サイババの御言葉
1999年2月15日
マハーシヴァラトリ祭御の御講話
ヒランニャガルバの原理

過去を忘れ
未来を案じることなく
現在の義務を果たす者
その者こそ悟りを得た者

(テルグ語の詩)

愛の化身である皆さん! 過去は過去です。未来は不確かなものです。ただ「今」だけが私たちの手の中にあります。今を生き、自らの喜びを同胞と分かち合うことが人間の第一の義務です。実のところ、人間はあらゆる生物の中で最も幸運な存在です。この全宇宙に比べれば、人は原子のように極めて小さなものですが、にもかかわらず、人はその創造の広大さを理解することができるのです。これはまさに驚くべきことです。人は、小宇宙と大宇宙が一つであることを理解することによって不滅へと至ります。昨日私が話したように、自らのハートという畑で愛という収穫を得る者は、誰であろうと真のキリスト教徒であり、真のシーク教徒であり、真のヒンドゥー教徒、真のイスラム教徒なのです。事実、そのような人こそが真の人間です。人は愛なしに生きていくことはできません。この愛の原理が「ヒランニャガルバ」(黄金の宇宙卵、黄金の胎児)です。「ヒランニャガルバ」は人間の身体の右側(right)に位 置するものであり、肉体上の心臓は左側(left)に位置しています。左側(left)にあるこの心臓はいつの日にか環境の変化とともに消え去る(left)ものです。人体の右側(right)に位 置する「ヒランニャガルバ」は常に正しい(right)のです。永遠であり、不滅であり、そしてあらゆるものを包含しています。人間のみならず、鳥や獣、生き物たちすべての内に存在しています。ヴェーダは宣言しています。「神はあらゆるものの内に存在する」、「神は全宇宙に浸透している」。 愛は「ヒランニャ」(黄金)から生じました。反作用、反響、反射という三つの原理が「ヒランニャガルバ」から生じました。人は真の自己を理解できないままに、一時的ではかない束の間の喜びを追い求めて人生を浪費しているのです。

昨日話したように、金は、銀や銅や真鍮といった様々な金属を混ぜ合わせることにより価値を失い、輝きと独自性を失います。同様に、金に例えられるハートもまた、世俗的な欲望という金属と結びつくことにより、その価値と輝きと独自性を失っているのです。これが現在の世界が陥っている窮状です。人は自らの神性を忘れ、鬼や悪魔や獣のように振る舞っています。神聖な愛は「ヒランニャガルバ」から生まれます。この神聖な愛は、与え(give)、許す(forgive)ことの内にありますが、利己的な愛は、獲得し(get)、忘れる(forget)ことの内にあります。この神聖な愛は人間に欠かすことのできないものです。

このことを示す小さな例え話があります。ラーヴァナが戦闘で倒された後、ハヌマーンはシーターのところへ行ってその良い知らせを伝えました。シーターは大いに喜び、こう言ってハヌマーンをほめたたえました。「おお、ハヌマーン、あなたは逆境の海の中、の街ランカープーラに入った勇者です。海を一跳びで渡った力強い者であり、シーターの行方をラーマに伝えた猿一族の至宝です」

しかし、ハヌマーンはシーターから与えられたどの称号も嬉しいとは思いませんでした。シーターは続けました。「おお、ハヌマーン、あなたのような徳高き者は見たことがありません。体力という面 であなたに並ぶ者はこの世に一人もいません」シーターはハヌマーンに、徳高き奉仕者(グナヴァンタ)、力強き奉仕者(バラヴァンタ)という称号をも与えましたが、どれもハヌマーンを喜ばすものではありませんでした。最後にシーターはこう言ってハヌマーンを祝福しました。「どうかラーマが永遠にあなたを愛し、あなたのハートの中に常におられますように」 するとハヌマーンは喜んで跳び上がりました。ハヌマーンは言いました。「おお、母なるお方よ、この世に神の愛よりも偉大なものはありません。私はどんな称号も望みません。ただラーマの愛を願うだけです。尊神ラーマの愛がないなら、たとえ全世界が私の支配下にあったとしても幸せではいられません。私がラーマの愛を受ける者となった時、その時はじめて私の人生は成就することでしょう」

ハヌマーンのような力強い者が、他の何ものをも求めず、ただラーマの愛だけを願いました。愛はすべてです。人間の特質は内なる愛を燃え立たせ、愛をもって語り、愛をもって行動することにあります。このことから、「人間の本当の研究対象とは人間である」と言われるのです。

かつて、ある僧侶がブッダに近づき、ブッダを討論に引き込もうと試みました。その条件とは次のようなものでした。「もし私が負けたなら、私は自分の3000人の弟子とともに仏教を学び、生涯あなたに仕えよう。しかし、もしもあなたが負けたなら、あなたは私に仕えねばならない」 ブッダは微笑んで言いました。真の僧侶とはすべてを等しく見る心を持つ者のことです。真の僧侶は苦しみと楽しみ、喜びと悲しみといった人生の二元性に違いを認めません。怒りとエゴに満ちた人を僧侶と呼ぶのは適当なことではありません。ハリドワール、リシケーシュ、バドリーナート、アマルナートなどの巡礼地では、死者の魂に解脱を授けるマントラを与える巡礼案内者がいますが、巡礼案内者(パンダー)を僧侶(パンディト)と呼べるはずがありません。 この世には、聖典に通じている人々が大勢いますが、単なる学識や、師の御足のもとに座るだけでは、真の自分とは何かを知ることはできません。分厚い本に精通 している者は大勢います。しかし、一つでも教えを実践している者がいるでしょうか? 実践されることのない学問が役立つことはありません。バガヴァッドギーターは明言しています。

太古の詩仙、支配者
微より微なる者
一切の支持者、不可思議の姿をした者
暗黒の彼方にありて太陽のごとく輝く者

「詩仙」とは誰でしょう? 詩仙とは、過去、現在、そして未来を知っている者のことであり、単に言葉遊びをする者のことではありません。つまり、神のみが本当の詩仙であることを意味しています。「太古の」(プラーナ)の隠された意味とは何でしょう? 「プラ」は身体を意味しています。身体において、頭のてっぺんからつま先に至るまでを動かしている神聖な原理がプラーナ(太古の)と言われるのです。次に来るのが「支配者」(心を支配する者)です。あなた方は罪を犯した人を刑務所に入れるかもしれませんが、しかし、その人の心が世界中を駆け巡るのを止めることはできません。この世の中に、心に命令することのできる人は一人もいません。心を支配する力をもっているのはただ、神のみです。したがって、神は「心を支配する者」(支配者)として知られているのです。
 このような説明をし、ブッダはその僧侶を黙らせました。そして、虚栄や自己顕示、プライドやエゴを捨て去るようにと助言を与えました。世俗の知識に心を奪われることのないようにと教えました。ブッダはその僧侶に、神について知り、神に全託するようにと熱心に説きました。

ブッダは言いました。「私は長い間霊性修行を行ってきました。知識を求めて様々な聖典を詳細に学んできました。そしてついに、真の自分とは何かを知るためには、感覚を支配することが最も重要であることを知ったのです。五つの感覚は神からの贈物です。正しく使いなさい。そうしてはじめて、あなたは真の自分とは何かを理解することができます。五感を適切に用いることなしに、聖典に精通 したり霊性修行を行ったりすることが、一体何の役に立つというのでしょう? 私は五感を制御し、正しい道に沿って用いるようにしてきました。その結果、私は至福を経験しているのです」

ブッダは五感を制御し、正しく用いることによって涅槃(ねはん/ニルヴァーナ)へと到達しました。涅槃とは何ですか? 涅槃とは至福との融合に他なりません。水泡は水の中で生まれ、水の中で保たれ、ついには水に溶け込みます。同様に、人は至福の内に生まれ、至福の内に保たれ、やがては至福に融け込みます。至福は、五感を制御することによって経験できるものです。これが真の霊性修行です。単に神の御名を歌うだけでは十分ではありません。まず第一に、感覚を制御しなければなりません。涅槃に達した時、ブッダは従弟アーナンダが涙を流しているのを見て、そばに呼び、言いました。「アーナンダ、その名のとおり、おまえは至福(アーナンダ)を経験すべきだ。決して悲しみの涙を流してはいけない。おまえは至福の化身だ。私たちは皆、神(ブラフマー)の具現なのだ」 そう言ってブッダはその手をアーナンダに置き、涅槃に達したのです。誰であろうとこの真理を理解する者は、至福を経験し、神へ到達することができます。解脱することは極めて容易で、簡単なことであるというのに、なぜあなた方は解脱を求めて苦しみもがくのですか? それは単に、あなた方が真理を認識するために何の努力もしていないということです。あなた方は、黄金にも例えられる自らのハートに、世俗的な欲望という金属を混ぜ合わせているのです。その結果 、ハートは汚され、至福という真の性質は失われてしまいました。

古の人々は伝えています。「至福はあなたの真の姿を視覚化することにある、そしてこれがアートマの原理である」 感覚を正しく使うことによって、アートマの知識が得られます。賢者パタンジャリは言いました。「感覚の制御こそが真のヨーガである」 これに優る霊性修行はありません。感覚を制御しないのであれば、神の御名を繰り返し唱えることや、苦行といった霊性修行はすべて、全く無益なものとなります。あなた方は、人が感覚を制御することなど不可能なことだと感じているかもしれません。ここで言う制御とは、「完全に停止させる」という意味ではありません。あなたの義務を遂行しなさい。しかし、たとえ何をしようとも、神を喜ばせようという気持ちで行いなさい。一旦このような気持ちを育めば、あらゆる感覚は自然に制御されることでしょう。

愛の化身である皆さん! あなた方は、神に全託することはかなり難しいことであると感じています。しかし、私に言わせるなら、これほど容易なことはありません。花で花輪を作ったり、花びらを取り除いたりするのは簡単なことです。しかし、神へ全託することはそれよりもずっと容易で簡単なことです。あなた方が神への確固たるゆるぎない信仰をもっていないために、難しいことだと感じるのです。神は存在します。神の存在しない場所はどこにもありません。神性なくして存在するものは一つとしてありません。それぞれが皆、神の化身です。もしもこの真理を完全に信じるなら、困難なことなど何も起こりはしないでしょう。信仰が不完全な場合には、何であろうと達成することが難しいと感じるのです。

愛の化身である皆さん! 神を信じ、神を愛しなさい。愛は神です。神への信仰をもつなら、どんな努力も必ず実ります。どのようなことであろうとも、それがどんなに困難なことであろうとも、神の恩寵によって必ず達成されます。これこそ、ハヌマーンに起こったことです。ラーマの恩寵によってハヌマーンは海を跳び越え、シーターの行方を突き止めました。ハヌマーンはラーマのもとに戻り、シーターの非常な苦しみを伝えました。「おお、ラーマ様、どうか私の言うことをお聞きください。私は母なるシーターが悪鬼たちに囲まれて、かごの中のオウムのように恐怖に打ちひしがれ、震えているのを見たのです」

これを聞くやいなや、ラーマとラクシュマナは直ちに弓と矢を手にしました。ラーマは言いました。「シーターが苦しんでいるとは、私には耐えがたい。一刻も無駄 にはすまい。ランカーへ行こう」 ラーマがこのように応えたのは、妻への執着からではありません。シーターは自然(プラクリティー)を象徴しています。神は自然が苦しんでいることに耐えられません。自然が受ける苦しみを軽減するため、ラーマは直ちにランカーへ行く決心をしたのです。

正義(ダルマ)、富(アルタ)、欲望(カーマ)、解脱(モークシャ)は、人生の四つの目的(プルシャールタ)であると見なされています。実際、これらは人生の四つの段階に対応しています。すなわち、学生期(ブラフマチャリヤ、がくしょうき)、家長期(グリハスタ)、林住期(ヴァーナプラスタ)、遊行期(サンニャーサ)です。この四つの段階は、言葉の真の意味においては人生の四つの目的に対応してはいません。     

今日、人々は、プルシャという言葉が男性に該当するものであり、女性に該当するものではないという誤った観念を抱いています。しかし実際には、プルシャとは、アートマ、意識(チャイタニヤ)、生気(プラーナ)、個々の魂(ジーヴィ)を意味しています。アートマには男性女性というような性はありません。ゆえに、人生の目的(プルシャールタ)とは意識の原理のダルマ、生命の原理のダルマ、アートマ ダルマを意味するのです。それこそが真のプルシャールタ、最も重要な人生の目的です。この人生の目的という言葉の真の意味を理解しないままに、人々はこのダルマは男性のためのものであり、あのダルマは女性のためのものだと語ります。融合こそが真のアートマ ダルマであり、真の目的(プルシャールタ)です。

二番目の目的は富(アルタ)です。アルタはお金や黄金を意味しているのではありません。お金や黄金を得ることが人生の目的ではありません。お金は、来ては去って行きます。英知こそ真の富です。多様性の中に一体性を見ることが真の英知です。人は英知という富を得なければなりません。

三番目の目的は欲望(カーマ)です。カーマは感覚的欲望を意味するのではありません。人は解脱への欲望を抱くべきなのです。人は、アートマの原理を理解し神へ到達したいという欲望を抱くべきです。

ヴェーダーンタの一つ一つの言葉には、たくさんの意味が結びついています。多くの人々が様々に説明しています。今日、人々が人生の四つの目的について理解していることは、学生期や家長期、林住期、遊行期という四つの人生の段階に相当するものです。これらは霊的なダルマに相当するものではありません。霊的なダルマこそ真のダルマです。これによってのみ解脱が授けられます。解脱とは何でしょう? 解脱とは単に、神に到達するということではありません。思いと言葉と行為が神と一つにならなければなりません。ガンジス河やゴーダーヴァリー河、サラスワティー河のような河には様々な名と形がありますが、一旦大海に融けこむと、河はその名や形や特性を失います。同様に、一旦神に融合すれば、違いは全くなくなります。そのような不二一元性(ふにいちげんせい)を経験することこそが、人生の真の目的です。

愛の化身である皆さん! シヴァが世界を救うために毒を飲み、意識を失って倒れたという伝説があります。毒によって生じた熱は世界に影響を及ぼしました。世界を冷ますため、シヴァはヒマラヤ山脈を創造しました。そうして、シヴァはヒマラヤをお腹の上に置きました。その結果 、ヒマラヤはシヴァの体から熱をすべて吸い取り、シヴァは起き上がったのです。この出来事がシヴァラートリ(シヴァの夜)としてお祝いされています。これは世俗的な解釈にすぎません。真実を言えば、全世界がシヴァの中に包含されているのです。このような神には誕生も死もありません。身体は変化をたどります。しかし、神の原理は変わらぬ ままに存在するのです。愛が変化することは決してありません。愛は常に、愛として存在します。砂糖は甘いものです。コーヒーや紅茶、水やパヤサム(米のミルク煮、乳粥)に入れたとしても、甘さが変化することはありません。変化することなく存続するもの、それがサット(存在)と言われます。この存在はあなた方の内にあります。愛とはその甘さです。私たちはこの愛を神に向けるべきであり、感覚の対象に向けるべきではありません。存在(サット)は砂糖に例えられます。神性意識(チット)は水に例えられます。水に砂糖を加えると、シロップになります。同様に、存在と神性意識が合わされば、至福(アーナンダ)になります。存在(サット)はアートマと関係しており、神性意識(チット)は身体に関係しています。アートマとはプルシャ(個々の意識)であり、身体はプラクリティ(女性原理)です。個々の意識と女性原理が一つになったもの、それが人間の生です。ゆえに、人は皆、アルダナーリーシュワラ(男女両性の特徴を備えた神)です。シヴァの原理は、個々の意識と人間の生が一つであることを教えています。人はこの原理を忘れ、身体は単に血と肉と排泄物からできていると思っています。身体にそういったものが含まれているのは間違いないことですが、この身体に神性が浸透しているという事実を忘れるべきではありません。この世界を理想的なものにするためには、身体が極めて重要なのです。

愛の化身である皆さん! 身体はシヴァの伴侶(パールヴァティー)であり、アートマはシヴァ(イーシュワラ)です。ある求道者がおり、グルに指示された通り、常に「シヴォーハム」というマントラを繰り返し唱えていました。ある日、求道者はそのマントラの意味を尋ねられたので、「シヴォーハム」とは「私はシヴァである」という意味であると答えました。しかし、パールヴァティー女神(シヴァの伴侶)とはどういう関係なのかと尋ねられた時、彼は自分の頬をピシャリとたたき、重大な罪を犯したかのごとく、「神への冒涜である! 神への冒涜である!」言いました。 もしも、その求道者が自分の唱えているマントラを本当に信じていたなら、「パールヴァティーは私という存在の一部です」と言ったに違いありません。しかし、彼は自分の身体に執着していたために、そうは言えなかったのです。身体への執着によって二元性へと導かれます。そしてその二元性のために、人は苦しんでいるのです。

イーシュワラとパールヴァティーは各個人一人一人の内に存在しています。この二つの側面 が「マーナヴァットワ」(人間性)を作っているのです。「マーナヴァ」とは「人間」を意味しています。「マ」は「〜でない」を意味し、「ナヴァ」は「新しい」を意味します。したがって、人間は「新しくないもの」なのです。人間は新しくないものであり、古いものであり、永遠のものなのです。しかし、あなた方がこの真理を理解することはできません。三つの文字があります。「マー」「ナ」「ヴァ」です。「マー」は「マーヤー」(幻影)を意味します。「ナ」は「〜なしに」を意味します。「ヴァ」は「ヴァルティンチュタ」(行動をとること)を意味します。「”幻影”に支配されること”なしに”適切な”行動をとる”人」が、真の人間です。しかし、今日人は矛盾した行動をとっています。いずれにせよ、今日からは、真理を理解するよう努めなさい。あなたの身体(デーハ)と国(デーシャ)は、対象と反映に例えられます。自分の身体を守るのと同じように、国の幸福をも心に留めておきなさい。シヴァラートリの真の意味と内なる意義を理解しなさい。

 

[ここで、バガヴァンは実に20年ぶりに、自らの口からヒランニャガルバ リンガム(黄金の卵型のリンガム)を現出なさいました。帰依者にそのリンガムを見せてから、バガヴァンは御講話をお続けになりました。]

これは皆さん一人一人の霊的なハート(フリダヤ)の内に存在するものであり、身体の右側に位 置するものです。ヒランニャガルバの原理は身体全体に行き渡っています。私がそう意志した時、それが形をまとうのです。このリンガムが現われ出るその時に、このリンガムを見た者は、再生することはないでしょう。このリンガムが現われ出る時に、その姿を見なければなりません。あなた方の人生を神聖なものとするために、このような神聖な顕現が時折あなた方に示される必要があります。そうしてはじめて、あなた方は人間の内にある神性を理解することができるのです。このリンガムは、高いところから力をこめて落としたとしても、壊れることはありません。これは不滅です。これは不変です。このような顕現は、決して他の場所で見られるものではありません。神とともにある時にのみ、はじめて可能となるのです。

(ここでバガヴァンは、「シヴァ、シヴァ、シヴァ、シヴァ アナラーダ」というバジャンをお歌いになりました。)

過去20年間、帰依者の皆さんはリンガムの顕現を目にする恩恵を与えられませんでした。なぜなら、このすばらしい光景を見るために、いつも何十万もの帰依者たちがプールナチャンドラ ホールに集まって来たからです。プールナチャンドラ ホールでは大勢の人々を収容することができないため、いつも人が殺到していました。その結果 、帰依者たちは大変不自由な思いをしていました。それを避けるために、リンガムの顕現は中止されたのです。これだけでなく、他に三種類のリンガムが顕現していました。それは「ブール」と「ブワッ」と「スワハ」です。「ブール」は体現(身体)を意味し、「ブワッ」は振動(プラーナ)を、そして「スワハ」は放射(アートマ)を意味しています。私はしばしば、「あなた」は一人ではなく三人であると言ってきました。すなわち、「あなたが自分だと思っているあなた(身体)、他の人があなただと思っているあなた(精神的な身体)、本当のあなた(アートマ)」です。シヴァラートリにはいつも、この三つのリンガムが顕現していました。今もなお、幾つかのリンガムが現れ出ようとしていましたが、私はそれを止めました。あなた方に話すべきことがたくさんあるからです。将来、あなた方は神の顕現をもっとたくさん見るでしょう。この至福は神の近くにいてはじめて経験できるものであり、その他の場所では経験できないということを理解しなさい。私があなた方と同じように話し、笑い、歩き、食べているからといって惑わされてはなりません。身体の感覚に惑わされてはなりません。私の行為はすべて無私、無私、無私です。私には利己心は全くありません。この真実を固く信じなさい。完全に信じるなら、たとえどこにいようとも、あなたの願いは求めずともかなえられます。完全な信仰を抱かない者のみが苦しむのです。自己への信頼を深めなさい。これはあなたが最初に取りかからなければならない霊性修行です。

実にあなた方は、とても幸運なのです。今日は月曜日(ソーマ ヴァーラ)、シヴァ神が愛する日です。ゆえに、シヴァは、ソーメーシュワラ(月の主)、ソーマシェーカラ(月を額に付けている者)としてほめたたえられるのです。この身体も月曜日に生まれました。シヴァの寺院ではどこでも、月曜日に特別 なお祈りが捧げられています。ハヌマーンは火曜日(マンガラ ヴァーラ)に礼拝されます。戦場でラーヴァナが倒された後、ハヌマーンはこの良い知らせをシーターに伝えようと急ぎました。シーターは大いに喜び、こう言って、ハヌマーンに惜しみない祝福を与えました。「ハヌマーン、今日が何の日なのか私にはわかりませんが、これほど待ち望んだ吉兆の知らせ(マンガラ カーラ ヴァールタ)をあなたが運んできたのだから、この日を火曜日(マンガラ ヴァーラ)と呼びましょう。どうかこの日にあなたが崇拝されますように」

トレーター ユガには、月曜日や火曜日といった曜日に名前はありませんでした。曜日は最近作られたものです。バーラタ(インドの古名、神を愛する者の意)の文化では、一つ一つの言葉に、秘められた意味があります。しかし、バーラタの人々はそれらを理解しようと努力してはおらず、間違った道を行こうとしています。カーストではなく、文化が大切なのです。私たちは、文化を維持していかなければなりません。

愛の化身である皆さん! 愛はアートマであり、アートマは愛であるというこの真理を理解しなさい。

 

訳:サティヤ サイ 出版協会
出典: http://www.sathyasai.org/discour/1999/d990215.html

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