サイババの御言葉:宗教と道徳

日付:1989年7月23日・場所:プラシャーンティ マンディル
宗教に関するババの御講話より

宗教と道徳


親愛なる学生諸君!

すべての宗教が宣言している真理は一つであり同じです。すべての宗教の最終的な目的地は同じです。宗教の第一の目的は、人の愚かさを治療して、真の人間にさせることです。宗教は一様に、人の心のあり方を変えることによって、正しい行いを促進することを目指しています。宗教は、人が肉体の必要を満たすことに夢中になる以外に、魂への信心を深めることを望んでいます。すべての宗教の基盤は道徳です。もし道徳が衰退すれば、宗教の失速と共に人間性も衰退します。

道徳は正義にかなった行いの土台です。国であれ、社会であれ、個人であれ、一切の土台は道徳です。道徳が失われると、これら三つはすべて徐々に衰えていきます。あらゆる繁栄と幸福は、道徳心に基づいています。宗教が発生したのは、人に倫理的な生き方の価値を気づかせるためです。

宗教は、正義にかなった行いを通じて体と知性と心の調和を促進することを目指しています。まったくの正しい行いは、道徳を意味します。それはダルマ(正義、本分)とも呼ばれています。ダルマには「喜ばしいもの」(プリヤム)という意味もあります。また、ダルマは、人生の真の価値とは何かということに言及しています。道徳的価値を基準として生活を送るとき、人は評判、名声、繁栄をはじめとする、最も貴いものを獲得します。物質的なものにはそれぞれ価値がありますが、ダルマには計り知れないほどの価値があります。ダルマに値段を付けることはできません。

ダルマと人間の価値

ダルマは「道徳」(ニーティ)とも呼ばれています。道徳とは、すなわち私心のない愛です。宗教は、愛を提唱することを通じて社会の幸せを育むために設けられました。古代の聖賢たちは、時と場所と国の状況に応じた、一定の規則と訓戒を定めました。それらは人間の価値を育むことを意図したものであり、経典とヴェーダに基づくものでした。それらの規定の的確な日や場所、あるいはその述者を定めることは、誰にもできません。聖賢たちは、そうした戒律は最高の人間性を促進する助けとなるものであり、人類を助けるために神が定めたものであると信じていました。時の経過と共に、そして、聖賢たちの好みの違いのゆえに、それらの規則はシャークハー(部門)やウパシャークハー(小部門)に分けられて、それぞれにそれを好んだ聖賢の名前が付けられました。ヴァシシュタ、ガウタマ、パラーシャラ、ヴィシュワーミトラといった聖賢の名前は、そうしたシャークハー(部門)と結び付いています。それらはすべて、社会の幸せを向上させるために構想されました。バーラタ〔インド〕人の宗教の開祖や、それが始まった日を特定できる人は、誰もいません。すべての教派の根源はヴェーダです。

ヴェーダ後の宗教の源

ヴェーダの宗教とは別に、今から2000年から2500年前、他の宗教がいくつか発生しました。それらの宗教の開祖たちは、社会の状態に打ち勝つことに留意し、教えを通してさまざまな分派の和合の促進に努めました。基本的に、そうした異なる信仰の間での対立はありませんでした。不幸なことに、異なる信仰の信者同士の不和が、偏狭な忠誠心と教義の対立の増大という結果をもたらしました。どの宗教にも病原体のような分子が何人かいて、彼らが他の信仰への憎悪を促したのです。実際には、宗教間の対立はありません。バーラタ人の宗教は、その起源において最古のものです。ヴェーダを基盤としていることから、それはヒンドゥー教と呼ばれてきました。この信仰の神髄は、「ローカー サマスター スキノー バヴァントゥ」(すべての場所のすべての人々が幸せでありますように)という祈りの言葉にあるように、その普遍性です。バーラタ人の信仰は、すべての人の幸福を強調しています。

イスラム文明の宗教であるイスラム教の目的もそれと同じです。「イスラム」はペルシア語で「全託」あるいは「平和」を意味します。この言葉の内的意味は、人は神に全託して人類同胞と平和に生きるべし、というものです。イスラム教の聖典である「コーラン」(クルアーン)には多くの神聖な教えが含まれています。そのうちの一つに「サラート」があります。それは、人は確固たる信仰心を持って神を礼拝せよと命じています。もう一つの教えは「ザカート」です。これは困窮や苦悩にあえぐ人類同胞の苦しみを和らげるために慈善を施すよう、信者に命じています。バーラタ人の経典にはそれと類似した義務が定められています。それは「パローパカーラハ プンニャーヤ パーパーヤ パラピーダナム」(他者に奉仕することは功徳に値することであり、他者に害をもたらすことは罪深いことである)と述べられているものです。こうした教えを実践することで、異なった信仰を持つ人々は、和を持って暮らしていました。バーラタ人は、真理(真実)、平安、愛、堪忍寛容、思いやりを、自分たちの宗教の五つの生気と見なしていました。

決して宗教的な不和が生じてはならない

「コーラン」でさえ、宗教あるいは異なる宗教の教えを論題とする際には、議論に辛辣さを持ち込むべからず、相違点を苦々しく思うことなく考えるべし、と述べています。これはどの宗教も断言していることです。ところが、各宗教の信者たちは、この根本的な真理を忘れて、教義の違いという、根本的なものではなく実際には言葉の上だけの違いにすぎないものを基に、バリアを作っています。

今日、宗教間にさまざまな種類の不和が生じています。これは良いことではありません。人は皆、生活の基礎を神に定められた道徳と真理に置いて、それらを育むよう努めるべきです。道徳が、すべての人のかがり火として役立つべきです。その明かりがなければ、人生は闇に沈んでしまうでしょう。

古代の聖賢たちは、自分たちは真摯に神を探求したことによって神を体験することができた、ということを世に知らせました。「我らは、かの燦然と輝く聖なるプルシャ(主)をハートの中に見た」、「我らは無知の暗闇の向こうに彼を見た」と、聖賢たちは明言しました。しかし、人生の目的は、単に神のヴィジョンを手に入れることでも、そのヴィジョンの至福を味わうことでもありません。砂糖を愛する者は、砂糖そのものになろうとしなければいけません。

ブランマヴィッド ブランマイヴァ バヴァティ
(ブラフマンを知るものは、ブラフマンそのものとなる)


宗教は、この変容を引き起こすことを目指しています。宗教は、まず、人を人たらしめることで、人を神(マーナヴァ)に変えようとしているのです。宗教は、それほどの高尚な目的を持っているというのに、低級な目的のために使われて辱められています。

なぜヒンドゥー教は宗教として突出しているのか

ヴェーダは二元的です。インドには、シャンカラ、ラーマーヌジャ、マーダヴァーチャールヤという、それぞれが哲学の三派〔不二一元論、条件付き不二一元論、二元論〕を代表する者たちを信奉する人たちがいます。三派は人間が生み出したものですが、ヒンドゥーの宗教それ自体は、誰か人間が作ったものではありません。根本的なヒンドゥーの信仰は、インド人だけのものではなく、人類すべてのためのものです。「ヒンドゥー」という言葉は、「暴力」(ヒムサ)を意味する「ヒム」と、「遠く離れていること」を意味する「ドゥー」という二つの音節でできています。ヒンドゥー教は、暴力を遠くに離す信仰です。これこそが、ヒンドゥー教が、すべての時代の、すべての国の、すべての人の幸せのために懸命に努力する宗教として、突出している理由です。それゆえ、ヒンドゥー教には、「太古よりのもの」、あるいは、「時間を超越しているもの」という意味を持つ、「サナータナ」という名称があるのです。ヒンドゥー教はいつ現れたのか、誰がその開祖なのかを知るものは、誰もいません。他の宗教にはそれぞれの年代記があります。ヒンドゥーの宗教は、成長も衰弱も知りません。ヒンドゥーの宗教は、すべての国のものです。ヒンドゥーの宗教は、すべての人々に受け入れられるものです。

人々は、自分をイスラム教徒であるとか、クリスチャンであるとか、ヒンドゥー教徒であるなどと呼んでもかまいませんが、異教徒の間に不和があってはなりません。学生は宗派同士の不和から完全に逃れているべきです。学生はすべての宗教を敬うべきです。なぜなら、あなたが自分の宗教の中で大切にしていることは、他の宗教の中にも見出せるからです。もし自分の宗教を固く守るなら、他人の宗教についてあなたが気に病む必要はありません。

すべての宗教において、人々は特定の信条への信仰を持っています。しかし、人々は、自分が信じていることを体験するために探求その他を行うという努力を、何もしていません。

学生諸君!

宗教的な相違点を心に抱いてはなりません。すべての宗教において礼拝されている神は同一です。その確信を持って、すべての宗教を敬いなさい。すべての宗教の神髄は一つであるということに気づきなさい。無駄な論争や、他の宗教への批判に足を踏み入れてはなりません。それには危険が伴います。あなたが他の宗教を攻撃するとき、それは実際には、あなた自身の宗教を攻撃しているという罪を犯しているのです。ですから、すべての人に敬意を示しなさい。あなたがどの神を崇めようとも、その礼拝は一なる至高の主に届きます。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.22 C24

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