サイババの御言葉

日付:1976年9月

ブリッツ紙インタビューA


訳注: ブリッツ紙(Blitz)は1941年から90年代半ばまで存在したインド初のタブロイド版の週刊英字新聞。ブリッツ紙の創刊者であるボンベイ出身のR.K.カランジア氏(1912-2008)は、無神論者とマルクス主義者を自称していたが、サイ ババへの2時間半に及ぶ独占インタビューに成功し、それを1976年9月11日のブリッツ紙に掲載した。




R.K.カランジア氏(以下RKK)によるインタビューA

富裕層と貧困層の統合

RKK: あなたは統合をもたらすことに成功していますか、スワミジ、特に、力を持つ富裕層に対しては?

サイ ババ: 私は、一つの階級としての彼ら全員には届いていませんが、個々人という範囲内においてには接触可能であり、その結果は人を勇気づけられるものになっています。もちろん、裕福で力を持っている人たちは、変容ということに関して異なる問題を提示してきます。彼らには特別なアプローチが必要です。一方、貧しい人たちはとても協力的です。彼らは私の計画と考えを理解し、感謝し、手助けをしてくれます。

RKK: 力のある富裕層と弱者である貧困層の衝突がエスカレートしていることへの解決策は何ですか?

サイ ババ: 両者が、競争や衝突のない、等しい間柄の協力的な兄弟関係へと変わることです。これは真実〔真理/サティヤ〕と愛によってのみ起こりえます。主な課題は、二つの階級を融解させて一つの階級にすることです。しかし、問題の一つに、両者を共通の土台に、壇上に連れてくるということがあります。裕福な人たちは、特定の状態と条件の中に隔離された生活をしています。貧しい人たちも、同様にそれとは別の状態と条件の中に隔離された生活をしています。どうやって両者を一つにしたらよいでしょう?
 私はそれを、裕福な人と貧しい人の間にあるバリアを壊し、平等感、一体性の気持ちを作り出すことによって、多くの細かな方法で行います。このアシュラムでは、両者がいっしょに生活し、いっしょに働いているのを見ることができます。完全に平等な間柄で、単純作業さえ共にしています。ここにはどんな差別もなければ、お金持ちのための特別な施設もありません。お金持ちも貧しい人たちと同じように生活し、食べ、働き、礼拝し、寝ています。アシュラム共通の質素な生活を分かち合うために、全員が一つの働き手である共同体のように暮らしています。

富を上回る心の平安

サイ ババ: 私たちには厳格な決まりがあるにもかかわらず、工場経営者や実業家たちもここに来たがります。なぜでしょう? なぜなら、ここでは肉体的な快適さを上回る心の平安が確実に手に入るからです。心の平安はこの世の富や権力では買うことも与えることもできないものです。
 このようにして、私たちは彼らに素晴らしい霊的な宝である新世界を開放していますが、彼らは物質的な要求と快適さを犠牲にしなければなりません。私の任務は、お金持ちも貧乏人も誰もが一様に欲する心の平安への道を彼らに示すことです。求道者は、その霊的進化のプロセスにおいて、この至福に満ちた状態は、お店でお金を払って買えるものではない、誰かが誰かに贈るのではなく自分で手に入れるものだということを学びます。それは普遍なる神性の源である、貧乏な人も裕福な人も等しく包含している内在の神からのみ生じることができるものです。この概念は、裕福な人と貧乏な人の間に、共通の仲間意識、ギブ アンド テイクの兄弟愛を作り出します。有り余るほど持っている人には不必要な物は欲しいと思わないようにする義務があり、その一方で、あまりにもわずかしか持っていない人の必要が満たされなければなりません。
 どのみち、霊的な間柄においては、全人類は同じ一つの階級、カースト、宗教に属しているのです。万人に内在する神聖原理は同じ一つの神に由来するものです。この根本的な一元性を、霊的な実体、および、人を引き付けて拡大する愛の力に直に接触することを通じて、万人が行為(Work)と礼拝(worship)と英知(wisdom)という普遍的な宗教の一部になるまで、万人に悟らせる必要があります。

物質的な豊かさは精神的的な貧困

RKK: そのすべてはシンプルで、貧しい人たちにとっては歓迎すべき吉報です。彼らがあなたのその哲学から失うものは何もなく、すべてを得ることになるのですから。しかし、もしそれに従ったらすべてを失わなければならなくなるお金持ちにとってはどうでしょう?

サイ ババ: それがこの問題のやっかいなところです。彼らは、もし私の恩寵が欲しければ、自分たちの誤った価値観を失くすこと、明け渡すこと、沈めることをしなければなりません。人々が裕福と貧困という物質的な定義の奴隷であり続けている限り、解決策はありえません。ですから、私は人々の心とハートを、霊的な価値と真理に変換しようとしているのです。
 つまるところ、最も豊かな人は誰でしょう? 一番大きな欲求を持っていて、そのせいで問題や心配事がある人ですか? それとも、生活に最低限必要なもので満足していて、そのおかげで、おおよそ欲がなく、比較的幸福な人ですか? この幸せの尺度から判定すると、貧しい人は精神的には豊かですが、裕福な人は精神的には貧しいのです。突き詰めていくと、人生を生きる価値のあるものにするものは、物ではなくて精神的な満足なのです。
 先ほど話したように、欲望のない生活は人に神性をもたらします。そして、私の恩寵を求める人は欲と貪欲を減らさなければなりません。お金持ちは命取りになる誘惑を差し出します。彼らは人間の隷属の根源であり、原因です。生活水準を上げたいという欲は、決して満たされることができません。その欲は、欲求の増大と、その結果として起こる問題と、欲求不満へとつながります。

犠牲がなければ恩寵はない

サイ ババ: その解決策は、私たちが生活水準に対して、質を強調すること、高潔な考えと質素な生活を強調することにあります。心は馬で、体は荷車です。心の平安を得るには、高潔な考えという馬を肉体的な快適さという荷車に結わえなければなりません。

RKK: それは哲学のように聞こえますが、あなたはそれをどうやって行動に組み入れるのですか?

サイ ババ: お金持ちも貧乏人も、愛と平安、そして、自分の問題や困難からの解放を求めてサイ ババのところにやって来ます。それらに対する私の処方箋は、完全に私心を失くすことと、欲望を失くすことです。貧しい人にとって、これは自然な状態であり、自然な状況です。ですから、私の愛は彼らに流れ、彼らの信愛に応じるのです。このようにして、彼らは私の恩寵を手に入れます。

モンキー マインドの束縛

サイ ババ: 一方、お金持ちは、自分の物質的なものの見方と利己的な執着を明け渡さなければ、この恩寵を手に入れることはできません。ですから、霊的な恩寵を受け取るには、物欲的な貪欲を明け渡すことが必須となります。私は彼らにこう言っています。

 エゴは、受け取って忘れることによって生きる。
 愛は、与えて忘れることによって生きる。

 このようにして、私は彼らの心の姿勢を変えるのです。私は彼らの猿の心を、愛して与えて忘れる心へと変容させます。

RKK: 猿の心。ババ、それはどういう意味ですか?

サイ ババ: これはメンタリティーの一種で、猿を捕まえて撲滅するために農夫が用いているものです。農夫は、猿を捕まえたいと思うと、大きいけれども口の小さい壷を罠として使います。壷の中には猿の好きな食べ物を入れておきます。猿は壷を見つけて壷の中に両手を突っ込み、つかめるだけ食べ物をつかみます。一度つかんでしまうと、もう壷の小さな口からそのままの状態で両手を出すことは不可能です。猿は壷の中で誰かが自分の両手をつかんでいるのだと思い、壷もろとも逃げ出そうとしますが、結局それは失敗に終わり、捕まってしまいます。誰も猿をつかんでなどいません。猿は自分の貪欲のせいで罠にかかりました。もし猿が握った手を緩めて食べ物を手放しさえすれば、猿は束縛から解放されます。
 これと同じ方法で、私はお金持ちの人たちに、人間はこの世の富や快楽や欲望に誘惑されているのだと言っています。人は、そういった執着を多く持ち、貪欲の結果に苦しむと、何かが自分を縛っている、自分を捕らえて滅ぼそうとしていると考えます。物質的な富と欲を放棄した瞬間に、人は自由になります。私は、人が猿の心に隷属していることを気づかせ、人を解放させるのです。

サイ ババの精神的な社会主義

RKK: ババは、ある種の精神的な社会主義、貧困をなくすために富を信託するという処方を施しているように見えます。

サイ ババ: ええ、愛と協力と兄弟愛を土台にした信託です。それ以外、人間に何ができるでしょう? 変化はハートから展開していくものであり、外側から課すことはできません。物質主義者の信条はすべて、本当の変容を引き起こすことに失敗しています。平等はどこにもありません。欲望のないメンタリティーへと精神的に変容することだけが、人間の意識に必然の変革を達成することができ、そこからのみ、望ましい変化が生まれることができるのです。
 私たちは、社会を偽の価値から本物の価値へと変える必要があります。私たちは、高い生活水準という理想は間違っているということを人々に説得しなければなりません。その理想を、謙虚さ、道徳心、思いやり、無執着を基盤にした、高いレベルの生活と考え方という、贅沢を競い合うことや人目を引くような消費への貪欲とは反対のものに置き換えなければなりません。自分たちの中に隠れている神性を覚醒させる唯一の方法は、誤った物質的な価値の奴隷でいる代わりに、欲望に打ち勝ち、快楽と贅沢への貪欲を克服することだということを、人々が納得する必要があります。

ダルマ(正しい行い)へと向かうサイの道

RKK: 次に、サイ ババが運営しているさまざまな教育機関や社会奉仕の機関についてですが、その全部で3,000ほどの組織は、愛と説得によって社会経済の変化を引き起こすのに必要な構造を作り出すことを意図しているのですか?

サイ ババ: これらの組織は、新しい世代を、真理、正義、平安、愛、非暴力というサイの道に置くために意図されています。そのモットーである「仕事は礼拝、義務は神」は、サティヤ、つまり真理と、ダルマ、すなわち正しい行いと結びついた、新しい社会秩序を取り入れようと努めています。

RKK: インドは貧しい人々の豊かな国である、と言われてきました。私たちの大地の懐には全世界の富が閉じ込められています。そして、人々はまだ経済的に貧しい後進状態に留まっています。あなたには、私たちの経済を復興するための解決策がありますか?

社会経済の統合

サイ ババ: あなたの分析は正しいです。あなたが提示した問題の解決策は、助け合いを基盤とした勤勉と増産にあります。これを達成するには、人々から個人性と貪欲と利己心という病気をなくす必要があります。人は皆、より広い社会の概念と、その必要を考えることと、行動することを教えられなければなりません。ひとたびそれが実行されれば、口数は減り、もっと仕事をするようになります。
 繰り返しますが、霊性の道こそが、この国と世界を実利主義の序列という誤りから救うことができるのです。私たちに必要なのは、生活の精神的な面と物質的な面の統合です。それは、無私と、助け合いの労務を通じて、国の富と繁栄に不可欠な社会意識と助け合いの精神を人に提供することです。

RKK: とても良い助言です、スワミジ、しかし、問題は、労務によって作られた富はすべて、お金持ちの権力者という少数派の懐に入るだけのように思えることです。この不平等への精神的な処方箋はありますか?

欲望は等しくしなければならない

サイ ババ: 分配が適切になされていないというのは、そのとおりです。現在の平等や社会主義等々の政策は、富と財産の分配において成功に至っていません。難しいのは、あなた方は富と土地と財産を合法的に均等していますが、法律は人々の欲望に均等をもたらすことができるのか? ということです。 これには精神主義の癒しの手が必要とされます。
 まず初めに、人は欲望とその悪果を治さなければなりません。私たちは、お金持ちに、欲望とその実利主義の欲求を満たすことは猿の心の一面であり、それは彼らに害を及ぼし、彼らを束縛しうるのみであるということを説いて、彼らを理解させなければなりません。これのみが、不平等と大量流通の問題を解決してくれるでしょう。
 お金持ちは必要以上の欲求を手放し、貧しい人は自分の必要なものと、それほんの少しが加わったものを得るでしょう。そして、そのプロセスはもっと公平な分配をもたらすでしょう。

RKK: このセクションのしめくくりに、スワミジ、インドの社会と経済の後進性の主な原因について総括していただけませんか?

サイ ババ: 純粋に物質的な見地からは、それは需要と供給の問題です。社会の物質の価値が圧倒的であるために、需要がどんどん大きくなっている一方で、供給は同じまま、あるいは、減少しています。その解決策は、当然、供給を増やし、需要を減らすことです。それから、もちろん、人口増加の問題があります。もし効果的な解決策を見つけるべきであるというならば、このバランスの崩れた経済の三角形の問題を精神的なものにする必要があります。

荷物は少なく、より良い旅を

RKK: 私たちは、ここで欲望のない生活を強く主張し、その中で、人の欲求は最低限の必要へと減らされますが、それが社会と経済のバランスを正す唯一可能な方法であるとして、救いの手を差し伸べています。自分の欲望に歯止めをかけ、欲求を減らし、精神的な禁欲生活を送れば、全人類に十分、物が行き渡るでしょう。さらには、社会経済のシステムよりも競争に耐えるという緊張は解け、心の平安を取り戻すでしょう。
 人生は、生まれてから死ぬまでの間を乗り物に乗って旅をするようなものです。体がその乗り物で、あなたはその乗り物の中で死に至るまで運転を続けます。荷物は少ないほうがよいのです。途中でコースを変える必要があるかもしれませんし、道を外れたり、事故に遭ったりすることもあるかもしれません。いずれにせよ、旅の終わりには、あなたは自分のアートマ以外、所有物はすべて置いて逝かなければなりません。それなのに、なぜ自分で自分にこの世の富や物質的な快適さといった重荷を追わせるのですか?
 これは霊性の論理であり、それをもって私は人々の態度を変えようと努めています。

なぜカボチャやキュウリではないのか

RKK: サイ ババは、ナラシンヒアフ博士や他の批判者たちが上げた論点のほとんどをクリアにしてくださいました。しかしながら、いくつかまだ未解答のものがあります。ナラシンヒアフは、「なぜあなたはカボチャやキュウリ、あるいは、あなたが創ったという証拠となる独自のマークの付いた腕時計を物質化せずに、他者の製品を移動して持ってくるのですか?」と質問しています。

サイ ババ: カボチャやキュウリは、指輪や物品同様、簡単に物質化できます。ですが、それらは腐りやすい物であり、私がすでに説明したように、物質化全体の要点は恒久性にあります。指輪や腕時計は、お守り、あるいは、アヴァターと帰依者の間のコンタクトや通信手段として、より長持ちする品物です。
 彼らが主張しようとしている点は、カボチャのような大きな物は移動して持ってくることができないのに対して、指輪のような小さな物は移動して持ってくることができるということです。しかし、すでに述べたように、私は手品を使って物を移動するのではありません。私はそれがお守りになるよう、それらを創り出すのです。
 さて、私が自分で創った物だという証拠となる独自のマークを指輪や腕時計に付けることに関する問いについてですが、あなたは私に何か物質化してほしいですか?

オームの指輪の奇蹟

RKK: はい、スワミジ、もちろんです。

 サイ ババは空中で片手を揺らして銀の指輪を創出した。その中央にはオーム、両側にはサイ ラムのマークが刻まれていた。サイ ババはそれを私の右手の中指にやさしくはめてくれた。それはぴったりで、私がサイ ババから欲しいと思っていたとおりの物だった。

RKK: ありがとうございます、ババ、あなたは見事に質問に答えてくださいました。さて、ナラナシンヒアフの委員会が、偽のサイ クリシュナやパーンダヴァプラは詐欺でありペテンである、としている未解答の点についてですが、ナラナシンヒアフは、例の少年があなたに賛助されていると主張しています。

インチキ少年と接触してはならない

サイ ババ: 私はあなたに、彼と私はまったく何の接点もないということを保証します。彼の側の人々が何度か彼と私を会わせしようとしましたが、私たちは彼らの要請を断りました。もちろん、今朝あなたが見たように、何千人もの人々がここにダルシャンを受けに来ています。他にも、私の弟子と偽って、私の名前を使ってお金を儲けている人たちがいます。こういったことは、ここだけでなく他の州でも、外国でさえも起きていますが、私たちはそれについて何もできません。彼らは遅かれ早かれ、その少年のように正体がばれます。私はそういった人たちとは、まったく何の接点も関係もありません。

RKK: ナラナシンヒアフの委員会は、あなたの奇蹟を、彼らの置く一定の条件の下で科学的な調査をしたがりました。あなたはその申し出を断りましたが、それについての論争に対してコメントなさりたいですか?

サイ ババ: 科学という、物理的、物質的な物の見方をしなければならないものに、どうやってその限界や、届く範囲や理解を超える超越的な現象を調査することができるでしょう? それは一見してわかる間違った考えです。一方は物質に属するものであり、もう一方は霊的な次元のものです。科学はその調査を人間の五感に属する物だけに限らなければならない一方で、霊性は五感を超越しています。もしあなたが霊的な力の性質を理解したいなら、あなたはそれを、科学ではなく、霊性の道を通じてのみ理解することができます。科学が解き明かすことのできるものは、宇宙の現象のほんの一部にすぎません。しかしながら、科学は自らの貢献を誇張する傾向にあります。

RKK: それは本当です、スワミジ。しかし、科学はいつでも発達しており、そのため、昨日の机上の理論が明日の物理学となるのです。

太陽の光で光る虫

サイ ババ: 確かにそのとおりですが、科学はいまだ、広大で目には見えない意識の世界に対しては盲目です。科学がつねに変化し続けているということは、事実、科学には究極の絶対的な真理を調査する能力はない、ということを証明しています。かつて、科学者たちは原子を細分することはできないと主張していましたが、最近では細分化に成功しています。科学者たちは、原子の背後にあるプラーナの力〔生命力〕という最小の構成要素の実体について、いまだ無知なままです。
 科学は太陽の光や輝きで光る虫にすぎません。科学は、自然やその物質的な働きについて調査し、発見し、たくさんの情報を集め、それを世俗の物事の発展のために使うことができる、というのは本当です。一方、霊性は、科学の余地のない宇宙の領域を統治しています。そのため、いくつかの科学の発見は役に立つ一方で、他の発見は破壊をもたらしかねないのです。
 私が前に述べたように、ナラシンヒアフ博士とそのグループは、タミル語の映画を見に行くテルグの人たちのようなものです。彼らは、踊りや闘いや暴力、ヒーローや悪党、きれいな顔をしたスターや、同様の類の人工的なものを見るだけで、音楽や詩、話の筋、会話やジョークといった細かな面はわかりません。

間違った精神とアプローチ

サイ ババ: しかしながら、私は何度も何度も言ってきましたが、私を理解したいと望む人はここで歓迎されます。そう望むのは調査の精神であり、それは重要です。外国の超心理学者たちがここにやって来て、そういった肯定的で建設的な精神で私を調べました。あなたは彼らのレポートを見ましたね。彼らは手紙を書いたり公に審査請求をしたりはしません。
 ナラシンヒアフのアプローチは正しいものでありません。だから私はそれを拒否したのです。もしそうでなかったら、彼も歓迎されたでしょう。私は人々をここに呼ぶことができます。そうすれば、彼らは神に頭を下げることができるからです。私は人々に、来て、見て、聞き、学び、目撃し、体験し、サイ ババをよく理解してほしいと思っています。そうした時にだけ、人々は私を理解し、アヴァターを正当に評価するでしょう。

RKK: ナラシンヒアフ博士は、科学によれば「無からは何も創れない」と主張しています。あなたは、宇宙のエネルギーを支配して超常的な力を生み出すための超越的な公式によって、はっきりとその科学の法を否定しています。その神秘を説明することはできますか?

「私が意志することは起こる」

サイ ババ: 無からは何も創れないという公式は、制限のある分野と科学の範囲内では適していますが、超越的な分野と霊性の範囲内ではまったく適合しません。超越的な分野では、至高の意志によって何でも創り出すことができます。存在するものはすべて消し去ることができ、存在していないものは現れさせることができます。
 私たちの歴史と伝統、経典も文献も、奇蹟と呼ばれるそうした出来事であふれています。単に、物質的な法則や公式は神性には当てはまらないということです。私にとって、それは神秘でも秘法でもありません。私が意志することは起こり、私が命じるものは物質化されるのです。

RKK: 副学長はあなたの述べた「私たち皆の中に神がいる」という言明をあざ笑っているようで、「それは純粋に現実逃避ではありませんか? いったいどうやって神がそれほど不確かでいられますか?」と問いました。あなたの返答をお願いします。

神は万人の中に存在する

サイ ババ: 彼の問いは、インドの哲学であり、かつ、ほとんどの宗教の哲学の基盤そのものに異議を唱えるものです。私たちのすべての経典は、神は万人の中に存在すると断言しています。ヴィヴェーカーナンダいわく、「神はすべての中に存在している」のです。全世界に現れている、全世界に共通の唯一のもの、そして、まさしく、全宇宙を統治し、監督しているもの、それは神性です。神性以外、実際には存在してはいません。
 私のものは現実逃避ではなく、根本的な永遠の真理です。私がそう言っているのは、私が私自身の神性に不確かであるからではありません。私がその事実を断言しているのは、私がその絶対で完全な確実性を確信しているからです。あまりにも自分たちに自信がないために現実逃避という理論に浸っているのは科学者のほうです。
 たとえば、科学者たちは月に生命は存在しないと言い、同時に、すべての物は動的な原子で構成されていると主張しています。ですが、月も同じ動的な原子の集合体ではありませんか? そうであれば、どうして月に生命は存在しないことなどありえますか? 同様に、原子、電子、中性子、陽子は、つねに動いているものであり、これらで構成されていない物質はありません。このエネルギーも神なのです。
 ですから、神性を持っていない人間もいないのです。神は人の中に内在していないと言うのは、月や他の大きな物質の塊の中には原子は存在しないと言っているようなものです。神の遍在は、私たちの古代の聖典の中で、「アノーラニーヤーン マハトー マヒーヤーン」(神は最小のものより小さく、最大のものより大きい)と表現されています。それに基づけば、どうやって神は人の中にないなどと言うことができますか?

富と権力は好まない

RKK: もう一つ、それに関連して、あなたを批判している人たちは、あなたが神聖な贈り物や、病気を治す奇蹟や、個人的なダルシャンに関して、あなたは貧しい弱者とは逆にお金持ちの権力者を好むという問題を提起しています。それは本当ですか? もしそうであるなら、それはなぜですか?

サイ ババ: それは間違っています。私は決してお金持ちと貧しい人の間に違いを見たり、差別したりすることはありません。私が見るのはその人の信愛、その人の欲望、その人が払おうとしている犠牲、その人が困っている問題です。あなたは今朝、ここで何百人もの人たちを見ましたが、お金持ちは少数で、大部分は貧しい人たちでした。あなたは私が何か差別をしたことを見つけましたか? 私がこの部屋に連れてきた人たちは皆、貧しい人、弱い人、病気の人、問題を抱えている人たちでした。
 私の見たところ、世間でお金持ちだとか権力があるように映っている人たちは、実際には、問題を抱えたハートや、病んだ心〔マインド〕を私のところに持ってきます。私は彼らに、物質的な富と力を霊的な平安と恵みに明け渡すように、と言うことによって、彼らを癒します。

RKK: ババがこれまで述べたことから、あなたの使命は、人類が見失った神性を人類が再発見して顕現させることができるようにすることであるように思えます。私は正しいですか?

サイ ババ: 正しいです。人が本当の自分に気づくために内に向かう時、神はその人に明らかになります。真我顕現は神の顕現です。簡単な言葉で言うなら、あなたはただの体や心や身体器官ではなく、あなたの中には自分であるアートマ、つまり神が存在していて、それはそういった崩壊を免れないもののとはまったく違うということです。その自分は、全能であり、遍在であり、全知です。この真理の知識はあなたを神我顕現への正しい道に置きます。

核戦争の恐怖

RKK: では、あなたの目標は、愛の教義によって人類の兄弟意識を達成することであると集約できますか?

サイ ババ: ええ。他の何が世界を核融合の炎から救うことができますか? すべてのものが、その大火がやって来るという恐怖を指し示しており、私の使命は、ダルマを復興させること、および、一つの人類を抱擁する、一つの神、一つの宗教、一つの言語という霊性の法則を復興させることによって、その大火に先んずることです。
 私は、万人に愛というただ一つの宗教を説いています。それのみが、人を神の父権の下なる人類の兄弟愛に溶け込ませることができます。私が知っているのは、一つの言葉、ハートの言葉だけです。それは心〔マインド〕や理智を超えて、人と人、人類と神とを結びつけ、それによって、相互理解、協力、そして、平和と調和に満ちた地域社会が作られます。私はその基盤の上に、宗教、カースト、その他の障壁のない、普遍的な愛の帝国の中にある、一つの人類を築きたいのです。それは、私の帰依者たちに全世界は自分の家族だと感じることを可能にさせます。

RKK: よくぞおっしゃいました、ババ。しかし、このヒンドゥー教志向のダルマは、既存の宗教と相反しませんか?

サイ ババ: いいえ、そのようなことは一切ありません。なぜなら、私の目標は、サナターナ ダルマ〔古来永遠の法〕を打ち立てることであり、それは諸宗教の創始者たちすべてが歓心を得ようとした存在である、一つの神を信じることだからです。ですから、誰も自分の宗教や神を捨てる必要はなく、その宗教や神を通して、すべてに内在する一つの神を崇拝するのです。私は、妨害や破壊をするために来たのではなく、自分の信仰を持つすべての人を確認するため、そして、その人たちの名誉を回復するために来たのです。

平和へと続くダルマの道

RKK: しかし、それがどう核のホロコースト〔大惨事〕を防ぐのですか?

サイ ババ: あらゆる原因、根源、障壁を取り除くこと、階級、カースト、宗派、皮膚の色、人種の挑発を取り払うこと、今ある憎しみと暴力を愛と非暴力に置き換えること、によってです。私は、共倒れによって死へとエスカレートしている現在の状況に取って代わる、平和的協力の福音を人類にもたらすつもりです。

RKK: ありがとうございました、スワミジ。私の用意した多数の質問すべてにお答えくださるとは、まったく思っていませんでしたので、なおのこと感謝いたします。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Spirit and The Mind p235-p258
   (The Essential Sai p54-p70)

<<SSOJ Topページへ <<サイババの御言葉メニューへ