サイババの御言葉:瞑想の実践

日付:1979年・場所:夏期講習
第7回夏期講習における御講話より

瞑想の実践


人の生活はまるで南京虫がたかっている寝台
人の体は病気の巣窟
それでどうして歓喜が人のものとなり得よう?

神聖アートマの化身たちよ!

日常生活において、私たちは同じものに多様な姿形と名前があるのを目にします。1粒の種が木となって、別個の名前を持ってさまざまな性質を見せる、幹、枝、小枝、葉、花、果実をつけます。同様に、同じ純金がいろいろな宝飾品の形をとります。また、1つの炎が数々の色をした無数の炎を生み出します。同じように、原初の光であるパラマートマは1つですが、宇宙の万物に内在するアートマとして自らを顕現させているのです。この、多様性の中の一体性を見ることが必要です。

粘土は陶器に形作られ、純金は宝飾品に形作られます。粘土のかたまりは陶工の助けがなければ陶器になることはできません。純金の板も金細工職人がいなければ宝飾品に変わることはできません。同じように、電車を走らせるには運転士がいるべきであり、信号機を動かすには制御装置があるべきです。ですから、この広大で複雑な複合体である宇宙にも、宇宙を創造し、制御している何者かが存在するはずです。

地、水、火、風、空、心〔マナス、マインド〕、理智〔ブッディ〕、そして、エゴ〔アハンカーラ、自我意識〕は原質であり、宇宙はこれらでできています。土は基礎的な物質で、陶器は土でできています。ですから、土という原料が陶器の質料因です。陶工が意志(サンカルパ)を持っておらず、作業に関らなければ、陶器は生まれません。これは陶器の作用因です。同様に、プラクリティ〔自然界、原質〕は宇宙の質料因であり、ブラフマン〔神〕は宇宙の作用因です。種々の形と無数の物質を有するこのダイナミックな宇宙の多数の様相を創り出したのは、ブラフマンの意志です。私たちは、ブラフマンがこの無限大の中に自らを顕現したのだということを覚えていなければいけません。クリシュナはアルジュナに、一体性の中の多様性は無視して、多様性の中の一体性を見るようにと訓戒しました。この多の世界の不二一元というアートマの本質をよく理解しなければいけません。

瞑想(ディヤーナ)は、人がその一体性を認識し、ブラフマンの内在と超越を見ることを可能にします。瞑想を最も効果的に行うためには、毎日決まった時間に、決まった場所で、一定の手順に従って行うことです。たとえば、旅行に出かけたりするときには、この所定の順序が崩れて、いつもの場所で、いつもどおりの手順で行うことはできないかもしれません。それでも、毎日決まった時間に必ず瞑想を行うようにしなければいけません。瞑想が毎日正しい時間に行われれば、心が微細体〔粗体である肉体の内側にある体〕をいつもの環境へと連れて行き、心の中で所定の規則に従うことができるようにさせてくれます。それによって、見知らぬ土地でわき上がってくるかもしれない違和感を追い払うことができます。

瞑想をする理想的な時間はブラフマ ムフールタです。この時間帯は早朝午前3時に始まり午前6時に終わります。ブラフマ ムフールタとは、文字通り、ブラフマンの時間〔神の刻〕という意味です。ブラフマ ムフールタの時間帯の中から自分が瞑想する時間を決め、毎日同じ時間に規則正しく瞑想しなければいけません。

楽な姿勢で、背筋を伸ばして座ります。そうすれば、クンダリニーの力〔とぐろを巻いて眠っている潜在力〕の動きが妨げられません。クンダリニーの力は、神々しく光り輝く力として、人のムーラーダーラ チャクラ〔体の根を支える中枢〕の中に存在しています。クンダリニーの力が、スワーディスターナ、マニプーラ、アナーハタ、ヴィシュッダ、アーグニャーと呼ばれる、臍、胃、胸、喉の各部に相当する中間のチャクラである中枢を通って、サハッスラーラ チャクラという千枚の花びらの付いた蓮の花に向かって上昇する流れは、人を意識と霊的目覚めのさまざまなレベルへと連れて行きます。

瞑想中は、目をすっかり閉じてしまうことも、すっかり開いてしまうこともせず、半眼で鼻先をじっと見て、アーグニャー チャクラの光り輝く神の力に集中します。そうして、歓喜に満ちた気持ちで、両手をチンムドラーという、親指と人差し指の先を付けて他の3本の指から離す印に結びます。親指はブラフマン〔神〕を表し、人差し指はジーヴァ〔人〕を表します。チンムドラーはブラフマンとジーヴァの接近の象徴です。ジーヴァがどのグナ〔鈍性、激性、浄性の三属性〕と組み合うかは時間によって決まります。しかし、神は時間を超越していますから、ジーヴァと神が1つになるとグナはすべて消滅します。

瞑想の目的は、ジーヴァ〔人〕とイーシュワラ〔神〕を結び付けることです。トリプティ〔満足感〕の真髄は、ジーヴァ(人)とイーシュワラ(神)とプラクリティ(世界)が合体、結合している実在性です。個人の神性と、多様性の中の唯一性は、瞑想中にチンムドラーの印を結ぶことによって見ることができます。

この至福あふれる体験は、行為(カルマ)の結果を求める欲を捨てることによっても手に入れることができます。無私無欲の行為(ニシカーマ カルマ)は、創造主とジーヴァ〔人〕の特別な愛の結び付きを作り出します。庭の雑役夫を雇ったとしましょう。雑役夫は、とりあえず朝から夕方まで働いて、日当をもらって家に帰ります。雑役夫が本気で庭のことを心配することはありません。一方、その家の主婦は一日中、精を出して働きますが、賃金は一銭も支払われません。主婦は夫から何かを期待することもなく、無私無欲の深い愛情をもって自分の義務を行います。雑役夫が主婦のように家の主人にとって愛しい大切な者となることはありません。それと同じように、行為の結果を欲することなく行為をする者だけが、神にとって愛しい大切な者となるのです。

体は行為(カルマ)を行うために生まれます。人の時間(カーラ)は神聖な行いをするために使われるべきです。時間は神です。神は「カーラスワルーパーヤ ナマハ」〔時間の化身に帰命いたします〕と言って誉め称えられます。ですから、人は行為の結果を求めずに善行をすることに時間を活用しなければいけません。ただし、行為の結果の放棄は、表面的なものではなく、完全なものでなければいけません。

すべてを放棄して出家行者になった男がいました。あるとき、その行者がガンジス河の岸辺で瞑想に座っていると、近くに観光バスが停まりました。観光客がカンナダ語でしゃべっているのが聞こえるや、行者はすぐに瞑想をやめて観光客のところに行きました。

「どこから来たのですか?」と行者が尋ねると、観光客は、

「カルナータカからです」と答えました。

行者はとても喜びました。行者はカルナータカ州出身だったからです。行者はとても好意的になりました。観光客たちが自分の出身州からやって来て、自分の母語を話したからです。いろいろ尋ねることができたので、行者はとても嬉しくなりました。行者は、その観光客が自分の地元の、自分の地区の、自分の村の、自分の住んでいた通りから来たことがわかりました。彼らは実に、隣近所の人たちでした! 執着の波に押し流されて、行者が自分の父親はどうしているかと尋ねると、数年前に亡くなったと知らされました。それを聞くと、自分はすべての執着を手放したと思い込んでいた行者は、がっくりと悲しみに沈みました。行者が積んできた苦行の一切は役に立ちませんでした。

体への執着、親類縁者への執着が消えずに残っていれば、瞑想は功を奏しません。肉体は他人のためにニシカーマ カルマ(無私無欲の行為)を行うことに捧げられねばなりません。

瞑想で、宇宙の魂(サルヴァートマ)と個々の魂(エーカートマ)が一つであることを体験する努力をしなければいけません。一時の一意専心(エーカーグラター)は瞑想(ディヤーナ)ではありません。瞑想は、集中および瞑想の対象(ディイェーヤ)と一体になることによって支えられています。犬に10日続けて同じ時間に餌を与えると、その後も犬はちゃんとその時間になるとやって来るようになります。犬の忠誠はよく知られています。信心はとても大切です。実際、信仰(ヴィシュワーサ)は人の命を支える呼吸(シュワーサ)のようなものです。言い換えると、信仰は人の生命力です。信仰を欠いた生活は、生きながら死んでいるのと同じです。

最初、瞑想は易しくて面白いかもしれません。初めの数歩は励みになります。けれども、瞑想の階段のもっと上の段へと登りはじめると、思いもかけない障害が現れてきます。けれども、予期せぬ障害物によってやる気をくじかれてはなりません。勇気と確信をもって、それらを巧みに乗り越えていかなければいけません。それをやってやろうという強い意志のない人は、瞑想の修行に取り組むべきではありません。

心の弱い人には、もっと易しいもう一つの選択肢があります。それはニシカーマ カルマ(無私無欲の行為)です。そのためにはハートに愛の種を蒔かなければいけません。プレーマ(神の愛、無私の愛)と慈悲を放射しなければいけません。純粋な愛は人類同士の平安と調和を促します。無私の愛は妬みと敵意を敗走させます。ハートが愛で満たされると、憎しみがいられる場所はなくなります。愛が神に向けられると、愛は霊的なものとなり、信愛へと昇華します。人のハートは、椅子取りゲームの椅子のように1人しか座れません。プレーマがその椅子を占めることができるよう、神を瞑想しなさい。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 1979 C20

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