サイババの御言葉

日付:1977年5月19日
夏期講習の御講話ラーマーヤナ(1)より

ラーマーヤナを解説する夏期講習開会式の御講話


清らかなアートマの化身たちよ。ある人はとても体力があるかもしれません。ある人は立派なことを成し遂げた偉人であるかもしれません。人はこうした多くの優れた資質を持っているかもしれませんが、不幸にも困難に陥ると、自分の弱点が現れて、何もやり遂げることができなくなってしまうことがあります。叙事詩『ラーマーヤナ』〔ラーマの歩みの意〕には、そのような状況を示すいくつかの事例が載っています。ラーマチャンドラ〔月のごときラーマ〕は多くの困難に陥り、そんな時にはすべてがラーマに不利であるように見えました。ラーマは、多くの一般の人々とは違って逆境の中でも大きな勇気を持ってすべてに立ち向かい、自らが全人類への手本となってどのようにして日々の生活の中で逆境に対処すべきかを身をもって示しました。

たとえ霊性修行によって主ラーマの恩寵を得ることができても、もしラーマの持つ人間的な特質を理解すること、認識することをしないなら、ラーマの神性を本当に理解することはできません。今、すべての人々の手本であるラーマを人間の一つの理想として見上げることは、ただラーマは神の化身だと信じるよりもはるかに必要なことです。ラーマは人類にとって理想の手本であるということが理解できない時、どうやってラーマは神だと理解することができるでしょう?

どの家庭でも、母と息子、夫と妻、兄と弟の間にはある種の人間関係が存在しますが、ラーマチャンドラはそれらを自らの生涯の中で身をもって示しました。ラーマの物語の全編は、すべての人が生活の中で自分の日常体験と結びつけることができるものです。この神聖な物語のこの本質的な側面を忘れて物語の瑣末な事柄に注目するのは、正しいことではありません。

困難に出会った時や悲しみに遭遇した時には、勇気を奮い起こし、何であれ自分の持っている力を善良で適した方法で使って勇敢に状況に立ち向かうべきです。人の一生には浮き沈みがあります。肉体にも浮き沈みがあります。これは自然なことです。つねに変化し続けているのは自然のものの特徴です。もし変化がなければ人間性の価値はなくなります。人生に何も困難がなかったら人生は機能しないでしょう。もし何も悲しいことがなかったら、もし人が悲しみに出会わなかったら、人生に価値はありません。もし死というものがなかったら、母親でさえ子供に愛情や愛を示すことはできません。

悲しみ、痛み、困難、損失をもたらしかねない状況は、さまざまな状態で、さまざまな場合にやって来ます。そんな状況の時には沈むべきではありません。喜びを与えてくれる状況の時には有頂天になるべきではありません。平常心を持ち、どんな状況も平静に直視すべきです。物事を揺れ動くことのない心で受け止めて、至福に到達しなければなりません。

どの人生にも、良いことと悪いことはいつも同時に存在しています。良いことについて見てみると、良いことと並んでいつも悪いことも存在していて、悪が善を打ち負かかしてしまうように思われます。悪い人は他人の繁栄を見ると焼きもちを焼きます。悪い人は他人の幸せを見ると自分を惨めに感じます。これらの特性はそうした状況になると自然と顔を出します。

水がめには蓮の花を入れることもできれば、魚や蛙を入れることもできます。蓮の花は人の目を引き、人を喜ばせます。一方、水中の生き物は人を喜ばす代わりに悲しみをもたらします。蓮も水棲生物も水という同じ場所で生まれます。アムリタ(アムルタ/神聖甘露)は水から生じます。アムリタは水から生まれるのです。同様に、毒も水から生じます。アムリタと毒は同じ場所から生まれるということに注目しなさい。このことに関連して、輪廻も解脱も本人の心しだいであると言われています。もし自分の心が果たすこの二つの役割を理解したいと望むなら、心の性質を認識することが必要になってきます。

私たちは、ラーマの物語の中で、ラーマが理想の人間として事を始め、状況が進むにつれて人々に神性を示すという状況に多く出くわします。しかし、多くの聖仙(リシ/ルシ)たちは、ラーマの人間性は世の人々にはっきりと示されているが、ラーマの神性は表向きの人間としての姿の下に隠されている、ということに注意を向けました。もし皆が最初からラーマは神だとわかっていたら、ラーヴァナの討伐は起こらず、物語は進まなかったでしょう。

だからこそ、ヴィシュワーミトラ仙は、援助を得るためにラーマとラクシュマナを連れて行く時、ラーマとラクシュマナの持っている多大な力はわずかな人にしか知られていないといって、ダシャラタ王と口論したのです。ヴィシュワーミトラ仙は、ラーマの無限の栄光とラーマの持つ偉大な力は偉人たちにしか理解できないものであり、普通の人には理解できないと言いました。

ラーマは全知全能であり遍在です。普通の人にはこうした神性の無限性を理解するのは難しいことです。ブラフマンを認識して理解するためには、私たち自身がブラフマンを体験する必要があります。ブラフマンをよく理解した人はブラフマンと同じになります。

もしこれらのラーマーヤナの側面を理解したければ、ラーマーヤナの中にあること、ラーマの物語の中に含まれていることを、自分自身が体験すべきです。世間には自分はラーマの信者だと主張している人が大勢います。その人たち全員がラーマの信者だと決めつけること、公言することは可能でしょうか? そのうちの何人かは喜び(ラーマという語には喜びという意味がある)の信者です。何人かはラーマ神の信者、何人かは喜びの信者です。さまざまな信者がいます。このように、人々は、自分はラーマの信者だと主張し、そう自称しているだけで、実際にそれを正当化するためにラーマの側面に近づこうとか、ラーマの側面との結びつきを深めようとはしていません。

人は、何の理由もなしに一生の間に自分で自分に大惨事を引き起こします。自分で自分のために作った希望という家は、遅かれ早かれ一生の間に壊れて崩れてしまいます。人生は花のようなものです。天気の良い時には咲きますが、嵐の時には倒れてしまいます。人生で嵐の数々に立ち向かって乗り越えていくためには、勇気と心の強さを持つべきです。

ラーマの神性の側面を理解していた偉人と大聖仙たちは皆、ラーマの神性を一般大衆にわからせないよう隠そうと気を配りました。ヴィシュワーミトラ仙とヴァシシュタ仙は普通の人間ではありませんでした。二人は大聖仙でした。二人は大きな勇気と力を持った人物でした。実に、二人はさまざまな学問と英知の側面すべてにおいて秀でていました。ヴィシュワーミトラ仙は自分のヤグニャ〔供犠〕を守れなかったわけではありませんでした。彼はダシャラタ王に言いました。「私は自分のヤグニャを守る力がないというわけではない。私がそなたのところに来たのは、偉大なラーマ、すなわちそなたの息子を世に知らしめる、ラーマの名声とそなたの名声を広める、というはっきりとした目的があってのことである」と。ヴィシュワーミトラ仙は、ただ自分のヤグニャを守らせるためにラーマを連れて行こうとしたのはありません。私たちはヴィシュワーミトラ仙をもっと高尚な目的のための道具として見るべきです。

ヴィシュワーミトラ仙は、当然ながら羅刹退治の地盤を固めていましたが、ラーマとシーターの結婚のための地盤も固めていました。そのすべてを成し終えた後、大切な時に、ヴィシュワーミトラは舞台から消えていきました。それだけでなく、当時の状況は、ラーマは本当に神なのか、それとも、偉大な能力を持つ普通の人間なのかを、容易に断言できないような状況でもありました。

偉人たちは、しばしば万人に等しく注意を向けます。善人にも悪人にも同じ態度を示します。本物の平等観を持っているのです。良い香りのするきれいな花が咲いていたとします。左手で花を摘んで右手に持っても、右手で花を摘んで左手に持っても、花の香りは変わりません。どちらの手で花を摘もうが、花は芳香を与えてくれます。手は変わるかもしれませんが、香りは変わりません。それと同じように、善いことと悪いことは、普通の人の心にたくさんの問題をもたらして、心を苦しめます。けれども、偉人と大聖仙たちには、善いことも悪いこともまったく同じです。この点において、ラーマはアヴァター〔神の化身〕でした。なぜなら、ラーマは善いことと悪いことをまったく同じ心で見ることができたからです。

ラーマーヤナの中には、ラーマがそうした平等観という特質を示した例だけでなく、平等観を失い、それゆえ、弱い、普通の人間のように見える例もあります。しかし、そうした振りはどのくらい長く続きましたか? ラーマが一般人に一般人の特徴である弱さを示したいと思った間だけです。そのような状況の時、ラーマは他の人々に勇気と強さを与えることができました。ラーマ以外の偉人たちも同じです。ただひたすら、人のため、ダルマのため、手本を示すために、神のごとき大聖仙たちは、人は辛い状況の時にいかに振る舞うべきかを身をもって示そうと、あたかも自分は普通の人間であるかのように事を行います。

神は、アヴァター〔神の化身〕として人間たちの間にやって来た時にだけ、人に身近な存在となり、人類に手本を示すことができます。そうして初めて、アヴァターは人間のやり方を正すことができるのです。人間同士の間にあるべき本来の関係は、常にアヴァターによって身をもって示されます。なぜなら、神が人間の姿をとってアヴァターとなってやって来れば、人は実際の生活の場での理想的な模範を見ること、体験することができるからです。その中で、神がラーマという人間の姿をとってさまざまな状況を作り出し、その場において人がダルマを固守するという徳を学ぶのは自然な成り行きです。

偉大な詩人、ヴァールミーキ〔ラーマの存命中にラーマーヤナを著した詩聖〕は、基本的に、ラーマを人類の理想的な手本として映し出していました。しかしながら、多くの場合、ヴァールミーキは、ラーマの中の神聖さと神性を見せることもしています。それと同じようにして、詩人トゥルスィーダース〔ラーマーヤナをアワディー語で再編集した詩聖〕は、理想的な人類の手本であるラーマの偉大な御名を世に広めるために、ラーマーヤナの美しい物語を綴りました。この二人の詩人の生涯には、ラーマの御名の力が見られたいくつかの出来事がありました。

ある時、神々の間で、自分たちの誰が一番偉大かという口論が始まりました。決着をつけるため、神々は皆でブラフマー神のところに行きました。世界を一番先に一周した者を一番偉大なものとする、ということになりました。それを聞くと、神々はそれぞれ自分の乗り物に乗って、世界一周に出発しました。ヴィグネーシュワラ(障害物を支配する者の意/ガネーシャ神の別名)は習慣としてネズミを自分の乗り物としています。乗り物がとても小さいので、ヴィグネーシュワラ神は後ろの方で、だいぶのろのろと進んでいました。その時、ナーラダ仙が現れて、地球を回るというのに、いったいどのくらい、そののんびりとしたペースで進むつもりなのかと尋ねました。ナーラダ仙はヴィグネーシュワラ神に、ラーマという文字を書いて、ただその周囲を回り、すぐにブラフマー神のところに行けばいいと助言しました。ヴィグネーシュワラ神はラーマの御名を書き、その周りを回り、すぐにブラフマー神のところに戻っていきました。ブラフマー神は、神々の中で一番なのはヴィグネーシュワラだと決定しました。

善い仕事に取り掛かる時には、いつでもまずヴィグネーシュワラ神を礼拝するというのが私たちの伝統です。こうしたわけで、ヴィグネーシュワラは、ガナナータ〔神群たちの主〕、すなわち、すべてのガナ〔神群〕の中で最も優秀な者、とも呼ばれているのです。ガナナータは私たちが着手する仕事のあらゆる障害物を取り除いてくれると信じられています。これは今では私たちの文化の一部となっています。

トゥルスィーダースは、人がどこへ行こうとも、何を感じようとも、ラーマの御名はその中に存在しているという事実を例示しました。そのようにして、トゥルスィーダースはラーマという御名の偉大さを宣言することで生涯を終えました。ラーマーヤナの中には、人が人生で直面するさまざまな状況に立ち向かうために力を得ることができるようにさせてくれる、いくつかの出来事が登場します。世の中の問題や霊的な問題においてのみならず、日々の生活の中においても、人間誰もがラーマの御名の恩寵を見聞きすることができます。

人間として生まれることには、三つの重要な理由があります。その三つの理由とは、罪、動揺、無知です。自分が犯した罪ゆえに、人はその罰として生まれ変わってきます。動揺する心が平安を欠いているがゆえに、人は生まれ変わってきます。無知、そして英知の欠如により、人は生まれ変わってきます。罪と、心の動揺と、無知を、一撃で取り除きたいと望むなら、その方法は、つねにラーマの御名を憶念することです。

学生諸君、ラーマという単語には、三つの文字が含まれています。それは「ラ」「アー」「マ」です。この三つの構成文字は、アムリタ ビージャ〔甘露の種〕やアグニ ビージャ〔火の種〕と呼ぶことができます。この三つの文字の中には、スールヤ〔スーリヤ〕とチャンドラ、すなわち太陽と月も含まれています。「ラ」という文字は、太陽と結び付くことのできる文字です。「アー」という文字は月と、「マ」という文字は火と結び付くことができます。私たちが太陽と結び付けた「ラ」の文字は、力を得て、その力によって光を照らし、すべての闇を払います。月と結びつけられた「アー」は、あなたの動揺を取り除き、平安を与えます。火と結び付けられた「マ」は、あなたの罪のすべてを焼き尽くします。ラーマという一つの御名が、このようにして、あなたの罪のすべてと、あなたの心の動揺と、あなたの無知を、一撃で取り除くのです。

ヴァールミーキは、ラーマという一つの御名以上に偉大なものはないということを立証しました。ヴァールミーキは、一般人が理解して利を得ることのできる方法を私たちにもたらしました。その方法というのはラーマという単語を発音することですが、ラーマ〔ラーム〕と言うのに、まず、〔「ラ」と〕口を開け、次に、〔「アー」で〕自分の中にあるすべての罪を口から出し、それから〔「ム」で〕口を閉じるというものです。そうすれば、その後は何もあなたの体に入ってきません。

実に、皆、ラーマの御名に含まれている偉大な力を認識していません。人は時おり、この単純な一つの名前を唱えることで本当に自分のすべての罪とすべての問題が取り除かれるのだろうかと思います。取り除くことができないというのは、人の中にある弱さから起こるものであり、ラーマの御名の力が弱いからではありません。ですから、最初にすべきことは、自分の信心を強めることです。

今日では、神の存在に関する疑いが世界中で大きく広まっています。私たちは今、ラーマーヤナのセミナーを行っていますが、多くの人が、どうしてこの現代にラーマーヤナのセミナーをする必要があるのかと尋ねます。その一方で、どうして人はラーマーヤナにまったく関心がないのだろうかと尋ねる人もいます。ラーマーヤナには古臭さも新しさもありません。人々は、古代の伝統と現代的なものの互換性や、神や神性について考えることの有用性について議論しているように見えます。なぜ人々は、食べ物を食べることや寝ることは現代的な考えなのか、それとも古い考えなのか、と議論しないのでしょうか? なぜ人々は神や神性に関することだけ議論するのでしょう?

私たちは今、食べ物を食べていますが、それはこれまでずっとしてきたことです。私たちは今でも顔を見ていますが、それはこれまでずっとしてきたことです。私たちは、この顔は私が昨日も一昨日も見た顔なのかと自問しますか? なぜ何度も何度も同じ顔を見るのか、などという質問を私たちはしますか? これは昨日も一昨日も食べ物を与えた胃袋と同じ胃袋だ、なぜ今日もまた同じ胃袋に食べ物を与えなければならないのか、と自問しますか? このように、なぜ私たちは自分たちの伝統や慣習について考えなければならないのか、なぜ毎日神に祈らなければならないのか、を理解することは難しいことではありません。

古代からの伝承である神聖な物語は、今日も明日も私たちを救ってくれる唯一の物語です。時は変わるでしょう。新しい時代がやって来るでしょう。世界は変わるでしょう。けれども、神性という側面は一つであり、同じであり、変わることはありません。つまり、「エーカム エーヴァ アドヴィッティーヤム」〔唯一無二〕です。真理はただ一つであり、それに匹敵する第二のものは存在しません。今の時代、人は変わり続けるものしか求めていません。なぜ永遠で変わらないものを求めないのでしょうか?

学生諸君、あなた方はこの国の末来の国民です。私は、あなた方が古代の文化を敬うこと、この古来の国にダルマを復興するために時代時代に降臨した神の化身たちの生涯の物語を学ぶこと、を望んでいます。私たちがラーマ ラージヤ〔ラーマの治世〕について語るとき、それは古い時代に戻るということを意味しているのではありません。それは、私たちは今の統治者たちにダルマに従って国を統治してほしいと思っている、ということを意味しています。「ヤタ ラージャ、タタ プラジャ」すなわち、「国民は王のようになり、王は国民のようになる」という格言にあるとおりです。統治者が国民を守り、国民に気を配り、国民の安寧を引き受けるのと同じように、国民も統治者の世話をし、統治者に正しい道を歩ませ、統治者と統治者の霊的なダルマに気を配るべきです。国民は体のようなものです。体はさまざまな異なる器官でできています。国民と統治者の間にある密接な関係は、体と心臓の関係のようであるべきです。体がなければ心臓も持てません。心臓がなければ、体は生きていけません。統治される者と統治する者の関係はそのようなものであり、お互いに切っても切れない間柄なのです。それが、ラーマ ラージヤ〔ラーマの治世〕と呼ばれるものです。

当時の国民は純粋で神聖でした。そのため、彼らはシーターに大いなる崇敬を示しました。間違ったことは決して見逃しませんでした。真実でないことは決して受け入れませんでした。これは、国民に神聖な強さがあったことを示しています。だからこそ、ラークシャサ〔羅刹〕たちの崩壊の始まりはあの時代に置かれたのです。

ラーマーヤナの中にはこうした偉大で神聖な状況のいくつかがあるのです。私たちは、この叙事詩の個々の登場人物の特性を理解する努力をし、ラーマーヤナが私たちに与えている教訓を得るよう努めるべきです。ラーマーヤナの物語の中に描かれている個々人やキャラクターは皆、全人類の手本である理想の人物として際立っています。

ラーヴァナは、通常、悪者としてとらえられていますが、ヴァールミーキはラーヴァナの中にもいくつかの善い性質を見せました。いくつかの所では、ヴァーリの善い性質もヴァールミーキによって描かれています。先に述べたように、偉大な聖仙は平等観を有しています。ヴァールミーキは聖者のような人格者だったので、ラーマの弱さを見せ、ラーヴァナの善い性質も見せました。ヴァールミーキは無私の人でした。また、現在・過去・未来を見ることができたので、マハリシと呼ばれていました。大聖仙、すなわちマハリシだけが、詩を書くに値します。ヴァールミーキやヴィヤーサのような詩人はマハリシです。それゆえ、彼らが何を書いても、それは永遠の真理と見なされ、いつの時にも真理であり続けます。現代の詩は、詩の中に多くの利己心が含まれています。詩が、詩人の利己的な私利を増すという目的のために利用されています。古代には、詩を国の繁栄を得るための道具、国民のためになる道具と見なしていた大聖仙たちが何人かいました。

明日からの数日間、ラーマーヤナのレクチャーの間に、私は私たちの学生たちが神聖な物語から偉大な手本のいくつかを得て、それを自分の心に深く刻みつけ、他の人たちの理想の人となることを望んでいます。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 1977 C1

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