サイババの御言葉

日付:1992年10月6日・場所:プラシャーンティ・ニラヤム
ヴィジャヤダシャミーの御講話@

シルディ・サイ・ババの最後の日々
(帰依者はいかに調べられ、欠点を探し出されるか)


帰依者はいかに調べられ、欠点を探し出されるか

私の前回の体(シルディ・サイ・ババとしての化身)においては、誰もが行動を通して教えられました。例をあげましょう。ダームとナーナは主(シルディ・ババ)への奉仕に従事していました。ババは何枚かの銅貨をつかんでは片手で放り上げ、それをもう片方の手で受け取って戯れていました。また、さまざまな方法でそれらコインを調べました。ババはコインを一枚一枚検査していたように見えました。ババはダームとナーナとは一言も言葉を交わしませんでした。そのようにして、ババは30分もコインで戯れ続けました。

いったいババは何をしているのか知りたいという好奇心から、ナーナはババに、なぜ同じコインを何度も何度も丹念に調べていたのかを尋ねました。ババは答えました。

「ベーター(愛しい息子)よ、確かに私は同じ行為を何度も何度も繰り返している。同じ言葉を繰り返している。目の前にあるマンゴーの木を見てみなさい。満開だ。葉はほとんど見えない。もし、あの木の花が全部実になったとしたら、木の枝はその重さに耐えられるか? しかし、そうはならない。花の多くは風で飛ばされる。他の花も多くは自然に落ちる。いくらかの花だけが実になる。そのうち、いくつかはリスや鳥や猿に食われる。このように、花の九割は実にはならない。一割だけが木に残る。そうではないか?」

二人は、その通りだと同意しました。

「誰も私のためには来ない」――シルディ・ババ

ババは続けました。

「同様に、千人の帰依者が私のところにやって来る。その全員が成熟して良い帰依者になるか? 多くは途中で去っていく。ある者は自分の願望を成就させようとやって来る。ある者は富を求めてやって来る。多くの者は、学問か、あるいは仕事や結婚等自分個人に関する望みか、そのどちらかのためにやって来る。一人ひとりに何らかの欠点やらがある。誰も私のためには来ない。私の金庫には、差し出すことのできる貴重品が入っている。しかし、誰もそれを求めない。

それゆえ、私は調べているのだ。コインの中には、擦り減っているものもあれば、質の悪いもの、ねじれたもの、価値のないものもある。私がコインの欠点を調べているのと同じように、私は私のところにやって来た帰依者の欠点も探している。私は彼らにどんな欠点があるのか、そして、その欠点を持ちつつ本当に私を理解することができるのか、調べようとしているのだ。

帰依者は私を欲するが、帰依者の願望はどれも世俗のことに関するものだ。そのような心構えで、どうして私に到達できるか? もし、行先が別の間違った列車に乗ったなら、どうやって目的地にたどり着くことができるか? 帰依者は私を欲するが、私を悟る努力はしない。私のところにやって来る多くの者の中で、私を悟ろうと真に努力する者は、千人に一人しかいない。

帰依者といわれる者の心は、間違った方向を向いている。自分の願望が満たされると、彼らは私を賞賛する。しかし、望みが実現しないと、私を罵(ののし)りさえもする。私を理解しようと試みている間でさえ、頭の天辺から足のつま先まで疑いを抱いている。世俗的な望みが叶わなければ、私から去っていく者さえいる。こうした者たちは、まったく誠実な帰依者ではない。実に、彼らは最悪の罪人だ。そのような者が、どうして私に到達できるかね?」

と、ババ語りました。

ババの帰依者の体験

あるとき、裕福な男が、ブラフマ グニャーナ(至高の英知)を得ようという目的で、大金を持ってシルディ・ババのもとにやって来ました。男は自分の富に天狗(てんぐ)になっていました。ババは男に尋ねました。

「どれくらいここにいるのか?」

自分は往復料金が決まったタクシーを使って来たので、一日か二日のうちに戻らなければならない、と男は答えました。ババは言いました。

「富への貪欲(どんよく)があるとき、どうして神が悟れるか? 神は定刻にたどり着くことのできる目的地ではない。立ち去れ」

男がまだ座って居続けているのを見て、ババは激怒しました。ババは杖を振り回して男を追いかけました。

純粋な心と無私の帰依心(バクティ、信愛)を携えてババの恩寵を求める者には、ババは豊富に恩寵を授けました。マータージー・クリシュナ・プリヤーはそうした帰依者でした。ナーグプルに住んでいたことから、彼女はクリシュナ(ヴィシュヌ神の化身)を崇めていて、ババを別の姿をしたクリシュナだと考えていました。彼女はよくシルディを訪れて、本物の帰依心でババの祝福を求めました。

あるとき、クリシュナ・プリヤーはシムラーに出かけて行きました。そして、クリシュナへの汚れのない帰依心で、クリシュナをババだと考えて礼拝を捧げました。それから、クリシュナ・プリヤーは、ババが1918年(大正7年)のヴィジャヤダシャミーの日の午後2時30分に肉体を離れたことを知りました。その直後(翌日)はエーカーダシー(月相11日目のヴィシュヌ神への礼拝日)でした。

1916年に、ババは近しい帰依者であったカーカジに、ダダが1918年に肉体を脱ぐと告げていました。カーカジは、ババが言っていたのはダダ・サーヒブという別の帰依者のことについてのみだと思っていました。まさかそれがババ自身のことを指していたとは、夢にも思いませんでした。

シルディ・ババの最後の日々

1918年9月28日、ババは高熱を出しました。その二日前、ババは何件かの家に托鉢に行って食べ物を集めていました。ババはそれらを正午に食べ、帰依者たちに自分はチョールトリ(巡礼者用の無料宿舎)からブーティワーダーに移りたいと打ち明けました。ババはそこで静かな時を過ごすことを望みました。

その区域には、ブーティという名の帰依者が建てた、ムラリーダル寺院(横笛を持つ者の意のクリシュナの寺)がありました。ブーティは、ババの手でその寺にクリシュナの像が安置されることを願っていました。けれども、ババは何やかや口実を述べてそれを先延ばしにしていました。ブーティは、ババの祝福なしに像を安置することは望みませんでした。ババが像の安置に言及することは最期までありませんでした。

ババはブーティとカーカジに昼食に出かけるよう指示しました。二人はババの具合は良くなっていると思い、外に出かけて行きました。ババは枕の下に9ルピーを置いていました。ババはそれをつかんで、ラクシュミーバーイーに手渡しました。それから、ババはシヤームを呼びつけて、自分のそばに来させました。シヤームはババの近くに座りました。ババはシヤームの肩に寄りかかり、この世を去りました。

ババ 死後シムラーに現る

マータージー・クリシュナ・プリヤーは、そのことを知って一日中ひどく悲しんでいました。翌日のシムラーはとても冷え込み、彼女は自宅のドアと窓をすべて閉め切りました。彼女が家で休んでいたとき、背が高く体格のいい僧侶が隣の家にやって来て、マータージーの家のことを尋ねました。その僧侶がそこで尋ねたわけは、マータージーがどこに住んでいるのか分からなかったからではなく、生身の自分がシムラーにいたことを他人に知らせるためでした。雪だったので、隣人は使用人に傘を持たせ、その見知らぬ僧侶をマータージーの家に送っていかせました。

僧侶は家のドアを叩きました。クリシュナ・プリヤーはドアを開け、我が目を疑いました。前の日に死んだはずのババが、どうしてシムラーに来れたのかと、驚きました。クリシュナ・プリヤーは尋ねました。

「どのようにしてこんなに早く来れたのですか? シルディからシムラーまでは、少なくとも三日はかかります」 ババは言いました。

「ベーティー(愛しい娘)よ、私はいたる所にいる。そなたは私をクリシュナの姿に礼拝してきた。それが、そなたの知っている私のすべてか? 寒いので、まずは熱いお茶を出してくれ」

クリシュナ・プリヤーは、お茶を入れてババに出しました。お茶を飲み終えると、ババは長旅の後で空腹だと言いました。クリシュナ・プリヤーは、ババにチャパティとブリンジャル・カリー(茄子のカレー)を持ってきました。それはババの大好物でした。食事を終えると、ババは手を洗い、それからタオルで手を拭きました。そして、クリシュナ・プリヤーに言いました。

「来た目的は済んだので、私は去る」

当時、あえてババと言葉を交そうなどという者など、誰もいませんでした。もし、相手が反対してきたり、何か逆のことを言おうものなら、ババは杖を振るいました。ババはどんな反論も許しませんでした。それゆえ、クリシュナ・プリヤーはババに何も言えませんでした。ババは彼女にジャスミンの花輪を与えました。

クリシュナ・プリヤーは、ババが家から出て、市場を通って歩いていくのを見届けました。シムラーでは、通常、道の脇は深い溝になっています。ババが歩いていったとき、何人かの労働者が道路工事をしていました。彼らはババが道から落ちたのを見て、助けに走りました。ところが、そこには誰もいませんでした。ババは消えていました。

クリシュナ・プリヤーのもとを去るまえに、ババは彼女の耳元で囁(ささや)きました。

「1926年に会いに来なさい」

彼女は、どこに会いに行ったらいいか、どうやってババに会ったらいいか、わかりませんでした。

15年ほど前に私がシムラーに行ったとき、クリシュナ・プリヤーが私に会いに来ました。彼女は老齢と寒さのために震えていました。彼女は尋ねました。

「ババ、ずいぶん前に私にしてくれた約束は、お忘れになったのですね?」

私は彼女に言いました。

「忘れたのはあなたのほうです。私ではありません。私は決して自分が約束したことを忘れません」

シルディの出現には、いくつかの側面があります。叡智を与えようとするとき、シルディ・サイは講話を通じては行いませんでした。すべて、手厳しいやり方で教えられました。それは当時の一般的な状況のゆえです。

ババ 子どもの病気を引き受ける

一度、ダダの妻が、シルディにしばらく滞在するつもりで、子どもを連れてババのところに来たことがありました。彼女は夫からしぶしぶその訪問を承諾してもらっていました。そのころ、シルディでは疫病が流行っていました。着いて二日目に、子どもは熱を出し、体中におできができました。夫の忠告どおりに行動しなかったことをすまないと思い、いったい誰が我が子を苦しみから守護してくれるだろうと、彼女は嘆きました。彼女はすぐにババのもとへと急ぎ、

「ババ! ババ!」

と、声を上げて泣きました。ババは、何のために来たのかと尋ねました。

「子どもが熱を出したか? 体中ができものができているか? その子だけでなく、私にもできものができている。これを見なさい」

そう言うと、ババはカフニ(掛け物)をめくり、体のできものを見せました。近くに立っていたムハラスパティは驚きの声を上げました。

「スワミ! その大きなできものは何ですか?」

ムハラスパティはババの体に触れ、熱があることを確認しました。40度か41度ほどはありました。子どもの母親は泣き叫びました。

「ああ、ババ! 疫病は我が子のみならず、あなたをも襲ったのですか? 誰があなたを守護してくれるでしょう?」

彼女は苦悩しました。ババは言いました。

「万物の守護者を守護する者など、他にいるか?」

母親は慌ててババに許しを請いました。少し経つと、ババの熱は下がりました。

母親は幸せな気持ちで家に戻りました。子どもの熱も、できものも消えて無くなっていました。彼女は叫びました。

「ババ! あなたは我が子の病気を引き受けてくださったのですか?」

人々がババに抱いていた全き信仰心

このようにして、シルディ・ババは、いざというとき自らの力を示しました。その理由は何だったのでしょう? それはひとえに、人々がババに抱いていたパリプールナ ヴィシュワーサム(全き信仰心)のゆえです。帰依者たちは、ババの指示には、何であれ、絶対的に従いました。

昨今は、そうではありません。スワミに何かを言われると、10の質問が湧いてきます。質問と並んで、帰依者たちは頭の天辺から足のつま先まで疑念にさいなまされています。これは、元をたどれば現代の教育の影響によるものです。現代の教育システムは、人間的価値を信じる心を蝕(むしば)んでいます。人からどんな助けを受けても、感謝の一言さえありません。自分が人にしてもらった良いことはすっかり忘れて、自分がされた悪いことだけは覚えています。その結果、人類に悪魔的性質が育っているのです。

昔は、少なくとも、人は人間性を保っていました。今の人は、姿だけは人間ですが、動物のように振舞っています。人の欲求はすべて利己的です。自分の望みが叶うと、人は笑顔でやって来て、「ババ! ババ!」と言いますが、望みが叶わないと別の態度を取ります。そのような獣のような生き物に、どうやってババへの帰依心が存在し得るでしょう? 動物の性質を捨てたとき、初めて人は人間になるのです。

ババ 肉体を去る

今日は(シルディの)ババが死すべき肉体を捨てた記念日です。ババの死去に関する事実が理解されなければなりません。

1918年9月28日、ババは熱を出しました。それから17日間、ババの体の具合は良好でした。10月15日、ババはどこにも見当たりませんでした。ナーナ、カーカ、ダース、ラクシュマン・ラーオーは、ババを捜してそこいら中を回りました。近くに小さな井戸があり、彼らはババが落ちてはいないかと、そこを見に行きました。ババの住居に戻ると、ババがドアの近くに立っていました。ババは言いました。

「どこを探しているのだ? 私は一箇所にいる。しかし、そなたらは別の場所で私を捜す。私は清らかな心の中にいる。そなたらは汚れた場所で私を捜している。それでどうして私を見つけることができるか?」

そうして、ババは座り込みました。

ババは10月15日に肉体を去りました。ババは9月28日から高熱がありました。ババはそのあと17日間、元気にしていました。

ババが肉体を去ったあと、いくつか論争が起こりました。イスラム教徒がやって来て、遺体は自分たちのものだと主張しました。ヒンドゥー教徒がやって来て、遺体は自分たちのものだと主張しました。ババは時おり、

「アッラー マリク! アッラー マリク!」(アッラーは王なり)

と宣言していました。それを理由に、イスラム教徒は、ババはイスラム教徒だと主張しました。ババは、別の時には、

「ラーマ マリク! クリシュナ マリク!」(ラーマは王なり、クリシュナは王なり)

とも言っていました。それを理由に、ヒンドゥー教徒は、ババはヒンドゥー教徒だと主張しました。こうして敵対者たちがそれぞれ主張するため、どのように取り扱うか決まらないまま、遺体は36時間そのまま置かれていました。

シルディ・ババの葬儀はどう執り行われたか

ヒンドゥー教徒とイスラム教徒との間の小競り合いを避けるため、収税官、警視監をはじめとする役人たちがそこに到着しました。役人たちはシルディの住民全員に集まるようにと言いました。そして、地域住民の大多数はどのような方法で葬儀を行いたいか、投票によって明らかにすることにしました。皆、ヒンドゥー教式の遺体の取扱いを好みました。その結果に到ると、ブーティの寺院に(埋葬用の)穴が掘られました。穴を掘ることに反対する者もいて、議論は続きましたが、最終的に、収税官と警察が、そのムラリーダル寺院にサマーディ(墓)を奉献する手はずを整えました。その寺院が、現存するババのサマーディ聖堂です。

そのころ、シムラーで注目すべき出来事が起こりました。マータージー・クリシュナ・プリヤーが、与えられた花輪を家の住人皆の前でクリシュナの像に掛けていました。マータージーはサイ・ババの帰依者で、そこにはババの肖像画もあるのに、どうしてクリシュナの像に花輪を掛けているのかと、多くの者が不思議に思いました。ちょうどバジャンが行われていたときのことです。クリシュナの像に掛けられていた花輪がババの絵姿の上に落ち、ババの絵姿に掛けられていた花輪がクリシュナの像の上に瞬間移動しました。シムラーの人々は皆、クリシュナとサイ・ババは一体であることを見出し、喜びに湧きました。

翌朝、人々が皆そこにやって来ると、ババからもらった花輪はもうクリシュナの像には掛かっていませんでした。花輪はブーティ寺院のババのサマーディにありました。

シルディ・ババの奇跡とメッセージ

なぜ、ババはそのような奇跡を示したのでしょう? 当時、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の間には、激しい不和がありました。そうしたグループの不和を終わりにすることを考慮して、ババは奇跡を使って、ババこそが万物の至高の主であるという真実を示したかったのです。ババには、カーストの区別もグループの区別もありませんでした。ババの宗教はあらゆる信仰を持つ人々に共通でした。それはすべての人のためのものでした。それはあらゆる信心深い人々の目にとまりました。まさにそれは、人類すべてのための教義でした。

霊的叡智は他人から受け取れるものではありません。それは自分の内側から開花しなければなりません。誰も皆、自分で努力して信仰心を育てなければなりません。信仰心の欠如は己を神から遠ざけます。信仰心に欠ける主な原因は、本人の過去世の行為です。

多くの人がここ(プラシャーンティ・ニラヤム)で何年か過ごします。しかし、何らかの理由により、ここを出て行きます。それは本人のカルマの影響によるものです。自分の行為の結果から逃れられる者はいません。

学者であれ、行者であれ
森にいようが、寺にいようが、
誰が己のカルマの結果を無効にできようか?

自分は立派な帰依者だと主張する多くの人が、いつか離脱していきます。彼らは前から本当の帰依者ではなかったと、いうのが真実です。すべては見せかけです。存在する帰依心は無くならず、帰依心の無いところに帰依心は生じません。これはつまり、最初から帰依心は無かったということを意味します。

「スワミは私たちのすべてです」

と言って、よく自分の帰依心を公言していた人は、実際には帰依心などまったく持っていなかったのです。それはまったく上辺だけだったのです。本当の帰依者は決してスワミから離れません。離れる人は決して真の帰依者ではありません。

この点に関して、帰依心の真の性質は誰にも理解できない、ということを認識しなければなりません。

死の遣いが待っている、
親類縁者が皆、泣いている、
その最期の瞬間に、神の御名を心に浮かべることができようか?
生涯を通じて神に帰依してこなかったなら

神は揺らぐことのない、固い帰依心に動かされる

人生の早い時期からひたむきな帰依心があったときにのみ、帰依心はしっかりと、変わらずにあり続けます。利己的で、自己中心的な人の帰依心はぐらつきます。神への完全な愛を伴う帰依心は決して変わりません。それは揺らぐことのない帰依心です。それほどの神への切なる思いがあれば、ハートは溶けます。神はそのような固い帰依心に動かされます。これが、万人が抱くべき帰依の心です。

ナヴァラートリーのような祝祭の間、帰依者はそうした神聖な気持ちを育て、自分のハートに神の直接のヴィジョン(姿の顕れ)を得ることを確実にするために、努力すべきです。神は私たちの内に、そして、周りにいます。しかし、それを体験するための努力が払われていません。人々は二元性に浸り、神を自分から離しています。その別離感は、愛によって終わらせることができます。愛はジーヴァートマ(個我)とパラマートマ(普遍なる大我)を結びつけている力です。今日、パリプールナ プレーマ(全き愛)という思いを育まなければなりません。

神は怠惰な人間には用がない

神聖なる愛の化身である皆さん!

あなたが食べる食べ物、あなたが付き合う仲間、あるいは、あなたが住む環境のせいで生じる疑念に、余地を与えてはなりません。勇気と信仰をもって疑念に立ち向かいなさい。

自分の心を変えてくださいとババに祈ってはなりません。あなたの心を変えるのは、あなたの義務です。もし、ババに何でもやってもらうことを期待するなら、あなたがしていることはいったい何ですか? 神はそのような怠惰な人間には用がありません。あなたは自分のサーダナ(修行)をして、前に進まなければなりません。神の助けは、あなたが自分の役割を果たしたときに、差し出されるでしょう。自分の義務を果たし、その結果は神に委ねなさい。神に、これをしてください、あれをしてください、と祈るのは、弱さの表れです。

もし、あなたに神への完全な信仰があるなら、あなたの心は必ず変容します。ババの役割はあなたの心を変えることではなく、あなたをあなたの行為の結果から救い出すことです。誰も皆、この真理を認識し、それに従って行動しなさい。手始めに、自分の欠点をなくし、帰依心を強めて、固く、揺るぎのないものにしなさい。それは、プルシャ プラヤタナ(万人がなすべき努力)です。そうすれば、あなたはダイヴァ アヌグラハ(神の恩寵)を得るでしょう。グニャーナ(霊的叡智)の道を横切るこの真理の小道に入って、あなたを神に融合させなさい。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.25 C34

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