サイババの御言葉:クリスマスの目的

日付:1980年12月24日・場所:サティヤ・サイ大学男子学生寮
クリスマスの御講話より

クリスマスの目的


アヴァター(神の化身)の目的は人類に奉仕することです。神は愛と情と慈悲により、人間の神性意識を目覚めさせるために人間のレベルに降りてきます。神こそが人間の中心核であるにもかかわらず人が必死になって自分の外に神を探しているのを見つけると、神は人間の中に神がいるということを人に気づかせます。

諸君〔サイ大学の学生たち〕を絶対者との融合という最高の目的地へと到達できるようにさせるために、多くの過去生で得た功徳の報酬としてこのチャンスが授けられたのです。鳥が飛ぶには二枚の羽が必要です。荷車を引くには二つの車輪が必要です。目的地へと旅をするには、学びと確固たること、すなわち、ヴィッディヤー(霊性の学習)と苦行(タパス)が必要です。諸学においてはアートマの学問が最も神聖であると、「バガヴァッド ギーター」〔10章32節〕は述べています。これはアートマ ヴィッディヤー(真我の知識)、あるいは、ブラフマ ヴィッディヤー〔ブラフマンの知識〕と呼ばれています。ヴィッディヤーは道を示します。苦行はあなた方を目的地に到らせます。ヴィッディヤーと苦行は一つの目的を果たす二つの目です。

農地を耕して種を植えなければならない耕作期には、農夫は農夫としての義務に専念します。費用を見積もったり困難を予測している場合ではありません。収穫を得るためには、雨が降ろうが日が照ろうが、夜であろうが昼であろうが、農夫は仕事をしなければなりません。それと同じように、諸君ら学生にとっては、一生の中で今は活動的で油断なくいなければならない時期です。今はまさに人生の土台となる時期であり、人生の挑戦に立ち向かうために心を整え、人生の謎を解くために知能を磨く時期です。

グルは神のみであり、神以外は教師である

諸君は、ヴィッディヤールティ、すなわち、「ヴィッディヤーを求める者」と呼ばれています。しかし、ほとんどの学生がヴィッディヤーを求めずに五感の快楽を求めているのは不幸なことです。師と弟子の両方が理想から落ちてしまっています。弟子は演奏者であるべきであり、グル〔導師〕は指揮者であるべきです。弟子は武器の使い手であるアルジュナのようであるべきであり、グルはヨーゲーシュワラ〔ヨーギの主〕であるクリシュナのようであるべきです。弟子はプルシャ(人)であるべきであり、グルはプルショーッタマ〔最高の人、神〕であるべきです。それゆえ、グルはブラフマー、ヴィシュヌ、マヘーシュワラであり、パラブラフマー(至高神)であると称えられているのです。

グルは神のみであり、神以外は、よくても教師(ウパーディヤーヤ)か指導者(アディヤーパク)です。グルは無限の思いやりと英知により、最も有益な道を助言します。弟子は無限の信愛から、それに従って目的に到達します。アルジュナは主の助言を聞いた後にこう言いました。

カリシィエー ヴァチャナム タヴァ
―― 私はあなたの言うとおりにします

〔バガヴァッド ギーター18章73節より〕

諸君はアルジュナのような弟子であらねばなりません。そうであれば、戦いの続くこの悲惨な世の中で、平安と歓喜のうちに暮らしていくことができます。そして、諸君の人生を通じてバーラタの伝統と文化のすばらしさを身をもって示すことができます。

神は永遠不滅の力であり、全知全能です。神は原因であり結果です。神は陶芸家であり、土であり、陶器です。神がいなければ宇宙はあり得ません。神が意志して宇宙が生まれました。宇宙は神の遊戯であり、神の力の顕現です。人間は神の意志、神の力、神の英知の具現です。ところが、人間はその栄光に気づいていません。無知という雲がその真理を覆い隠しているのです。神は真理を覆っているベールを取らせるために、聖人、賢者、預言者を送りました。そして、人を目覚めさせて解放するために、神自らもアヴァター(神の化身)となって顕れました。

イエスの教えを実践する決意をしなさい

二千年前、けちな慢心と分厚い無知が人類の神聖さを汚していたとき、イエスは愛と思いやりの化身となってやって来て、人生の最高の理想を語りながら人々の間で生きました。あなた方はイエスが人生のいくつかの段階で詳述した教えに注意を向けねばなりません。

「私は神の使いである」

とイエスは最初に述べました。そうです。人は皆、この役を担い、神の愛と思いやりの模範として生きなければいけません。グルは目覚まし時計の役をしなければいけません。グルは寝ている人を目覚めさせ、その人の義務と自己を自覚させなければいけません。

ウッティシタ! ジャーグラタ!
〔起きよ! 目覚めよ!〕

とウパニシャッドが明言しているように、起き上がりなさい、目覚めなさい! そして、思考と言葉と行為の一つひとつにおいて、内なる神を証言しなさい。

今日、クリスマスが祝われています。イエスが語った言葉、イエスがした助言、イエスが与えた警告に心を向け、イエスが敷いた道に沿って日々の生活を送りなさい。イエスの言葉をハートに刻み、イエスの説いたことをすべて実践する決意をしなければいけません。

諸君に認められようとして争っている二つの観点があります。それは、パラマールティカとヴィヤヴァハーリカ、すなわち、霊的なものと世俗的なもの、実体を基盤とするものと外観を基盤とするものです。この講話が終わって、諸君がこの寮からプラシャーンティ・ニラヤムに向かって歩いているときに、道に蛇がいるのが見えたとします。実際にはそれはただの縄でしたが、諸君に恐いという気持ちがあったために縄が蛇に見えたのです。しかし、恐怖心が本当に縄を蛇に変えることはできませんから、懐中電灯で照らしてみれば、縄は縄であることがわかります。宇宙は目に見えているものであり、その実体は神性、すなわちブラフマンです。英知の光が輝けば、真理が明らかになります。宇宙は神性に包まれています。それは衣服です。

「死は命の衣である」

とイエスは明言しました。

イエスは誰のことも悪く思わなかった

イエスは神がすべてを意志しているということを知っていました。それゆえ、十字架の上で激しい痛みに苦しんでいたときでさえ、イエスは誰のことも悪く思わず、自分と共にいた者たちに、万人を神の意志の道具と見なすようにと訓戒しました。

「万人は一つ。万人に等しくあれ」

あなたの日々の生活の中でこの態度を実践しなさい。当然ながら、この真理への揺るぎない信心を持つのはとても難しいことです。アルジュナが訴えたように、心〔マインド、マナス〕は信仰から疑いへ、一つの結論からその反論へと跳びまわり、葛藤と混乱を引き起こします。しかし、心を征服することのできる方法が一つあります。

黒蜂は一番硬い木にも穴を開けることができます。ところが、蓮の花の蜜を吸っている間に日が暮れて、開いていた花びらが閉じて自分の体の上に覆いかぶさってくると、黒蜂は逃げることができずに蓮の花の中に閉じ込められていまいます。黒蜂は柔らかいものにはどう対処したらいいかわからないのです! これと同じように、心は悪ふざけをして、どんな領域にも気まぐれに跳ねていくことができます。けれども、神の蓮華の御足の上に置かれると、心は活動を停止して無害になります。心を完全に神に捧げるためには、世俗的な欲望に対する強い無執着が必要です。表面的な帰依心や浅い不動心では成功できません。堅い白檀の木を切り倒すには、重い鉄の斧が必要です。

無執着を育むこと、心の気まぐれを抑えること、あなたの内に潜んでいる神性を顕現させることは、人生の今の段階〔学生期〕に特有の権利です。神性は、行動の中に現されると、人類同胞への愛の奉仕へと花開きます。それはハートを妬みと貪欲のない清らかなものにしてくれます。

いつでも体を捨てる覚悟を持っていなさい

イエスは12年という長い年月、固い決意を持って人里離れた場所を行脚して、勉学に励み、霊性修行を積み、神を瞑想しました。もちろん人は体を守り、保持しなければなりません。体は神からの贈り物であり、輪廻の海を渡って神へと到達するための道具を積んだ小船です。それが人生の目的であり、体という小船が病気や怠惰や老衰によって浸水して崩壊しないうちに、目的地に辿り着かなければなりません。体と心と魂の健康を油断なき注意をもって育まなければなりません。それをしてなお、人はダルマとダイヴァ(善、神)を守るためにはいつでも体を捨てる覚悟を持っていなければいけません。この点においてイエスを手本としなさい。

イエスは、太古の聖典の根本的に正当な教えを守るよう、そして、それによって平安と歓喜を得るようにと、あらゆる人に熱心に説きました。イエスは、諸聖典にある、預言者たちが定めた儀式と戒律を、いつの時代にも有効なものとして遵守しました。そのために、人々はイエスの教えは間違っていると考えました。人々はイエスに対する個人的な憎悪によって動かされたのではありませんでした。

字句と真意――神聖に保たれている教義、聖なるものとして保たれているマントラ、厳密に遵守しなければならない様々な"べし"と"べからず"、そして、その根底にある真理――の不調和という問題はいつの時代にも起こります。

ヴェーダへの信仰も同様に、今、太古よりの伝統の支持者と、より深い理解を促す者たちとの間の不調和が見られます。そうした信奉者たちもヴェーダに基づいて教えています。

思考と言葉と行為は一致していなければいけない

道徳、倫理、物質、テクノロジー、そして、霊性の進歩を阻止する、この混乱と不調和を解決するための一番の方法は、人がきちんと人としてあるべき生き方をして、自らの真の姿である神の高みへと上がることです。これこそが、一なるものである永遠普遍の教えです。理智が組み立てる思考は、感情として心に映されなければならず、手によって行為へと変換されなければなりません。思考と言葉と行為は一致していなければいけません。これらは互いに従わなければいけません。聖なる人の印は、

マナッスィエーカム ヴァチャッスィエーカム カルマンニェーカム
―― 心一つ、言葉一つ、行為一つ

であることです。三つが一つであって、違わないことです。

クリスマス(Christmas)というのは、キリスト(Christ)の誕生日に開かれるミサ(Mass、マス、カトリック教会の祭儀)のことです。クリスマスは根本的に神聖な宗教儀式です。クリスマスを、飲んだり踊ったりするためのお祭りであるかのように扱うこと、さらには、イエスを思い出す日として扱うことさえも、大きな間違いです。クリスマスの日は祈って過ごさなければいけません。クリスマスの日だけでなく、日課として、祈るという霊性修行を深めなければいけません。世俗的なことを目的とした祈りは神〔至高神〕には届きません。それらは各領域を扱う半神たちに届くのみです。一方で、清らかな愛から生まれた祈り、奉仕をしたいという私心のない熱い願いから生じた祈り、すべてを思いやるハートから生じた祈りは、神に届きます。なぜなら、神はまさに愛の化身であるからです。月を見るには月の光を通さなければならないということを知っていますね。それと同じように、愛である神は愛を通してのみ、見ること、顕現させることができるのです。愛は神です。愛に生きなさい。これが私があなた方に贈るメッセージです。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.10 C39

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