サイババの御言葉

日付:1999年3月25日・場所:ブリンダーヴァン
ラーマナヴァミー祭の御講話より

ラーマーヤナと現代生活の関連


全宇宙は神の支配下にある
神は真理に支配されている
気高い魂たちは真理の守護者
気高い魂たちはまさしく神の化身

(サンスクリット語の詩節)

愛の具現たちよ! すべての人は本質的に神性の具現です。

イーシュワラ サルヴァ ブーターナム
(神は生きとし生けるすべてのものの内に住む)

イーシャヴァースヤム イダム ジャガト
(神は全宇宙に浸透している)


すべてにみなぎっている神を探す必要があるでしょうか?

サルヴァタッ パーニパーダム タット サルヴァトークシ スィロームカム
サルヴァタッ シルティマローケー サルヴァマヴルッティヤ ティシタティ
〔それは一切の方角に手足を持ち、一切の方角に眼と頭と口を持ち、
一切の方角に耳を持ち、世界において一切を覆って存在している〕

〔バガヴァッドギーター13章13節〕

何千もの足と何千もの目と何千もの耳を備えて歩き回る神を探すことができるでしょうか? ですから、神を探すというのはまったく愚かなことです。神はあなたの内側にいます。あなたは本当の自分を忘れて、つかの間で、はかない体に心を奪われているために、神を理解することができずにいるのです。体への執心を捨て、本当の自分への執心を持って、初めてあなたは神聖なアートマの原理を理解することができます。

ラーマの物語に含まれている価値

愛の具現たちよ! 人生はチェスのゲームにたとえられます。それだけでなく、人生は戦場のようなものでもあります。ラーマの物語は三重のダルマ(行動規範)を教えています。それは個人と家庭と社会に付随するダルマです。あなたは個人と家庭と社会の義務を理解する努力をしなければなりません。ラーマは慈悲の大海です。ラーマは愛の化身です。ラーマの神性は愛の道によってのみ理解することができます。愛は人間の命の底流です。人は内にある愛を育む時にだけ、自分の生来の神性を現すことができます。

現代社会は、叙事詩ラーマーヤナの中にあるダルマを守る必要があります。その理由は何でしょう? 現代では、息子は父の助言を聞かず、親は息子の将来を気にかけません。グルへの信愛は学生が目的とすべきものです。ところが、現代の学生は教師を尊敬せず、教師は何ひとつ良いことを教えません。このような状態ですから、誰もがラーマーヤナの理想を模範とする必要があるのです。ラーマーヤナは、人の本当の正体、家庭が真に意味するもの、社会の神聖さについて述べています。ラーマーヤナは、人間的価値の重要性を教えています。現代では、ビジネス、教育、政治といったあらゆる分野において腐敗が横行しています。このような状態ですから、ラーマーヤナの行動規範は非常に重要なのです。ラーマーヤナの行動規範は、兄弟の間、父と息子の間、師と弟子の間に存在すべき関係について、詳しく説いています。

ラーマーヤナの中の道徳的価値、社会的価値、霊的価値

私たちは皆、同じ地球に暮らしています。私たちの上には同じ空があります。私たちは同じ空気を吸い、同じ水を飲んでいます。人がこうした一致という根本原理を無視して多様性を見ていることは、大きな過ちです。ラーマーヤナは多様性の中の一致を中心に据えています。今、人は多様性の中の一致を見る能力を失っているために、不安にさいなまれているのです。今、私たちに必要なのは、多様性の中にある一致を見ること、その一致の背後にある神性を見ることです。バーラタの文化はこう述べています。

サッティヤム ブルーヤート、プリヤム ブルーヤート、
ナ ブルーヤート サッティヤム アプリヤム
〔真実を話すべし、快いことを話すべし、真実でも不快なことは話すべからず〕

〔マヌ法典4章138節より〕

「真実を話すこと」は道徳的な価値です。「快いことを話すこと」は社会的価値です。「真実でも不快なことは話さないこと」は霊的価値です。ですから、この声明の中には、道徳的、社会的、霊的な価値がすべて含まれているのです。ラーマーヤナはこれらの価値を最もシンプルに教えていますが、人はラーマーヤナのメッセージを忘れてラーヴァナの生活を送っています。ラーヴァナはこの神性の原理を理解しませんでした。ラーヴァナは、あらゆる類の知識を身に付け、さまざまな苦行をしたにもかかわらず、変わりませんでした。ラーヴァナは過剰な欲望のせいで身を滅ぼしました。死ぬ前に、ラーヴァナは国民にメッセージを残しました。「おお、国民よ! 私にはあらゆる能力があり、多種多様な知識を極めていたが、欲望の餌食となってしまった。私は息子たちを失い、一族を滅ぼし、王国を灰にした。それは私が欲望を制することができなかったからだ。私のように欲望の餌食になってはならない。真実と正義の道を歩み、ラーマのようになれ。神性を体験せよ。」

ラーマの教えを実践に移しなさい

ラーマ兄弟たちの関係は全人類の理想です。彼らは困難や難儀にもかかわらず一体となって暮らしました。カイケーイー妃は息子バラタをアヨーディヤーの王位に就かせたがりましたが、バラタは一度もそのような願いは抱きませんでした。バラタはチットラクータ山に赴いてラーマの御足にひれ伏し、ラーマは長男なのだからアヨーディヤーの王国を統治すべきだと懇願しました。しかし、ラーマはその願いを聞き入れませんでした。ラーマは「母を神と見なすべし、父を神と見なすべし」というヴェーダの格言を引用してバラタを諭し、父の命令に従い、アヨーディヤーの王となることで母の願いを叶えるように、と言いました。ラーマはバラタが必要とする一切の援助と指示を与えることを約束しました。だからこそ、人々は今でもラーマを真実の発言を固く守る者(サティヤヴァークパリパラカ)と称えているのです。

聖なるラーマーヤナを読む者は今でも大勢います。けれども、その真髄を理解している人はわずかです。人々は書物の知識や表面的な知識を得るために多くの時間を費やしていますが、実践の知識は持っていません。ラーマーヤナの教えを美しい言葉で説明する者は大勢いますが、その中の何人が日常生活で自分の父親の命じることに従っているでしょうか? その数は多くありません! さまざまの経典を読んでも、その中に含まれているメッセージを実践しなければ、何の役に立ちますか? マイソール パクやグラブ ジャームンやジレービーといった甘いお菓子の名前を繰り返し言うだけでそのおいしさを味わうことのできる者がいるでしょうか? いいえ、いません。その味は食べて初めて味わうことができるものです。経典の知識だけでは役に立ちません。ところが、現代人が関心のあるのはインフォメーション(情報)だけで、トランスフォーメーション(変わること)には関心がありません。ブッディ(理知)はトランスフォーメーション(変わること)があって初めて開花するのです。

望みが叶わなくとも、動揺したり、落胆したりしてはならない
どんな逆境の中でも明るい顔をしている者こそが、悟った人間

(テルグ語の詩)

人は一生のうちに多くの試練に直面しなければなりませんが、決して落胆してはなりません。人生は挑戦です、立ち向かいなさい。人生は愛です、楽しみなさい。逆境に立ち向かう中、明るく、勇気に満ち、どんな弱さにも付け入る隙を与えてはなりません。ヴェーダーンタは宣言しています。

ナ アヤマアートマ バラヒーネーナ ラビャフ
(心の弱い者はアートマを顕現させることができない)


心の弱い人は何事もやり遂げることができません。ですから、心の強い人になるようにしなさい。善良なものへの信心を持ちなさい。

罪への恐れと神への愛がないゆえに、人の人間性が低下している
世界に平和がないのは、これが原因

(テルグ語の詩)

愛は神、神は愛、ゆえに愛の中で生きよ

ですから、人は、神への愛、罪への恐れ、社会の道徳を培うべきです。ラーマとラーヴァナはあらゆる知識に等しく精通していましたが、ヴァールミーキ仙はラーマを神と称え、ラーヴァナを愚か者と非難しました。その理由は何でしょう? ラーヴァナは自分が得た知識を実行に移さず、それどころか、邪悪な目的のためにその知識を用いました。一方、ラーマは自分の知識の一切を実行に移し、ありとあらゆる人に喜びを与えました。

サルヴァローカ ヒテー ラタハ
(ラーマは万人の福利のために尽くした)

サルヴァ グニャーノーパ サンパンナハ
(ラーマはあらゆる類の知識に精通した)

サルヴァサンディタ グナイヒ
(ラーマはあらゆる善良な特性の権化なり)


これらはラーマの神性が現われている三つの側面です。この三つの面を持つ者は、誰であれ本質的に神です。実際には、すべての人は神です。けれども、体に執着しているせいで、人は自分の神性を理解できずにいるのです。人は愛の道を歩むことによってのみ、神性を体験し、神性を楽しむことができます。愛は神、神は愛です。ですから、愛の中で生きなさい。

一日を愛で始めなさい
一日を愛を持って過ごしなさい
一日を愛で満たしなさい
一日を愛で終えなさい
それが神への道

最高の霊性修行は、すべての人を愛すること

人が苦しんでいる原因は、自分の愛を自分と家族に止めていることにあります。すべての人は自分の兄弟姉妹であるという広い心を持つべきです。愛の拡大は生であり、愛の縮小は死です。すべての人は神の子です。すべての人は神の火花です。主クリシュナはバガヴァッド ギーターの中でこう宣言しました。

ママイヴァームショー ジーヴァローケー ジーヴァブータッ サナータナハ
(あらゆる体の中に在る永遠のアートマは、私の存在の一部である)


ですから、人は自分をすべての人と見なす広い心を持つべきです。広い心がなければ人間性は決して発達しません。

悪を見ず、善を見る
悪を聞かず、善を聞く
悪を語らず、善を語る
悪を思わず、善を思う
悪を為さず、善を為す
それが神への道


神へと到るこんなに簡単な道があるのに、なぜあなたはジャパや苦行やヨーガといった厳しい霊性修行をしてやきもきしているのですか? 神はそうした苦行によって到達できるものではありません。すべての人を愛するというのは何と簡単なことでしょう!

すべての人を愛し、神のことを考えなさい。モーゼはいつでもイエスのことを考えていました。その結果、モーゼの顔には神聖な輝きがありました。モーゼはイエスにそっくりになったので、人々はモーゼをイエスと間違えました。追いはぎのラトナーカラは、ナーラダ仙に助言されて、絶えずラーマの御名を唱えることを始めました。その結果、ラトナーカラの顔にラーマの光輝が見られるようになり、ラトナーカラは聖仙ヴァールミーキとなりました。ラーマはローカダッタ(世界を与える者)であり、ヴァールミーキはシローカダッタ(神聖な賛歌の作者)となりました。与え手と作者に違いはありません。ヴェーダは宣言しています。

ブランマヴィド ブランマィヴァ バヴァティ
(ブラフマンを知っている者はブラフマンになる)


ですから、いつも善いことを考え、善いことをし、善いことを語り、善いことを聞くようにしなさい。そうして初めて、あなたは善い人になれます。善人こそが真の人間です。邪悪な人は決して人間と呼ばれることはできません。

人間の中にある神の性質

人間の中には四つの性質があります。それは、神の性質、悪魔の性質、動物の性質、人間の性質です。人間の中にある神の性質とは何でしょう? 万人のためになることに従事すること(サルヴァローカ ヒテー ラタハ)です。それが神の性質です。人間の性質とは何でしょう? いつも功徳(プンニャ)をすることです。決して罪(パーパ)にふけってはなりません。

パローパカーラ プンニャーヤ パーパーヤ パラピーダナム
(他人を助ける行為は功徳であり、他人を傷つける行為は罪である)


いつも助け、決して傷つけてはなりません。人間の中にある動物の性質を引き起こしているものは何でしょう?

グニャーネーナ スンヤ パスビル サマーナ
(英知がなければ人間は動物と同じ)


人間の生涯の目的は、ただ食べたり飲んだり眠ったり、物質的な安楽にふけることではありません。動物もそうした行為にふけります。けれども、人と違って動物は富を貯め込んだり、奪ったり、盗んだりといった邪悪な性質は持っていません。現代人は、姿だけが人間で、振る舞いは人間ではありません。

荷物を少なくすればもっと楽になる

ジャントーナム ナラジャンマ ドゥルラバム
(あらゆる生類の中で人間としての生を得ることは最も難しい)


今生であなたが経験する良いことは、さまざまな過去の生での功徳の結果です。今生の人間としての生は新しいことではありません。このメッセージは、「マーナヴァ」(人間)という語の中に含まれています。「マ」は「〜でない」という意味であり、「ナヴァ」は「新しい」という意味です。つまり、人間として生まれたことは新しいことではないという意味です。

現代人は欲がありすぎるため、動物のレベルに落ちぶれています。荷物を少なくすればもっと楽になり、旅は楽しくなります。しかし、人間の欲(荷物)は日ごとに増えています。人生は長旅です。人は、いやしい生活(ディーナ ジーヴァナム)でななく神聖な生活(ディヴィヤ ジーヴァナム)を送らなければなりません。いつも幸せでいなさい。人生に困難は付きものです。それは自然の法則です。決して困難の時に元気を失くしてはなりません。困難は流れゆく雲のようなものです。困難は来ては去りますが、道徳は生じると成長します。不幸にして、現代社会は道徳が衰退しています。

ラーマは社会における道徳の価値を支える輝かしい手本です。ラーマは王位継承を目前に森へ入ることを命じられました。ラーマは少しも心を乱しませんでした。

スカドゥフケー サメークルットワー ラーバラーバウ ジャヤージャヤウ
〔苦楽、勝ち負け、損得といった人生の両極を等しく扱う者が、平常心のある者なり〕

〔バガヴァッドギーター2章38節前半〕

ラーマはこの平常心という美徳を示しました。現代人は自分がその地位に値しないにもかかわらず権力の地位に就きたがります。一方、ラーマは自分に値する地位を手放しました。ラーマは逆境に直面しても勇気にあふれていました。ラーマは決して弱さに付け入らせることはありませんでした。ラーマは、気弱な者(ディーナ)の人生ではなく、勇者(デイーラ)の人生を送りました。

ラーマの一団の場合もラーマと同じでした。ハヌマーンは絶えずラーマを憶念することによって、勇者(デイーラ)となりました。ハヌマーンは勇敢という特性を、ラーヴァナの宮殿で示しました。しかし、その同じハヌマーンが、ラーマの前では気弱な者(ディーナ)ように立っていました。このことは、人は神の前では謙虚な者(ディーナ)であるべきであり、邪悪に直面した時には勇者(デイーラ)でなくてはならないということを強調しています。

可能な限り自分の欲を制しなさい

情欲(カーマ)、怒り(クローダ)、貪欲(ローバ)といった邪悪な性質を滅ぼしなさい。ラーヴァナは、情欲のせいで自分の身を滅ぼしたのみならず、一族を滅ぼしました。ですから、可能な限り欲を制しなさい。現代の政府は土地と財産を規制する条例を課していますが、必要なのは欲を規制することです。ヒランニャカシプは主ハリの御名を唱えませんでした。それだけでなく、息子プラフラーダにも同じことを命じました。ヒランニャカシプは、自分の望みにそむいて主ハリを称えて歌う息子を憎みました。こうした邪悪な怒りの性質が、ヒランニャカシプを破滅へと導きました。

ドゥルヨーダナは貪欲の権化でした。ドゥルヨーダナはごくわずかな土地ですら手放すことができませんでした。ドゥルヨーダナはパーンダヴァ兄弟にひどい苦難を強いました。最終的にドゥルヨーダナはどうなったでしょう? ドゥルヨーダナは自分の貪欲の犠牲となりました。

欲、怒り、貪欲は、霊性の道をはばむ最大の障害です。可能なかぎり他の人を助けなさい。どんな状況においても、誰をも傷つけてはなりません。18のプラーナ〔古代の神話集〕の真髄がこの二つの格言に含まれています。それは、「つねに助けよ。決して傷つけるなかれ」です。

霊性は一体性の精神を促進する

ラーマーヤナの物語は、兄弟の間にあるべき関係の理想を示しています。ラクシュマナとシャトルグナはそれぞれ、最高の信愛と誠実さを持ってラーマとバラタに仕えました。ラクシュマナが戦場で気を失った時、ラーマは、「私はこの世でカウサリヤー妃のような母、シーターのような妻を見つけることはできるかもしれないが、ラクシュマナのような弟を見つけることは決してできないだろう」と嘆きました。兄弟は、兄を敬い、家族全体に誉れと名声をもたらすようでなくてはなりません。兄弟が一体であることが、家族全体に良い評判をもたらすのです。

パーンダヴァ兄弟の場合もそうでした。5人のパーンダヴァ兄弟は、一致団結していたので、100人のカウラヴァ兄弟を打ち負かすことができたのです。ヴァーリとスグリーヴァはたった二兄弟でしたが、団結していなかったので分裂しました。スグリーヴァがラーマにすべてを委ねたので、ラーマはスグリーヴァに王国を取り戻しました。ラーヴァナとヴィビーシュナとクンバカルナの兄弟の場合もそうです。五本の指が団結すれば、どんなに大きな仕事でも成し遂げることができます。団結しなければ、小さなことさえ成し遂げることはきわめて難しくなります。ですから、誰もが一体性(団結)に向けて努力すべきです。

霊性は、狭い心を滅ぼして、一体性と協力と普遍なる平安をもたらす

(テルグ語の詩)

一体性は必須です。一体性を通じて霊性を理解することができます。誰をも憎んではなりません。他人を悪く思ってはなりません。そうすれば、あなたは真の人間になることができます。霊性修行は、あなたが利己心を克服することができなければ時間の浪費であるだけです。自分の解脱を求めて霊性修行をすべきではありません。なぜなら、それは利己的な行為に等しいからです。ありとあらゆる人々の救済のために働きなさい。すべての人が神に到達して神の至福を体験できるようにさせるのです。あなたはこうした広い心を持つべきです。あなたの福利は社会の福利にあります。

あなたの生活を無私の奉仕に費やしなさい

愛の具現たちよ! どんな霊性修行もする必要はありません。愛の道を歩むことによって、各人の内にある生来の神性を体験しなさい。愛は神です。あなたの人生を無私の奉仕に費やしなさい。これはラーマの教えです。

ラクシュマナの理想的な人格を世に示すために、ラーマはラクシュマナを試しました。ラーマとシーターとラクシュマナがチットラクータ山で暮らしていたある日のこと、ラクシュマナが食べ物を採りに森に入った時、ラーマはその機会を利用してラクシュマナをテストすることにしました。ラーマはシーターにその神の芝居に加わるようにと言いました。ラクシュマナが食べ物を持って帰ってくると、シーターはラーマの膝を枕にして眠っているふりをしました。ラーマはラクシュマナに、自分は他に大切な仕事があるので、シーターが眠りから覚めないようにシーターの頭をそっとラクシュマナの膝に乗せかえてくれと頼みました。

ラーマはラクシュマナの感情を観察したかったので、おうむに身を変じて木に止まりました。ラクシュマナはシーターを母と思って目を閉じて、主ラーマを深く黙想しました。おうむに変じたラーマは、こうさえずりはじめました。

ぐっすり眠っている者を起こすことは簡単だ
でも、寝たふりをしている者を起こすことは可能だろうか?

(テルグ語の詩)

シーターはぐっすりと眠っているふりをして、いびきの音さえ立てていました! すべての点において、シーターとラーマはぴったりと息が合っていました。しばらくすると、ラーマはどこかから戻ったようなふりをして、シーターを「起こし」ました。シーターは深い眠りから目を覚ましたかのように目を開き、ぐっすりとよく眠れて気持ちがいいとラーマに言いました。

神のリーラー〔神聖遊戯〕は神秘であり、不思議で、神聖です。神は信者に恩寵を与えるため、信者を守護するために、信者を試します。ラクシュマナはラーマの御足にひれ伏して言いました。「私はあなたの召し使いです。あなたの望みのままにあなたにお仕えすることが私の義務です。」

ラクシュマナの誠実さと信愛

シーターは、ラーヴァナに強引に連れ去られた時、自分が身に付けていた宝飾品を全部外して包み、下に落としました。猿たちがそれを見つけて猿王スグリーヴァのところに持っていきました。ラーマとラクシュマナがスグリーヴァに会った時、スグリーヴァはそれらの宝飾品を見せて、それはシーターのものかどうかを尋ねました。ラーマにはわからなかったので、ラーマはラクシュマナに宝飾品を見るようにと言いました。ラクシュマナは答えて言いました。

「兄上、私にはこのイヤリングや腕輪がどなたのものかはわかりません。しかし、この足輪は確かに母なるシーター様のものです。」

なぜシーターの足輪だとわかるのかと問われると、ラクシュマナは言いました。

「私は毎朝、母なるシーター様の御足に礼拝するのを習慣としていました。そうしている時に、私は母なるシーター様の足輪を見ておりました。」

ラーマはラクシュマナの誠実さと信愛にいたく満足し、称賛を浴びせ、ラクシュマナのような立派な弟は世界のどこにも見つからないだろうと言いました。後日、ラーマは、自分がラーヴァナを倒してシーターをアヨーディヤーに連れて帰ることができたのは、ラクシュマナの力と支えがあったからだと言いました。

ラーマーヤナは、誠実さと信愛があればどんなことでも成し遂げることができるということを実証しています。ラーマーヤナの物語は、たいそう人を魅力し、とりこにするので、誰もが何度も繰り返し聞きたいと思うのです。バーラタの国民は太古の昔からラーマの物語を吟じ続けてきました。すべての人がラーマーヤナのエッセンスを理解するよう努めるべきです。ラーマーヤナは、人は良い人格を持つべきであるということ、人は父の命じることを守り、親を敬い、兄弟は団結すべきだということを教えています。この教えを実質共に守るなら、あなたの生活は生きたラーマーヤナとなるでしょう。

ハートが真の寺社

学生諸君は、神が一番の友であるということを理解すべきです。世間の友は、あなたの地位や権力や名声に引かれてやって来ます。ひとたびあなたの地位や権力がなくなると、友だちもいなくなります。本当の意味で友だちなのは神のみです。全世界は書物であり、あなたの良心は真のグルです。なぜあなたはわざわざ世間のさまざまなグルのあとを追うのですか? 自分の良心に従って、神性を体験しなさい。あなたの心の秘密を明かすアートマの原理が、あなたの本当のグルです。無形にして、あらゆる属性を超越している者が、真のグルです。

グルル ブランマー グルル ヴィシヌッ
グルル デーヴォー マヘーシワラハ
グルッ サークシャート パラブランマハ
タスマィ シリー グラヴェー ナマハ
〔グルはブラフマー神、グルはヴィシュヌ神、グルはマヘーシュワラ神
グルは至高神ご自身、そのようなグルに帰命いたします〕


神をあなたの母、父、友、すべてと思いなさい。神をあなたのグルとして、神に従い、神に帰融しなさい。もし神をあなたのグルとするならば、生涯においてどんなことでも成し遂げることができます。神への愛を深め、神の愛と恩寵の受け手となりなさい。神との友情を深めなさい。そうすれば、全世界はあなたの意のままになるでしょう。トラブルや騒動は人生に付きものです。神の御名を唱えることでそれらを乗り越えなさい。恐れのない人になりなさい。

神はあなたの中に、あなたと共に、あなたの上に、あなたの周りにいる

神を寺院や巡礼地に制限してはなりません。神はハートに住む者(フリダヤヴァースィ)です。神はあなたの中に、あなたと共に、あなたの上に、あなたの周りにいます。あちこちの巡礼地に出かけていく必要はありません。あなたのハートが真の巡礼地です。ミーラーもこれと同じ気持ちでした。夫が寺院の境内から出るようにと言ったとき、ミーラーはクリシュナに言いました。

「私をあなたから離すことのできる者は誰もいません。私のハートがあなたの寺院です。」

ギーターの中で、主クリシュナは宣言しました。

クシェートラグニャム チャピ マーム ヴィディ
(私を生きとし生けるすべてのものに宿る者〔場を知る者〕と知りなさい)


体は場であり、アートマの原理はすべての場に宿る者です。ですから、クシュートラ(場)とクシュートラグニャ(場を知る者)は、あなたの内に存在しているのです。至福は外国にあるのではありません。至福はあなたの内にあります。至福を体験するためには、あなたのハートの中にある愛を深めなさい。神が持っていてあなたが持っていないものを与えてくれるよう神に祈るべきです。あなたに欠けているものとは何でしょう? それは平安と至福です。神に求めなさい。そうすればそれは与えられます。神につまらない願いごとをするのはやめなさい。この世のものはすべて、つかの間で、はかないものです。神のみが不変であり、清らかで、永遠で、不滅です。ですから、神の栄光を歌って時を過ごしなさい。真摯な祈りによって、あなたは自分に潜在する神性を見出すことができます。

ラーマとシーターに付いて森に出発するラクシュマナに向かって、スミトラー妃は次のように助言しました。

「決して森に行くという気持ちでいてはなりません。ラーマとシーターのいるところは、どこであれそこがアヨーディヤーです。シーターとラーマのいないこのアヨーディヤーは、まさしく森です。シーターとラーマを自分の父、母と思い、愛と誠実さと信心と帰依心を持って、力の限り二人に仕えなさい。」

この世でスミトラー妃にまさる偉大な母を見つけることはできません。スミトラー妃は、心の底から神に仕えるようにと息子を祝福したのです。「スミトラー」という語は「良い友」(ス=良い、ミトラー=友)という意味です。スミトラー妃ほどの高潔な母と、神への完全なる帰依心を持つラクシュマナのような息子が、今日、求められています。

今必要なものは一体性です。世界を守るのは一体性です。社会の繁栄と福利は個々人しだいです。私たちの思考は最高の財産です。思考が清らかであれば、あなたは神聖な結果を得ます。苦楽はあなたの思考の結果です。ですから、あなたの思考を聖なるものにしなさい。思考が善良で、力強いものであるなら、あなたはどんなことでも成し遂げることができます。

〔バガヴァンは「ハリ バジャナビナ」と「ラーマ コーダンダ ラーマ」のバジャンで御講話を結びました。〕

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.32 part1 C8

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