サイババの御言葉:神の方法

日付:1987年11月23日・場所:プールナ チャンドラ講堂
42歳御降誕祭の御講話より

神の方法


神聖な愛の化身である皆さん!

バーラタ(インド)人は、独立を勝ち取ることはできましたが、一体性の達成はまだ成し遂げていません。一体性の欠けた自由は、電流の通っていない電線のようなものです。

サナータナ ダルマ(永遠なるヴェーダの信条)は、バーラタの子どもたちの偉大な遺産です。それは、崇高で、神聖で、高尚な文化です。サナータナ ダルマは多くのアヴァター(神の化身)たちの降臨を証明してきました。バーラタは、数多くの聖賢、学者、聖職者、戦士、貞節を守り通した偉大な女性たちの出生地です。

雲が時折太陽を覆い隠すように、インド文化の燦然たる側面は、何らかの不幸な展開や現代の風潮に覆い隠されていたかもしれません。しかし、必ず輝く運命にあります。今日でさえ、この国には偉大な魂たちが人間の姿をとって生まれてきています。実際、そのような人物たちが現れなければ、インドの偉大な歴史における新しい時代の曙はなかったでしょう。

今、外国から来た人々の無数の目がインドを見ています。外国人たちは、インド哲学を勉強するためだけでなく、主として霊的な洞察力を手に入れるためにインドへ来ています。ところが、インド人自身は自国の文化遺産を捨てようとしています。これが現状の矛盾です。

インド人は世界の手本として傑出しなければならない

バーラタ文化の類を見ない偉大さにもかかわらず、インド人は、世俗的な快適さや安楽に心を奪われて、自国の栄えある神聖な文化遺産を捨てています。物質的な快適さを有することが必要なのは疑いのないことですが、自国の霊性と文化の遺産を守った場合に限り、私たちは世界の理想として傑出することができるのです。不幸なことに、政府でさえ、この国の文化的遺産をないがしろにしています。口でどれほどインドの偉大さに関する勇ましい言葉を語り、仰々しい宣言をしようとも、その目は西洋文化に向けられています。インド人はおおむね西洋の偉業と文明に魅了され、西洋の流儀を真似ようとしています。これは極めて不幸なことです。

黄金のメール山を所有していながら、なぜ、金や銀を探し求めるのか?
願望成就のカルパタルの木を所有していながら、なぜ、他の果実を追いかけるのか?
物惜しみしないカーマデーヌ(願望成就の雌牛)を所有していながら、
なぜ、雌牛を買いによそへ行くのか?

(詩)


バーラタは他のどこでも見つけることのできないあらゆる善良で尊きものを有する国なり、という古い諺があります。それほど多くの善良で偉大なものに満ちた国が、自国民に蔑視され、軽率な批判や批評の的になっているというのは悲劇です。

内なる目

インドの霊性と文化の遺産は、言葉では言い尽くせないものです。しかし、それを楽しみ、体験するためには、十分な資格を持っているべきです。人は学識を持ち、教養があり、その他の道において優れているかもしれません。しかし、霊的な熱望がなければ、それら一切は何の役にも立ちません。目を内に向けて、神の至福を体験した人だけが、インド文化の偉大さを完全に正しく評価し、理解する資格を持つのです。

たとえ異なる言語を話し、異なる衣装を身につけ、異なる作法や習慣に従っていても、バーラタ人は、誰もが一人の母の子であり、一つの家族の一員です。バーラタ人は人類を一家族と見るべきであり、その中の至高神はただ一つです。神の恩寵を獲得できなければ、他のすべてを獲得しても価値がありません。愛だけが人を神と結びつけます。なぜなら、愛は神の本質だからです。愛そのものの化身である者を悟ることができるのは、他の手段によってではなく、愛によってのみです。人間にも愛は授けられています。人間はその愛で神の愛を手に入れ、自らを愛で満たし、愛に満ちた人生を送るべきです。

人々は、商売や職業に従事することによって富を稼ぎます。これは永続するものではありません。恒久の、永続する、霊的な富を獲得しようと努めなければなりません。そのような富は、神を愛し、神の恩寵と愛を得ることによって、確保しなければなりません。

神はパラマ プレーマにのみ応える

愛は、常に北を指す羅針盤のようなものです。愛に満ちた信者の思いは、その信者が何をしようと、何を言おうと、常に神の方を向いています。そのような愛は、パラマ プレーマ、至高の愛と呼ばれてきました。神はそのような愛にのみ応えます。この愛の性質を理解するのは、誰にとっても容易ではありません。人間の内にある愛は、それがエゴ(自我)に基づいたものであれば、望ましくない形を取ります。もし、その愛がアートマ(真我)の方に向かうなら、それは人間を救い、昇華させます。それゆえ、すべての人は真我顕現を求めて懸命に努力すべきなのです。

多くの人が、自分はアートマの探求に関わっていると想像しています。アートマを探すという考えそのものが見当違いです。アートマは遍在であり、あらゆるもの、あらゆる場所に存在する活動的な原理です。この世にアートマが内在していないものはありません。しかし霊的な目を持っていないと、アナートマ(非霊的なもの、または感覚で認知できるもの)が存在しているかのように見えます。ですから、アートマの探求には、見る目を変えることが要求されるのです。この見る目とは、肉眼のことではありません。それは、肉眼に見ることを可能にさせている、唯一者を見ようとする、内なる目のことです。このように、霊的探求は、見る力の背後に存在する「見る者」を知るという試みなのです。

今日、あらゆる霊性修行が、マインド(マナス、心、頭、思考の束)を通して行われています。マインドが霊性修行を支配している限り、真我顕現というゴールに到達することはできません。マインドは、捕まえられるのを許さない泥棒のようなものです。真我を悟るためにマインドに頼っても役に立ちません。目が真我に集中すれば、マインドはだんだんと消えていきます。

真我顕現を求める切なる思いから、求道者たちはウパデーシャ(霊的教示)を手に入れようとします。しかし、「ナモー ナーラーヤナーヤ」(ナーラーヤナ神に帰命します)や「ナマ(ハ) シヴァーヤ」(シヴァ神に帰命します)といった単なる言葉が、霊的教示になり得ますか? ウパデーシャの根本的な意味は、人を神の住居(スヴァスターナ)に導くことです。ただ御名を唱えるだけでは神聖な目的地に到達することはできません。私たちは、ラーマ、クリシュナ、ゴーヴィンダ、ナーラーヤナといった御名を繰り返し唱えます。こうした御名はすべて、誰かから授けられたものであり、独自に現れたものではありません。後天的に得た名前が永遠であるはずがありません。あらゆる御名よりも先に存在したのは、「アハム」(私)という語です。プラナヴァ(オーム)でさえ、アハムの後に生じました。すべての人は、その「私」とは誰であるかを発見しなくてはなりません。人が「アハム ブランマースミ」(私はブラフマンである)という大格言(マハーヴァーキャ)を口にする時、そこにもアハム(私)があります。したがって、人はこの「私」とは誰なのかを調べ、確かめなければなりません。「私」に関する真理を知れば、ブラフマンは自明の理となるでしょう。

大格言(マハーヴァーキャ)

今日、私たちは、霊的な悟りを目指して肉体と精神の修行をし、時間を無駄にしています。真理は、唯一なるアートマが存在し、それがあらゆるものに内在しているということです。霊的なものと世俗的なものという二分はありません。現象としての宇宙はアートマの投影です。宇宙に存在している一切は、神という炎の火花のようなものです。すべての生き物は神から生じたものであり、神のあらゆる特質を備えています。

別の偉大な宣言、「タット トワム アスィ」(それは汝なり、タットワマスィ)を取り上げてみましょう。「トワム アスィ」(汝は〜と同一であるの意)とは何でしょう? 「タット」(それ)が何であるかがわからないなら、あなたはこのウパニシャッドの宣言の真の意味を理解することはできません。一個の種から苗木が育ち、その苗木が枝や葉や花や実をつけた木に成長します。葉、花、枝のすべてが、自分は苗木となった種から生じたということを、明確に物語っています。種は木の中にある一切のものの基盤です。種が種のまま留まっている限り、木になるはずがありません。苗木となるために種が自らの形を捨てたとき、種は枝や葉を出し、花を開かせることができるのです。

同様に、人間も自分の本性を悟るべきであり、自分の実体を肉体意識と同一視することによって惑わされるべきではありません。人間が経験するあらゆる悲しみと苦しみは、肉体意識が原因です。その肉体上の迷妄が残っている限り、アーナンダ(至福)という果実は得られません。人生という木が成長し、グニャーナ(英知)という花とアーナンダという果実を実らせるには、肉体上の執着という種を捨てなくてはなりません。ウパニシャッドは、不滅は儀式や子孫や財産によってではなく、ティヤーガ(放棄)を通してのみ達成され得る、と宣言しています。

一なる者は多の基盤

自分の知識や学識、シャーストラ(論書)に精通していることを自慢するのは、実に無知の印です。賢者とは自分の本性を知っている人です。エゴ(自我)に満ちている限り、人は神を体験することができません。エゴを破壊するためになされるカルマ(行為)は、アカルマ(行為ならざる行為、無執着の行為)となります。愛に満ちたバクティは、最も容易な神への道です。あなたは万人を愛さなくてはなりません。愛の偉大な特質は、愛が一体性への王道であることです。この世界で見るあらゆる多様性と多面性は、一なる者から生じました。一なる者が多の基盤です。ひとたび多様性の根底にある一体性を悟るなら、違いから生じる問題は解決され得ます。

人類の一体性の感覚を育てよ

今日、インド人が直面している最も重要な課題は一体性の成就です。一体性がなければ、最も小さな課題さえ達成することはできません。この7億8千万人の国家に、適切な人間関係が見られません。どの人も皆、利己的な関心に心を奪われています。このようなものが人間の真価ですか? 利己主義と私利私欲、カーストや信条に基づいた差別は、完全に取り除かれるべきです。誰もが、自分は人間家族の一員である、と考えるべきです。あらゆる階級差別は、年齢差別や性差別と同様に、肉体上の違いに基づいたものです。すべての肉体はカーストの差別を有しない五大元素(風、空、火、水、地)から構成されています。五大元素はすべての生き物に共通です。これら基盤となる共通元素を認識し、そこから人間の一体性という感覚を発展させるべきです。

一体性の感覚を促すためには、奉仕活動に参加しなければなりません。善い性質と純粋な思いを培うこと、善い行為をすること、神聖な感情を体験すること―これらのために肉体を役立てなくてはなりません。神聖な行為を通してのみ、人生を清め、価値あるものとすることができるのです。

神聖な愛の化身である皆さん!

霊的な道を歩みながら、推論の域を出ない論争にふけってはなりません。バーラタの霊的遺産は盲信の産物ではありません。それは、霊的探求と聖賢たちの体験という熟した果実です。聖賢たちはそれを楽しみ、その喜びと解放をもたらすために、それを人類に伝えました。その遺産は、ヴェーダとシャーストラ(論書)とプラーナ(神話)を攪拌して得られたバターです。バーラタを土の塊と肉の塊であると見なすべきではありません。バーラタはそれ自体が甘露です。バーラタは至福の宝庫です。バーラタはすべてのシャーストラの真髄を含有しています。これらの真理を理解せずにあらゆる類の無駄話にふけることは、笑止千万です。

神の方法

神の性質を理解するのは容易なことではありません。なぜなら、神は遍在であり、いかなる種類の活動も請け負うことができるからです。神にはこれができるか、あれができるか、神は何らかの媒介を通じて働くのか、などと尋ねる資格のある者は一人もいません。神の力を超えるものは何もありません。神は人を泣かせることもできれば、人が涙を流すのを回避させることもできます。神は快楽主義者をヨーギに変えることもできれば、ヨーギを快楽主義者に変えることもできます。神は狂気を追い払うこともできれば、狂気をもたらすこともできます。神は、創造することも、守護することも、罰することも、滅ぼすこともできます。神だけが、個々人が、いつ、どのように、どんな状況で、何をすれば良いのかを知っています。神はいかに振る舞うべきかなどということを神に告げる権威のある人間は、誰もいません。たとえば、ヒランニャカシプ(無神論者の魔王)とプラフラーダ(魔王の敬虔な息子)の場合があります。神はヒランニャカシプを罰してプラフラーダを守護しました。神は、その人物の過去の行為に応じて、また、その人物に影響を及ぼす状況の必要性に応じて、対処するのです。

宇宙は神の具現です。違いというものは、誰かが利己的な動機で行動するときに生じます。一方、神にはまったく私利私欲はありません。それゆえ、神がすることは何であれ、他の人々にとって良いことだけなのです。神の行為はすべて神聖です。神の行為はダルマ(正義)です。神の行為はサティヤ(真理)です。

神がまさにダルマとサティヤの化身であるとき、神の行為に異議を申し立てる資格のある者など誰もいません。大聖賢(マハリシ)たちでさえ、あらゆる探求と探査の末に神について何を述べることができたかといえば、「これではない」、「これでもない」ということだけでした。大聖賢たちは神が何であるかを定義づけることができなかったのです。それが何でないかを述べることは可能だとしても、いったい誰にそれが何であるかを宣言する能力があるでしょうか? 神は宇宙の舞台監督であり、脚本家であり、俳優です。神はあなたの姿をとって演じてさえいるのです。神は批判する者であり、批判される者です。神は泣く者であり、泣かせる者です。それが神の本質であるならば、いったい誰が神について何か断言することなどできるでしょう?

愛で引きつける力

しかしながら、一つ、神の唯一の属性が存在します。それは、愛で引きつける力です。この磁力は、どんなものにもあるというものではありません。海は並外れて広く深いものです。海から汲(く)んだコップ一杯の水は、海の広大さを持ち得ません。それは海水と同じ味をしているかもしれませんが、海のその他の属性は何一つ所有できていません。個々の人間も、過去世での積み重ね、霊的造詣、その他の造詣、また、その人が受けるに値するものに応じて、いくらか神聖な性質を持っているかもしれませんが、それは厳しく限度が限られています。

皆さんは今日、何千、何万という人々がここにいるのを目撃しています。何が彼らをここへ引き寄せたのでしょう? 一枚でも招待状が送られましたか? ここへ来させようとして何かマスコミで宣伝しましたか? 彼らがここへ来た唯一の理由は、神の愛という引きつける力です。ティヤーガラージャに次のように歌うよう駆り立てたのは、この力です。

それは、あなたが至福を授ける願望成就の宝石(チンターマニ)を
お持ちだからではありません
おおラーマ、皆がハートを一つにし、
あらゆる繁栄の源から、慈悲の大海から、
永続する喜びを味わうために、あなたの周りに集まりました
英知の化身、それはあなた、
匹敵する者のないあなたです


(ここでスワミはご自身の甘美なお声で「レーカナ ニンヌ ジュットゥクンナール」というテルグ語の歌をお歌いになり、聴衆全員を法悦で満たしてくださいました)

ハートからハートへの愛

愛という願望成就の宝石がここに顕現しているがゆえに、世界各地から何千、何万という人々がここへやって来たのです。人はとやかく言うかもしれませんが、これほど多くの人々を引きつけることのできる者を他にあげることができますか? 他の場所では、人は大型トラックで運ばれて来ても逃げ出すことを選びます。ここでは、きちんとした宿泊設備が足りないため、来ることを思いとどまらせようとしても、信者たちは来ることをやめようとせず、木の下や戸外で寝るでしょう。これが、ハートからハートへと流れる愛です。誰にもここへ来るようにとの強制はありません。彼らを(ここに)結びつけているのは愛の絆です。それが神の力です。

スワミはあれこれと力の立証をしている、と言う人々もいるでしょう。皆さんには「立証」に見えるかもしれませんが、私にとって、それは「表示」にすぎません。これは私にとっては自然なことです。私は、自分にとって生得的なことをしているのです。それは神の愛を顕現することです。これは誰にでもできることではありません。すべてのシャーストラとスートラ(経典)が、人をそう行動できるようにさせ得るわけではありません。愛の力を体験した人だけが、この現象を理解することができます。愛はお金で買えるようなものではありません。愛はあなたに生まれつき備わっています。愛をありのままに体験することを試みるなら、あなたは愛を悟るでしょう。

ラーマの御名を唱えなさい

ラームダースは恍惚として歌いました。

ああ、帰依者たちよ!
ここに素晴らしい飴がある
それはヴェーダとプラーナから作られた、ラーマの甘美な御名
さあ皆、いらっしゃい、来てこれを味わいなさい!
このラーマ キャンディーは色とりどりで、あらゆる病を癒してくれる
費用は一銭もかからない
さあ皆、いらっしゃい、来てこれを味わいなさい!


スワミの愛を味わうためには、旅費以外、何も支払う必要はありません。そして、その費用さえ、神聖な供物です。あなたがプッタパルティへ来る旅費は、出費ではなく祝福(プラープティ)と見なしなさい。その出費なくして、この恩寵を得ることはできません。何も出さずに何かを受け取る権利はありません。それと同じように、あなたは何らかの小さな犠牲を払わない限り、ここで得る至福の体験を手に入れることはできません。信者に対する神の愛は、相互的なものであり、与えて受け取る愛です。

神が何を考えようと、何を言おうと、何をしようと、それは神自身のためではなく、世界の幸福のためです。これからは、このことに対する揺るぎない信仰を持ちなさい。そこには、ほんのわずかな私利私欲の痕跡さえありません。あなたが信じようが信じまいが、私にとって万人は同じです。けれども、各人に何を受け取る資格があるかは、プラープタ アヌサーラム(自ら得た当然の果報)に従ってそれぞれ異なります。海にはあふれるほど水がありますが、人が海からくめる水は、各人が持っている器の大きさ次第です。それと同じように、人の運(アドルシタ)は、その人の過去の記録と、今、その人が受けるに値するものによるのです。

神への信仰を強めなさい

今日、あなたがしなければならないことは、善い思考を促進することです。行動は思考から起こります。サーダナ(霊性修行)は行動を基盤にしています。人格はサーダナの結果です。人格はあなたのプラープティ(得る運命にあるもの)を決定します。ですから、あなたが自分の幸運や不運と見なすものは、煎じ詰めれば、あなたの思考に基づいているのです。自思自得ということです。

自分の義務は、それが何であろうと、果たすのを避けることはできません。あなたは義務を果たし続けなければなりません。そして、義務を果たすことに従事している間でさえ神を思い起こし、神を瞑想すること以上に実りあることはありません。

しかしながら、もし心の内に悪い思いや悪い意図を持ちながら、外面的にはあたかも善い思いを抱いているかのように振る舞うなら、あなたは神を欺いているという罪の意識を持つでしょう。富を用いて目隠し遊びをしている余地はありません。自分の富を誇示するのではなく、善い性質を育てなくてはなりません。あなたの人生は神への全託という原理に基づいていなければなりません。

次のように尋ねてくる人々がいます。「私は一切を神に全託しました。それなのに、なぜ、私はこれほど多くの試練や苦難にさらされるのでしょう?」

本当に神に全託した人には、そのような質問は生じません。「全託した後も、私は苦しみに遭っている」と言うこと自体、その全託が本物ではないことを示しています。なぜなら、一切を全託した後であれば、「私」のための場所など、どこにありますか? すっかり全託した人には、その人の経験することは(良かれ悪しかれ)すべて神からの贈り物です。

ああ人よ!
おまえは自分のカルマの結果から逃れられるか?
井戸に持っていこうが、広大な海に持っていこうが
おまえがくめる水は自分の器に入る分だけであり
自分のカルマが与える資格以上のものは得られない
覚えておくがよい、ああ人よ!
どこへ行こうと、何を学ぼうと、いかなる苦行をしようとも
自らのカルマの命じる定めから、逃れることなどできはしない!

神の恩寵の力

しかしながら、カルマの結果を乗り越える方法が一つあります。もし、あなたが神の恩寵を手に入れるなら、山のような罪も塵と化すことができます。神だけがそのような恩寵を授ける力を持っています。炎の火の粉は山積みの綿を焼き尽くすことができます。火の粉はどうやって人間の苦境という「山」に入り込めばよいのでしょう? ひたすら愛によってです。愛を育てなさい。常に神の御名を憶念しつつ、愛を込めてすべての人に仕えなさい。神の御名が舌の上になければ、マインドはあちらこちらを走り回ることでしょう。ぐらつきが生じる源はマインドです。それゆえ、思いを神に集中しながら、行為に従事しなさい。

神聖な愛の化身である皆さん!

降誕祭を祝っている今日、この日から、皆さんが記憶に留め、実践しなければならない三つのことがあります。

1)他人への批判を避けなさい。他人に難癖をつけるのは嘆かわしい罪です。神に難癖をつけるのは、さらに悪質な罪です。他人の欠点や過失を論じてはなりません。

2)すべての人に愛を込めて挨拶しなさい。献身的に自らの義務に着手しなさい。

3)心を込めて村での奉仕を始めなさい。私はよく、「グラーマ セヴァはラーマ セヴァ」(村への奉仕はラーマ神への奉仕)と断言してきました。ラーマラージャ(ラーマの治世)は愛の治世でした。政治からは距離を置きなさい。

心に留めておくべき三つのこと

もう一つ、サイ オーガニゼーションに関わる全員が心に留めておくべきことがあります。どのような活動に着手しようとも、我々の組織は、政府と一切関わりを持つべきではありません。政府には政府の仕事をさせなさい。私たちの活動は、政府に頼らず、自分たちにできること、自分たちの力量の範囲内に、限定すべきです。何か大きなことを試みる必要はありません。正しく為された、ほんの小さな奉仕で十分です。

次の三つを心に留めておきなさい。

第一に、私たちの奉仕組織は政治から離れているべきであるということ。
第二に、社会に飛び込んで奉仕すること。
第三に、他の人々のあら捜しや他人の悪口を言うことを避けること。これぞ真のサーダナです。

陰口にふけっている人たちを窘めるのを躊躇してはなりません。そのような人たちは、その場で正されるべきです。そうすれば、彼らはその悪い習慣を続けないでしょう。その人たちには、人間として生まれた者にとって人類同胞の悪口を言うのは似つかわしくない、ということを言って聞かせなければなりません。人の悪口を言う人には、その十倍の悪口が返ってくるでしょう。あなたが愛を育てることを始めるなら、これら一切の邪悪な習性は、次第になくなっていくでしょう。

これからは、神を思い起こし、神を崇め、あなたに生来備わっている神性を認識しながら、社会奉仕に従事しなさい。これがあなたの人生を清める方法です。

あなたの中にある神性に気づきなさい。自分の外側で神を探す必要はありません。あなたが身につけている肉体という衣が、あなたに肉体であるという迷いを作り出すようであってはなりません。その迷いを振り払いなさい。そうすれば、あなたは真の自分であるブラフマンを悟るでしょう。

バジャンをして、常に神の御名を舌の上に保っていなさい。一瞬も無駄にしてはなりません。ラーマの御名を唱えることで、猿のハヌマーンは、万能となり、平安の体現となり、あらゆる高潔な特質の模範となりました。シーターはハヌマーンを絶賛しました。あなた方全員が培う努力をすべきは、そのような性質です。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.20 C29
サイ ラム ニュース141号(2011年11・12月号)pp.2-14掲載

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