとって体がいくらか弱くなったり、硬くなったりしたら、もうできなくなってしまうでしょう。歳をとると、早起きを身につけるのは至難の業です。あなた方の年代は、実に多くの神聖なことを理解することが可能です。歳をとって遅くに始めれば、それを行うことから幸せや利益を得ることはできないかもしれません。多くの人は引退してから始めようと考えています。引退する前、彼らはいつも「義務は神、仕事は礼拝」と言って、あらゆる仕事を行い、政府であれ一般企業であれ、あらゆる職に就きます。しかし、引退してからすればいいというのは正しいことではありません。今、この場でやるべきであり、先延ばしにすべきではありません。

このことは『バーガヴァタ』の中でも語られています。ヤマ〔死神〕の使いがやって来て、あなたにロープを掛けて引っ張って、「あなたの時間は終わったのだから、早くいっしょに来るように」と言うと、親族たちは、「望みはなくなった。死体を家の外に移そう」と言います。あなたの妻や子供たちはただ泣くばかりで、「すべてが終わってしまった。何の望みもない」と言います。そのような状況の中で、あなたは神の御名を唱えて、あなたの信愛を神に捧げることなどできますか? ですから、今の若い時期に瞑想の意義を理解して、瞑想を始め、この国の人々にとって理想的な模範となることを、私は心から願います。

蓮華座を組んで木の板の上に座る前に、自分の目の前に小さな光(ジョーティ)、ろうそくの火を置きなさい。よく目を開けてその光を見つめなさい。1分経ったら目を閉じなさい。目を閉じたら、目を閉じる前に見つめていた光をあなたのハートの中に感じなさい。あなたのハートの蓮の花のちょうど真ん中にその光があると感じなさい。もしもあなたのハートの蓮の花の中に光を思い描くことができず、その感覚を得られないなら、目を開けて、もう1度ろうそくの火を見なさい。それから、目を閉じて、再びその光をあなたのハートの中に描くようにしてみなさい。その後、その光を思い、光を思い描いてあなたの心の中に定め、蓮の花の中心にその光が置かれたことを感じなさい。それから、その光をハートの中心からあなたの体の各部へと移動させなさい。光を首に持っていきます。首から口に光を持っていきます。口から手に光を持っていきます。手から足に光を持っていきます。足から耳に光を持っていきます。目に光を持っていきます。頭に光を持っていきます。頭からあなたの外に、あなたの周囲すべてに持っていきます。頭の外に光を持っていったら、その光を手に取って、あなたの身内、あなたが愛情を抱いている人、あなたの友人に、光を手渡しているのを思い浮かべなさい。さらに、あなたの敵たちの間にも光を広めなさい。その後、その光を手に取って、鳥たち、動物たち、そして、あなたの周りのものすべてに手渡しているのを思い浮かべなさい。

光(ジョーティ)がもたらされたところには、暗闇はなくなります。このことから、すべてのウパニシャッドは、

タマソー マー ジョーティルガマヤ
(暗闇から光明へ)

と述べています。あなたの目に光が届いたのですから、あなたにはもう悪いものは見ません。あなたの耳に光が届いたのですから、あなたはもう悪いことは耳にしません。あなたの舌に光が届いたのですから、もはやあなたの口から悪い言葉が出てくることはありません。あなたの頭に光が届いたのですから、もうあなたの頭に悪い考えが入ってくることも生じることもないでしょう。あなたのハートに光が入っていったのですから、もうあなたのハートに悪いことが思い浮かぶことはありません。あなたの足にその同じ光が触れたのですから、もうあなたの足が悪い所に歩いていくことはありません。あなたの手にその同じ光が届いたのですから、もうあなたの手が悪い行いにふけることはありません。

「悪」という言葉は「暗闇」と同義語です。実際、あらゆるところに光が広がっていくことをあなたが許すなら、悪の暗闇が居座る場所はどこにもなくなります。この瞑想を行っているのにあなたがまだ何か悪いことをしているとしたら、単にそれは、悪を働いているその特定の器官に光が届いていないということです。

この瞑想によって、あなたの中にある悪い特性が取り除かれるだけでなく、あなたの中に気高く神聖な考えと神聖な行いが入ってきます。さらに、あなたはイーシュワラ〔神〕のすばらしいダルシャンを得たり、不二一元を体験したり、一体性を体験したりするでしょう。なぜなら、あなたの中に存在する光は、すべての人の中にも存在しているからです。あなたの中に存在する光は、すべての鳥や動物の中にも存在しているからです。光はいたるところに存在しています。それに気づくことによって、あなたはさらに、

ギーターヴァーキャム イダム ダルマム
〔ギーターの言葉はダルマを基盤としている〕

という真理を打ち立てることになるでしょう。

あなた方の中の何人かは、疑念を抱いて、

「私たちはラーマが好きだ。ラーマは私たちの神だ。私たちはクリシュナが好きだ。クリシュナは私たちの神だ。私たちはスワミが好きだ。スワミは私たちの神だ。なぜこの中の1つを選んでその御姿を瞑想してはいけないのか? なぜ瞑想するのに目の前に光を置かなければいけないのか?」

と言うかもしれません。御姿は永遠のものではありません。姿形は移ろいゆくものであり、束の間のものです。変化するもの、永遠ではないものに集中を傾けることは、正しいことではありません。変化しないものを得なければいけません。そのため、光を選ばなくてはならないのです。変わることのない光を瞑想に選び、それから、あなたが欲する姿形、あなたが祈りを捧げたいと思う御姿を、その光の中に入れてもかまいません。それは何も間違ったことではありません。

姿形には常に成長と衰えがあります。反対に、もし光を1つの所に置けば、どんなに多くの人がやって来てその1つの光からランプに光を灯したとしても、まったく問題はありません。その光は、消えることも、何かを失うことありません。源となった最初の光は、アカンダ ジョーティ〔永遠の光〕と呼ばれます。その光のもとにやって来て自分のランプに光を灯す人々は、ジーヴァン ジョーティ〔個我の光〕と呼ばれます。非常に多くのジーヴァン ジョーティは、皆、たった1つのアカンダ ジョーティから始まりました。その光を、私たちのハートの中、個々のジーヴァのハートの中に置くことによって、1つのジーヴァン ジョーティがアカンダ ジョーティのもとに行ってその中に溶け込むという瞑想の結果がもたらされ、あなたに不二一元の本質、この世界と全宇宙の唯一性を教えるでしょう。

そのためには、時間と、プロセスと、場所がとても重要です。場所は変わるかもしれません。今日はブリンダーヴァンにいても、明日はバンガロールにいて、翌々日にはマドラスといった別の場所にいるかもしれません。場所から場所へと移動する体には、瞑想するためのいつも決まった場所を確保することは不可能です。たとえ瞑想する場所が変わっても、瞑想をする時間は変えないよう十分注意しなくてはいけません。自分が決めた瞑想の時間に、瞑想を通じて心から神に愛を捧げようという意志があるならば、必ずや、神はふさわしい時間にやって来て、あなたの愛を受け取り、あらゆる幸せをあなたに授けるでしょう。あなたが神に渡さなければならないものは愛です。それはあなたのハートから生じる愛でなくてはいけません。その時間はふさわしい時でなくてはいけません。ですから、もしあなたが、心からの愛を、ふさわしい時間に渡すなら、神は確実にその愛を受け取り、あらゆる幸せをあなたに降り注ぐでしょう。

神はサット チット アーナンダ(実在、純粋意識、至福)であるということも聞いたことがあるでしょう。では、「ババ」の意味を教えてあげましょう。「ババ」は「BABA」と綴ります。最初の「B」はBeing〔実在〕を表しています。「A」はAwareness〔純粋意識〕を表しています。3番目の「B」の文字はBliss〔至福〕を表しています。4番目の「A」の文字はAtma〔アートマ、真我〕を表しています。最初の「B」はBeingでサット〔絶対実在〕、次の文字「A」はAwarenessでチット〔純粋意識〕、3番目の文字「B」はBlissでアーナンダ〔至福〕です。最後の文字である4番目の「A」はAtma〔真我〕です。つまり、サット チット アーナンダはアートマであるという意味です。

あなた方は「サティヤ」の意味も知っていますね。「サティヤ」は真理です。「サティヤ」は、あらゆる時間において変わることのないものです。「サーイー」〔サイのサンスクリット語〕という言葉の中には、「サ」、「アー」、「イー」という3つの音があります。「サ」は「聖なるもの」、「神」を表しています。「アーイー」は「母」という意味です。別の言語では、母をアーヤー、マイー、ターイーなどと言います。「アーイー」は「母」という意味です。「バーバー」〔ババのサンスクリット語〕は「父」という意味です。「サイ ババ」は神なる母であり父です。「サ」+「アーイー」+「バーバー」で「神母父」です。

同じようにして、神には「サ」という文字を使い、母には「アンバ」(Amba)という言葉を用い、父には「シヴァ」という言葉を用いることができます。つまり、「サ」+「アンバ」+「シヴァ」(サーンバシヴァ)〔神母シヴァ〕です。サーンバシヴァとサイ ババはまったく同じであり、二者には何の違いもありません。したがって、これ〔ババ〕は「シヴァ シャクティ アートマカ スワルーパ」〔シヴァ神とパールヴァティー女神の化身〕であることは明白です。

ですから、もしこの神性を味わって体験したいなら、もし至福の甘露を味わいたいなら、明日から瞑想を始めなさい。私はあなた方を祝福し、あなた方が瞑想の実践によって幸福と神性の至福を得ることができるよう願います。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 1972 C10

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