サイババの御言葉:神 - 善の源

日付:1978年3月7日・場所:ブリンダーヴァン
マハーシヴァラートリの御講話より

神 - 善の源


シヴァラートリは、すべての人にとってたいへん縁起のよい日です。満月から新月までは二週間ほどありますが、この日はその14日目〔満月の日を1日目と数える〕に当たります。このとき月は欠ける過程にあり、太陽は宝瓶宮(ほうへいきゅう)に入っています。しかしながら、シヴァラートリ祭は、太陽よりも、むしろ月に関連しています。そのために、この日はシヴァラートリ〔シヴァの夜〕と呼ばれているのです。この特別な夜は、他の夜とは異なり、清めの夜、専心の夜、照明の夜です。

心(マインド)は月と密接に関連しています。チャンドラ(月の神)は心を司る神です。チャンドラは、満月の後、自らの光輝を日々16分の1ずつ失い続け、今夜、その力は残すところちょうど16分の1となります。欠けた月は、とりとめのない気まぐれな心が、霊性修行によって征服され、弱まったことの象徴です。この夜、さらに征服されるべき部分はほんのわずかしかなく、それは寝ずに神の栄光に浸ることによって達成できます。処方されているこの寝ずの行は、人が続けなければならない永遠の不寝番(ねずばん)の象徴です。また、断食の慣わしは、五感が強く求める快楽から五感をそらすことを象徴しています。一晩中バジャンを歌うことは、神が目の前にいることを一生にわたって意識することの象徴であり、この意識は私たち一人ひとりが育てるべきものです。シヴァラートリのために処方されている慣わしと誓願は、一年を通じて他の夜にはないものであり、この日それに従うことは、その処方が役に立つということを思い出させるためにあります。

自分がふける思いが自分の性質を形作る

人間には三つのタイプがあります。「多心の人」、「一心の人」、「移し心の人」です。最初のグループは、自分の感覚器官と心と知性がどこでも好き勝手にさまようのを許します。このグループに入る人は、とてもたくさんいます。三つ目のグループは、一つの対象から別の対象へと飛び回り、深く考えずに、軽率に一つの物事からもう一つの物事へとピョンピョン跳び移る人たちです。シヴァラートリ祭は、まさしく、二つ目のグループの特徴である、集中力と一意専心を得るのに都合がよい日です。この好機に、バジャンや、絶え間のないひっきりなしのキールタン(独唱)や、ナーマスマラナ(神の御名の憶念)をすることは、一意専心に到達する助けになります。

バジャンや、ナーマスマラナや、プージャー(儀式礼拝)をするのは、神を喜ばせたり、神の歓心を得たりするためではなく、自分自身の霊的進歩のためだということを、はっきりと理解しなければいけません。よく人々は、お金持ちや権力者、とりわけ、自分の雇い主がそうであるときや、そうした人に大きな借りがあるときには、おべっかを使って、自分が欲しいものを与えてもらおうとします。しかし、神は、人が神を称える歌を歌うからといって、恩寵を注ぐわけではありません。あるいは、人が神を崇めないからといってひどい目に会わせるようなこともしません。神の特質を歌ったり唱えたりすることは、崇高な理想を心に抱くことや、自らの本性である神に自分をいっそう近づけることを可能にしてくれるのみです。

人は自分の思考するものになります。絶えず理想を思念することによって、その理想は人のハートに刻み込まれます。いつも他人の悪事のことばかり考えていると、人の心はその悪に汚染されてしまいます。反対に、絶えず他人の善いところや他者の幸せのことばかり考えていれば、心の誤りは清められ、善い思考だけを抱くようになります。完全なる愛と思いやりの人には、いかなる悪い思考も浸入することができません。あなたのふける思考が、あなたの性質を形作ります。他人に影響を受けるのと同様に、人は自分の思考からも影響を受けます。たとえば、誰かの写真を撮るときにフラッシュをたくと、被写体である人の顔が照らされると同時に、写真を撮っている人の顔も若干照らされるのと同じです。

心にある思いの影響は避けられない

ゴミをいっぱい積み込んだ行政のトラックが通ると、離れた場所に立っていても悪臭に襲われます。それと同じように、思考は一瞬のもの、ささいなものかもしれませんが、それでも、それが心に及ぼす影響を避けることはできません。古代の聖賢たちはこの重要な真実を知っていたので、「ブラフマンを知るものはブラフマンになる」と明言しました。ブラフマンになる唯一の方法は、常にブラフマンの思念に浸っていることです。舌の上に塩の塊を載せていたら、どうやって蜂蜜や果物の甘さを味わうことができるでしょう? 舌の上に飴玉を載せていたら、どうやって塩味や辛味を知ることができるでしょう? あなたの心を善い思考に浸らせれば、世界は善いものになります。悪い思考に浸らせれば、あなたにとって世界は悪いものになります。ですから、善いことだけを思い返し、善いことだけを考え、計画し、実行し、善いことだけを話し、行いなさい。そうすれば、その結果として、あなたは、あらゆる善の源である神に近づくでしょう。これがシヴァラートリのメッセージです。

シヴァ神の「宇宙の舞」の意味

数秘学によると、「シヴァラートリ」という言葉の初めの三つの音節、「シ」、「ヴァ」、「ラー」には、「5」、「4」、「2」という意味があります。四つ目の音節「トリ」は「3」を意味します。5と4と2で、一つの全体像、すなわち、11のルッドラが重なった姿が作られます。「ルッドラ」は、「人に涙を流させる者」を意味します。11のルッドラとは、五つの知覚器官、五つの行動器官、そして、心(マインド)です。これらは、些細ではかない喜びの追求へと人を脱線させ、人を駄目にし、人に涙を流させます。しかし、アートマン(アートマ)を探求し、拠り所とするならば、アートマンはその11に光線を当てて、神我顕現に向かって前進する人の意味深いパートナーにさせます。アートマンから発せられる光線は知性を照らし、照らされた知性は心に警報を出し、警報が出された心は感覚器官を制御して、知識から英知へと歩を進める人の道を明るくします。

シヴァラートリのもう一つの意味は次のようなものです。シヴァ、すなわち、パラマプルシャ(永遠なる絶対者)は、プラクリティ(現象界)を引き付けることを望んで、自らターンダヴァ(宇宙の舞)を踊ります。この踊りは、物質である創造物を引き付けようという神の計画です。なぜなら、ラーマ(喜び楽しむ者の意)やクリシュナ(引き付ける者の意)の神聖な奇跡の一切は、人を神の面前に引き寄せるためのものであり、その目的は、人々を正すこと、清めること、あるいは、人々の信仰を固めることによって、人を奉仕という霊性修行へと導き、人が法悦に帰融すること、あらゆる法悦の源に帰融することができるようにすることです。つまり、チャマトカーラ(奇跡)はサムスカーラ(変容)をもたらし、パローパカーラ(人助け)へとつながり、最終的にサークシャートカーラ(真理の直視)を授けるのです。

ターンダヴァ ダンスは、あまりにも速すぎるため、その動きによって熱が発生し、それによってシヴァ神の体から火の元素が生じます。シヴァ神を冷やして快適な状態になってもらおうと、妻であるパールヴァティー女神は、シヴァ神の頭にガンガー〔ガンジス河の女神〕を乗せ、とぐろ状にねじ上げているシヴァ神の髪の間に三日月を置き、シヴァ神の体中にひんやりとした白檀の練粉を塗り、手足の関節に冷血の蛇を巻き付け、最後には、ヒマーラヤ(ヒマラヤ山脈)の娘である自分自身がシヴァ神の膝の上に座って、シヴァ神の一部となります。そのとき、シヴァ神は起き上がり、神々の、そして、すべての創造物の、計り知れない歓喜のために、プルシャとプラクリティーが共にダンスを踊ります。これは、プラーナ(神話の言い伝え)によれば、シヴァラートリの日に起こります。

霊性の道に近道なし

この神話の意味は、それによって主なる神を喜ばせ、神の恩寵を勝ち得るという、秘密の教えにあります。それほど聖化をもたらす意味深い日が、意味のない決まりごとや、有害な娯楽に興じることで祝われているというのは、何と残念なことでしょう。徹夜が定められていることから、映画を連続で何本も観たり、カードゲームをして過ごしている人もいます。眠ってはいけないからといってベッドでゴロゴロしている人が、自分は徹夜の誓いを守っているなどと言えますか? 魚をつかまえて飲み込むために一本足で川岸に立っているコウノトリが、自分は瞑想をしているなどと言えますか? 妻と喧嘩をしたために妻が作った昼食を食べるのを拒んでいる人が、自分は断食しているなどと言えますか? 霊性の道では近道や誤魔化しは不可能です。

シリーシャイラムのシヴァラートリ祭の話

シヴァラートリは、すべてのシヴァ寺院で祝われます。シリーシャイラム〔プッタパルティの北にある巡礼地と寺〕はシヴァ寺院として特に名高いところです。シリーシャイラムでのシヴァラートリのお祭りについて語られている素晴らしい話があります。山々が連なるシリーシャイラムのふもとの村に、初等学校に通うバーラ・ラーマンナという九歳の少年がいました。ラーマンナは学校で、友人の姉夫婦たちが、シリーシャイラムの山々で祝われるシヴァラートリに参加するために、こぞって実家にやってくると聞きました。

ラーマンナは、家に帰ると、「母上も、姉上と義兄上(あにうえ)をお祭りに送り出したらよいのに」と言いました。ラーマンナの母親は、「おまえにお姉さんはいないし、だから、義理のお兄さんもいないのですよ」と言いました。しかし、ラーマンナは聞こうとしませんでした。「僕も友だちとおんなじに、姉上と義兄上がいるはずです」。仕方がないので、母親はただラーマンナを静かにさせるために、こう言いました。「お姉さんとお義兄さんはいるけれど、二人はシリーシャイラムのお寺にいるの。二人の名前はブラマラアンバーとマリッカーアルジュナというのですよ」。こうして母親はラーマンナにシヴァ神とその妃の呼び名を教えたのでした。ブラマラアンバーは「蜂」、マッリカーアルジュナは「白いジャスミン」を意味します。これらは二神にぴったりの名前です。なぜなら、シヴァ神の妻は、蜂がジャスミンの花から滋養を吸うように、主からひらめきと指示と英知を吸収するからです。

自分の姉がシリーシャイラムのお寺にいると聞かされると、ラーマンナは、「では、僕が行って、姉上と義兄上に、家に来て、しばらく留まってくださいと頼んでまいります」と主張しました。ラーマンナは何か二人に贈り物を持って行きたがりましたが、母親は、「二人はずっと裕福ですし、年下の家族が年上の家族に贈り物をしてはならないのですよ」と言いました。母親は、お寺にお祭りを見に行く近所の人に、ラーマンナをいっしょに連れて行ってもらうことにしました。母親はその人にいくらかお金を渡して、ラーマンナのためにお土産を買ってもらえるようにしました。

ラーマンナは急いで山に登ると、お寺に駈けていって、大声で「姉上、義兄上!」と呼び、ブラマラアンバーの像の御足に平伏しました。そして、像を抱えて、ずるずると引きずりはじめました。自分といっしょに来てもらいたいと思ったのです。ラーマンナは、マッリカーアルジュナをしっかりと抱きしめて放しませんでした。とうとう寺のお坊さんがやって来て、この少年は気がふれているとして、ラーマンナを寺から追い出しました。

シヴァと妃はラーマンナの前に現れる

望みを失ったラーマンナは、高い岩に登り、「もし姉上と義兄上が僕といっしょに来てくださらないなら、僕はここから飛び降ります!」と言って二神を脅しました。そう言うやいなや、寺から大きな声が聞こえました。「義理の弟、ラーマンナよ、飛び降りてはならない! 我らはそなたと共に行く」。それからすぐ、ラーマンナの目の前にシヴァ神とその妃が現れて、いっしょに山の下の谷にあるラーマンナの小さな家へと向かいました。ラーマンナと母親は、神の至福で一杯になり、それゆえ二神に融合し、姿を消しました。この話は、シリーシャイラムのブラマラアンバーとマッリカーアルジュナ寺院の神聖さをさらに増すものとなりました。

当時の子供たち、そして、大人たちも、素直な心と、素朴なハートと、高い理想を持っていました。昨今では、皮肉な考え方と不信が暴れまわるようになりました。怠け心と無精の波が人々を押し流しています。人々は自分が語った一つの言葉に十の意味をこじつけますが、そのうちの一つも正しいものはありません。一つの話題が述べられると、人々は延々と議論と反論を始め、埃が舞い上がり、真理が無視されます。人々の生活は大いに見え透いたものであり、考えが浅はかで、そのため人々は神に手が届きません。

バーラ・ラーマンナは、混ぜもののない信仰心を持っていました。それゆえ、純粋な自分を神に献じることができ、ゴールに到達しました。あなた方は常に、物事に高次の意味を吹き込むことによって、低次の物事を高いレベルへと押し上げなければいけません。ラーマンナは石像を神だと信じました。神を石像のレベルに下げるようなことはしませんでした。写真や絵姿を神として礼拝するのは構いませんが、神を写真や絵だと思ってはなりません。木や石や陶を神と見なすのは構いませんが、神性を木や石や陶に限定してはなりません。

二面性のある態度は手放すべし

高い理想を持ちなさい。自分を高めるよう努力しなさい。最高の目標である神そのものに達成するよう精進しなさい。どのような障害物や反対があろうとも、気落ちしてはなりません。あなたの中にある動物性を手放して、人間的な美徳の内に自己を確立し、神性の獲得に向かって勇敢に進みなさい。今日はバクティ(信愛)に、明日は感覚の快楽に、その翌日には再びバクティに向かうというように、揺れ動いていてはなりません。あなた方は、万事上手くいっていると全面的にバクティを支持し、何か上手く行かないことがあると失望で一杯になります。規律を強いられると尻込みを初め、愛が注がれると、また我先にと出てきます。このような二面性のある態度は手放さなければいけません。

求道者たちが、何年も禁欲や放棄、ジャパやタパ(苦行)を積んで、見ようと努力している神聖原理が、ここに、今、あなた方の前にいるのです。自分に授けられた幸運に気づきなさい。私は、今日、この聖なるシヴァラートリの日に、あなた方がこれまで知ってか知らずか陥った過ちの一切に対する恩赦を与えました。吉祥の思考を持ち、吉祥の言葉を話し、吉祥の行いをしなさい。そして、その果報として、吉祥(マンガラ)の化身であるシヴァ神そのものに到達しなさい。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.14 C1

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