サイババの御言葉

日付:1986年10月8日・場所:プールナチャンドラ講堂
バクティに関する御講話より

不朽の信者たち


あらゆるサーダナの形態のうち、バクティ(主への信愛)は最も容易で神聖です。「バクティ」は「バジ」という語根から派生した語で、それに「ティ」という接尾語が付いたものです。バクティはセヴァ(奉仕)を意味します。バクティには、畏敬の念、さらに、友情の気持ちという意味もあります。

グナ(浄性・激性・鈍性)に縛られている人間にとって、グナを超越しているものを理解するには、謙虚さという姿勢と畏敬の念が要されます。「バジャ セーヴァナム」(セヴァを通して神を礼拝すること)。バクティは、主を礼拝するために心(マインド)と語る言葉と体を役立たせることを要求します。バクティは完全な愛を象徴するものです。バクティと愛は、分かつことのできない、相互に依存しているものです。バクティは救済の手段です。愛とはバクティを表現することです。

ナーラダ仙は、「限りない愛で主を礼拝することがバクティである」と公言しました。ヴィヤーサ仙は、「愛と崇敬の念で礼拝を行うことがバクティである」と見なしました。ガールギャ仙は、「心と語る言葉と体の清らかさで主に奉仕することバクティである」と公言しました。ヤーグニャバルキヤ仙は、「真のバクティは、心を制御すること、心を内側に向けること、神との交流を楽しむことで、成り立っている」と見なしました。バクティに対する他の見解には、心を神に集中させて神と一つであることを体験すること、というものがあります。

愛を通じて愛を勝ち得よ

バクティの本質について、多くの聖仙がさまざまな見解を表明していますが、バクティの根本的な特質は愛です。愛は、たとえどれほど少なくても、どの人間の中にも存在しています。ジーヴァ(個々人)は神の一つの側面であり、神は最上の愛の化身です。人も愛の化身ではありますが、人の愛は俗世の物事に向けられているせいで汚れていて、そのため人は、あらゆる神の美をまとった神のヴィジョンを得ること〔神を見ること〕ができずにいます。

普通の人は、神に礼拝を捧げ、神の御名を唱え、神を瞑想することがバクティだと思っています。バクティの本当の意味は、ハートの中に神を鎮座させて、その経験の至福を楽しむことです。バクティは個人の魂と普遍なる魂が神秘的に一つになることです。信者がハートの奥底から熱心に祈り、信者の愛が勢いよく噴出してくる時に、バクティは現れるのです。愛によって愛を勝ち得ることは、信愛に不可欠な側面です。祈りとは、ただ恩恵を求めて神に懇願することではありません。祈りとは、神に自分の問題や願望や抱負を伝えて、自分の功徳と行為の結果の一切を神に捧げる、一つの方法です。信愛の根本的な特質は、自分と神は一つであるということを実感したいという切望です。

二種類の信愛

信愛には二つの種類があります。一つは神に関する知識を得ること、そして、それによって自分自身を変えることです。これは自然なプロセスであり、それによって、人は肉体的なことから始めて、内面的なものへと進み、それから最終的に、神に帰融するという霊的なゴールに到達します。けれども、この知識の道を行く場合、恩恵が得られるのはそれに関与している者だけです。

二つ目の信愛のタイプは、信者自身のみならず、他の人々にも恩恵を分かち合うことができます。信者は自分を救うのみならず、他者が自らを救うための手助けをすることができます。

愛は、すべての時において、終わりなき流れとなって人類の中を流れています。愛を世俗の物事や束の間の快楽へと向けることによって、人は人生を意味深いものにする機会、永続的な至福を手に入れる機会を、逃しています。人は、人生の本当の目的地に到達するために、愛を神へと向けるべきです。神への愛は、世間の教育や聖典の学習によっては深められません。神への愛はハートから湧き出てくるものです。神への愛で満たされている人は、それ以外の世間のものに惹かれることはないでしょう。自分の品位を傷付けるものや、価値のないものに服従することもないでしょう。

愛は私心のないものです。主への愛に満ちている信者は、自分に苦痛を与えるもののように見えるものを、自分のためになるものとして歓迎します。主が怒っているように見える時でさえ、主の慈悲は明白です。罰の中にさえ、神の思いやりが見えるでしょう。ですから、誰一人、自分は標的の的となって罰を受けるはめになった、などと不満を抱くべきではありません。罰さえもが、人を神へと導くための手段なのです。怒りを示すのは信者を守るためです。この真実を認識し、自分に起こることを何でも自分のために意図された良いこととして歓迎する者が、真の信者です。世間の物事に関心を持つことを避け、神我顕現のための方法に集中すべきです。

信愛の九つの方法

神への信愛を表現し、神に到達するための九つの方法が、聖仙たちによって述べられてきました。それらは、シュラヴァナム(神の栄光を聴くこと)、キールタナム(神の栄光を歌うこと)、ヴィシュヌ スマラナム(いつも神を憶念していること)、パーダ セーヴァナム(主の御足に礼拝〔奉仕〕すること)、ヴァンダナム(平伏すること〔神を崇敬すること〕)、アルチャナム〔日々の礼拝を捧げること〕、ダースヤム〔献身的な奉仕〕、スネーハム〔友情〕、アートマ ニヴェーダナム〔全託〕です。これらのうちの一つ、あるいは、いくつかの方法を実行している多くの信者は、高尚な魂の持ち主であり、その中には偉大な王たちもいます。

シュラヴァナム〔神の栄光を聴くこと〕: パリークシット王〔アルジュナの孫〕は、七日後に死ぬようシリーンギ仙に呪いをかけられた時、自分に残された余命を過ごす最も良い方法を見出そうと、すべての聖仙を呼び出しました。王は、時間を無駄にすることは人生を無駄にすることだと思いました。どうすれば自分に残された七日間を最も有効に使うことができるか助言してほしいと、王は聖仙たちに懇願しました。シュカ仙がその集会に入ってくると、王はシュカ仙に、呪いであったものを祝福に変えることで余命を有意義に過ごさせてほしい、と頼みました。シュカ仙は、王に夜も昼もずっと、至高の主について、そして、主の化身たちと栄光についての一切を説きました。シュカ仙の言葉を聞いて、パリークシット王は至福の海に浸りました。その場にいた聖仙たちは皆、同じ法悦を味わい、主の黙想と主への愛に我を忘れました。主についての物語を楽しむことによって、パリークシット王は信愛に満ちあふれ、内なる主を体験しました。パリークシット王は、主の栄光を聴くことだけで、どれほど最高位の信愛が湧き出てくるかを示しています。

キールタナム〔神の栄光を歌うこと〕: シュカ仙は、主の御業を聴くこと、主の栄光を歌うこと、絶えず主の御名を唱えていることによって、神我顕現という究極のゴールに到達することができると説きました。シュカ仙は、神の栄光を歌うことを大いに楽しむことによって、ブラフマンと一つになる至福を体験しました。

ヴィシュヌ スマラナム〔神を憶念すること〕: プラフラーダは、苦しい時も楽しい時も、いつも自分の思考をヴィシュヌ神に定めていた信者の最高の模範です。あらゆる試練に対するプラフラーダの返答は、「ナモー ナーラーヤナ」〔ナーラーヤナ神に帰依します〕というものでした。プラフラーダは、ヒランニャカシプに命じられた羅刹たちから拷問に遭わせられた時も、それらをまったく意に介せず、絶えることなく主の御名を繰り返していました。プラフラーダは、恐れることも意気消沈することもありませんでした。プラフラーダは、体は五元素でできており、いつかは朽ち果てるものである一方で、体に宿っている主は永遠不滅であるということに、はっきりと気づいていました。ですから、体に何が起こってもプラフラーダは気にしませんでした。プラフラーダの思考はすべて、つねに神に集中していました。

パーダ セーヴァナム〔神の御足に奉仕すること〕: すべての信者が主の御足に礼拝する機会を得られるわけではありません。その機会を得た時でさえ、ほとんどの人はそれを物質的な目的のために使います。ヴィシュヌ神の妃であるラクシュミー女神は、主の御足への礼拝に自分自身を完全に捧げた最高の手本です。ラクシュミー女神は、主の御足を創造世界の一切の源と見なし、主の御足をブラフマー神自身によって洗われたことで上なく神聖なものとなったものとして握りしめ、全宇宙を横切ったものとして主の御足に思いを巡らし、すべてに遍満しているものとして主の御足を崇敬しました。

アルチャナム〔神仏の像を礼拝すること〕: プリトゥ王は、このタイプの信愛の模範として際立っています。プリトゥ王は、どんな状況の下でも、自分の第一の務めとしてハリへの礼拝を行うことを貫きました。プリトゥ王は全世界のすべてのものの中に主を見ました。それゆえ、プリトゥ王は思考と言葉と行為の一つひとつをすべて神に捧げました。

ヴァンダナム〔神を崇敬すること〕: アクルーラ〔クリシュナの伯父〕は、絶えず主の御前にひれ伏して、謙虚さと清らかさをもって主に敬礼を捧げることによって自分の人生を聖なるものとした、傑出した信者の手本です。「ヴァンダナム」とは、単に合掌してお辞儀をするという意味ではありません。「ヴァンダナム」とは、すべてのグニャーネンドリヤ(感覚器官)〔目(視覚)、耳(聴覚)、鼻(嗅覚)、舌(味覚)、皮膚(触覚)〕とカルメーンドリヤ(行動器官)〔口(発声)、手(操作)、足(移動)、生殖器官、排泄器官〕の行いを、全託の精神で主に捧げることを意味します。アクルーラは、神の意志に完全に服従するという精神で主を礼拝しました。それゆえ、アクルーラはあらゆるところでヴィシュヌ神のヴィジョンを得る〔御姿を見る〕ことができました。

ダースヤム(奉仕)〔神の召し使いとして奉仕すること〕: ハヌマーンはこのタイプの信愛の偉大な手本です。ラーマの御名に集中し、ラーマへの奉仕をすることが、いつもハヌマーンが第一にすることでした。ハヌマーンは並のものではありませんでした。ハヌマーンは64の科学と技術を習得していました。ラーマはハヌマーンを、計り知れない力と知恵を持つ、平安の英雄であると述べました。ハヌマーンは何を手にした時も、それがラーマの御名を有しているかどうかを調べました。そして、もしそこにラーマの御名がなかったら、たとえそれが宝石であろうと、ただの石ころのようにそれを投げ捨てました。ランカーへの橋を築いていた時、ハヌマーンがラーマの御名を唱えながら岩を海に放り投げると、岩は海の上に浮かびました。「ラー」という文字を書いた石と「マ」という文字を書いた石を海に投げ込むと、海の上でそれらがくっつき、それによって橋ができました。ハヌマーンの毛の一本一本に、ラーマの御名が鳴り響いていました。ハヌマーンは、嬉しい時も悲しい時も、いつもどんな時にもラーマを憶念していた信者でした。ハヌマーンにはエゴの感覚〔自分がやっているという感覚〕がありませんでした。ハヌマーンは、「自分のもの」、「貴方のもの」という考えの一切を手放していました。ランカーでラークシャサ(羅刹)が「おまえは誰か」と尋ねた時、ハヌマーンはきっぱりと、「私はコーサラ国の主(ラーマ)のダーサ(召し使い)である」と明言しました。どんな状況においても、ハヌマーンは自分をラーマの召し使いであると語っていました。

真の信者の特質

近ごろ自分を信者と呼ぶ人々は、寺社に詣でる時には額に神聖灰を付け、お参りから帰って来るとそれをこすり落とします。彼らは、スワミの近くにいる時には信者らしく振る舞います。けれども、宗教が歓迎されない場所に行くと、彼らは平気でプッタパルティを訪れたことの言い逃れをし、自分はスワミの信者ではないと明言します。そのような臆病者の信愛に、どんな価値がありますか? 本当の信愛には、いつでもどこでも勇気を持って自分の信仰のために立ち上がることが含まれます。ハヌマーンは、そうした勇気を持った揺るぎない信者でした。主への献身的な奉仕により、ハヌマーンは自らの生を購い、不死となりました。

マイトリー〔スネーハム〕(友情): この種の信愛の偉大な手本はアルジュナです。アルジュナとクリシュナは親密に共に生きました。アルジュナは、影のようにクリシュナに寄り添いました。アルジュナは数え切れないほどの困難を体験し、中傷と非難に遭いました。しかし、それら一切の体験の間中、アルジュナはクリシュナへの信心が揺らぐことを自分に許しませんでした。アルジュナはいつもこう懇願しました。「クリシュナ! あなたは私の唯一の希望であり、避難所です。私を守ってくれる者は、あなた以外にありません」と。このようにして、アルジュナはクリシュナを友であり身内であると見なしてエゴを取り除き、何でもクリシュナに頼りました。クリシュナの側はといえば、戦場でアルジュナの御者として行動することさえ買って出ました。アルジュナはクリシュナを自分の生涯の御者としました。それによって、クリシュナは「パールタサーラティ」、すなわち、「パールタ(アルジュナ)の御者(サーラティ)」という名称を得ました。

アートマ ニヴェーダナム(アートマ アルパナム)(神我への全託): プラフラーダの孫のバリ王は、完全に主に全託し、自分の持っていたものをすべて主に捧げ、そうすることで自らの生涯を聖化した信者の模範です。バリ王は、自分の頭を主に捧げる覚悟をし、冥界に下りました。バリ王にとって、主の恩寵を勝ち得るためなら、どんな犠牲も大きなものではなかったのです。自らのグルであったシュカチャーリヤがヴァーマナ〔ヴィシュヌ神の化身〕と交わした約束を撤回するよう助言した時、バリ王はその助言を拒絶し、自分の命、自分の体、そして、自分の持っているものはすべて主のものである、と宣言しました。

信愛と社会

過去において、多くの気高い魂の持ち主である人々や偉大な統治者たちが、以上のさまざまな信愛の方法を実践し、自らを世の手本として差し出しました。

聖仙たちは、信愛は単に個人の救済を得るためのものではないと感じていました。信愛は、何らかの類の集団での行為としての表現を見出すべきです。礼拝や祈りを独居で自分のために捧げることには、ある種の利己心の香りが漂います。古代の人々は、自己中心的な人は神に到達できないと感じていました。キリスト教徒やイスラム教徒においても、聖典の人物の歩んだ道を読んでそれを実践することが、今いる信徒によって繰り返されています。インドの聖仙たちは、世界の安寧のための共同体での祈りは、個人のためにも世界のためにもなると評価していました。

1459年に、シーク教の開祖であるナーナクがバジャンの修行を始めました。この活動は年を追って勢いを増し、1798年には、南インドの偉大な聖者で作曲家であったティヤーガラージャによって、バジャンにラーガ〔音調〕とターラ〔拍子〕が付加されました。それ以来、バジャンはインド全国で国民的な人気を博しています。

バジャンは気持ちを調和させるよう意図されている

バジャンを時間つぶしの一つの方法と考えてはなりません。バジャンは、神が一つであるということを共に体験できるように、参加者の思いと、歌と、リズミカルな拍子を調和させるよう意図されています。そのようなバジャンは霊的効力があると考えられています。バジャンではバクティ(信愛)に最高位を与えるべきです。バジャンは愛で満たされているべきです。村々に最初にバジャンが伝えられたとき、ティヤーガラージャは、『来たれ、汝ら祝福されし者よ、シュリ ラーマの栄光を共に歌わん』という歌を最初に歌いました。さらに、ティヤーガラージャは、コーダンダパニ(コーダンダの弓を手にしたラーマ神)が味方であれば、ダンダパニ(死神ヤマ)を恐れることはない、と村人たちに言いました。

昔、バジャンは、こうした主への強烈な愛と純粋な信愛の精神で始められました。しかし、現代のバジャンには、この神聖さがありません。バーヴァとラーガ(気持ちと曲調)よりもラーガとターラ(曲調と拍子)に重点が置かれています。聴き手の信愛をさらに純粋にしようというよりも、甘い歌声で聴き手を喜ばそうとしています。バジャンで表現される思いは、参加者のハートをとろけさせ、また、ハートの奥底まで揺さぶるものであるべきです。

バクティの神髄は愛であり、儀礼的にジャパをすることや、さまざまな種類の礼拝をすることではありません。礼拝は、あらゆる存在の中に住んでいる神に捧げられるべきです。愛は神です。愛の中で生きなさい。愛は神我の至福を実現する手段です。それは私たち自身の中心に置かれています。それをどこか別の場所で探す必要はありません。それは、あらゆる思考が制御され、心が内側に向いた時、自分自身の中に見つけることができます。すべての行いを主に捧げることです。これは最高の知識です。それは全存在物の最高善です。愛が生き方となるべきです。これのみが真の信愛です。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.8 C22

<<SSOJ Topページへ <<サイババの御言葉メニューへ