サイババの御言葉

日付:1985年12月25日・場所:ブリンダーヴァン
クリスマスの御講話より

一なる神 ―― すべての信仰の基本的真実


すべての宗教、すべての経典、すべての霊的な教えは、1つの真実、すなわち、神性の一体性を指摘しています。あなたは何でも自分の好む信仰を持つことができます。しかし、他人の信じていることをけなしてはいけません。それは偽の信愛です。

一部のキリスト教の伝道者たちがふけっている宣伝活動は、他の信仰に中傷を浴びせ、イエスの人格に大きな害を及ぼしています。

おお、人よ!
善行と犠牲を通じて、愛の気持ちを育てなさい
邪悪な性質を取り除きなさい
そして、価値ある人生を送りなさい


愛の化身たちよ! この世に時間ほど貴重なものはありせん。1分たりとも時間を無駄にすべきではありません。現代人は、無私の奉仕に時間を充てる代わりに、利己的な追及に時間を浪費する傾向があります。現代人は、他人の助けは喜んで受けますが、人助けをしたいという気持ちがありません。

2種類の人間がいます。堕落した人間と高潔な人間です。堕落した人間とは、他人に何かを求めたり受け取ったりしていながら、その恩を返す義理を忘れ、さらには、自分を助けてくれた人にさえ害を加えようとする人です。高潔な人間とは、当然のこととして人助けをする気持ちを持っている人です。高潔な人間は、いったん何かを約束したら、どんな困難や障害があってもそれを守ろうとします。高潔な人間は、人が何と言おうと、何をしようと、約束を破りません。

神への旅

バーラタ〔インド〕文化は、4つのプルシャータ(人生の基本的な目標、すなわち、ダルマ〔本分を果たすこと〕、アルタ〔富を得ること〕、カーマ〔欲を満たすこと〕、モークシャ〔解脱すること〕)に重点を置いており、人生は神への旅である、つまり、モークシャを得ることである、と見なしていました。しかし、富と五感の快楽の追求にはまっているような人たちが、どうやってモークシャへの欲求を募らせることができるでしょう? 現代人は、自分の本性や本当の運命を見出そうとしません。人々は、バーラタの聖仙や賢者によって世に与えられた偉大な真実の数々を忘れ、人間に潜在している神になる力に気づくことなく、全く意味のない生活を送っています。

例えば、人にナマスカール〔敬意を表すこと〕をする際に両手を合わせる、というシンプルなジェスチャーがあります。このジェスチャーの内的意味は何ですか? その1つは、2つの手のひらが一緒になることは多様性を包含している一体性の実証であるということです。もう1つは、主への全託として5つの感覚器官と5つの行動器官を捧げるという意味です。イスラム教徒はあいさつの形として「サラーム」という言葉を使います。この言葉は何を意味するのでしょうか? 「サラーム」の「サ」は「サット」のことであり、真理・気づき・至福(サット・チット・アーナンダ)の権化である主を指しています。「ラ」は「ラヤム」(帰融)を意味します。ですから、「サラーム」は、真理と至福の権化でもある至高者に帰融することを意味しているのです。クリスチャンにも神への服従を示すための同様の表現があります。

基本的な真実

すべての信仰は1つの共通の要素を強調しています。それは、1つの神がいるのみである、真理が神の姿であるということです。この基本的な概念については、ヒンドゥー教徒、イスラム教徒、キリスト教徒の間に違いはありません。すべての宗教、すべての経典、すべての霊的な教えは、神性の一体性という1つの真実を指摘しています。このことに気づかずに、人々は間違った道で迷っているのです。

イエスは人類の更生と安寧のために命を犠牲にしました。今日では、異なる信仰間のいわゆる違いを誇張して、自分の利己的な目的のためにその違いを利用し、そうすることで、霊性の大家であったそれぞれの宗教の偉大な開祖に悪名をもたらしている人たちがいます。自分の信徒に他の宗教や他の宗派の信者を憎むよう求めた預言者や救世主などいません。どの宗教も、神は1つである、神は万物に宿っていると言明しています。イエスも、「一なる霊が万物に内在している」という真理を宣言しました。イエスがユダヤ人に呼びかけていた時、天の声が言明しました。「すべての生命は1つである、愛する息子よ。すべての人に等しくあれ」。

イエスが十字架に磔にされた時、同じ天の声が、人間の体は霊のための衣にすぎないと言明しました。体は不断の変化を免れません。しかし、体に宿っている霊は不滅です。これはヴェーダーンタ〔ウパニシャッド〕が宣言している真理です。ヴェーダーンタには、「体は神殿であり、その中に永遠不滅の霊が内在者として宿っている」とあります。この内的意味は、あなたがどこに行こうとも、永遠不滅の霊はあなたと共にいる、ということです。体を永遠不滅なる霊の神殿と見なさなければなりません。神は常にあなたと共にあることを心に留めておきなさい。この真理に気づいて、初めてあなたは神を体験しはじめることができるのです。

他の宗教の信仰をけなしてはならない

ヒンドゥー教でも仏教でも、ジャイナ教でもシク教でも、キリスト教でもイスラム教でも、神は1つであり、唯一無二です。自分には自分の信じる特定の宗教への大きな愛がある、と断言している人たちが、自分の宗教は他の宗教よりも優れているといって作りごとにふけっています。ヒンドゥー教徒はヒンドゥー教を最も偉大な宗教と見なしています。その偉大さはどこにありますか? もしあなたがすべての宗教の神は1つであると謳うなら、なぜヒンドゥー教の優位性を主張して、他の宗教をけなすのですか? それはヒンドゥー教に対するあなたの愛を示すことになるのでしょうか?

このことは、自分はキリスト教の信者だと公言する人たちにも当てはまります。彼らは、「私たちはクリスチャンです。私たちはイエスの無類の神性を信じています。これほど神々しい救い主は他にいません」と言います。イエスは神であると主張する人がいるかもしれません。しかし、その人に他の宗教を馬鹿にする資格がありますか? どの宗教も、他の信仰をけなすことを容認すべきではありません。他の宗教にけちをつけるのは、まったくもって宗教ではありません。それは傲慢の一形態です。

キリストやラーマやクリシュナやアッラーを崇拝した偉大な聖人たちは、自分が崇拝する者の深い教えに触発されました。しかし、それらの信仰の信徒の何人が、今、教えに従う生活をしていますか? 宗教の開祖の教えが従われていないなら、それを宗教と呼ぶことができますか? 宗教の名の下に私欲に走る人たちが、その宗教の開祖への不信を招いています。

最初に学ぶべきことは、1つの神しかいないということです。人々の姿、名前、肌の色、国籍は違うでしょうし、歴史的な背景もさまざまでしょう。しかし、神にはそういった違いはありません。ですから、どの宗教にも、けちをつけたり、攻撃したり、馬鹿にしたりすべきではありません。あなた方は自分の好む信仰を持ってかまいません。けれども、他人が信じているものに難癖を付けるべきではありません。それを信愛というのは、こじづけです。シュリー クリシュナはギーターの中で、真の信者の印は誰に対しても悪意を持たないことである(アドヴェーシター サルヴァブーターナーム)と述べています。私たちは、すべての被造物の中に存在する神性を敬わなければいけません。

宗教的な寛容の欠如

宗教と宗教が対立するのは、カリの時代の特徴です。これは開祖たちのせいではなく、もっぱら信徒たちの心の狭さが明るみになっているだけです。その元となっているのは、妬みからくる寛容の欠如と、自己中心的な慢心です。これら不幸の種は、自分の宗教を理解することを妨げると同時に、他の人々の宗教を非難させます。

誰一人、他の信仰の神々や開祖を非難すべきではありません。どの信仰の神々も開祖も皆、礼拝に値します。イエスは偉大でありラーマやクリシュナは大したことはないとか、その逆のことを言うのは、心の狭さです。そのような見当違いの宣伝は、幼稚であり、品位を落とします。それは真の信愛を示すものではありません。それは一種の精神異常です。

私たちは皆、鳥や動物や木が人間にしてくれている無私の奉仕の類を知っています。その一方で、利己心のせいで、自分の共同体や両親やグル、そして、神にさえ感謝しない多くの人たちを目にします。そのような人たちは決して善い結果に至ることはできません。彼らは、「蒔いた種は刈り取らねばならない」ということわざの真実に気がつきません。もし善い考えを持ち、善い行いをすれば、それらは肥沃な畑に蒔かれた善い種のように増殖します。反対に、もしあなたがハートを悪い感情でいっぱいにするなら、悪い考えは何倍にも増殖していくでしょう。

真の信愛の意味

あなたのハートを正しい方向に育てるために、継続的な努力をしなければなりません。カルマ ヨーガ〔行為の道〕とグニャーナ ヨーガ〔英知の道〕は、この目的のために重要であると考えられています。しかし、これらの修行を実践するのは容易ではありません。それよりも、信愛の道であるバクティ ヨーガのほうが優れています。信者たちは、神を絶えず憶念するという至福を享受しようとし、モークシャ、すなわち神への帰融さえ、望まなくなります。

信愛とは、他のすべての欲望を手放して、すべての行いと思考を神に捧げることを意味します。あなたが自分の行為の一つひとつをすべて神に捧げるとき、その行為は礼拝になります。あなたがすることはすべて、神への捧げ物としてなされなければなりません。体は神の神殿であると言われています。神はあなたの中に、あなたの脇に、あなたの周りにいて、あなたがどこへ行ってもあなたと共にいる、という気持ちで自分を満たさなければなりません。あなたがこの意識を持って神を愛するとき、その愛は神我顕現をもたらします。

愛には2つの形があります。1つはあなたを神に縛り付けます。もう1つはあなたを世の中に縛り付けます。どちらの状態になるのも、その責任は心(マインド)にあります。心は錠前のようなものです。鍵を右に回せば、錠前は開きます。鍵を左に回せば、錠前は閉まります。ハートが心という錠前の鍵です。もしあなたが世の中のほうに鍵を回せば、あなたは執着(束縛)を得ます。あなたは欲望と憎しみが心に巣食わないよう注意しなければなりません。いかなる人に対しても悪意を持ってはなりません。腹黒い人との付き合いを避けなさい。善人との親交を育むことによって、あなたは自分を向上させることができます。なぜなら、善人と付き合うことで、あなたの悪い性質は、下水が海に流れ込んだときのように薄まっていくからです。

善い親交は人を神の近くに連れていく

ラーマーヤナでは、ハヌマーンと関わることでラーヴァナ〔羅刹王〕の弟ヴィビーシャナが主の信者へと変わったことがわかります。その一方で、カイケーイー妃は、腹黒いマンタラーの影響で、悪名を得、未亡人となり、気高い息子バラタも離れていきました。

マハーバーラタには、ダルマラージャの例があります。ダルマラージャは、邪悪なカウラヴァ兄弟との短い付き合いの中でサイコロ賭博をしたために、多くの困難と屈辱に耐えなければなりませんでした。腹黒い人との付き合いは終わりのない困難につながる可能性があります。悪人との交わりを避けるためなら、どんな代償でも払いなさい。善人との交わりを得るためなら、どんな代償でも払いなさい。善人との交わりは、あなたを神に近づけます。サーダナ〔霊性修行〕は、あなたを主にとって愛しい者にします。あなたが神の近くに行って、神の愛しい者となった時、あなたは神と1つになります。あなたが神を顕現させたとき、あなたはすべてを手に入れます。神がいなければ、他のすべては無価値です。

イエスを深く信愛している人はたくさんいます。彼らの義務はイエスの偉大なメッセージを賛美することです。イエスの最も重要なメッセージは、「地上の平和と人々の間の善意」を打ち立てることです。平和がなければ、人類は、物質、精神、道徳のいずれの領域においても進歩することはできません。

人類に対するイエスの重要なメッセージ

トレーター ユガ〔3(トレーター)の時代、ダルマの4分の1が欠ける時代〕では、シュリー ラーマがサティヤ(真実/真理)とダルマ(正義)の治世を確立するためにやって来ました。ドワーパラ ユガ〔疑い(ドワーパラ)の時代、ダルマの半分が欠ける時代〕では、シュリー クリシュナが愛と平安を促進するという任務を携えてやって来ました。カリ ユガ(現在のユガ)〔最悪(カリ)の時代、ダルマの4分の3が欠ける末世〕では、サティヤ、ダルマ、平安、愛が神の任務の目的です。ですから、あなたはその4つを自分の人生の指針としなければなりません。あなたがこの4つの原則を順守するとき、当然の結果としてアヒムサー(非暴力)が現れてきます。イエスの最も重要なメッセージである「神は万人の内にいる。誰をもののしってはならない。誰にも危害を加えてはならない」を考慮せずに、ただイエスの御名を思い起こしてイエスに祈っても、何にもなりません。これはイエスの最も偉大なメッセージでした。

今、キリスト教の信仰を伝え広めている者たちの間で、他の宗教を中傷する傾向が高まっています。キリスト教を広めるために、惜しみなくお金が使われています。あなた方は、一人としてそのような活動に加わってはなりません。この種の宣伝は、イエスの人となりに大きなダメージを及ぼします。イエスは極めて純粋で神聖な人物でした。イエスの教えを忘れて自分はイエスを愛していると公言するのは、まったく愛ではありません。あなた方全員が、「神は1つ。愛は神。愛の中で生きる。」ということを覚えていなければいけません。この方法によってのみ、今は多くの分断があっても人類を統一することができます。あらゆる偉大な賢者や預言者の教えを吸収しなさい。誰をも見下してはなりません。どんな源からも善いものを受け取る権利は、誰にもあるのです。宗派やカーストの違いは関係ありません。ただ1つのカースト、人類というカーストであるだけです。ただ1つの宗教、愛という宗教があるだけです。ただ1つの言語、ハートの言語があるだけです。ただ1つの神がいるだけであり、神は遍在です。

広い視野を持ちなさい

ある宗教を別の宗教に反するものに仕立てる宣伝を容赦してはなりません。国内の多様な共同体のすべてが結束すべきです。人類は1つの家族になるべきです。そうすれば、この世はパラダイスとなるでしょう。もし違いが大きくなることを許してしまうなら、国は崩壊するでしょう。原子爆弾は世界を灰に変えると言われています。しかし、宗教的偏見と憎悪を助長している人々は、原子爆弾ができるよりもひどい損害を与えています。彼らは人のハートの中にある愛と思いやりを破壊しています。彼らは人類をバラバラにしています。これよりも大きな罪はありません。

今、世界が必要としているのは、人々を救い、結束させる、愛の力です。それは、絶えず拡大し、より多くの人々を包含していく愛です。自分の宗教や国やカーストに関する狭い考えを手放すことによって、そして、広いものの見方を養い、善人との交わりを培うことによって、あなたは自分の生活を高めて、有意義で満足のゆくものにすることができます。あなた方の多くは、遠い国から莫大な費用をかけてここに来ています。善い親交を養い、善い思考を吸収し、万人への心の広い態度を培い、年長者たちの賢い言葉を心に刻み、それらを実践に移すことによって、ここでの滞在を有効に使わなければなりません。そうでなければ、あなたは人生とお金の両方を無駄にすることになるでしょう。私は、あなた方全員の幸せを願っています。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.18 C30

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