サイババの御言葉

日付:1975年1月28日・場所:ソーレー フニセ村にて
ソーレー フニセ村での御講話

ナーラーヤナ セヴァ


食物を贈り物とすることは、あらゆる贈り物の中でもっとも尊い贈り物です。あなた方は今日、大勢の人に食事を提供する企画を実行し、それによって、この村がその名〔ソーレー フニセ村、カンナダ語でひょうたんとタマリンドの実の意〕にふさわしい所であることを証明しました。

人間に与えられた人生の年数はごく短いものですが、人間が住む世界は広大であり、時の流れは永遠の昔から、遙(はる)かな未来に及びます。人がこの世で為(な)すべきわずかなことは、敏速に、自分が割り当てられた場所で、与えられた時間内に終わらさなければなりません。さらに、人間には大変な使命があります。人がこの世に人間として生を受けるのは、それを遂行するためであり、いくつもの過去世(かこぜ)で積んできた徳と交換に、こうして人間として生まれることができたのです。その使命とは、実に、人間の内に潜んでいる神性を顕現することです。その使命を達成するための、もっとも容易で、もっとも喜びの多い手段は、セヴァ――つまり、献身と信愛の精神で行われる、人間への奉仕です。

また、このような村々において、セヴァ(奉仕)は、多大な効力を秘めた、有益な修行です。そして、最良のセヴァの形式は、飢えている人々に食物を施すことです。この修行の初めの一歩は、住民同士があらゆる奉仕活動において互いに助け合い、協力する姿勢を確立することです。それによって、村の平和と安全と繁栄が保証されます。

人格の汚染が都会に広まりつつある

一軒の家だけで村を作ることはできません。多くの家が密集し、皆が一つの家族として生活して、初めて村ができるのです。そして、皆さんが行っているようなセヴァにおいては、家の一軒一軒と、その家族の一人ひとりが、その共通の事業のために手を貸し、成功を収めなければなりません。企画を成功させるためには、すべての人が、体力と資金と知恵を出し合わなければなりません。ここに花輪がありますが、この花輪は一輪の花でできているのではありません。さまざまな色と香りをもついくつもの花が、人の写真を飾るという共通の目的を達成するために、一本の糸に通されているのです。村では、一人だけ孤立して、「この仕事は私の仕事ではない。この仕事は、あの人や、あのグループの責任だ」などと言うことのできる人は一人もいません。

それというのも、今、都会は一様に、混乱と争いの方向に向きを転じてしまったからです。都会には、平安も、安全も、穏やかさもありません。都会にあるのは、動揺、不安、恐れ、内部闘争、そして、疑念だけです。わずかでも、静寂、同胞愛、寛容、そして、真実を見いだすことができるのは、皆さんの村のような村落においてだけです。都会で広がっている人格の汚染は、急速に村々をも侵(おか)しはじめています。村々は、模倣をするという誘惑に負けて、自らの破滅を招いてはいけません。村の人々は、古来からのインドの理念である、簡素、誠実さ、奉仕、霊的な生き方を、重んじなければいけません。あなた方は、貪欲(どんよく)や怒り、羨望(ぜんぼう)や慢心に歯止めを掛け、友好的に、兄弟愛の精神をもって生きるべきです。そうすれば、インドは幸福になり、繁栄します。一人ひとりが、自分の役割における義務を、神に礼拝として捧げるという気持ちで遂行していかなければなりません。

弱者を助けることで神の恩寵を受けるに値する者となりなさい

私は、少数の青年と年長者たちだけが忙しく動き回って、この行事に伴うさまざまな作業を行っていることに気がつきました。それが多くの村落における実態です。全員が力を貸さなければ、村全体が益することはできません。人生は、食べては消化し、歩き回っては寝そべるために与えられたのではなく、それよりはるかに偉大な目的のために授けられたのです。その目的とは、私たちの内に、また、私たちの周りの万物の内に、さらには、私たちの感覚の領域を越えたすべてのものの内に存在する、神を認識することです。そのための人生を、無益な追求や、単なる感覚的快楽のために浪費することは、知性ある人間のすることではありません。弱者や貧民、病人や障害者、困窮者や寄る辺のなり人々を助けることによって、神の恩寵を受けるに値する人になりなさい。人をあざ笑ったり、人を侮辱することに喜びを感じたり、人の沽券(こけん)に関わるような噂(うわさ)を流して喜んだりしてはなりません。他人の気持ちを傷つけることほど凶悪な罪はありません。人間は二つの性質を培うべきです。それは、罪に対する恐れと、神への信愛です。

神への信愛を養うためには、つねに善い仲間と交わるよう務め、ナーマスマラナ〔神の御名を唱えること〕をしなさい。この村にはいくつかの寺院がありますが、それらを活気のある、活き活きとしたものにしなさい。そこに毎日一時間集まって、バジャンを歌いなさい。なぜ、人の悪口を言って、時間を無駄にすること、あるいは時間を汚すことまでしているのですか? 目と、手と、鼻と、胃は、互いに形が異なっており、それぞれが固有の役目を果たし、それぞれに特有の名前と機能があります。しかし、それらの器官は皆、自分が属している一つの身体の要求に応じて働いており、互いに相反する目的のために働くことなどありませんね? 同様に、あなた方一人ひとりは、村と呼ばれる身体の一つの部分なのです。一言の不平も言わずに自分の仕事をし、すべての人と全面的に協力し合って仕事をしなさい。そうして初めて、村民は健康に、幸せになるでしょう。

愛――愛だけが、他の人々とあなたを、そして、まさしく愛の化身である神とあなたを、結び付けることができるのです。

皆さんは、食べ物の贈り物をアンナ ダーナ(食物の施し)と呼んでいます。しかし、神から施された物を施したり、それを得意に思う権利は誰にもなく、また、自分は何かを施しとして与えたと感じる権利すらもありません。神が雨を降らせ、神が苗を育て、神が穀物を実らせたのです。何の権利があって、それを自分の物だと言い、施しとして与えているのですか? あなた方が行っているのはダーナ(施し)ではなく、神に感謝を捧げているだけであり、自分が収穫した穀物を調理してナーラーヤナ(人の姿をとった神)たちに捧げることによって、その穀物を聖化しているのです。それはナーラーヤナ セヴァと呼びなさい! その方が、より事実に合っています。

とにかく、あなた方が愛と謙虚さをもって、神への礼拝という精神でそれを行っているので、私は皆さんを祝福するためにこの村にやって来ました。一つの委員会や一つの有志のグループに全責任を負わせてはなりません。真剣に参加して、責任の一部を担うことを申し出なさい。私は、このナーラーヤナ セヴァに全員が参加し、それが今のように月一回ではなく、より頻繁に行われることを望みます。

翻訳:サティア・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.13 C4

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