サイババの御言葉

日付:1986年10月11日・場所:プールナチャンドラ講堂
社会の変革に関する御講話より

不正に立ち向かう義務


真我の真理を知るとき、至福が体験される
この真理がなければ、不安があり続けるのみ
ブラフマンを知ることは、ブラフマンになること
汝よ、この真理を知れ


粘土は一つですが、壺はさまざまです。純金は一つですが、金の装飾品は数多くあります。牛乳は白ですが、牛の色は多種多様です。遍在者は一つですが、無数の身体をまといます。神は一つですが、すべての真我に潜んでいます。神は真理の権化です。神の栄光は無限です。真理は一つですが、さまざまな形で体験されます。

神を理解することのできない人は、数え切れないほどいます。神を理解していると主張する人は、かなりいます。しかし、いかなる時にも、いかなる所でも神の本質を完全に把握している人は一人もいません。ウパニシャッドは、「言葉も心(マインド)も、それに届くことなく戻りくる」と述べています。思考も言葉も超越しているものをどうやって説明することなどできますか?

創造ではなく変換

神は人間の必要とするすべてのものを創造しました。大地、火、水、空気、日光は、神の贈り物です。個人や科学者は、神の恩寵によって得たこれらの元素から、形と名前の違うものを多数作り出します。科学者はそれらを作ったのは自分だと思っているかもしれません。無から何かを創造することのできる人は誰もいません。行われていることは、すでに存在するものの形を変えて、別の形にすることです。例えば、水力で電気が作られます。しかし、そのエネルギーは科学者が創造したものではありません。潜んでいたものを利用可能にしているだけです。

現代では、さまざまな天然物のエネルギーや潜在力を役立てている科学者や技術者が多数います。そうした発見は科学の目覚ましい進歩の印です。テクノロジーは地下水を地表に汲み上げるのに使われています。けれども、その水は、元々そこにあったものが取り出されただけで、新しく創造されたものではありません。物質の基本的な成分を破壊できる人は誰もいません。人間には、原材料を創造することも破壊することもできません。この真理を理解したとき、初めて人は神の霊妙で遍在なる本質を理解することができるのです。

すべてに浸透している神の力は、常に存在しています。例えば、大地は引力という自然の特性を有しています。ニュートンはその現象を探求し、いかに引力が働いているかを発見しました。しかし、引力は、ニュートンがその法則を発見する以前から存在していました。それと同じく、神の力は、微細で神秘的な形をとってすべてに浸透して存在していますが、霊性を志す求道者だけが、努力の度合いに応じてそれを体験することができるのです。

一なるものと多

人類の間には、多数の信仰、宗派、信条、実践法が広く行き渡っています。それらはすべて、人間の想像の産物です。しかしながら、真理は一つです。真理はカーストによって異なるものではなく、国によっても、時代によっても異なりません。真理は時や場所に左右されません。同様に、基本元素である地、水、火、風、空は、本質において普遍的であり、社会や場所によって変わることはありません。これらは万人のものです。同様に、神は一つの普遍なるものですが、人々は神を分裂させて、多様に体験しています。神を、国、カースト、教義、場所、時代の観点で限定すべきではありません。

クリシュナの例をとってみましょう。クリシュナは、ブラフミン〔バラモン階級〕が権利を有する神ではありませんでした。クシャトリヤ〔武人階級〕のものでもありませんでした。ヴァイシャ〔商人階級〕の主でもありませんでした。クリシュナは、世界を守護するために現れた神の化身でした。クリシュナをどれか一つの集団のものだと主張するのは、心の狭い所有欲の表れです。ヤーダヴァ一族〔クリシュナが生まれた一族〕は、クリシュナは自分たちの共同体のものであると主張したために、ついには自滅しました。

神はすべての人のものであり、特定の人のものではありません。一つの神が存在しているだけであり、その神が、さまざまな人々を喜ばせるために自らを多の姿に顕現させるのです。サーダナ〔霊性修行〕だけでは、人がこの真理を理解できるようにするには不十分です。探究心も必要です。現代では、不和を生じさせる無数の力が働いています。本質的に一つであるものが多と見なされています。その課程で、本当の神の概念は失われてしまいます。現世利益を追求する中で、そして、商業的な思惑から、神が引き裂かれています。その結果、人々は神の真の本質を把握できずにいます。このことが、本当のものと偽りのものを区別できないという状況を招いています。

アダルマ〔ダルマに反すること〕の扇動者

ダルマ〔人の守るべき本分〕とシャーンティ〔平安〕の女神が崇められている国にのみ、真の繁栄と幸福があります。今日では、多くの人がダルマと真実に反する行為にふけり、カーストや共同体に基づいて国内の不和や対立を助長しています。国の年長者たちは、邪悪な分子による不正や暴力行為の一切を、ただ傍観者となって眺めているだけです。学者や知識人さえも、沈黙を保ったままです。高官たちも、ただ起こっていることを見ているだけです。脅威に歯止めをかけようとする人は誰もいません。彼らは邪悪な分子を阻もうとしません。それはまるで、彼らは自分の知識、地位、影響力の一切をなくしてしまったかのように見えます。そのような人々は、本人は不当な行為をしてはいないかもしれませんが、邪悪な分子に力を貸していることになります。

ここで、マハーバーラタから一例をあげましょう。この戦いは世界的規模の大厄になるであろうと懸念して、ダルマジャ(バーンダヴァ兄弟の長兄)はクリシュナに、平和大使となってカウラヴァ兄弟のもとへ行ってくださいとお願いしました。クリシュナはドゥルヨーダナ〔カウラヴァ兄弟の長兄〕の謁見の間へ入り、戦いになればどれほどの悲惨な結果になるかを長々と語りました。その場にいた偉大なアーチャーリヤ〔師〕たち――ビーシュマ〔シャーンタヌ王とガンガー女神の息子でカウラヴァ兄弟とパーンダヴァ兄弟の大叔父であるカウラヴァ側の軍師〕、ドローナ〔パーンダヴァ兄弟とカウラヴァ兄弟双方の弓術の師であるカウラヴァ側の軍師〕、クリパ〔シャーンタヌ王の養子でクリパーの兄〕、アシュワッターマ〔ドローナとクリパーの息子〕――は、熱心にクリシュナの言葉に耳を傾けました。しかし、クリシュナの訴えは彼らには役に立ちませんでした。邪悪なカウラヴァ兄弟との長い付き合いのせいで、彼らはドゥルヨーダナらの悪事の扇動者となっていたからです。

そこでなされていた悪事を目撃したヴィドゥラ〔ドリタラーシュトラ王とパーンドゥ王の弟でヴィヤーサ仙と侍女の息子〕は、それに反対しようと意を決しました。ヴィドゥラは、クリシュナの賢明な言葉に耳を傾けるよう、手を尽くしてカウラヴァ兄弟に訴えました。しかし、彼らはその嘆願を聞く耳を持っていませんでした。ヴィドゥラは、これほど邪悪な心の者たちといるよりも巡礼に行ったほうがいいと思い、すぐさま国を出ました。

黙っていることが罪であるとき

邪悪なカウラヴァ兄弟の禄(ろく)を食んでいたビーシュマやドローナたちは、カウラヴァ兄弟に忠誠を尽くすことを選んで留まりました。彼らは皆、優れた師でした。彼らは正邪の別をよく知っていました。彼らは永遠で永続するものの本質を探求していました。しかし、その知識の一切は、一体何の役に立ったのでしょう? いざ実践となったとき、彼らの知識はすべて、何の役にも立ちませんでした。最終的に、彼らは皆、大戦で邪悪な心のカウラヴァ兄弟と同じ最期を遂げました。

クリシュナは、たとえ相手が善人であっても、その人の目の前で不当や不正が行われている時、それに反対する力量を持っていながら何もしない人を、その悪事に実際に加担している者と見なしました。悪事や不正や暴力が行われている時、もしそれを平気で見ていたら、その人はその罪の共犯者と見なされます。最終的に、その人も実行犯と同じ苦しみを受けます。彼らは無抵抗に受け入れる共謀によって、悪事を行う人を助長したからです。

悪に立ち向かわないのは罪

善人が悪人と関わりを持ち、悪人に抵抗しないとき、彼らは悪いことをした人の行為に対する責任を共有します。神は、不正や間違った事が行われている最中にそれに反対しない人も、受身のままでいた人も、どちらも滅ぼします。神は、その人に学があるか無知であるか、賢いか賢くないかは、考慮しません。もしその人たちに学問があったり、賢かったりするならば、なぜ真実と正義のために立ち上がらなかったのでしょう? なぜ、黙ったままだったのでしょう? それは、その人たちも同じ過ちで穢れていたということを意味します。悪に立ち向かわないのは、彼らの罪です。私たちは、不当や不正な行為に立ち向かい、社会の悪い行いを征伐しようとする時にのみ、自分はダルマの復興の助けとなっていると主張することができるのです。

トレーター ユガ〔3(トレーター)の時代、ダルマの4分の1が欠ける時代〕に、ラーヴァナ〔羅刹王〕の弟ヴィビーシャナは、ラーヴァナの悪行に我慢なりませんでした。ヴィビーシャナは悪行に反対し、あらゆる可能な手段を用いてラーヴァナを正そうとしました。しかし、その努力は実らず、他になすすべもなかったヴィビーシャナは、ダルマの権化であるシュリ ラーマの御足にすがりました。悪の張本人はラーヴァナただ一人でした。しかし、ラーマとの戦いでラーヴァナを支持した羅刹や、ラーヴァナの側に付いた羅刹は皆、ラーヴァナと共に死にました。彼らはラーヴァナの罪を煽った代償を支払ったのです。

息子であれ、親族であれ、親しい仲間であれ、誰が罪を犯したとしても、その間違った行為に反対して罪人を正そうとしたときにのみ、人は従犯者という汚名から逃れます。逆に、それを放っておいたり、その行為がなされるよう煽ったりするならば、その人は扇動という罪を犯したことになります。

帰依者の信心は、はっきりとわかるものであるべき

今日、私たちは善良に見える帰依者を大勢目にします。けれども、行いにおいて、その人たちは本当に帰依者らしく振る舞っているでしょうか? 信愛は、その人が何をしているかで判断すべきです。そうしたときにのみ、神の遍在が示されるでしょう。帰依者の行為は、自分たちは神は一つだと信じているということを見せる行為であるべきです。どこにいようと、帰依者の信心は、はっきりとわかるものであるべきです。しかし、現代では、そのような態度は見られません。私たちが目にするのは、自己中心的で利己的な人ばかりで、皆、エゴと所有欲でいっぱいです。そのような態度では、邪悪な傾向は募るばかりです。

今日、最も優先すべきことは、人に本来備わっている神性を人々に気づかせることです。物質主義者や科学者が霊的なことを語る資格はどれだけあるでしょう? 自然科学の分野においてさえ、化学の専門家には物理学に関することを語る権限はありません。大変有能でも、医師には工学について語る資格はありません。物理科学に関係することでさえこのような状態なのに、物理科学しか学んでいない人々が霊的な事に関して意見を述べることなどどうしてできるでしょう?

ヤントラとマントラ

例えば、現代のテクノロジーのおかげで、国中に散らばっている何十万もの人々が、デリーから放送されているラジオやテレビ番組を視聴できます。デリーにいるミュージシャンの歌を何十万もの家庭で同時に聞いたり見たりできるのも、テクノロジーのおかげです。しかし、バーガヴァタム〔ヴィシュヌ神とその化身の物語集〕で、シュリ クリシュナは何千という家の牧女たちの前に同時に現れたというのを読むと、私たちは、これは信用できることなのかどうかと尋ねます。そうしたマントラの力に疑問を持つ人たちは、機械の力ならいつでも信じます。人が作った機械にこれほどの力がありえるなら、どうしてマントラの力を疑うのでしょうか?

一つの場所で奏でられた音楽が、どのようにして他の場所に運ばれるのでしょうか? 音波が電波に変換され、エーテルを通じて伝えられるのです。エーテルの中の波は永遠に空中に留まりますが、ハートが清らかな人はそれを呼び出すことができ、さらには、それを受信するために自分自身をエーテルの波長に合わせることができます。ラジオ放送は、ラジオを持っていない人や、特定のラジオ局にチューニングを合わせられない人は、聞くことができません。

それと同じく、もし遍在の神を一意専心の信愛によって、ハートというラジオで受信するなら、その体験で味わう至福が神の本質を示してくれるでしょう。空中に発せられた音波はすべて、エーテルの中に留まります。その音波は光の波に変換されなければなりません。すると、それは英知の力(グニャーナ シャクティ)とヨーガの力(ヨーガ シャクティ)になります。牧女たちはその能力を得ていたので、クリシュナの遍在を体験することができたのです。牧女たちのハートはクリシュナの御名と御姿でいっぱいでした。

それほどの信愛の現れは、調査や説明を超えています。それほどの体験は、理性を超えています。すべての現象が論理的に証明できるわけではありません。日常の現象でさえすぐには論理的な証明ができないのに、神について論理的な証明を得ることがどうしてできるでしょうか? 霊的な事柄に真剣に取り組んでいる人は、そうした証明を求めたりはしないでしょう。人はそれぞれ、自分の心の作用や、自分の信愛の度合を知っています。けれども、他人の持っている神への信愛がどのように現れるかを理解することはできないのです。

神秘体験

太古より、賢者や聖仙たちは神との交流を享受し、自分たちの体験をさまざまな方法で表現しました。そうした体験は、すべての信仰に共通のものです。キリスト教には、そういった霊的な体験の記録が残されています。同様の体験はイスラム教徒にも見られます。原理や儀式は宗教によって異なるかもしれません。けれども、神と一つになるという体験は、どの宗教を信じる人にも共通です。もしこの段階に達することができていないとしたら、それはその人が未熟だからであり、神の恩寵がないわけでも、神が不公平なわけでもありません。主の恩寵は、あらゆるところに満ちあふれています。けれども、人々は自分のハートを、恩寵を受けとることのできる器にしていないのです。人々のハートは清らかでありません。人々は常に疑念に悩まされています。人は自己信頼を失ってしまいました。わずか二、三分ですら他の人間を信用できない人に、どうして神への信心を培うことができるでしょうか?

第一に、固い信念が必要です。私たちは、揺らぐことなく、自分の信じることに定まっていなくてはなりません。一瞬ごとに揺れ動く人、ハートが清らかでない人は、神の恩寵にあずかることができません。主は、ハートの清らかさで信者を評価するのであって、信者がしている礼拝の種類やジャパ〔神の御名や短いマントラを繰り返し唱えること〕によって評価するのではありません。たとえ礼拝や瞑想さえしていなくても、あなたのハートが清められていれば、それで十分です。そうであれば、神はその中に入っていくでしょう。

「私の脇を歩き、私の友であれ」

昨日、ある学生が、「サーダナ〔霊性修行〕の第一段階は“あなた(神)は私のものです”と断言することだ」と言いました。第二の段階は、次のように気づくことです。「それは正しくない。もし“あなたは私のものです”と言えば、私のエゴが増長する。“私はあなたのものです”というのが正しい態度だ」と。牧女たちはクリシュナに、「私たちは、あなたのものです」と断言しました。ヤーダヴァ一族の人々は、「クリシュナは我々の血族だ」と豪語しました。このエゴに満ちた自惚れのせいで、ヤーダヴァ一族は完全に自滅してしまったのです。牧女たちは、全託の態度をとっていたために、いつもハートでクリシュナを体験することができました。

これに関連して、私が別の日に学生に話したことを再現しましょう。

「私の前を歩いてはいけません。前を歩けば、私はあなたの後ろを付いていくことができないかもしれません。私の後ろを歩いてはいけません。後ろを歩けば、私はあなたを導くことができないかもしれません。私の脇を歩き、私の友でありなさい」

もし私の前を歩こうとすれば、あなたは誤った道に行ってしまうかもしれません。もし私の後ろを歩くなら、あなたは私から逃げてしまう可能性もありえます。私と肩を並べて歩きなさい。そうすれば、あなたが道からそれる機会も、私から遠ざかる機会もなくなります。なぜなら、私はあなたといっしょにいるからです。このことの内なる意味は、「あなたと私は一つである」というものです。神は遍在です。神はすべてのものに宿る者です。そうであれば、あなたは私の前を歩く必要も、私の後ろを歩く必要もありません。どこへ行くにも、神をいっしょに連れていきなさい。これは真のサーダカ〔霊性修行者〕の印です。

「私たちはどこにいてもスワミを崇めます」と言う人がいるかもしれません。彼らには、そのように言えるほど霊的な能力があるのでしょうか? もし彼らがその主張に忠実であるなら、どんな類の欲望も持たなくなるでしょう。その欲望のない信愛の段階に達するまでは、何らかの霊性修行に従わなければなりません。ラーマやクリシュナですら、一定の期間グルの下で修行をし、グルの祝福が受けられるよう努力しました。そうして、ラーマとクリシュナは、師と弟子(グル シシヤ)の関係は重要であると公言したのです。

悪に抗議するための力量を得よ

現代では、適切でない欲望の蔓延、世俗の物事の追求への深い関与、人生に対する物質主義のアプローチのせいで、社会制度の中に多くの邪悪な傾向が増しています。人々の心が邪悪な思いでいっぱいになると、知識も技術も役に立たなくなります。そういった邪悪な心を持つ人を正すのに失敗しているというのは、信心深い人たちの人生の汚点です。

その結果、信心深い人たちも同じ悪に染まってしまいます。社会に入り、社会にはびこっている悪に対して抗議をし、可能な限り社会を改善しようと試みることは、神を心に抱いているすべての人の義務です。その務めに取り掛かる力量を備えた人だけが、社会奉仕にふさわしいのです。あなた方はその力量を身につけなければなりません。どんな類の危機にも、どんな類の中傷にも立ち向かいなさい。中傷や非難が、神を固く信じる人に影響を及ぼすようであってはなりません。神と一つでいる至福を味わっている人には、千頭の象に匹敵する力があります。その人は限りない勇気を持っており、恐れを知りません。神中心の人は、三つの特性を持っています。それは、清らかさ、不屈の精神、忍耐力です。この三つの特性がないなら、その人は弱い人です。けれども、それらがあれば、その人はどんな挑戦にも立ち向かうのに必要なあらゆる力と勇気を持っているのです。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.19 C23

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