サイババの御言葉

日付:1988年11月23日・場所:プールナチャンドラ講堂
63歳の御降誕祭の御講話より

良心に支配させなさい


太陽よりも燦然と輝き、
最も清らかな雪よりも白く、最も霊妙な精気よりも霊妙で、
あらゆる生き物に内在している

ブラフマンが存在しなければ、宇宙には何一つ存在しない
このパラマートマは、最小の微粒子の中にも存在する
万物の中に存在しつつ、それは何ものにも影響されずに留まっている

その普遍なる純粋意識は、三界を明るく照らし、維持しながら、
創造されたこの世界の万物に充満している

汝はそのブラフマン、ブラフマンは汝の内にあり
汝とブラフマンは異ならず
これ以上、偉大な真理を伝えることができようか
ここに集まった善良な人々に

私は光の中にいる
私はその光
光は私の中にある
その光は私
これに気づいた者は、その者自身がブラフマン
ブラフマンはその人なり

神聖なアートマの化身である皆さん!

人間の姿をとった神を理解できるのは人間だけであり、人間以外には不可能です。それゆえ、人間の姿は尊重されるべきものなのです。

ダイヴァム マーヌシャ ルーペーナ
(神は人間の姿をとって現れる)


と言われています。神はこの世に降臨し、人間に神性へと通じる道を教え、人間に神の恩寵を降り注ぐために、人間の姿を身にまといます。

人と人の姿をとった神

自然界は燃える火(エネルギー)の玉です。この火は内にも外にも存在しています。それと同じように、神聖アートマの原理は至る所に存在しています。神は微小なる原子から最も巨大な星に至るまで、全宇宙に宿っています。この神の力は森羅万象に内在しています。この力を認識する能力を備えているのは人間だけです。ところが、この力を認識しようと試みる中で、人間は粗末な姿形を作り出し、迷妄によってそれを神だと考えてしまうことがあります。

今日、人は、世界や社会や他の多くの事柄について、驚くほど科学的な講演を行うことができます。人は論理的には説得力があるように見えるかもしれません。人は人の姿をとった神の性質を、さまざまな方法で解説さえするかもしれません。しかしながら、これら一切は単なる空想の産物であって真理ではありません。雄弁な学者たちは、神を言葉で言い表そうとするかもしれませんが、完全に神の本性を知っている人、知り得た人は、誰もいません。人間の姿をとった神を知ることができるのは人間だけです。人間以外、それを見ることはできませんし、人間以外の姿をとった神を説明することはできません。神に関する他のあらゆる説明は、推論の域を出ない、架空のものです。

象が神を礼拝したいと望むことがあったとしても、当然ながら、象は自分を基準に、神を巨大な象として想像することができるのみです。象には他の姿をとった神を想像できません。ネズミが神を思い描く時も、ネズミは神を巨大なネズミの姿でしか想像できません。それと同じように、人間は神を人間の姿でしか想像できません。自分を人間の見地からだけで考えている限り、人は人間をしのぐ神を人間の姿以外に想像することはできないのです。

神に関する学者の解説は混乱をもたらすだけ

博学で雄弁な学者たちは、神をさまざまに解説するかもしれません。中には、神を、「アパラメーヤ(理解不可能な御方)、アヴァーングマーナサ ゴーチャラ(言葉と心では及ばない御方)、アティータ(超越している御方)、ニルグナ(属性を持たない御方)」と描写する学者たちもいます。どれも大仰ですが、内実は空言にすぎません。これらの語には、意味が添えられ、精巧な注釈がなされるかもしれませんが、個人的体験という観点からすれば無価値であり、危険をはらんでいます。こういった言葉は実体を描写しているものではありません。

都合のよい機会に学者に尋ねてみなさい。「アパラメーヤとはどんな意味ですか?」と。いかなる論理的証拠もかなわない者のことだと、学者は答えるでしょう。さらには、アヴァーングマーナサ ゴーチャラという語は、言葉やマインドでは認識不可能な者のことを言うのだと、解説するかもしれません。しかし、学者はこれら以外に神の姿を実例によって示すことができるのでしょうか?

私の考えでは、一般の信者がもつ神の概念のほうが、学者の述べる解説よりも優れています。なぜなら、一般の信者は、こうした語を使うこともあるかもしれませんが、むしろ黙っていることを好むからです。それは社会の平安につながります。学者によってなされる多様な解釈は、社会に分裂や混乱を引き起こし、人々の心の平安をかき乱します。そのような混乱や当惑を引き起こすよりも、学者は沈黙を守ったほうがよいのです。

古代から現代に至るまで、神を描写するためにあらゆる語が使われてきましたが、神について本当の真理を実証できた人は誰もいません。神はあらゆるものの中に存在しており、あらゆる姿は神の姿です。そのような遍在の神を、どうやって描写したり実証したりできますか? これはブラフマンであり、これ以外はブラフマンではないなどと、断言できる人がいますか? 惑わされている人だけが、人間的な弱さからそうするのでしょう。

外観と実体は異なる

花に芳香が内在しているように、薪に火が内在しているように、胡麻に油が内在しているように、人間には目に見えない隠れた神性が内在しています。この内なる真理に気づかずに、人間は外観に心を奪われて、それらを実在であると見なしています。人はずっと昔からそのような観念に影響されて、どっぷりと無知に浸されてきました。人は、蟻塚にミルクを供えておきながら〔蟻塚にはコブラが住んでいると信じられておりコブラをなだめるために供物として牛乳を供える〕、蛇を見かけると殺します。人は、田畑を耕すのに使っている牛を折檻しておきながら、牡牛(シヴァ神の聖なる乗り物)の石像を礼拝しています。これが、太古の昔より人々が実践してきた「哲学」の類です。生きているものに害を及ぼしながら、命をもたない対象を崇拝するのは、バーラタ人たちに共通する弱点です。飢えに苦しむ人に一口の食事すら与えない人が、神仏の像にはナイヴェーディヤ(神饌)としてあらゆるご馳走を供えようとします。ヴェーンカテーシュワラ神の賽銭箱に硬貨の包みを投げ込む人が、物乞いには雀の涙ほどの小銭を与えることさえ拒みます。これらはすべて、私たちの古来の伝統の一部と見なされています。しかし、飢えに苦しむ人に食物を捧げるなら、人はどれほど清められることでしょう。神は人間の姿の内に存在するという基本的真理を悟ることは、絶対に不可欠です。ジーヴァ(個々の生物)に苦しみを与えながら、デーヴァ(神)を礼拝するのであれば、人は自分の本分を尽くしていると言えるでしょうか?

アヴァターは神のさまざまな相に基づいている

神はこの世に五つの別の形で、人の姿をとった化身〔アヴァター〕として降臨してきました。その形は神のさまざまな相に基づいています。第一にニッティヤ アヴァター、第二にヴィシェーシャ アヴァター、第三にアーヴェーシャ アヴァター、第四にリーラー アヴァター、第五にプールナ アヴァターです。リーラー アヴァターはアムシャ アヴァターとも呼ばれています。

ニッティヤ アヴァターと、ヴィシェーシャ アヴァターと、アーヴェーシャ アヴァターが有しているのは、神の五つから九つのカラー(相)のみです。神の十六の相すべてを有しているのは、プールナ アヴァターのみです。古代の人々はプールナ アヴァターだけを神の完全な顕現と見なしていました。

これに関連して、人は皆、何らかの神の相を有しているのですから、アヴァターと見なされなければなりません。人は神に由来するため、アヴァターと呼ばれる権利があるのです。人間に神の姿を見せるとき、神はアヴァター以外の別の姿を用いることはありません。

万人を崇めなさい。すべての人に愛を示しなさい。愛は、大地で育てることのできる農作物や、店で購入できる日用品ではありません。君主であろうが庶民であろうが、利己的なプライドを捨てて犠牲を払う覚悟ができたときにのみ、愛はその人の内に開花します。

神の悟りへと向かう旅を始めなさい

人間の生涯は薄弱で、迷妄と無知を免かれないと感じて、意気消沈してはなりません。人間として生まれてくるのは容易なことではありません。にもかかわらず、自分の本性を悟らずに神が外界にいると想像するのであれば、それはまったくの無知の印です。ですから、あなたの時間を無駄にせずに自分の義務に従事し、神の悟りに向かう旅を始めなさい。

もし神を礼拝したければ、人間の姿をした神のみを礼拝しなさい。その他の姿はすべて人為的なものであり、想像力が創り出したものです。それらは迷妄の産物です。ブラマ(迷妄)が留まっている限り、ブラフマン〔神〕は体験できません。

多くの人々が神を多種多様に描写しています。聖典も神をさまざまに記述しています。しかし、解説者たちは言葉で描写を繰り返すことに甘んじており、神を体験しようとはしていません。神の姿はどのようなものですか? たとえあなたが神を見たいと望んでも、あなたが思い描く神の姿は戯画にすぎないでしょう。あなた自身の姿を神の顕現と見なしなさい。あなた自身を神として高く評価しなさい。他の人々を尊敬しなさい。自分を愛し、他の人々を愛しなさい。これが真の礼拝です。

神に対するこうした心の広い態度が昔から奨励されていなかったために、人間はあらゆる無知の餌食となってきました。神が地上に降臨するとか、地上を去るといったことはないのです。

肉体は、水の中から湧き上がり、水の中で大きくなって、水の中に消えていく水泡のようなものです。これが真理です。人間はブラフマンから生まれ、ブラフマンを通して成長し、ブラフマンに融合します。ブラフマンとは、ブラマ(迷妄)からの解放を意味します。ブラフマンを体験できないのは迷妄のせいです。人間はアハムカーラ(自我、エゴ)とママカーラ(所有者意識)という迷妄に支配されているのです。

広大無辺な神を、どんな姿の内に礼拝することができますか? 一切のものである者に、何を捧げることができますか? 世界中の人々が、ラーマ、クリシュナ、アッラー、ゾロアスター、仏陀、サイ ババといった、さまざまな名前で神を礼拝してきました。けれども、これらの名前はすべて、一なるアートマを表しているのです。真の礼拝とは、あらゆる姿を一つと見なし、神を愛と真理の姿に礼拝することにあります。それは素粒子よりも微細なものです。「真理は原子以上に根源的なもの」と言われるのは、これが理由です。

良心にあなたの行動を支配させなさい

神をサティヤスワルーパ(真理の化身)として礼拝する一方で、日常生活で真理を固守しないなら意味はありません。ダルマは真理から生まれます。ダルマはハートから生じます。

ダルマは真我の満足を促進します。それは真我の意識の表れです。その神聖な意識の促しを信用しなさい。誰も自分の良心の指示に背いた行動をすべきではありません。良心に反する行動は悪です。良心に基づいた行動は正です。それゆえ、真の礼拝とは、良心に命じられたとおりに正しい行いをすることにあります。思いと言葉がばらばらであるのは神を否定することです。思いと言葉と行動には完全な一致があるべきです。

神は唯一なるものです。あなたの礼拝や儀式や信仰の形式はまったく個人的なものであり、普遍なるものとは関係ありません。「神性」とは、完全で、すべてを包括しているものを意味します。一なる神が万物に存在しているのです。万物は真理と愛に満ちています。愛を持たないものはありません。愛はさまざまな表現手段を見出すかもしれませんが、本質的には一つです。愛は神です。愛に反してはなりません。

神は多様な姿に礼拝されるかもしれませんが、それらすべてを包括する一体性を認識することは不可欠です。いかなる形式をとったとしても、礼拝そのものは同一です。それと同じように、神の姿はさまざまでも、神性原理は唯一なるアートマです。

不変の愛だけが真の信愛

今日、皆さんが留意しなくてはならない重要なことは、ただ一つ、神はどこか遠く離れた場所にいるという迷妄を捨てることです。「私は神である」という信念を持ちなさい。自分は神であるという信念を持つならば、身を誤るようなことはありません。皆さんは正しい道をたどるようになるでしょう。ヴェーダとウパニシャッドに宣言されているように、神はすべての人間の中に存在していることを信じなさい。単なる学識が、人をパンディト(博識者)たらしめるわけではありません。

パンディタース サマダルシナハ
(パンディトとは万物を平等な目で見る者のこと)

パンディトか否かを判断すべきは、その人が何を実践しているかによってであって、外的な付属物や、その人の説法や、書いた本の内容によってではありません。

自分たちを神の子と見なしなさい。各人に内在する神の相の数に関することを除いて、アヴァターと皆さんとの間には本当に何の違いもないのです。それらの相は、正しい行いによって、神聖な愛を育てることによって、強化することができます。

刻一刻と衰えゆくもの、時と共に大きくなるものは、真の愛ではありません。変化することなく、ハートの中で常に輝いている愛だけが、真の愛です。それは、喜びや悲しみ、賞賛や非難に影響されません。そのような愛こそが真の信愛です。さまざまな状況によって増大したり衰えたりする愛は、まったく真の愛ではありません。

何か大きな恩恵を得たり、祈りが叶えられたりすると、人は礼拝用の写真を増やします。ところが、願いが叶えられないと、写真を取り外してしまいます。これが正真の愛であり得るでしょうか?

神を崇めることにより利己心を取り除きなさい

ブラフマー、イーシャ〔シヴァ神、支配者〕、ヴィシュヌという神性原理はすべて、人間の中に見出されます。ブラフマーは創造の原理を表しています。イーシャはハートによって表されます。ブッディ(理智)は、至るところに充満するヴィシュヌの原理を表しています。それと同じように、ヤントラ、マントラ、タントラという三つの神の形態も、人間の中に見出されます。体はヤントラ(機械)です。体に付いている手足は機械の部品です。私たちの呼吸はマントラです。呼吸のたびに、「ソーハム」(神は我なり)というマントラが唱えられているのです。私たちのハートはタントラ(導く力)〔経典〕です。

神は人間の姿の内に存在するという、揺るぎない信念を持ちなさい。人間の姿にふさわしい、正しい行為をしなさい。利己心を遠ざけなさい。執着と憎悪はそこから湧いてきます。利己心を避ける方法は、神を崇めることです。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.21 C33

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