サイババの御言葉

日付:1983年7月15日・場所:プラシャーンティ ニラヤム
食物に関する御講話より

食べ物と性格


イスラム教徒は神をアッラーと呼び、
キリスト教徒は神を父と子と精霊と呼び、
ヒンドゥー教徒は神をシヴァと呼ぶが、
同じ一つの神がいるのみである。
その全能なる神はパラマートマ(普遍なる魂)とも呼ばれている。
人の内にある切望がさまざまな名前で自分を表現しているのだ。
名前は違っても、一なる全能の神がいるのみである。
どんな名前を選んで神に名付けようとも、
神こそが、すべての人の運命を定める者。
神こそが、すべての命、繁栄、健康、体験を与える者。
つまりは、神こそが、すべてを与える者。
神は一つ、このことを信じなさい。


人類は、分けることのできない一つのものです。いまだに、人々に意見の相違があり、宗教間の対立が絶えず、カースト間に緊張関係があり、一つの国が別の国の敵国となっている状況が目に入ります。「こうした一切の対立の原因は何なのか?」を問われることがあるのは、今、この問いが非常に重要で、大きな関連性を持っているからです。あなたの周囲にあるものはすべて、サット(存在)・チット(意識)・アーナンダ(至福)・ルーパ(姿形)・ナーマ(名前)で構成されています。これらのうちの後の二つは「姿形」と「名前」です。この二つは自然界に与えられています。自然界にあるすべてのものは、絶えず変化しており、一時だけ姿形と名前を有しているにすぎません。自然界に永続性はありません。自然界には、確固たる名前と姿形のあるものは一つもありません。

サット(存在)・チット(意識)・アーナンダ(至福)は神の特性であり、神の特質です。この三つの特性は、ヴェーダーンタ〔ウパニシャッド〕の言葉では、それぞれアスティ〔在ること〕・バティ〔光明〕・プリヤ〔愛好〕とも呼ばれています。この神の三つの特性は、変えることのできない、永久のものです。三つのうちの最後にあるのが至福(アーナンダ)です。

人間にとって「アーナンダ」〔至福〕という語には大きな意味があります。至福を得ることは、人間の生涯の最終目的であり、成就です。至福には三つのタイプがあります。

一つめのタイプは、知識と教えから得る至福(ヴィッディヤー アーナンダ)です。これは生活を支えるものです。

二つめのタイプは、この世界、自然界、肉体の存在に関係する至福(ヴィシャヤ アーナンダ/五感の快楽)です。人間は、物質的、肉体的な快楽は性急に求める一方で、知識と教えから得る至福を探し求めることには乗り気でなく、この至福をおろそかにしています。知識と教えから得る至福と、肉体の存在に関係する至福は、永続するものではありません。どちらの至福の形態も、神の至福(ブラフマ アーナンダ)という土台の上にあります。

温かいお湯について言うなら、温かさは水の性質ではありません。水を温めるのは火です。先の二つの至福の形態は、熱と水のように、神の至福とは結び付いていません。神の至福(ブラフマ アーナンダ)は、神(ブラフマン)と密接につながっているものです。もう一つの例をあげましょう。ラッドゥーというお菓子はレンズ豆の粉で作ります。レンズ豆の粉は甘くありません。砂糖を混ぜることで、レンズ豆の粉は甘くなり、おいしくなるのです。

人々は、至福は自分の努力の結果だと考えています。それは正しくありません。なぜなら、至福は肉体の存在とは関係ないからです。人が自分の体を通じて感じる至福、人を幸せにさせてくれる至福は、神の至福です。平安で幸せな時はいつも、あなたは神の至福(ブラフマ アーナンダ)を体験しているのです。あなたの幸福感の主な原因は神の至福であり、それは神の意志です。幸せと平安は神の現れです。人生における人間の第一の目的は、神の至福を見出すことです。一時的な幸福を探し求めるべきではありません。本当の永続する幸せを探し求めなさい。

星は、「自分は光を与えて人を幸せにすることができる」といって自慢しますが、星は暗い時にしか輝きません。星はどのくらい長く自慢していられるでしょう? 月が出るまでです。月が出ると、月は、「暗闇に光を放ったのは自分だ」と思って慢心を膨らませます。天に太陽が昇ると、月は高慢をへし折られます。太陽が昇るやいなや、月は頭を垂れなければならなくなります。太陽は月と星のエゴを終わりにさせます。これと同じように、人は、神の至福(ブラフマ アーナンダ)を得ない限り、知識と教えから得る至福(ヴィッディヤー アーナンダ)と肉体の存在に関係する至福(ヴィシャヤ アーナンダ)の喜びを得ようと懸命であり続けます。人はこの二つの至福の形を重視しています。しかし、この二つは世俗的なものでしかありません。物質的なものに関する感情はすべて、一時的なものです。その感情はすぐに流れ去っていきますが、それを無視すべきではありません。人はこの世にやって来たのですから、神の至福を手に入れるまでは、少なくともこの二つの至福の形に敬意を持っているべきです。太陽が昇るまで、人は星の光と月の光に注目します。太陽が昇れば、もうそれらには注目しません。神の至福(ブラフマ アーナンダ)は、知識と教えから得る至福(ヴィッディヤ アーナンダ)と肉体の存在に関係する至福(ヴィシャヤ アーナンダ)の基盤です。

神の至福を得るにはどうすればいいのでしょうか? どのサーダナ(霊性修行/精神修養)をすればいいのでしょうか? 人が周囲のあらゆる争いを現実のものとさせている理由は何なのでしょうか? すべての人は等しく命を持ち、生死をまぬがれず、同じ種に属しているのではありませんか? 「あらゆる争いと不和の原因は何か?」――人々はいつもこの問いの答えを知りたがります。「なぜ片方には悪魔がいて、もう片方には永遠なるものが存在するのか?」――このラインに沿って探求する人は決して多くありません。ひとたび原因を知れば、努力が実ることでしょう。あらゆる争いと不和の原因は食べ物です。あなたが食べる食べ物があらゆる不和の原因です。あなたが食べる食べ物が、最終的にあなたがどうなるかを決めるからです。

食べ物には三つの性質があります。それは、サットワ〔浄性〕、ラジャス〔激性〕、タマス〔鈍性〕です。サットウィック フード〔浄性の食べ物〕だけを食べる人もいれば、ラジャスィック フード〔激性の食べ物〕だけを食べる人、タマスィック フード〔鈍性の食べ物〕をだけを食べる人もいます。浄性の食べ物と激性の食べ物の取り合わせを食べる人もいれば、三種全部の取り合わせを食べる人もいます。私たちは、人の行いの中に、食べ物の取り合わせを見出すことができます。私たちは、サットウィックな行い、ラジャスィックな行い、タマスィックな行いの中に、人々が最終的にあらゆる意見の違いと争いを持つようになることが見てとれるのです。なぜなら、誰もが同じ食べ物を食べているわけではなく、誰もが同じ理解のレベルに到達するわけではないからです。人が食べる食べ物が意見の違いをもたらすのです。

二人の人間の行いを比較するには、同じ母親から生まれた二人の息子の例を用いることができます。同じ母親から生まれても、行いの違いは、食べている食べ物の違いによって決められます。ラーヴァナとヴィビーシャナは同じ母親から生まれましたが、ラーヴァナはヴィビーシャナが授かったのと同じ考えと神聖さは授かりませんでした。その理由は、二人が食べた食べ物の根本的な違いによるものです。

二人の人間がよく理解し合えるのは、二人が自分の土台となるものとして同じタイプの食べ物を食べている場合に限られます。一人がサットウィックなものだけを食べていて、もう一人がラジャスィックなものだけを食べていたら、二人は絶対に良い関係を得ることはできません。一時的に表面的な関係を維持することはできるかもしれませんが、最後には二人は離れることになります。永続する友情は、サトウィックな食べ物だけを食べている者同士にのみ存在します。水は水には混じりますが、油には混じりません。サットワ、タマス、ラジャスの間の相互関係は、水と油の関係に喩えられます。

もしあなたが神との永久の友情の絆を結ぶことを望むのであれば、あなたの習慣と思考がサットウィックで、根本的に本来神聖なものであらねばなりません。神は、本来純粋なサットワ〔浄性〕です。もしあなたが神との友情を結びたいのであれば、あなたの行いはサトウィックな性質を映し出すものでなければなりません。なぜなら、神は本来サットウィックだからです。心(マインド)の状態と形を決めるは食べ物です。そして、心こそが神を避難所としなければならないのです。

しばし神との親近感を体験する人もいますが、その親近感は長い間続かない可能性があります。神との結び付きはサットウィックな感情がある間だけしか続きません。もしサットウィックな性質の導きよりもラジャスィックな性質が優勢になりがちであれば、その人はゆっくりと神との関係を失っていくでしょう。もしその人の神聖さと清らかさが減少するなら、その人は確実に神から離れていくでしょう。その人はその離別の原因を探し続けます。神との関係を壊したのはその人自身です。それを神のせいにすることはできません。神との関係を永続する永久のものにするには、あなた自身のサットウィックな性質を発達させなければなりません。

人は、いつでも、どこでも、サットウィックな食べ物を食べるよう努力すべきです。そうして初めて、神との友愛のきずなを得ることができます。正確には何を指してサットウィックな食べ物というのでしょうか? 穀物の粉、牛乳、果物、豆類は、サットウィックな食べ物です。人を幸せにする食べ物、つまり、食欲をそそり、ジューシーで、オイルが含まれていて、美味で、風味があり、おいしい食べ物は、しばしばサットウィックな食べ物に匹敵します。こうした食べ物は、私たちがサットウィックと呼んでいる精妙な成分を含んでいます。それは活力と結び付いています。サットウィックな食べ物と関係しているのは、オイル〔常温で液状の植物油〕であって、脂肪ではありません!

次は、どのくらいの量の食べ物を食べるべきかという問題です。腹八分にすべきです。もし軽やかに、軽やかな気分で食卓についたなら、同じ状態で食卓を離れるべきです。そうであれば、その食事は本当にサットウィックな食べ物です。神に帰依する人は、概して一日一食にすべきです。一日三食の人はローギ(病人)です。一日二食の人はボーギ(享楽者)です。一日一食しか食べない人はヨーギです。不幸なことに、たいていの人は、毎日の食事の回数も、食べ物の種類も、自制していません。手に入るもの、食べたいものを何でも食べています。そして、自分の喜びと満足を求めて食べ続けます。

いずれにせよ、食べ物は、あなたの健康によいものでなければなりません。健康を損なってはなりません。健康(health ヘルス)は富(wealth ウェルス)です。霊的修養に健康は不可欠です。あなたが従うあらゆる規律と法は、あなたの健康を守るものであるべきです。実のところ、ダルマ(正しい行い、道徳)、アルタ(富、繁栄)、カーマ(正当な望みを叶えること)、モークシャ(隷属からの解放)は、健康を守るためにあるともいわれています。

タマスィックな食べ物とは何でしょう? 料理をしたら、その食事を他の人のためにとっておくべきではありません。タマスィックな食べ物になってしまうからです。熱した食べ物は、すっかり冷めるとタマスィックな食べ物になります。臭うようになった食べ物もタマスィックな食べ物です。料理した食べ物を、一日や二日、あるいは、長期保存してはなりません。なぜなら、タマスィックな食べ物になってしまうからです。料理したらすぐに食べなさい。時間が経てば経つなるほどタマスィックな食べ物になります。昨今では、巡礼を続ける神の信者の多くが、米のパフ〔シリアル〕や、オイルと豆粉で作られた食品など、腐らない食品を選んで持っていきますが、自分がタマスィックな食べ物を食べているということを理解していません。

タマスィックな食べ物とラジャスィックな食べ物は、心(マインド)を奴隷にさせます。食物の粗雑な部分は、糞便として排泄されます。食物の精妙な部分は、血液の形をとります。粗雑と精妙の中間の部分は、体の筋肉になります。あなた方がエッセンス〔真髄/エキス〕と呼んでいるような部分は、心という形をとります。

同様に、飲む水も清らかであるべきです。もし水が清らかであれば、水の粗雑な部分は尿として排出され、水の精妙な部分はプラーナ〔生気/生命力〕を形作ります。水は生命という形をとります。食べ物は心という形をとります。今、皆さんは、あなたが食べたり飲んだりする物と心の関係がいかに密接であるかを理解しましたね。だからこそ、霊性の求道者(サーダカ)は、食べ物に関する厳格な規則と規定を守っているべきなのです。もしあなたが自分の食習慣を完全に管理しないなら、あなたのサーダナを進めることはできないでしょう。

ワインと肉は、多くのタマスィックな性質をもたらします。肉はあなたの中の悪魔的性質を高めます。軍隊の兵士には肉食が必要なこともあるかもしれませんが、霊性の求道者には不要です。

人は、食べる物の種類を基に二つのタイプに分けることができます。アマラ(不死)タイプと、アスラ(悪魔)タイプです。激辛な食べ物、非常にスパイシーな食べ物、非常に酸っぱい食べ物は、ワインや肉に匹敵します。皆さんがピクルスと呼んでいるものは、文字通り「塩漬け」を意味します。塩はワインよりも悪影響を及ぼします。私は、高血圧の人は塩を使わないよう忠告します。なぜなら、塩を加えることで血液が汚れるからです。ですから、塩味と酸味とスパイスが強く効いた食べ物を食べてはいけません。そうした食べ物を食べると、ある種の偏向傾向を持つようになり、神への道を行かずに、自分の中の悪魔的な性質を強めることになるでしょう。そのような人は、憎悪や怒りといった性質を強め、復讐心を燃やします。

六つの悪い性質があります。それは、欲望、怒り、虚偽、エゴ〔我執〕、慢心、それから、テルグ語で「マーッツァルヤ」と呼ばれるものです。これは、「嫉妬、憎しみ、復讐心に燃えること」です。おそらく、あなたの中にはエゴの要素や怒りがあるでしょう。けれども、決してどんなマーッツァルヤの性質も得ることのないようにしなさい。マーッツァルヤの性質を通じて、あなたはまず復讐する好機を狙い、他の人々から離れようとするでしょう。マーッツァルヤという性質は非常に悪い性質です。たとえあなたが鋭い刀や蠍や蛇の毒をくらったとしても、これらはどれもマーッツァルヤの性質ほど有害ではありません。マーッツァルヤの性質を持っている人は、おそらく、すべての生き物の中で最悪です。

あなたが神の帰依者だと思っている人たちの中にも、こうした性質を見出すことがあるでしょう。それは、望みを叶えてもらえなかった、あるいは、神に祈りを聞いてもらえなかった、という理由によるものです。おそらく神は、その人に警告し、それと同時にその人がどんな間違ったことをしたかをわからせたかったのでしょう。これは、信者のハートに憎しみと敵意を芽生えさせることにつながることがあります。その憎しみの根源はマーッツァルヤです。その憎しみによって、信者は自分を神から引き離します。人々のこの悪が、悪魔と呼ばれているのです。こうしたマーッツァルヤの性質を持っている人が、アスラ(阿修羅)、すなわち悪魔と呼ばれているのです。ですから、悪魔というのは、奇怪な姿や醜い姿をしている者のことではなく、悪魔の性質を持っている人のことをいうのです。その一切の土台と原因になっているのは、あなたが食べる食べ物の性質です。

最近の人々は、お腹が空いているから食べるのではなく、味わうために食べています。空腹というのは一種の病気です。空腹という病気を癒すには、味はさておき、自分の病気を治すことのできる薬を調合すべきなのに、人はおいしい食べ物を探しに行きます。空腹は病気の一種であり、食べ物はその病気を癒す治療薬です。ところが昨今では、食べ物という形をとった治療薬は、人々の嗜好に訴えるものでなければならなくなっています。けれども、それは治療薬が治療という性質を失うことにつながります。人々は、食べ物をよりおいしくしようとして、塩を少々加えたり、唐辛子やタマリンドを加えたりますが、そうすることで食べ物の負の性質を増やしているのです。

皆さんは、数え切れないほどの年月にわたってさまざまなサーダナを積んでいる帰依者は相当の向上を遂げているのだろうと思っているかもしれませんが、そこにはまったくの悲劇があります。その悲劇というのは、穴だらけの樽に喩えられます。穴だらけの樽には何も保存できません。人々は、神の御名を唱えたり、ディヤーナ(集中の行/瞑想/座禅)をしたりしているかもしれませんが、心が静寂を保ち続けること、あるいは、十分な平安を保ち続けることは、めったに、あるいは、まったくありません。人々は、巡礼をし、聖河で沐浴し、偉大な聖者を訪れ、書物を読み、さまざまな類のサーダナをしますが、心は同じままです。それらの行為が心(マインド)に届いていないのです。人の心にとって、そうした努力の一切は、ほんのわずかな価値しかないということは明らかです。もしそうでないなら、人は平安と満足を味わい続けているはずです。その理由は、人が自分が食べる物を変えていないことにあります。食習慣を変えないかぎり、サーダナは何の結果ももたらさないでしょう。ひとたび食習慣を変えれば、サーダナは功を奏するでしょう。

人々は、すべてのヴェーダ、すべての聖典や他の書物を読み、すべての聖地を訪れることもできますが、それらの行為に心の変容が伴わないかぎり、至高の実在と対面することはできないでしょう。もし至高の実在を確証したいと望むのであれば、少なくとも、自分の中にあるわずかな神性のいくつかを開発しなければなりません。その最初のステップは、他人を批判しないこと、あるいは、他人を傷つけないことです。あなたはおそらく、誰かのことは好きで、誰かのことは好きではないかもしれませんが、好きではない人のことを批判してはいけません。あなたが誰かを好きにしろ、好きでないにしろ、好みはあなたの性格にかかわるものであり、相手の性格にかかわるものではありません。たとえば、あなたがマラリアにかかって熱が出て、お菓子をおいしく感じないとします。それは、お菓子のせいではなく、あなたのせいです。

人を批判すること、攻撃することは、大きな罪です。人類同胞を批判することでさえ大罪であるならば、神を批判する人のことは何といえばよいでしょう? まずは、人を批判するという性質を自分の中からなくしましょう。人類同胞を批判しない人こそが、私の帰依者です。

すべての人が神と等しいのです。これは、バガヴァッド ギーターの中でクリシュナがアルジュナに語ったことです。これは、モハメッド(ムハンマド)がイスラム教徒に語った真髄です。「アッラー」という語は「エーラハ」(Elah)という語から来たものです。「エーラハ」とは全託を期待することを意味します。もしあなた自身を神に全託するならば、あなたはアッラーと一つになります。アッラーとは神を意味します。神にはどんな名前でも姿でも描写でも付けることが可能です。異なる名前と姿はすべて、同一の神の名前であり姿です。人々が神に付ける名前と姿は、個人の好みによるものです。

もし私たちの組織に何か神聖なものをもたらしたいと望むのであれば、まず自分たちのハートと意識に良い状態をもたらさなければいけません。自分たちのハートと意識を磨いて浄化しなければなりません。今この瞬間、あなたの頭はいろいろな考えでいっぱいです。あなたの頭を空っぽにすることは可能ですか? もし頭が空であれば、良い考え、役に立つ考え、良い結果を生む考えを、自分の頭に入れることができます。人の頭には非常に多くの考えが入っています。必要なのは、一つのポイントに争点を絞った一つの興味です。

目にとって一番大切なのは、見ることです。耳にとって一番大切なのは、聞くことです。鼻にとって一番大切なのは、においを嗅ぐことです。すべての人にとって一番大切な性質は、神への愛です。この性質こそが、帰依者とそうでない人とを区別するのです。帰依者はずっと神のことを考えています。帰依者はずっと神への想いに浸っています。真の帰依者は絶えず神に集中し、神だけに依存しています。

感覚器官にはどれも特定の機能があります。鼻の機能は、吸い込む空気を浄化することです。そのおかげで、血液が空気を供給して体を健康に保つことができるのです。これが最も重要な鼻の機能です。いびきをかいて鼻を鳴らして鼻に負担をかけると、クンダリニー シャクティという万人に内在する霊的エネルギーにダメージを与えることになります。

どの感覚器官も一定の規則と規定に従わなければなりません。クリシュナは次のように言いました。

「おお、舌よ、おまえは自分が何を摂取すべきかを知っている。果汁の甘味を知っている。精査して、まったく摂取する意味がないとわかったものを追いかけることで、二枚舌になってはならない。その代わりに、自分の時間を神聖で愛に満ちた神の御名を唱えることに使うのだ。ゴーヴィンダ、ケーシャヴァ、マーダヴァ〔クリシュナの御名〕と唱えるのだ。自分を健康にしてくれる種類の食べ物を食べなさい。人に勇気を与える、甘美で優れた言葉を話しなさい。舌は、人を批判するため、攻撃するため、食べたいものを何でも食べるためにあるのではない!」

それから、私たちは耳を持っています。耳は、周囲の音を何でもあなたに聞かせるために与えられたのではありません。あなたは次のように言わなければなりません。ブッディ(直感的な識別力)は耳にこう警告します。

「おお、耳よ、いたる所ですべての人に耳を傾けて、自分の時間のすべてを使ってはならない。おまえはそれらを喜んで聞いている。ところが、神の御名が聞こえてくると、無関心になり、不満に思うのだ」

ラーマは耳について次のように述べました。

「おまえの注意が、何か世間のもの、たとえば、周囲の人の会話に向くと、おまえは一言も聞き逃さないように細心の注意を払ってそれを聞く。しかし、それが神の御名に関すること、神の名前を歌ったものであったなら、おまえはもはや興味を失う。おお耳よ、おまえは人の批判とゴシップには、いつでも準備万端ですべての注意を払うが、神に関することにはまったく興味を持たない。神が話題に上ると、おまえはそっぽを向いてしまう!」

目も同様に教訓が与えられています。

「おお、目よ、映画とあらば、おまえはどんなに苦労が度重なっても気にとめず、いつでも出かけたがる。これは、根本的に意味のない、無益な行為だ。おまえはもっとよく見ようとして双眼鏡さえ手に入れようとする。ところが、神に集中しなければならなくなると、それが一秒でも躊躇する。おまえは寺院の中に入って神仏の像の前に立っても、目を閉じてしまい、神仏を見ない」

お神輿で神仏の像が運ばれてきても、あるいは、サティヤ サイ ババが外に出てきても、目は同様に奇妙な行動をします。目が今起こっていることを見たがらないので、人は窓を閉め、部屋に閉じこもってしまいます! この行動は、悪魔的な性質と、性格の難点の結果であり、それは食べ物によって、その人の心の中で発達したものです。そのような人は、悪魔すなわちアスラと呼ぶのが一番です。

あなたがどんな人になるかを決めるのは食べ物だけではありません。あなたの習慣もそれを決めます。雨が降っても、種を撒かなければ収穫は期待できません。種を撒いても、雨が降らなければ同様に収穫は期待できません。あなたは種と雨の両方を確実にしなければなりません。ですから、雨が降る前に、早く種を撒きなさい。そうすれば成功を得るでしょう。それと同じように、あなたの霊性修行に、神の注ぐ恩寵が伴うことを確実にしなければなりません。種は、雨が降って初めて芽を出すことができます。まず、あなたは種を撒かなければなりません。それから、雨が降らなければなりません。同じように、あなたは自分が食べる物と霊的なエネルギーの両方に注意しなければなりません。そうしていれば、あなたは神の恩寵を確実なものにすることができます。

壁に神の絵姿を掛けて、プージャー〔供養礼拝〕として神に祈る帰依者たちがいます。彼らはあまりにも性急で、神は来てくれなかったと言います。プージャーを始めるや、すぐに神が現れることを期待しているのです! 彼らは早速しびれを切らします。プージャーをするのはよいのですが、静かに待っているべきです。一適の水でタンクを満タンにすることはできません。唾液だけで喉の渇きを癒すことはできません。始めたばかりで、すぐに結果を期待するのは愚かです。話す言葉すべて、見るものすべて、聞くことすべて、そして、ハートが、すべて神聖なもので満ちているべきです。そうであれば、成功を望むことができます。

まず、食べ物に注意すべきです。食べ物は清らかであるべきです。それと共に、行動も非の打ちどころのないものであるべきです。食べ物と行動の両方がきちんとしているべきです。すべてのヴェーダを唱え、ヴェーダーンタを学び、あらゆる霊性修行をするのはよいのですが、その一切はハートと意識の浄化を伴わなければなりません。それには食べ物が大変重要であるということを心に留めておきなさい。

私たちの体は水の入った袋に喩えられます。それは永遠に長持ちするものではありません。いつ何時も、どの瞬間も、そして、どこでも、人はこれから何が起こるか確かではありません。いつ何時も、最期に備えているべきです。そして、絶えず神を思っているべきです。多くの人が、自分は幸せだ、快適だと言います。彼らが自分の言っている言葉を理解していないのは確かです。これは愚かさです。彼らは、他には何も必要な物はないと言います。これは最大級の愚かさです。そして、実を言えば、人が快適さを味わっているのではなく、快適さが人を味わっているのです。もし実際に人が快適さを味わっているならば、人はその効果を体験しているはずです。なぜ人はどんどん弱くなっているのですか? なぜなら、人は何も体験していないからです。あなた方には、食べる物、身を守る衣服、避難する家があります。それから、愚かさが始まります。あなた方はこう考えはじめます。

「私には家がある。着る服がある。食べる物がある。私の家は、幸せで元気な子供たちでいっぱいだ」

実は、これらの物はすべて、あなたを支配下に置いて、あなたの快適さを侵害しているのです。あなたはそれに気づいていません。それどころか、自分はすべてを理解し、すべてを体験している、とあなたは考えています。あなたが体験しているものの光景を創り出しているのは、あなたです。しかし、それはあなたの本質とは一致しません。そうしたこの世の喜びと快適さはどれも、あなたに平安と快適さを授けることはできず、ただ痛みと惨めさをもたらすだけです。

神だけが、あなたの進化において、あなたをより高い段階に連れて行くことができます。見つけなければいけないのは上に行く道であり、あなたを下に連れて行く道ではありません。人に多くの負の性質があるのは、エゴと執着のせいです。エゴを取り除き、あらゆる執着を切り落とし、正しい食べ物を選び、あなたの食習慣をコントロールし、人生で成功を収めなさい。サットウィックな食べ物を食べなさい。そうすれば、あなたの神聖な性質が顔を出すでしょう。聖なる世界はサットウィックな食べ物からやって来ます。

人を批判してはなりません。バガヴァッド ギーターは私たちに第一の規定を与えています。それは、「アドヴェーシタ サルヴァ ブーターナーム」――何ものをも憎まず、誰も非難しないこと、です。いつでも誰かのために役立つことや奉仕することはできないかもしれませんが、いつでも友好的な態度で話すことはできます。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Bhajanavali Cassette Vol.20

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