サイババの御言葉:ラーマはダルマの化身

日付:1978年4月17日・場所:サティヤ サイ女子大学、アナンタプル市
ラーマ神御降誕祭の御講話より

ラーマはダルマの化身


人の生涯は、まるで南京虫が うようよといる寝床
地上での人生は 病気だらけ
幸福は、遥か彼方の手の届かない所にある
これらの言葉は真実にほかならない

砂糖より甘く、バターより風味があり、
蜂蜜よりもずっと味わい深い、ラーマの御名
ラーマの御名を 喜びをもって絶え間なく唱えよ
それはまさに 神聖甘露そのものなのだから


女子学生の皆さん! 教師の皆さん!

インドには、ラーマの寺社がない村はありません。ラーマの御名はヴェーダの真髄です。聖者ヴァールミーキは自らの著書、聖なる『ラーマーヤナ』の中で、ラーマの生涯を乳海に喩えています。ダルマ、富、欲望、解脱〔人生の四つの目標〕を最も重要なものと見なすことは間違っています。これは半ば真理ですが、完全な見解ではありません。人生の半分は神の恩寵を得るための努力に費やされるべきであり、あとの半分は四つの面を追い求めることに用いて差し支えありません。完璧な人間性はそこにあります。

シュリ ラーマ チャンドラ〔ラーマ神〕は、心の湖に水源をもつサラユー川のようなものでした。つまり、ラーマが生まれた場所は心〔マナス、マインド〕であるということです。ラーマの弟のラクシュマナは、ガンジス川のようにチッタ(純粋意識)の山頂で生まれました。ガンジス川であるラクシュマナは、ラーマというサラユー川に流れ着きました。サラユー川に合流するガンジス川の流れのように、ラクシュマナは自分の人生をラーマに捧げました。サラユー川の流れとその水のおいしさは慈悲のようなものでした。ラクシュマナの信愛は愛の甘露でした。ちょうどガンジス川とサラユー川が合流するように、愛の原理は慈悲の原理に融合しました。ダルマは規則や規定だけに限定されるものではありません。ハートは慈悲と愛に満ちていなければなりません。すべての人は、真剣に『ラーマーヤナ』の理想を実践する努力をしなければいけません。

ヴァールミーキは、『ラーマーヤナ』を六つの「カーンダ」〔巻〕に分けました。すなわち、バーラ カーンダ〔少年の巻〕、アヨーディヤー カーンダ〔アヨーディヤーの都の巻〕、アーランニャ カーンダ〔森林の巻〕、キシュキンダー カーンダ〔猿の王国の巻〕、スンダラ カーンダ〔美の巻〕、ユッダ カーンダ〔戦争の巻〕です。「カーンダ」には「水」という意味があります。そして、もう一つ、「砂糖きび」という意味もあります。「カーンダ」は、「巻」を意味する美しい適切な名前であり、これはヴァールミーキによって名付けられました。

水とパラマートマ(神)〔至高我〕の関係は何でしょう? パラマートマは乳海の上に横たわっています。水は宇宙のあらゆる世界の支えです。(異なる世界が、大きさによってアンダ〔卵〕、ピンダ〔母胎から生まれたもの〕、ブラフマアンダ〔ブラフマンの卵〕と名付けられている。)最古のアヴァター〔神の化身〕であるマツヤ アヴァター〔魚としての化身〕は、水の中で生まれました。人間の誕生の基盤は母親の胎内の羊水です。水はあらゆる生き物にとって基盤となる支えです。

慈悲の果汁

「カーンダ」の二つ目の意味は、「砂糖きび」の自然に分かれていく部分と節に関係しています。砂糖きびには多くの節があるにもかかわらず、汁の甘さはすべて同じです。慈悲の汁は『ラーマーヤナ』を一貫して同じです。『ラーマーヤナ』を読んでいると、羅刹、ダルマに反する人々、悪名高い人々に関する伝記も出てきますが、真理、ダルマ、愛、慈悲からなる『ラーマーヤナ』の精髄をつかむことこそが、読者の第一の義務です。

市場でマンゴーの実を買ってきたら、皮と種を取り除き、中身と汁は大事にします。それと同じように、ダルマに適っていないことと、規則に反することと、悪習慣を取り除き、慈悲という果汁を飲まなければいけません。聖者ヴァールミーキは、慈悲と理想という、甘露に満ちた物語を後世に伝えました。ヴァールミーキは一切を放棄していたので、一人の王子の物語を褒め称える必要もありませんでした。では、ヴァールミーキが『ラーマーヤナ』を著した裏にあった動機は何だったのでしょう? ヴァールミーキは、ラーマは神であり、羅刹王ラーヴァナと他の羅刹たちを滅ぼすために降臨した、という事実を知っていましたが、この面は隠して、人間的な理想を打ち出しました。

聖賢たちはラーマをどう見ていたかを述べた、面白いエピソードがあります。聖賢シャラバンガが森で苦行をしていたとき、インドラ神がやって来てシャラバンガ仙を天国に招待しました。シャラバンガ仙は次のように言ってその申し出を断りました。

「今、まさにラーマがシーターとラクシュマナを連れてこの場を訪れようとなさっています。三人の御姿を拝することこそが、私にとっての天国です。」

ここでヴァールミーキは、ラーマの御姿を拝することは天国よりも価値があるということを伝えたのでした。

森にいたとき、ラーマは、聖賢アガスティヤのアシュラム〔隠遁者の修行の場である庵〕でしばらく過ごすために、シーターとラクシュマナを連れてやって来ました。アガスティヤ仙は、ナーラーヤナ神自らがラーマとして降臨した事実を知っていました。それでも、アガスティヤ仙はシーターの誘拐を円滑に進ませるために、三人に別の場所へ行くようにと指示しました。

「ラーマよ! あなたは家長(グリハスタ)です。私の家はアシュラムです。家長がアシュラムに住むことは戒律に反します。ここから25キロほど離れたゴーダーヴァリー川の岸辺に、パンチャヴァティーという所があります。その場所こそ、あなたがお住まいになるのに適しております」とアガスティヤ仙はシュリ ラーマに言いました。

この背後にある理由は、もしラーマとシーターがアガスティヤ仙のアシュラムに住むことになれば、ラーヴァナはアシュラムの中に入れず、シーターを誘拐できなくなる可能性があったからです。かくしてアガスティヤ仙は、シーターをパンチャヴァティーに留まらせ、シュールパナカー〔ラーヴァナの妹〕をおびきよせて、起こるべき誘拐の手助けをしたのです。

ラーマの人間的な特徴に従いなさい

ヴァールミーキは、ラーマがヴィシュヌ神ほどに勇敢であることは立証しましたが、ラーマはヴィシュヌすなわち神であるとは述べませんでした。ラーマが誕生した瞬間から、地上を離れるその時まで、ヴァールミーキはラーマを理想の人間として描きました。もし、そうではなく、ラーマの正体はナーラーヤナ神であるということが暴露されていたら、ラーマは一般人とは かけ離れたところに留まっていたでしょう。しかし、ラーマは普通の人々と行動を共にし、人々の間に紛れ込んで人類の兄弟関係と愛の理想を広め、分かち合いました。さもなければ、人々は理想を培う代わりに、礼拝という手段に訴えていたかもしれません。

『ラーマーヤナ』には、ラーマの性質の背後にある原理原則も述べられています。浄性、激性、鈍性の様相は、私たち全員に生まれつき備わっています。人間はそれらの複合体の具現です。これらの属性のどれをいつ培うべきか、どれを減らすべきか、どれを取り入れるべきか、を思い巡らす必要があります。激性が上昇傾向にあるときには、どのようにしてそれを抑制するのか? どのようにして改善するか? その正しい場所はどこか? その出所は何か? 鈍性はどのように減らすのか? 浄性の側面はどのように育くむのか? 等々といったことです。

若者として、ラーマは自分のグル〔聖賢ヴァシシュタ〕の勧告に従って、ヤグニャ(供犠)を警護するという決意を抱いて聖賢ヴィシュワーミトラに同行しました。ラクシュマナもそれに追随しました。ラーマとラクシュマナは、まるで二頭の子獅子のようでした。二人の輝きは森全体に広がっていました。ヴィシュワーミトラ仙は感動で身震いしました。というのは、まさしくナーラーヤナ神自身が自分に付き従っていたからです。

ちょうどその時、ドスンと大きな音がしました。ラーマは「あの大きな音は何ですか?」とヴィシュワーミトラ仙に尋ねました。ヴィシュワーミトラ仙は「すぐにわかる」と言いました。時を移さず、青年ラーマの目の前に、巨大な女羅刹が姿を現しました。ラーマはヴィシュワーミトラ仙の命令に従い、その女羅刹の首を刎ねました。その後、ラーマはミトゥラーの都に向かって進みました。道中、ラーマはアハリヤーという別の女性に遭遇しました。ラーマはアハリヤーを救って元の姿に戻し、シーターに巡り会うことになるミトゥラーの都への旅を続けました。ラーマはシーターに花輪を掛け、シーターを妻として迎え入れました。これら三人の女は何者だったのでしょう? 最初の女の本質は鈍性に満ちていました。二番目の女は激性で満ちていました。三番目の女、シーターは浄性で満ちていました。

ラーマは鈍性を破壊し、激性を改善し、浄性を受け入れました。したがって、私たちは激性と鈍性を取り除き、ラーマの好む浄性を育てなくてはなりません。人間は性格の中にこれら三属性を持っており、以上は『ラーマーヤナ』がそうした人間に教えている道徳的な教訓です。

さあ、ラーマの結婚式を見に行こう
ああ、素晴らしい女性たちよ
垂れ幕は真珠で飾られ、
街角の窓やベランダにはダイヤモンドやサファイヤが埋め込まれ
何百という慈善市には無数のサファイヤが輝いている
さあ、結婚式を見に行こう

(テルグ語の詩)

ミティラーの都の女性たちは仲間内で話していた
「女性たちは身に付けた重い宝石で輝いている
中庭の前で、ラーマはシーターに吉兆なる婚姻の紐を結ぶだろう
神がとりなした、この愛すべき夫婦
シュリ ラーマはシーターにお似合いだ」と

(テルグ語の詩)


ミティラーの都中は、装飾、ダイヤモンド、珠玉、サファイヤ、真珠 等々で輝き、街路は薔薇の花が敷き詰められて柔らかくなっていました。

何と素晴らしい光景!
光り輝く剣の数々
飾り立てられた馬たち
花吹雪
素晴らしい女性たち、素晴らしい宝石の数々
飾り付けられた宮廷の中庭
ラーマはシーターと結ばれる
何と素晴らしい光景!


かの地では、結婚式の式次第の中にタラムブラルと呼ばれる習慣があり、その儀式では、花嫁と花婿が見物人を喜ばせるために互いの頭に聖米のシャワーを浴びせ合って戯れます。ジャナカ王〔シーターの父〕は、帝王という身分にふさわしいタラムブラルとして、お米の代わりに真珠を用意しました。シーターが手のひらをお碗のような形に丸めると、その中に真珠が盛られました。シーターの体にはケンプ〔宝飾品に付ける濃い赤色の石〕の影が映っていたので、その色が手のひらの真珠に反射して、真珠はまるでケンプに変わったかのように見えました。シーターはそれらの真珠をラーマの頭の白い被り物の上に奥ゆかしく振りかけました。すると、真珠はまるで白いジャスミンの花のように見えました。ラーマの青い体の上にこぼれ落ちた真珠は、紺青色のサファイヤのように見えました。さて、同じ真珠が、シーターの手の中では赤茶になり、ラーマの頭の上では白になり、こぼれ落ちると黒になりました。この三色にはどんな意味があるでしょう? シーターは土(自然)の中から生まれました。生来、人間は激性〔赤は激性の色〕を授かっています。人間はラーマに受け入れられると属性が浄性〔白は浄性の色〕になります。これら二つの属性から離れて人は鈍性〔黒は鈍性の色〕に陥っている、ということです。

シーターは常にラーマに従う

ラーヴァナはラーマを無視してシーター(地上の自然)を熱望しました。シーターはラーマの財産でした。神がいなければ、自然すなわち創造物はありません。人がラーマのもとに避難するなら、シーターは必然的に付いて来ます。人が至高の魂〔神〕を無視して自然だけを熱望するなら、そこには邪悪な欲望が含まれている、ということです。結果として、ラーヴァナは自らの肉親全員を失いました。ラーヴァナは天国のようなランカーに滅亡をもたらしました。それゆえ、もし自然を楽しみたいと願うなら、人は神のもとに避難しなければなりません。神の恩寵は、全体的な成就をもたらす神聖な側面です。私たちはラーマを見習い、価値のないものを捨てて、崇高なものをつかまなければいけません。

ヴィシュワーミトラ仙は、ラーマと弟たちをヴェーダになぞらえました。ラーマは常に真理とダルマに従いました。「ヤジュル ヴェーダ」はダルマを提唱しています。それゆえ、ラーマは「ヤジュル ヴェーダ」です。ラクシュマナは、「ヤジュル ヴェーダ」に付随する「リグ ヴェーダ」です。バラタはラーマの御名を唱え続けていたため、「サーマ ヴェーダ」に喩えられます。シャトルグナは、「アタルヴァ ヴェーダ」のようでした。なぜなら、シャトルグナは外敵だけでなく内なる敵も征服し、兄たちに従ったからです。この四兄弟は、リグ、アタルヴァ、サーマ、ヤジュルという各ヴェーダとして、ダシャラタ王の家に生まれたのです。

『ラーマーヤナ』の中に悪だけを見る人々もいます。そのような人たちは、マンタラーやシュールパナカー、他の悪い登場人物だけに注意を向けます。そして、善良な登場人物には注目しないのです。「ヤッドバーヴァム タッドバヴァティ」――人は自分の想うものになります。ですから、登場人物たちの属性に注目(mark)して、それらをふさわしい場所に置く(park)ようにしなさい。ヴァールミーキは、ジーヴァートマ(個々の魂)とパラマートマ(至高神の魂)の関係を見事に明らかにしました。

ラーマは常に冷静で落ち着いていました。ラーマはダシャラタ王の単なる息子でもなければ、ヴィシュワーミトラ仙の弟子でも、ラクシュマナの兄でも、カウサリヤー妃の息子でも、シーター姫の夫でもありませんでした。ラーマとは、ハートに歓喜をもたらす力を意味します。これはバーラタ人の宗教です。これはラーマの原理です。これは聖賢たちが追い求めるものです。ラーマは自分が指名を受けた戴冠について伝えられたとき、喜びの笑みを浮かべました。その後、森へ行って14年間過ごさなければならないと伝えられたとき、ラーマは数時間前にそうしたのと同じように、美しい顔に喜びの笑みを浮かべました。ラーマは決してシーター以外の誰にも自分の感情を表すことはありませんでした。なぜなら、ラーマはシーターを自分の一部と見なしていたからです。ラーマは、この状況の変化を喜ばしいとも悲惨であるとも思いませんでした。特に身近な身内や友人とは悲しみや喜びの感情を交わすのは、普通の人間の特徴です。

ラーマは人々に喜びを授ける者として、ラグ一族の指導者として、カウサリヤー妃の息子として、褒め称えられてきました。「ラミャティ イティ ラーマハ」――ラーマは喜びを与える者。「ラミャティ」は超意識に関わる至福を意味します。私たちは五感を超える経験を深めるよう努力しなければなりません。物事を一つひとつ意味もなく心配するのは無知な人の性質です。喜びと悲しみの本質を掘り下げるなら、人は平常心を持つことができます。

ラーマは、「パティタ パーヴァナ」〔不可触民を清める者の意〕として賞賛されていますが、「パティタ」とは、体、心、理智のいずれかが弱い人のことです。ラーマはそのような三種の「パティタ」を救済しました。

シャバリー〔低いカースト出身の貧しい老いた女行者〕はその「パティタ」の一人でした。シャバリーは常にラーマを瞑想していました。毎日、シャバリーは、ラーマがその上に腰を下ろせるようにと、いくつかの石を掃除していました。長身のラーマが難なく入って来られるようにと、自分の住むアシュラムの東屋を刈り込んでいました。ラーマが口にするのにふさわしいかどうか見定めるために、あらゆる果実を吟味していました。そのため、シャバリーの行為はすべて、ラーマへの捧げものへと変わりました。それほどのことをしていたからこそ、ラーマはシャバリーの人生を聖化したのです。ラーマがシャバリーのアシュラムへ向かっていたとき、シャバリーが女であるために異議を唱えた聖賢たちがいました。しかし、ラーマはそれらを完全に無視して、真っすぐにシャバリーのもとへ向かいました。

今、私たちに必要なのは、新しい種類の社会でしょうか? あるいは新しい憲法制度でしょうか? それとも新しい教育制度でしょうか? 実は、そのいずれでもありません。今日、人間にとって必要なものは、心(マインド、思考)の清らかさです。陰気な心で「ラーマ、ラーマ」と唱えても役に立ちません。『ラーマーヤナ』の主要な目的は、マインドとハートを清めることです。

二番目の「パティタ」はジャターユです。羅刹王ラーヴァナがシーターを誘拐している最中、鳥の王ジャターユは、自分の老齢と、自分の能力が及ばないことを知っていながら、シーターを守るためにラーヴァナとの戦いを繰り広げました。戦いの中でジャターユは両翼を失いましたが、ラーマに報せを伝えるために、何とか息をつないでいました。ラーマはシーターを捜していたときにジャターユのか弱い声を聞きつけて、ジャターユの頭を自分の膝に載せ、自分の手でジャターユの体を優しく撫でてやりました。そうして、ジャターユはラーマの膝の上で息を引き取りました。シュリ ラーマの父ダシャラタ王は、ラーマが遠く離れていたときに命を落としました。ジャターユはラーマの膝の上で死ぬという幸運を手に入れました。それはダシャラタ王にさえできなかったことでした。

三番目の「パティタ」は、低いカーストの部族の首長であったグハです。グハは、シュリラーマの莫大な愛と情を得ることができました。ラーマが眠っていた間、グハはラクシュマナと共に不寝の番をしていました。二人は話し込み、グハはラーマの数々の性質を褒め称えました。目は閉じていましたが、ラーマは二人の話を聞いていました。グハは言いました。

「吉祥なる性質の宝庫であられるラーマ様に降りかかる困難はいったいどんな類のものなのか? なぜラーマ様は森で暮らさねばならないのか? ラーマ様がアヨーディヤーに戻れるよう、私が何とか努力してみよう。さもなければ、私は自分の命を絶とう」

このエピソードは、ラーマへのグハの愛と信愛の証明です。こうしてグハは、ラーマの親密な友情を得るに値するようになったのです。

ラーマが「パティタ パーヴァナ」という呼び名で知られているのは、以上の三種の「パティタ」を救済したからです。

ハートの中にラーマを探しなさい

ラーマを神としてではなく理想の人間と見なしても、成就に到ることはできます。私たちは自分の内に存在するラーマを顕現させなければなりません。私たちは五感を抑制しなければなりません。自分が見たもの全部を欲しがるのは間違っています。私たちは、どのような人生を深めるべきでしょうか? まず、自分の中にある人間性を探すべきです。ダルマに基づく道徳は、まさに人生行路に立つ外灯です。その光(ジョーティ)がなければ、人生は猿(コーティ)になってしまいます。猿には尻尾があるので「ヴァーナラ」と呼ばれています。人間には尻尾がないため「ナラ」と呼ばれています。ですから、私たちは猿のままでいないで、自らの人間性を証明しなければなりません。

実を言えば、動物や鳥は人間よりも遙かに善良です。動物や鳥は、生活のために銀行へ預金口座を開きに行きますか? 動物や鳥は、生命を維持するために何らかの穀物を育てていますか? 人間は、小さな胃袋を満たすためだけに、口では言えない惨めさに身をさらし、正道を外れた方法や邪悪な企みという手段をいくらでも使っています。もちろん、誰にでもある程度の必要な物はあります。しかし、何を成し遂げるにせよ、ふさわしい方法というものがあります。誰にでも伝わり、誰もが納得させられる適切な方法があります。残酷な行為や無慈悲な考えを手段に用いる権利は誰にもありません。教養ある人間として、私たちは必要な技能と才覚を確実に持っています。教養ある人間は、識別力を授けられています。私は、皆さんがこの種の識別力を伸ばすことを望んでいます。

皆さん全員が、ラーマの道に従い、自分は理想的な人間であるということを証明できるよう祝福し、私の講話を終わりにします。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Women’s Role C17

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