サイババの御言葉
1999年7月28日 グル プールニマ祭 御講話
愛の力

『深い探求によって、この世には愛に匹敵するものは何もないことが明らかになる。
たとえそれが慈善であれ、神聖な儀式や苦行であれ、
英知や、純粋さや、真実と永遠の法を守ることであろうとも』

(テルグ語の詩)

愛の化身である皆さん!
 人生の最大の目的は、真の自己に関する知識を得ることです。これこそが真のプルシャルタ(人生の目標)です。このゴールに到達することによって、人生は成就します。永遠のものと一時的なものとを見分ける力、感覚をコントロールする力、解脱への切なる願い、自己探求、これらの四つのもの(四つの吉祥なる特質)は、すべて帰依心によるものです。「バクティ」という言葉は、神に対する純粋で穢れのない無私の愛を意味する"Bhaj"という語根から来ています。

愛を培い至福を経験しなさい

 この世には、愛以上に素晴らしい美徳は存在しません。愛は真理であり、愛は正義であり、愛は富であります。この世は愛から生まれ、愛によって維持され、最後には愛に融合します。すべての原子が愛から生まれました。この世には、原子力、磁力等々、無数の力が存在していますが、愛の力はすべての力に勝っています。信仰と愛のない人生は無意味であり、無益です。この世に生きる人間にとって、愛こそが人生であり、愛がすべてです。五元素は愛から生まれました。すべての人の中にまぶしく輝いているものは、愛に他なりません。しかし人間は、愛の意義を理解できずに、愛が肉体的関係によって生じるものと考えています。子供に対する母親の愛は親愛であり、夫と妻の間の愛は愛着であり、友達や親戚 との愛は執着であり、物品に対する愛は欲望です。そして、神に向けられた全的な愛がバクティ(帰依)です。
 全世界を包括し、全世界に遍満しているものが愛です。人間であれ、鳥獣であれ、昆虫であれ、いかなるものであっても、愛がなければただの一瞬も存在することができません。この愛こそは、神の姿そのものです。ところが人間は今日、この神聖な愛を、移りゆく世の中に向けることによって、無駄 に使っています。決して愛の力を過小評価してはなりません。奥深い森の中に一人で住んでいた太古のリシ(聖者)たちは、野獣たちとさえも、調和して暮らすことができましたが、それは愛の力があったからに他なりません。
 この世には、愛によって達成できないことは何もありません。それは最も固い岩をも溶かすことができます。一人ひとりの人間の内にある愛の原理が一つに統合されたとき、それは宇宙的な愛(ヴィシュワ・プレマ)になります。あなたが愛の渇きを癒したいのであれば、神の恩寵を切望し、神を礼拝しなさい。至福を体験するためには、もっともっと愛を培うことです。愛を育てれば育てるほど、あなたはますます至福を体験するようになります。至福(アーナンダ)は、愛がなければ得られません。実際、至福という形をとっているのは、愛に他ならないのです。
 ヒラニヤカシプは、プラフラーダを神に到る道から逸らせようとして、あらゆる試みをしました。しかしプラフラーダは、決してナラヤナ神の御名を唱えることをやめませんでした。ある日ヒラニヤカシプは、聖者ナーラダに促されてプラフラーダを呼び、「息子よ、お前はいったい、これまでに何を学んだのか?」と尋ねました。プラフラーダはそれに対する答えとして、次のような、ナラヤナ神を称える歌を歌いました。

ナラヤナ パラム ブラムハ
ナラヤナ パラム プレマ
ナラヤナ パラム タパ
サルヴァ ナラヤナ サマ

 彼は、「お父さん。私は、ナラヤナ神こそは至高の神であり、愛の化身であり、彼の御名を唱えることは最高の苦行であって、すべてはナラヤナ神であるということを学びました」と言ったのです。皆さんもプラフラーダのように、絶えず神の御名を唱えなければなりません。ジャヤデーヴァや、ゴーランガ、トゥッカーラム、そしてラーマクリシュナ・パラマハムサのような聖者たちは、熱心に神に祈り、心の底から神の愛を求めました。サキュバイやミーラが神と離れていることに耐え切れずに泣いたように、神を求めて泣きなさい。彼らが神の御姿を見ることができ、神の恩寵をいただくことができたのは、そのような熱烈な願いがあったからに他なりません。しかし、カリユガ(暗黒の時代)の影響によって、人々は、まったく何の努力もせずに神の恩寵を得たいと思っています。神への愛が減少しているために、邪悪さ、悲しみ、暴力が増大しています。皆さんの妬みや怒りのようなよこしまな性質を、すべて愛に変えてしまいなさい。

愛は不滅の命をもたらします  

 神はこの世界を創造しました。彼は行動を司る神(カルマデャクシャ)です。テーブルを作る家具職人がいなければ、皆さんはテーブルを手に入れることはできません。 また、大工がいなければ家を建てることはできません。同様に、すべてのものに、それを創った創造主がいるのです。動くものであれ動かないものであれ、皆さんの目に入るすべてのものが、神によって創られたものなのです。神がカルマデャクシャとして称えられているのは、そのような理由からです。神はすべての行動を司っているのです。
 今日、霊性の道を歩む求道者は、瞑想や苦行やヨーガを実践したり、ヴェーダの詩章を唱えたりして、様々な種類の霊性修行を行なっています。このようなすべての霊性修行の根底には、愛が流れていなければなりません。そうでなければ、それはまったくの時間の無駄 になってしまいます。たとえマントラを唱えても、愛の感情が伴っていなければ、何の恩恵もありません。ヴェーダは次のように宣言しています。『不滅の命をもたらすものは、富でも、子孫でも、善行でさえもない。それは、犠牲のみによってもたらすことができるのである(Na Karmana Na Prajaya Dhanena Thyagenaikena Amritatwamanasu)。』不滅の命とは、愛そのものに他なりません。
 愛は甘露のごとく甘く、愛は無限であり、至福に満ちています。人々は今日、この愛の原理を理解するための努力を、何ひとつ行なっていません。呪いや罪を取り消すことのできるものは愛のみです。あらゆる苦い感情を取り除き、人生の甘さを増すことのできるものは、愛以外にありません。
  すべての人間が、友愛に満ち、この世の幸福を願う人であることが求められています。しかし今日の人間には、そのような友情と愛の感情が欠如しています。ミツバチが花から蜜を吸うように、人間は、あらゆるものの中に善を見ることができなければなりません。皆さんは、悲しみの井戸からさえも、幸福の水を汲み上げることができなければなりません。それが愛の真の性質です。楽しみは、苦痛と苦痛の中間点に過ぎません。神の創造物の中には、楽しみと苦痛が共存しています。たとえば、神がどのように人間の身体を作ったかを考えて見ましょう。美しく輝く顔の上には、真っ黒な髪の毛があります。しかし、実際は、黒い髪が顔の美しさを際立たせているのです。同様に、楽しさに価値があるのは、苦痛との関わりがあるときに限られます。あらゆるものの中に善と悪が共存しています。しかし今日、人間は善に引き付けられることがなく、あらゆるものの内に悪のみを見るのです。

驚くべき愛の速度

 すべての行動が神にコントロールされています。地球は、毎秒18.5マイルの速度で自転しています。それは、一年かかって太陽の周りを一周します。光は、毎秒186,284マイルという驚くべき速さで動きます。光が全宇宙を一周するのには、2200億年かかります。『ヴィシュヌ サハスラナマ ストートラ』によれば、全宇宙がヴィシュヌ神の御姿そのものに他なりません(Viswam Vishnuswarupam)。たとえ人間が光の速さで動いたとしても、ヴィシュヌ神の周りを回って礼拝するためには、2200億年もの歳月がかかります。いったい誰がそんなに長く生きることができるでしょう? カリユガの邪悪な影響により、人間は2200億年はおろか、100年すらも生きることができません!
  ところが、ヴィシュワ スワルーパ(Viswa Swarupa=宇宙の姿をした神)の周りを1秒で回ることが可能なのです。それを可能にするのは愛です。愛の速度は非常に速いので、全宇宙を1秒で一回りすることができます。光の速度を測ることはできるかもしれませんが、愛の速度を測ることはできません。しかし人間は、そのような超越的で無限の愛の周囲に障壁を張り巡らし、それを取るに足りない目的のために使っています。今日、世界が混沌に陥っているのはそのためです。世界に平和と安全が欠如している原因を、人々は様々に考えるかもしれません。しかし、最大の原因は、人間が心の中に愛を育てることができないからなのです。人々は、自分たちの中に、無限で不滅の、甘露のごとき愛が内在していることを自覚するための努力を何ひとつしていません。想いと言葉と行動を愛で満たしなさい。あなたの人生を愛で満たしなさい。
 神の御姿(サクシャットカーラ)を見るためには、それ以外に何ひとつ必要なものはありません。愛は神です。愛に生きなさい。

神の恩寵こそが真の富です

 今日、愛は人間の心の中に居場所を見つけることができません。それは、人の心が欲望に満ちているためです。信仰があるところに愛があります。愛があるところに平安があります。平安があるところに真実があります。真実があるところに神がいます。 ですから、神への信仰心を育てなさい。きのう、ある人が私に、どうしたら信仰心を育てることができるかを尋ねました。私は、信仰心とは生き方そのものですと答えました。それは人間にとって自然なものに他なりません。「自分がいる」と感じること自体が信仰心を表しています。自分がいるということは、自分が存在しているということです。いるという感覚(存在感)そのものが信仰を表します。自分が存在していることを信じることができなければ、あなたはこの世に一瞬たりとも生きていることはできません。
 真実と犠牲と正しい行ないが人間性を構成しています。真実は道徳(ネーティ)であり、正しい行ないは行動規約(レーティ)であり、犠牲は信望(キャーティ)です。 これらを組み合わせたものが人類(マーナヴァ ジャーティ)です(拍手)。単に姿形を根拠として、誰かを人間と呼ぶことはできません。人間という名に値するには、私たちは、真実を守り、正しい行ないを支持し、犠牲の精神を培わなければなりません。『万物の調和を思い描き、慈悲の心で行動しなさい。少なくとも一日に一回は、熱烈に神を黙想しなさい。そうして初めて、あなたは神のビジョンを得ることができるでしょう。神は本当にいます。しかし、彼を肉眼で見ることはできません。あなたが世俗的な妄念を取り払ったとき、初めて神を見ることができるのです。今日、人間の心の状態はどうでしょう? 人々は、富を持っているときは必要以上に喜び、それを失えば、打ちひしがれてしまいます。彼らは見せかけをつくろうことに気を取られるうちに、すべてを失ってしまいます。人は、いかがわしい手段や方法を考え出します。 そして、地球が太陽の周りを回るように、お金の周りを回っています。』   (テルグ語の詩)

 お金が重要なのではありません。神の恩寵こそが真の富なのです。それを手に入れなさい。そうすれば、あなたはすべてを手に入れたことになります。重要なのは人格であって、富ではありません。しかし人間は、富にあこがれて人生を無駄 にしています。お金が必要なことは間違いありませんが、それはある程度の範囲内のことです。
人生を、他の人々に奉仕するために使いなさい。人類同胞を愛しなさい。自分自身を神に全託しなさい。神の愛に勝るものはありません。愛は全世界に浸透しています。 ヴェーダは、『すべてに満ち満ちている神は、我々の内にも外にもいる』と宣言しています。すべての名前と姿は神のものです。名前と姿は異なっているかもしれませんが、万物の内なるアートマは同じです。あらゆるものの一体性を認識しなさい。その結果 普遍的愛が生まれます。世界は一つの館です。世界のすべてが人類という一つの階級に属しています。そのような館の中では、広く調和が行き渡っていなければなりません。

心を満月のように輝かせなさい

愛の化身である皆さん!
 今日はグル・プールニマです。グル・プールニマにはどのような意義があるのでしょう?

グルール ブラムハー グルール ヴィシュヌ
グルール デヴォー マヘーシュワラ
グル サークシャット パラム ブラムハー
タスマイ シュリー グラヴェー ナマハー

 ブラフマ、ヴィシュヌ、マヘーシュワラという宇宙の三大神は私たちの内にあります。だからこそ私は、皆さんが一人ではなく、三人の人間だと言うのです。これはまた、ガヤトリー・マントラの中の、ブール、ブワハー、スワハーという三つの言葉の意味です。ブールとは、ブーローカ(地球・物質界)のことです。地球は物質によってできています。したがって、同様に物質でできている人間の身体も、ブーローカと呼ばれます。これはまた、物質化と呼ぶこともできます。ブワハーは、生命力(プラーナ)のことです。肉体を動かしているのはこの生命力です。これは振動です。スワハーは、英知を意味します。これは放射です。ヴェーダは、『プラジュニャーナム ブラムハー(至高の英知は神である)』と宣言しています。このプラジュニャーナ(至高の英知)とは、放射に他なりません。人間は、物質化と振動と放射が組み合わさった存在です。皆さんは、外の世界に神を探す必要はありません。目を内面 に向けなさい。皆さんはそこに神を見つけることでしょう。
 今日は満月です。ヴェーダは、『月は、至高のプルシャの心から生まれ、太陽は目から、火とインドラ神は口から生まれた』と言っています。月は心を司る神です。心が純粋な愛で満たされた日こそが、真の意味での満月の日です。皆さんの心を、満月のように明るく輝かせなさい。これは、皆さんが心を愛で満たしたときに、初めて可能になります。

神の銀行の通貨

愛の化身である皆さん!
  今日、人々は銀行にお金を積み立てています。同様に、皆さんの感覚の力と、心の力と、英知の力を、神の銀行に積み立てなさい。それらは決して減ることはありません。それはいつまでも増え続け、必要なときに皆さんに返済されます。聖なる愛を維持し、安全に守りなさい。決して憎しみを現してはなりません。いかなることが起こっても、それはあなたのためになることだと考えなさい。皆さんは最近、インドの軍隊が国境で他国軍と衝突したという新聞記事を読んだかもしれません。しかし、どのようなことが起きたにせよ、中国、アメリカ、ロシアが、インドに対して以前より友好的になり、インドが国際社会で信望を得たと言う点から考えると、それはすべてインドにとって良いことだったのです。平和を愛するインドの特質によって、それが可能になりました。平和こそは、インドの真の美徳です。(拍手)
  私がかつてボンベイを訪れたとき、当時のインド文化教育機関の校長であった、K.M.ムンシ氏が、有識者会議を開催したことがありました。私は彼に依頼されて、参加者に対する講演を行ないました。そのとき、聴衆の一人が私に、「スワミ、アメリカやソ連は、ますます多くの兵器を製造しています。ところが、インドはこの点に関して、はるかに遅れています。インドも兵器を製造すべきではないでしょうか?」と尋ねました。私は、答えて言いました。「今日バーラタ(インド)が必要としているのは、武器や弾薬ではありません。必要なのは、ダルマを奨励することです。ダルマを守る人はダルマに守られます(ダルモー ラクシャティ ラクシタハー)。私たちは武器の製造のために、お金を浪費すべきではありません。」中には、国防衛のために多額のお金をつぎ込んでいる国があります。その結果 、それらの国に住む人々は、食べ物がなくて苦しんでいます。神の愛と恩寵だけが一国を守ることができるのであって、武器で守ることはできません。皆さんは、『マハー・バーラタ』で読んだかもしれませんが、ビーマと、アルジュナと、ナクラと、サハーデーヴァは、ダルマの化身であったダルマラージャの命令に、絶対に従いました。同様に、インドと、アメリカと、ロシアは、それぞれダルマラージャと、アルジュナと、ビーマに例えることができます。インドが備えておく必要があるものは、真実という武器(サッティヤシュトラ)と正義という武器(ダルマシュトラ)です。この二つは、どちらも愛の原理の中に内在しています。巨大な樹木が、小さな種から育って行くのと同じで、宇宙全体が愛から生まれたのです。

プラシャーンティ・ニラヤムの音楽学校

愛の化身である皆さん!
 この世では、愛があれば、何でも成し遂げることができます。私がその一番良い例です。愛こそは私の最大の財産です。私はすべての人を愛していて、愛以外の何も望みません。愛の力は、地を天に、天を地に変えることができます。この世の中には、愛によって成し遂げることのできないものはありません。次に、その小さな例を話しましょう。
 多くの学生がここに来て勉強しています。しかし、現代の教育は、何ひとつ世の中の役に立つことをしていません。物理、植物学、化学といった学科は、どれもが生活費を稼ぐためにしか役に立ちません。しかしそのような学科の中で、音楽ほど人間の心を惹きつけることのできるものはありません。神さえも、音楽に惹きつけられます。 あるとき、聖者ナーラダは、ヴィシュヌ神に尋ねました。「スワミ、あなた様はヴァイクンタ、カイラサ、スワルガなど、色んな出張所を持っておられます。でも私は、いつでもすぐにあなた様にお会いすることができるように、スワミの本拠地の場所を知りたいのです。」ヴィシュヌ神は言いました。「私の帰依者たちが私の栄光を歌っているところであれば、どこでもお前は、そこにいる私に会うことができるであろう。」(拍手) 神がガナプリヤとかガナローラ(どちらも、「音楽を愛する者」の意)と呼ばれているのはそのような理由からです。人間の心を溶かし、また文字通 り万人を動かすものは音楽です。ですから、私たちの大学でも音楽部門を開設しなければなりません。私は、ここで音楽の大学を開校したいと思っていましたが、このことに関して、誰にも話しませんでした。私は普通 、自分がどのような計画を持っているのかを人に話しません。どのようなことであれ、私が意思することは必ず起こります。先週、プーリという名前のインドネシアの帰依者がやって来て、ここに音楽大学を建ててくださいと私に頼みました。そのために彼は1億ルピーの寄付をしますと言いました。現代音楽も非常に重要です。しかし、それに加えて、路上演奏や(神の物語を歌う)ヒラカタ等々も奨励しなければなりません。音楽はインドの文化を育てるのに重要な役割を果 たします。この大学の建設は、来月、すなわちスラヴァナの月に始まります。今月はアシャダという月であり、このアシャダ月は、長老たちによれば、新しい企画に手をつける月ではありません。このため、私は学校の建設工事の着工を来月に延ばしたのです。

バンガロールの特別専門病院

 先月、私はバンガロールにいましたが、ある日カルナタカ州の知事がやって来て、「スワミ、あなた様はプラシャーンティ・ニラヤムに特別 専門病院をお建てになりました。それは、貧しい人々に計り知れない恩恵を与えています。しかし、裕福な人も貧しい人も、田舎の人も都会の人も、同じように病気にかかります。もしスワミが、バンガロール市にもうひとつ特別 専門病院をお建てになるとすれば、この町の人々は大いに助かることでしょう。」と言いました。そのとき私は、ただ微笑んだだけで、何にも言いませんでした。
 すぐその次の週に入って、この州の知事と、財務長官と収入役を含んだ州政府の要人が何人もやって来て、70エーカーの土地の寄贈に関する書類を提出しました。この土地は、情報技術パークの隣に位 置しています。水と電気は州政府が提供することになっています。皆さんが、崇高な任務に取り組む覚悟さえ持っていれば、全世界がやって来て皆さんを支援するでしょう。シンクレアという名前のアメリカ人の帰依者が、この病院のためにお金を寄付することを申し出ました。以前彼は、プラシャーンティ・ニラヤムの特別 専門病院のためにも寄付をしました。私はこのプロジェクトに関して、他の人々にはいっさい話しませんでした。もしそうしていたら、金銀が雨のように降ってきたことでしょう。この世には犠牲の精神を持った人々がたくさんいます。しかし、私は誰に対しても、私から頼むことはしたくないのです。私たちは、自分の取り組んでいる善い仕事が完成するかどうかを、決して疑ってはなりません。この先、もっともっと多くのことが起こって行きます。

愛の教育

 皆さんの心を愛で満たしなさい。富も、正しい行ないも、瞑想も、愛に勝るものはありません。私は、皆さんが兄弟姉妹のように、一つになって生きていくことを望んでいます。あなたが愛の化身になれば、あなたは神になります。『ブラフマンを知る人はブラフマンになる(Brahmavid Brahmaiva Bhavati.)』のです。
 学生たちは、この社会という列車に乗って長い間旅を続ける旅人です。年長者たちは、みんな間もなく列車から降りてしまうことになっています。ですから学生たちにとって、神聖な愛を培うことこそが、最大の義務なのです。私たちの学校で行なわれている教育の中で、最も大切なものは愛に他なりません。世俗的な欲望のゆえに神を愛するようであってはなりません。霊的な展望を持って神を愛しなさい。ゴピカたちは、クリシュナ神に祈りました。「あなたの聖なる音楽の音色に聞き入らせてください。愛の欠如によって不毛になっていた私たちの心に、愛の種が芽生えるようにです。私たちの心に愛の雨を降らせ、愛の川が絶えず流れているようにしてください。」
(テルグ語の詩)

 私は皆さんに、無料で教育と医療を施しています。皆さんは、そのお返しとして、たった一つのものを私に捧げるだけでよいのです。その一つのものとは愛です。愛を育てなさい。私が皆さんに望むのは、それだけです。私は皆さんに、きょうこの日から、愛にあふれた生き方をすることを誓っていただきたいのです。この言葉をもって、私の講話を終わることにします。

バガヴァン ババ様によるグル・プールニマの御講話より。
1999年7月28日、プラシャーンティ ニラヤムのサイ クルワント ホールにおいて

訳:サティア サイ 出版協会
出典: http://www.srisathyasai.org.in/

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