サイババの御言葉

日付:1998年2月25日夕方・場所:プラシャーンティ ニラヤム・サイクルワント ホール
マハーシヴァラートリーの御講話@

神の御名の力


チャイタンニャ(宇宙意識)と呼ばれようが、
クシェートラグニャ(内在の知者)と呼ばれようが、
グニャーナ(至高の英知)と呼ばれようが、
エゴ〔自我〕と呼ばれようが、イーシュワラ(至高神)と呼ばれようが、
ヴィシュヌと呼ばれようが、ブラフマーと呼ばれようが、
根本エネルギーと呼ばれようが、
アーナンダ(神聖至福)と呼ばれようが、
パラマパダ〔至高の状態〕と呼ばれようが、
アートマ〔真我〕と呼ばれようが、サット チット アーナンダと呼ばれようが、
すべては、名を持たぬ至高の真我のさまざまな名と姿なり
宇宙はハリ(神)で満ちている
神がいなければ、宇宙に何一つ見出せるものはない

愛の化身である皆さん!

人は皆、至福を味わうことを求めています。至福に満ちた人生を熱望しています。学者であれ、芸術家であれ、権力者であれ、高い地位にある者であれ、人は至福を求めます。夜明けから日暮れまで、すべての人は至福を手に入れようと懸命に努力しているのです。バーラタの文化と伝統は、アーナンダ(至福)の偉大さを宣言してきました。しかし、人は二枚のベール、すなわち、現象〔認知できるもの〕と霊性〔精神的なもの〕に覆われています。人の目は、世俗的な見方と、霊的な見方の影響を受けているのです。これらを和合させることができずに、人は二つを別個のものと見なしています。この二つの一体化は、真のアートマ原理として示されます。

至福の探求

サット・チット・アーナンダ(絶対実在・純粋意識・至福、サッチダーナンダ)は全宇宙に浸透しています。人間だけでなく、蟻(あり)をはじめ、すべての生き物が、その至福を求めています。生きとし生けるものにとって、この至福は命の息吹です。

聖典はこの至福の問題をさまざまに取り扱っています。聖典はサット・チット・アーナンダを根本原理として宣言しています。

現実としての宇宙の存在は、多くの人によって確信されています。しかし、盲人は宇宙の存在を知りません。にもかかわらず、他の人々が世界について話すことを聞くことで、盲人も宇宙の存在を信じています。盲人は自分個人の体験によって宇宙の存在を認識しているのではありません。

昨今の人々は、ヴェーダやプラーナや他の諸聖典の所説を聞いて、実在としてのサット・チット・アーナンダについて語ります。そのような人たちは、サット・チット・アーナンダの個人的な体験は持ち合わせていません。サット・チット・アーナンダの概念を解説する学者たちでさえ、ただ書物から学んだことを語っているだけで、その至福の直接的な体験は持ち合わせていません。

人は皆、サット・チット・アーナンダとは何であるかを知ろうと努めるべきです。そうして初めて、人は自らの真我を悟るのです。人は、現象世界によってもたらされる迷妄ゆえに、サット・チット・アーナンダを自分とは別のものと見なしています。この感情は、体への執着から生じます。すべての人が「私は誰か?」を見出すべきです。この問いの答えを発見すれば、サット・チット・アーナンダが何であるかを理解する必要はなくなるでしょう。

自分を体や肉体的な特徴と同一視している限り、人はサット・チット・アーナンダを求め続けるでしょう。「私」の本性を発見すれば、他には何も求めなくなります。そして、自分はサット・チット・アーナンダの具現であることを悟るでしょう。

万人はサット・チット・アーナンダの具現です。サットは神、チットはジーヴァ(個我)です。サットとチットの一体化がアーナンダ(至福)です。

肉体上の苦悩の原因は心

人体は数多くの病気の餌食(えじき)となっています。人はそのすべてを肉体の病気と見なしています。しかし、すべてが肉体に関わる病気というわけではありません。純粋にそれが肉体上の病気であれば、薬で治療することができます。しかし、現代世界における病気のほとんどは、心〔マインド〕にその原因があるのです。心の逸脱が体に反応を引き起こし、さまざまな病気を生じさせているのです。人間の多くの病気の主な原因は、心に根を張っています。心と体は相互関係にあります。心が体に与える影響は「ネガティブ」〔否定的、陰性、マイナス思考、後ろ向き〕な性質です。この否定性は至福の体験とは反対のものです。

悪い思考と悪い感情は心の中からわき上がります。それと同時に、善い思考と善い感情というものもあります。悪い思考と悪い感情が取り除かれたとき、初めて人は健康を享受することができます。多くの病気は、心を満たしている思考にその原因があります。悪い思考は消化不良を引き起こし、心臓に悪い影響を与え、血圧を変化させます。心配は数多くの精神病の原因です。糖尿病と肺疾患は、精神的な原因に由来しています。

解脱のさまざまな相

誰もがムクティ(解放、解脱)を求めています。いったい誰のために、ムクティは求められているのでしょうか? 体のためですか? あるいは、心のため、知性のため、感覚のためですか? こういった問いが検討されるなら、最初に出てくる答えは、ムクティは心と知性と感覚のために手に入れなければならない、というものです。

人はまず、心の気まぐれから自分を解放しなくてはなりません。病気から解放されることは、ムクティの一種です。人はさまざまな困難のために心の平安を失っています。その状況を克服して、心の平安を手に入れることは、別の種類のムクティです。飢えの苦痛を取り除くために食物をとることも、また別の種類のムクティです。日常生活の試練と苦難を取り除くことも、ムクティの別の様相です。これらあらゆるムクティは、人間が生きている間に手に入れなければなりません。ムクティは死後に獲得する境地だと想像することは間違っています。

今、手に入れるべき種々のムクティは、体と関係しています。それらの悩みの種は、人が体に執着している限り在らざるを得ません。それらはすべて、人間の中にある「ネガティブ」な思考から生じています。

人が求めるべきムクティは、心の平安です。もし平安が得られれば、簡単に他の一切を手に入れることができます。平安はどのようにして得られるでしょう? それは神を敬う生活を送ることによって得られます。

もし、ハートが「ネガティブ」な感情に満ち、マインド〔心や頭〕が「ネガティブ」な思考でいっぱいなら、どんな形の礼拝も役に立ちません。マインドが「ネガティブ」な思いでいっぱいであれば、目や耳や舌といったさまざまな感覚器官によって行われる行為は、すべて汚されます。人間の中の六つの邪悪な性質――情欲、怒り、貪欲(どんよく)、妄想(愛執)、高慢、嫉妬は、深く根を張っている人間の敵です。これら邪悪な要素を取り除いて、そこに良い性質を据えつける唯一の方法は、プレーマ タットワ(愛の原理)を育てることです。ハートが愛で満たされていれば、行うことはすべて「ポジティブ」〔肯定的、陽性、プラス思考、前向き〕なものになるでしょう。あらゆる善い行いは愛から生まれます。サット・チット・アーナンダは愛から生じます。慈悲と優しさは愛から生まれます。あらゆる崇高な人間的価値は、愛にその起源があります。もし愛に満ちあふれていれば、その人は他の霊性修行や儀式的礼拝を行う必要はありません。

すべての良い振る舞いは愛から生まれる

アートマの原理は体にとっての基盤です。日常のあらゆる活動はアートマの原理と連結させるべきです。人は一時的な世俗の快楽への執着を捨てて、永遠で永続するものを追い求めるべきです。

自分がサット・チット・アーナンダの化身であることを絶えず思い起こしていれば、やがてアーナンダ(至福)を体験するでしょう。人間は五つの鞘、すなわち、アンナマヤ〔食物〕、プラーナマヤ〔生気〕、マノーマヤ〔心理〕、ヴィグニャーナマヤ〔理知〕、アーナンダマヤ〔歓喜〕というコーシャ〔鞘(さや)〕に覆われています。第一の鞘は粗大な鞘であり、後に続く鞘はそれぞれ先行する鞘よりも繊細な鞘になります。人間は、粗大な鞘から最も霊妙な至福の鞘に到るまで進んでいかなくてはなりません。

アンナマヤの鞘は肉体です。肉体は滅びゆくものですが、生きている限りは健康を維持していかなければなりません。肉体にかかわる義務は果たされなくてはなりません。肉体を動かしているのは生気鞘(プラーナーマヤ コーシャ)の振動です。その振動は心(マナスの鞘、マノーマヤ コーシャ)の振動によって制御されます。心を超越したところにあるのがヴィグニャーナマヤ コーシャで、これは人間の中にある「絶えざる統合意識」(般若、コンスタント インテグレイテッド アウェアネス)に相当します。この境地に達すれば、人はさほど努力しなくても、次のアーナンダ〔至福〕へと進むことができます。至福の体験は自然に湧(わ)き上がってくることでしょう。

俗世の快楽と悲嘆に溺れる代わりに神聖な運命に向かって上昇することができるよう、人が人間性を授かっていることはこのことからも明らかです。それによって、人は自分が獣や鳥よりも優れていることを実証するのです。

バーラタの祝祭の神聖さ

バーラタ(インド)のあらゆる祝祭は、人を神へと導くよう意図されています。祝祭は、人々に神について熟考させることを意図しているのです。残念なことに、今、人々は祭日になると、神に思いをはせるどころか、饗宴(きょうえん)に耽(ひた)っている始末です。祝祭は、神を憶念し、神性を体験することに充てられるべきです。

本日、私たちはシヴァラートリーを祝っています。シヴァラートリーとは「吉兆の暗闇」という意味です。少なくとも、この日一日だけは、夜通しシヴァの御名を唱えるべきです。少なくとも、一年に一日くらいは神の御名を唱えなさい。

信者たちは、夜通し眠らずにシヴァ神の神聖な御名を唱えることとされています。他の方法で徹夜をしても無益です。神の御名を唱えて一夜を過ごすなら、人生は清められます。『バガヴァッドギーター』の中で、スティタプラグニャ〔超意識にある者〕は他の人々が眠っている時に目覚めており、その者にとっては、他の人々が起きている昼間は夜としての機能を果たすと述べられています。この内なる意味は、スティタプラグニャ(絶えざる統合意識の境地にあって悟りを得た人)は、他の人々が神を忘れている時に神を憶念している、ということです。

今、すべての人が関心を持つべき最も重要なことは、自分の心の中の「ネガティブ」な思考をどのようにして取り除くかということです。人間の六つの主要な敵――六つの根本的悪徳――は、人のハートの中に住処を見出しました。そのため、ハートに愛や優しさのための場所がありません。最も重要な作業は、ハートを愛で満たすことです。そうすれば、その人の人生は変容させられ、あらゆる行為は愛に満ちたものになるでしょう。愛は「ポジティブ」であり、人は「ポジティブ」な性質を育てるよう懸命に努力すべきです。人間であるならば、慈悲や寛容といった「ポジティブ」な性質を育てるべきです。

今、人の生涯は、感覚的な欲望を追いかけることによって無駄にされています。それらはすべて、本質的に「ネガティブ」なものです。そうではなく、人は「ポジティブ」な欲望を抱くべきです。それは人間にとって自然なことです。すべての欲望とすべての行為に神性を付与しなさい。

数多くの過去生(かこぜ)において人々と共にあった俗事の追求は、少なくとも今生では、神性の追求に道を譲らなくてはなりません。多くの人は、自分の中にある神聖な潜在力を自覚していません。人には善い行為や悪い行為をする潜在能力があります。善い行為をすることによって、人は至福を体験します。常に助け、決して傷つけてはなりません。

常に至福でいるためのバガヴァンの手本

すべての人は、自らの愛に満ちた性質を育てることにより、至福という、人にとって自然な状態を発現させるよう努力すべきです。平安はその至福の中にあります。

皆さん全員が知っておくべきことが一つあります。私は今、この肉体をまとって72年になりますが、これまでどんな「ネガティブ」な思いも決して抱いたことはありません。その結果、私はどんな病気にかかったこともありません。私は常に至福の状態にあります。しかし、時折、人々を矯正するために厳しい言葉も使います。それらは「ネガティブ」な言葉ではありません。その言葉は愛にあふれています。

もし私のハートを調べてみれば、私のハートは鉄の球のようだということがわかるでしょう。しかし、世俗の観点からすれば、私のハートはバターのように柔らかいのです。どんな病気も私のハートに影響を及ぼすことはできません。

目が覚めた瞬間から、夜、休息を取る時まで、私は絶え間なく仕事に携わっています。私は信者たちに会い、信者たちから手紙を集め、インタビュー〔面談〕を与え、ありとあらゆる人に、あれやこれやと喜びを授けています。どこであれ、役人には皆、毎週休日があります。しかし、私にはまったく休日はありません。ここにいようが、他の場所にいようが、私はいつも活動的です。72年間ずっと休みなく活動している人を、他に誰か示すことができますか? 私はいつ何時も安息日が欲しいと思ったことはありません。私は常に安らぎに満ちています。なぜ、そのようなことが可能なのでしょう? それは、私に何ら「ネガティブ」な思いがないからです。私には体への執着がありません。この体はあなた方のために存在しています。体に執着していれば、休息の必要があります。私が言うこと、行うことは、何であれ皆さんのためであって、私のためではありません。

神は信者の愛を求める

人はこの真理の認識に基づいて、人生を送らなくてはいけません。私が皆さん全員に求めることが一つだけあります。ハートを愛で満たしなさい。その愛を私に捧げなさい。私は誰からも何一つ求めません。あなたが愛を育て、他の人にその愛を分け与えるなら、それで十分です。自分が幸せであるときにだけ、あなたは他の人を幸せにできます。幸福とは何でしょう? 幸福とは神との結合です。神の御名を唱えることによって、あなたは幸福を体験するでしょう。

礼拝やジャパや瞑想のような善い神聖な行為は、時間を聖化するには役に立ちます。しかし、それらは、それ自体が目的ではありません。それらは世俗的な色合いを帯びています。それよりも必要なものは、神に捧げられた「ポジティブ」な行為です。それがあれば、皆さんは病気から解放されます。ただ純粋な思いを持つことによってのみ、皆さんは丈夫で元気でいられるのです。

誰に対しても嫌悪の情を抱いてはなりません。私は誰にも嫌悪感を持ちません。それゆえ、私を嫌悪する人は誰もいません。誰も皆、私にとっては愛に満ちた存在です。私は万人が至福に満たされることを望んでいます。私の中にあるこの普遍的な感情ゆえに、万人が私のところへやって来ます。反対に、もし私が自己中心的であったなら、ここへ世界各地から人がやって来るでしょうか? 私は頭のてっぺんから足のつま先まで、完全に無私無欲です。私には利己主義のかけらもありません。あなたが私にそうした感情を見るならば、それはあなたに訳があるのであって、私のせいではありません。私には、すべての世界のすべてのものが幸福であるように、という願いしかありません。すべての人は、善良になるべきなのです。すべての人は、愛に満ち、至福に満たされるべきなのです。他に何か、私に必要なものがあるでしょうか?

愛と信仰は平安と至福をもたらす

人は、平安と至福を楽しむに値するにもかかわらず、それらを得るための必要な努力をしていません。愛と信仰を育てるなら、平安と至福を手に入れるでしょう。愛と信仰がなければ、切手が貼られていないか、あるいは正しい宛名が書かれていない手紙と同じように、その人の努力は無益なものとなります。スワミへの愛と信仰があれば、皆さんは自分が着手するどんな仕事も成し遂げることができます。

次の三つの格言を守りなさい。それは、「神への愛」、「罪への恐れ」、「社会の道徳」です。神への愛を育てるには、自分の一つひとつの行いが神を喜ばせるかどうかを見極めなくてはなりません。神を喜ばせるなら、罪への恐れを抱くことはなくなるでしょう。この二つがあるところには、社会の道徳は自然についてきます。今の世のあらゆる病(やまい)は、罪への恐れの欠如と、神への愛の減少に原因があります。人間的価値への敬意が低下したことが、世界の平和を徐々に蝕(むしば)んできました。

心の底から神の御名が唱えられるなら、それはクリシュナの横笛の甘美な調べに変わります。それはブリンダーヴァンの雌牛たちさえも魅了しました。信者のハートから流れ出るメロディーは、言語に絶する至福を授けるのです。

愛と信仰は人生を救済するための主要な原理です。私の人生は私のメッセージです。私は万人への愛を抱いています。私は過ちを犯す者や、私を嫌う者にさえ愛情を抱いています。私は誰に対しても嫌悪感を抱きません。それは、万人への私の愛ゆえです。そして、それゆえ、全世界が私を愛するのです。私の愛のそもそもの由縁は、ヴィシュワーサ(万物への敬意)です。その敬意の基盤は、真理の道を固守することです。真理を固守することの基盤は、神性です。したがって、神性が、普遍的な愛の根本的な源なのです。誰もが普遍的な兄弟愛を営むべきです。その兄弟愛から神性が生じるでしょう。そうすれば、人類は自らの栄光を現すでしょう。人は完璧な人間らしく振る舞うようになるでしょう。

シヴァラートリーのメッセージ

愛の化身である皆さん!

私の愛の教義を理解するよう努めなさい。私はよく皆さんに、「神我の化身である皆さん」と呼びかけます。神聖な愛を育てたときに、初めて皆さんは本物の神の化身となるでしょう。この世界で愛に値する存在は、神のみです。神以外は、すべて一時的な執着の対象にすぎません。この神聖なシヴァラートリーの日に、神への愛を発現させ、自らの人生を救済しなさい。あなたの内なる神を顕現させなさい。絶え間なく神の御名を唱え続けなさい。一切の行為を愛を込めてしなさい。それが最高の霊性修行です。愛という方法が、世界を変えることでしょう。愛は神です。真理は神です。平安は神です。これがシヴァラートリーのメッセージです。このことを理解し、すべての行為を神に捧げて、自分の人生を救済するために人々への無私の奉仕に従事しなさい。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.31 C5


1998年マハー シヴァラートリーの御講話A「サックバーイーの信愛のメッセージ」は、サティヤ サイ出版協会刊『ナーマスマラナ 神の名前の不思議な力』p92〜p111に掲載されています。ぜひ、あわせてご覧ください。

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