サイババの御言葉:私の望み、私の誓い

日付:1975年7月25日・場所:アナンタプル市
サティヤ サイ女子大学 卒業・入学式の御講話より

私の望み、私の誓い


今日は、他のすべての日もそうであるように、過去と現在が会う日です。なぜなら、私たちはこの大学で、出て行く者たちの前途を祈り、クラスに入ってきたばかりの者を歓迎している最中だからです。きわめて重大な決断を下すことが緊急に必要とされる時には、すべての瞬間が重大な瞬間です。人生は、「善の力」対「悪の力」、「喜び」対「悲しみ」、「成功」対「失敗」の闘いです。

このひっきりなしの争いに直面し、「果たして人間は二極の鎖から逃れることができるのか?」という疑問が生じてくるかもしれません。それは結局、虚しい希望なのでしょうか? あるいは、見込みもない空喜びなのでしょうか? それとも、神の戯れなのでしょうか? 実に、それは人間の逃れようのない宿命であり、この大学は、あなた方にその宿命に備えさせるよう創立されました。

何分か前にスピーチをした学生は、「本を何冊も熟読することが教育を身に付けるということなのではない」と言いました。そうです。教育とは、知性に加えて、体と心(マインド)と精神を育成するものです。教育を校舎の4枚の壁の中に閉じ込めることはできません。よく見て学習したいと思う者にとっては、宇宙が大学です。自覚が人生です。ですから、農家も、大工も、鍛冶屋(かじや)も、彫刻家も、商人も、皆、自分の義務と責任、技能と水準を自覚する必要があり、教育はそれを育成して、しっかりとしたものにさせなければなりません。

霊性教育は教育の数ある種類の一つ

教育は本の虫のものではありません。教育の過程には、あらゆる仕事、職業、業種を学んで正しく理解することが含まれていなければいけません。そして、善を受け入れ、悪を拒むことを奨励するものでなければいけません。霊性教育は、別個の異なる戒律ではなく、教育の数ある種類とレベルのうちの1つであり一部です。実際、霊性教育はまさに土台であり、その上に頑丈な大きな建物が建てられるのです。世俗の教育と霊性教育は、豆の2つに割れている部分の双方のようなものであり、豆の芽はその間から出てきます。豆の芽はその両方の部分から栄養を得ます。

女らしさは土台であり、その上に平和で幸福な世界を築き上げることができます。女性が真に女らしく、勇敢で、親切で、慈悲深く、徳があり、敬虔であれば、世界は平和と喜びの時代を迎えることができます。若者は、霊性の冒険の高さを測ることのできる、強くて真っ直ぐな霊性修行者へと成長する能力を持っていますが、適切な指導を得ていません。その一方で、若者たちには邪悪な誘惑があります。邪悪な手本、邪悪な助言が蔓延し、魅力的に気を引きながら若者たちの4方を囲んでいます。

若者たちを誘惑し、下らないもの、軽率なもののほうへと誘い、破滅の道へと引きずりこむ2人の邪悪な妖婦がいます。1人はシネマ婦人〔映画〕、もう1人はノベル婦人〔小説〕です。映画は汚し、堕落させます。映画は幼い無垢な心(マインド)を汚染します。映画は犯罪と暴力と貪欲を教えます。映画は基本的な人間性を破壊して、獣性へと退化させます。壊色(えじき)の衣を着た僧侶たちでさえ、映画の狡猾な影響力によって、確実に罪へと引きずり落とされてしまいます。

現代の教育には生命線がない

同様に、ノベル婦人も獣性の好色な描写で堕落させます。2人はどちらも若者たちを悪の荒野へと連れ去ります。自己に頼り、自己を信じ、自己を知る国民へと若者たちを形づくる方法など2人は知りませんし、知ろうともしません。きわめて不可欠な必要が無視されているのです。

ある学生が、手相を見てもらいに行きました。手相見はその学生の手のひらをよく見ると、「学業において大変秀でるでしょう」と言いました。学生はとても喜びました。手相見は、「あなたは大金を集めるでしょう」と予言しました。学生の喜びは限りがありませんでした。「この線は将来名声を博すことを示しています」と、手相見は宣言しました。そのことで、もう満杯、これ以上は入らないというまでに学生の喜びは一杯になりました。それから手相見は、「生命線が短く、突然ぷっつりと切れています」と言いました! 学生は気絶して倒れてしまいました。

同じように、現代の教育には生命線がありません。平和で満ち足りた人生を送るのに必要な技能と態度を保証していないのです。現代の教育は、完全ではなく、幅広い方法で必要と目的を軌道に載せる働きもしていません。現代の教育は、本を詰め込んで覚えたものから何かを作り直し、つまらないものを研究し、何も特別な意味のない学位を授けることで満足しています。そして、その結果作り出された者たちは、自身の無益さを露呈して、「神は死んだ、徳は迷信だ」と叫んでいます。神がいなかったら人間はどうやって存在できるのでしょう? あるいは、人間とは別個に神が存在できるのでしょうか? 花と花をつないでいる糸がなければ花輪の首飾りはできません。神が人間一人ひとりに保証している内的な近しい関係がなければ、人間は存在できません。神はブラフマスートラです。すなわち、神は、目に見えないけれども、なくてはならない。ブラフマンの糸〔神の糸〕です。

この大学のために何百万ルピーもが費やされました。それは、国中に散らばっている何百もの大学を1つ増やそうという望みからではなく、バーラタ文化の中に大切に保存されている理想を生きる方法を知る女性、そして、女であることの尊厳と宿命を掲げる世代を教育したい、という望みがあってのことです。

教育の要点は拡大

この大学を創立した動機は、母としてすべての場所の同胞たちを巻き込む愛を拡大させる女性たちがここを必要としていた、ということです。愛の拡大の第一歩は家庭です。家庭で、あなた方は、あなたに生きることと学ぶことという機会を与えてくれた両親を敬い、喜ばせなければいけません。もし両親を邪険に扱うなら、あるいは、両親の心に悲しみをもたらすようであれば、奉仕と理解によって他人を喜ばすことなどできますか? 拡大が教育の要点です。膨らんでいた風船が破裂すると、中に入っていた空気は外の無限に拡がる空気と交じり合うことを知っていますね。皆さんの愛も同じで、家庭で膨らまし、社会で膨らまし、最終的にはもっと膨らんで破裂して、世界中に広まらなければいけません。手のひらにすくった一滴の水は、すぐに蒸発してしまいます。しかし、一滴の水を海に入れれば、その水は海の一部となって在り続けます。その水は、海の名前と味、威厳と力を得ます!

愛を育みなさい。すべてのハートに愛の種を蒔きなさい。砂漠に愛を降り注ぎ、人類が緑の若葉、愛らしい花、甘い果物、甘い果汁という収穫を得られるようにしなさい。これが私の望みであり、私の使命であり、私の誓いです。皆さんが学位を取得してこの大学を出て行くとき、「国は私に何をくれますか?」と尋ねてはなりません。そうではなく、「今、私は国に何を与えられますか?」と尋ねなさい。

両親の御足に捧げる敬愛は私に届く

学生の皆さん、

どこで悩みと失望を見つけても、今それを減らすことに取り掛かってはなりません。それは火に油を注ぎ、ダメージを味わうことになるでしょう! 私がこの大学を始め、運営している目的は、まさに、ここで理想の母親、理想の姉妹、理想の妻、理想の女性を育てることです。大学卒業試験の準備のためのカリキュラムは、人格の構築と普遍的な愛を育てることというもっと高尚なカリキュラムにあなた方を引き込むための餌にすぎません。必要な変容を伴わずにただ情報を得ることは、たとえほんのわずかに正当化できることがあったとしても、あなた方の慢心を膨らますだけです。

地球は広大な宇宙の1つの瞬きにすぎません。インドはその瞬きの点の小さな一部にすぎません。アナンタプルは、その中の、顕微鏡でしか見えないような小さな粒であり、あなたはその粒に住んでいる何十万という人間のうちの一人にすぎません。他人の注目を集める自分は優秀だと思って慢心を膨らませる理由など、ありますか?

女子学生と女性教師は、自分の服装、動作、笑顔、振る舞いによって若い男性の目と舌を引きつけないよう、つねに警戒していなければいけません。少し流行遅れでいなさい。気にすることはありません。そのほうが、この国とこの国の文化の伝統と慣習を破るようなファッションをするよりいいのです。

あなたの両親が最も大切に思っている意向に反する行動をとることで、両親に不名誉をもたらしたり、両親をがっかりさせたりしてはいけません。あなたが両親の御足に捧げる敬愛は、私に届きます。それは私が保証します。この大学には、あなた方に信仰心と霊的規律を教え込むために定められている、いくつかの特別な授業と事項があります。教師も学生も、それに特別な関心を示しています。なぜなら、それはこの大学独特のものであり、皆さんのために、国のために、計画されたものだからです。教師の皆さんも、誠実さの手本、質素の手本、互いの協力の手本、そして、愛の手本とならなければいけません。そして、祈りや他の霊的に重要な項目に関心を示さなければいけません。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol13 C17

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