サイババの御言葉
1999年11月23日
ババ様の74歳御降誕祭の御講話
万物に浸透している内在の神

愛の化身である皆さん!

 すべての霊的原理の根源であるヴェーダ聖典は、太古の時代より、このバーラタの地から全世界を啓発し続けてきました。ヴェーダは神の姿そのものです。神は、生物、無生物の別 なく、万物の内に存在しています。大宇宙から小宇宙に到るまで、神は全宇宙に満ち満ちています。この宇宙は、神の姿です。朝から晩まで、私たちはこのような神の姿を体験していますが、この事実に気付くことができないでいます。皆さんの眼で見ているもののすべてが神の姿なのです。皆さんが聞くすべての音にも神が遍満しています。皆さんの心にある思いさえも、神の姿です。心から放射される至福もまた神なのです。見えるもの、聞こえるもの、体験されるもの、喜ばれるもののすべてが神であるとき、それ以外の場所に神を探そうとするのは、何と愚かなことでしょう。皆さんは、世界という姿の神をした神を、毎瞬毎瞬見ています。皆さんは、神聖な感情が欠けているために、世界を神として見るのではなく、神を世界として見ているのです。いったん皆さんが宇宙はヴィシュヌ神の姿であるということを理解しさえすれば、必ず世界を神として見ることができるようになります。「感じる通 りの結果が生まれる」のです。

 神は、全宇宙に遍満しています。神が一ヶ所のみにいて、他の場所にはいないという感じ方をしてはなりません。神はいたるところにいます。あなたが神を見つけようと思えば、どこを探しても、そこには神がいます。しかし、皆さんは世俗的な感情を手放して、自分の視野を神聖な感情で満たさなければなりません。そうして初めて、皆さんは、「全宇宙に神が遍満している」というヴェーダの教えを理解し、体験することができるのです。神を特定の名前や姿に限定してはなりません。神は、真我の原理として、すべての存在とすべての姿に内在しています。実際皆さんは、神の力によって、見聞きし、話し、体験し、喜ぶことができるのです。そうであれば、困難や、心配や、不幸もまた神であるのかという疑問が生じるかもしれません。本当にそうなのです! それらもまた神の姿です。ここに小さな例があります。ナーラーヤナ神は、絶えず神の御名を唱え、神を黙想していたプラフラーダを守りました。しかし、神意識をまったく持たずに世俗的な生活を送っていたヒランニャカシプにとっては、その同じ神が死の神となりました。ですから、主なる神も死神ヤマも同じ神に他なりません。神は個々人の感情に応じて振る舞います。最も邪悪な人間でさえ、心のうちには幾分かの善を備えています。この善こそ、彼らに内在する神の一側面 なのです。ウパニシャッドは、「神は万物の内在者である」、「神は全宇宙に遍満している」と宣言しています。アートマ、ブラフマン、イーシュワラ、ヴィシュヌといった単語に惑わされてはなりません。これらは皆、唯一無二である同一の神を表す単語です。

 「バガヴァン」という単語は神を意味しています。この言葉の内的意義は何でしょう?  「バ」(Bha)という音は「光輝」を表し、「ガ」(ga)は「与える者」を、「ヴァン」(van)は、「能力のある者」を意味しています。ですから、「バガヴァン」とは、「世界に光と輝きを広める力のある者」のことです。この神性は皆さんの内に隠れています。同一のアートマ(真我)の原理が、ヨーギ(世俗を放棄した人)にも、ボーギ(快楽を求める人)にも、ジョーギ(遍歴をする世捨て人)にも、ヴァイラーギ(感情を克服した人)にも、すべての人に内在しています。アートマは、有神論者のうちにも無神論者のうちにも存在しています。しかし、皆さんはこの万物に浸透している神に気づいていません。皆さんは、神を個人の好みによる特定の名前のみに限定して、様々な霊性修行をしています。霊性修行は、神が万物に浸透しているという認識をもたらすようでなければなりません。米が炊けるまでは火が必要なのと同じで、本来備わっている神性を認識するまでは霊性修行が必要です。

 たとえ種を植えたとしても、雨が降らなければどうして穀物の収穫を期待することができるでしょう? また、もし雨が降ったとしても、種を蒔かなければ穀物は期待できません。同様に、何をするにしても、成功には人間の努力と神の恩寵の両方が必要です。バターは牛乳全体に含まれていますが、凝乳にして攪拌しないかぎりバターを見ることはできません。それと同じことで、神は万物に浸透しているにも関わらず、人は適切な努力をしないかぎり神を見ることができません。人間の努力は、牛乳を掻き混ぜることに喩えられます。攪拌することによって、ひとたびバターを牛乳から分離してしまえば、再び牛乳と混じり合うことはありません。攪拌によって得られたバターを食べれば、全身がそれを体験します。同様に、ひとたびあなたが神を体験すれば、あなたは神と一つになります。

 皆さんは、食事の前に「バガヴァッドギーター」から引用した一節を唱えて、食事をブラフマン(神)に捧げます。

ブランマールパナム ブランマハヴィヒ
ブランマーグナゥ ブランマナー フタム
ブランマィヴァ テーナ ガンタッヴィヤム
ブランマ カルマサマーディナー

 ブラフマン(神)はどこにいるのでしょう? 神はあなたの中にいます。だからこそ、直ちに内側から次のような答えが得られるのです。

アハム ヴァィシワーナロー ブートワー
プラーニナーム デーハマーシリタハ
プラーナーパナサマー ユクタハー
パチャーミャンナム チャトゥルヴィダム

 神は、皆さんの内に、ヴァイシワーナラ〔食物を消化する火〕の姿で存在しています。ヴァイシワーナラは、皆さんの食べる食物を消化し、全身に養分を行き渡らせます。我々に内在している神はヴァイシワーナラと呼ばれ、万物に浸透している神はヴィシュヌという名で知られています。帰依者は、自分たちの感じ方に基づいて、神に様々な名前や形を当てはめます。しかし、神は唯一無二の存在です。神を礼拝するときは、皆さんと神が分離しているわけではないのだと感じるようにしなさい。神は皆さんの内にいます。神は愛の化身です。神は、皆さんが純粋な無私の愛を培ったときに、初めて皆さんの内から現れ出てきます。愛の原則なしに行われる霊性修行は何の役にも立ちません。中には、何時間も座って瞑想をし続けても、心が不安定なために神を体験することができない人々がいます。そのような人々は、そうして時間を無駄 にする代わりに、何か役に立つ仕事をした方がよいのです。神は時間の化身です。ですから、時間を無駄 にしてはなりません。あらゆる場所で、いかなる状況においても、絶えず神を想いなさい。純粋で無私の愛こそが、神に到達する唯一の道です。世俗的な欲望を満たしても、一時的な幸福感しか得られません。ですから、欲望をチェックしなさい。皆さんの目指すものは、永遠にして変わることのない至福です。それは皆さん方の内にあって、愛を通 して初めて手に入れることができます。

 あなたの身体の全細胞に、あなたという存在全体の詳細が含まれています。実際、あなたの身体のあらゆる細胞が、全身の姿を保持しているのです。身体には何十億もの細胞があります。皆さんの姿が、体細胞の一つひとつの中と、小宇宙のあらゆる器官の中に浸透している一方で、皆さんの肉体は、マクロコズム(大宇宙)的な姿に他なりません。同様に、皆さん方一人ひとりが普遍的な神の姿(ヴィシュワ ヴィラート スワルーパ、宇宙遍在相)なのです。この現実を正しく十分に評価するためには、ある程度の努力が必要です。

 あなたが友人に会うために村に行ったけれども、その友人の住所を知らなかったとします。正しい住所を知らないのであれば、どうして友人に会うことができるでしょうか? もう一つの例があります。今ここに、多くの人々が集まっています。あなたが、ある少年に会いたいとします。その少年はブッシュコートを着て、ズボンをはき、きちんとした髪型をしていると、あなたが言ったとします。しかし、少年を探すには、これらの情報だけでは不十分です。というのも、この大群衆の中には、そのような説明に当てはまる少年がたくさんいるかも知れないからです。それに引き替え、あなたが舞台の上から、「ラーマクリシュナ」と少年の名前を呼べば、少年はすぐに群集の中から出てくるでしょう。あなたを姿へと導いてくれるものは、名前です。だからこそ、いにしえの聖人や賢者たちは、神の御姿を見るためにナーマチンタナ(神の御名を絶えず憶念すること)を始めたのです。彼らは、完全な信愛と誠実さをもって様々な霊性修行を行いました。その努力を無意味なものとして無視してはなりません。

 先日、私はバヴァーニー シャンカラ〔パールヴァティー女神とシヴァ神〕について話しました。バヴァーニーは熱意を、シャンカラは信仰を象徴しています。熱意と信仰があれば、人生においていかなることでも成し遂げることができます。この世はバヴァーニー シャンカラの姿そのものであるゆえに、アルダナーリーシュワラルーパ〔右半身が男で左半身が女の神の姿〕と呼ばれています。女性を呼ぶのに「シュリーマト」という言葉を付け、男性を呼ぶときに「シュリー」という言葉を冠するのは、このことに基づいています。太古の聖賢たちは、「英知は熱意によってのみ獲得することができる」と言いました。皆さんは信仰心(ヴィシュワーサ)を、生命を支える呼吸(シュワーサ)と同じように見なすべきです。

  神には多くの名前と姿があります。サムバルタとバルタは、そうした神の名前のうちの二つです。サムバルタは自然を手段としてあらゆるものを創造する存在のことであり、バルタは宇宙を維持し守護する存在です。テルグ語を話す人々はバルタという言葉を夫という意味で使いますが、実際は、バルタは主人のことであり、維持し保護する者を指す言葉です。

 今日、皆さんは、神を知ろうとする努力を一切しないことによって、時間を無駄 にしています。一日24時間のうち、6時間を個人的な仕事に当てるべきです。6時間を社会への奉仕に、6時間を睡眠に当てて、残った6時間を、ジャパ、瞑想、ヨーガといった霊性修行に当てるべきです。中には、神のことを想う時間がないと言う人がいますが、彼らは日常的な物事のために、何時間もの時間を無駄 にしています。もし神を想わなければ、人生は意味を失ってしまいます。肉体は、時間を正しく活用するために与えられているのです。肉体は、神聖な活動のために使われて、初めて神聖化されます。肉体と時間と責任の関係を理解しなければなりません。たとえ一瞬たりとも、時間を無駄 にしてはなりません。ラーマクリシュナ・パラマハンサは、いつも朝から晩までカーリー女神を黙想していました。一日が終わって床に就く前、ラーマクリシュナは、「母なる神のダルシャンが得られないうちにまた一日が過ぎてしまった」と悲しみました。そしていつも、「おそらく私が、まだ神の恩寵をいただけるほどには成熟していないのだ。熟れていない果 物を食べても意味がない。だから、心を成熟させて、母なる神に捧げよう」と考えました。これは真の霊性修行の霊妙な真髄です。

 生徒は、試験を受けなければ、上の学年に進級することができません。人々は、試験に合格して面 接を受けなければ、職に就くことができません。同様に、神は帰依者の幸福と進歩のためにテストをします。テストは神の趣味です。絶えずナーラーヤナ神の栄光を歌っていたナーラダでさえ、ナーラーヤナ神のテストの対象になりました。

 ナーラーヤナ神は言いました。
「ナーラダよ、そなたは私の創造の神秘を理解しようと試みたことがあるか? 私は五元素を創造した。宇宙のすべては五元素でできている。五つの元素のうち最も重要なのはどの元素か?」

ナーラダは答えました。
「神様、どうして私にそれがわからないことなどあるでしょうか? 私はこの宇宙に存在するすべてのものを見てきました。もし私にその真理がわからないとすれば、私以外の誰にそれがわかるでしょう?」

するとナーラーヤナ神は尋ねました。
「五つの元素のうちで、どれが最も重要か?」

ナーラダは答えました。
「水が最も重要です。というのは、地球の四分の三は水に覆われているからです。大地は地球の表面 のわずか四分の一を占めているにすぎません」

ナーラーヤナは次のように言いました。
「しかし、聖者アガスティヤは海の水を一息で飲み干してしまった。そうであれば、アガスティヤのほうが偉大ではないか? それとも水か?」

ナーラダは答えました。
「おおせの通 りです、神様。アガスティヤのほうが水よりも偉大です」

ナーラーヤナはもう一度尋ねました。
「しかし、そのアガスティヤも、天空(空元素、アカーシャ)の中の小さな星にすぎないではないか? そうであれば、偉大なのは星か、それとも、空か?」

ナーラダは答えました。
「空のほうが偉大です」

ナーラーヤナ神はそれに同意して言いました。
「そなたの理解は正しい。誠に空の方が偉大なのだ。ところで、神は、ヴァーマナ〔小人、しょうじん〕の姿をとって化身したとき、三歩でまたぐことのできるものが欲しいとバリ王に求めた。そして、三歩分の贈り物を確保する過程で、ヴァーマナはトゥリヴィクラマ〔三界を三歩でまたぐ巨人〕の姿をとって、地球全体を一またぎにしてしまった。そして、地球から天に到るまでの空間を次の一歩でまたぐと、三歩目の足を置く場所がなくなってしまった。バリ王は、三歩目の場所として自分の頭を差し出さなければならなくなった。では、偉大なのは神のほうか、それとも空か?」

ナーラダは答えました。
「スワミ、神がただの一歩で空全体をまたぐことができるなら、神の全身は、さらにどれほど大きいことでしょう? 本当に偉大なのは神のほうです」

ナーラーヤナ神は尋ねました。
「全宇宙を包み込む神は、帰依者のハートの中に閉じ込められてしまう。さて、そうであるなら、大きいのは帰依者のハートか、それとも神か?」

ナーラダは答えました。
「本当に大きいのは帰依者のハートである、と言わざるを得ません」

 それに対して、ナーラーヤナ神はと言いました。
「私は、そなたらのハートに住まう者である。私は、そなたらのハートの中に囚われている身である。私には自由はなく、私の帰依者たちの望みと共に動かなければならない」

しかし、神の働きや活動を定めることのできる人はいません。神の行動に関するそのような疑問は不毛です。すべてに神が浸透しているとき、神にできないことが何か一つでもあるでしょうか?

 神の行動にとって、時間、場所、距離、複雑さは、一切障害になりません。神を制限したり、妨害したりすることのできる生き物は存在しません。神にはまったく私心がありません。神の行動は、あなたがそれを快く感じようが、不快に感じようが、すべて神聖です。学生たちは、時々混乱することがあります。彼らは、「スワミが神であるならば、神がこんなことをするだろうか? あんなことをするだろうか?」と感じるのです。どうして皆さんが、神が何をすべきかを決めることなどできるでしょう? 神の力を疑う権威を持つ人は誰もいません。一切に関して、報酬を与えるべきか、罰すべきか、守るべきか、破壊すべきかを決定するのは、神のみです。

ヤダー ヤダー ヒ ダルマッスヤ グラーニルバヴァティ バーラタ
アッビュッターナマダルマッスヤ タダートマーナム スルジャーミャハム

〔ダルマが衰えアダルマが増すとき、私はダルマを確立するために化身する〕

  神は時代から時代へと生まれ変わり、ダルマが衰退するときはいつでも、悪を滅ぼし、正しき者を守ります。真理は支持されるべきであり、非真は滅びるべきです。ダルマ(法)は守られるべきであり、不法は滅びるべきです。

 皆さんはマーケットにマンゴーを買いに行きます。丸ごと一個のマンゴーを買うためにお金を払ったからといって、皮や種を食べる人はいません。それと同じことで、善いものだけを受け入れて、捨てるべきものは受け付けないようにしなければいけません。善いものを受け入れて、汚いものを取り除くのは、人間の本性です。

 スワミは人間の体を持っています。あなた方も皆、同じです。どうすれば一体性の原理(アドワイタ、不二一元論、ふにいちげんろん)の原理を説明することができるでしょう? この唯一性の原理には三つの形があります。実質の一体性と、物質の一体性と、行動の一体性です。この木綿の布〔ハンカチ〕は一つの品物です。この布には糸が含まれています。糸は綿でできています。木綿をより合わせて糸を作り、木綿糸を織り合せると、木綿の布が得られます。この布を解けば、糸も木綿もばらばらになります。このように、異なった形をした物質が組み合わさって、単純な品物が作られます。これはある種の一体性であり、物質的一体性と呼ばれます。名前や形が異なっていても、万人の肉体の実質(五元素)は同じであり、肉体には五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)が行き渡り、誰の中の五つの生気(プラーナ、アパーナ、ヴィヤーナ、ウダーナ、サマーナ)も皆同じです。皆さんがどこにいても、身体は五つの元素だけで成っています。どこにも六番目の元素は存在しません。

肉体は背徳の住処であり、病気に満ち、絶えず変化し続けている
どうしてそれが輪廻の海を渡ることなどできるだろうか? 
おお心よ! 間違いなくこの肉体は移ろいゆくものである
心を神の御足にしっかりと落ち着けて、神に全託するがよい

  肉体から五元素を取り去ると、肉体は存在しなくなります。いったん生命が去ってしまえば、肉体は埋葬するか焼却するしか使い道がありません。五つの元素は解体されて元の姿に戻ります。ですから、肉体が消滅する前に、内なる神性を体験するための、あらゆる努力をしなさい。肉体を通 してしか神性を体験することはできません。したがって、肉体を正しく管理しなければなりません。肉体はカルマクシェートラ(行為の場)であり、ハートはダルマクシェートラ(正義の場)、神性はブラフマクシェートラ(神の場)です。ハートに祀られた神がブラフマクシェートラです。ですから、あなたが純粋なブラフマクシェートラを理解するためには、ダルマクシェートラである自分のハートを浄化する必要があります。カルマクシェートラ(クル クシェートラ)もダルマクシェートラも、同じ体の中にあります。『バガヴァッドギーター』が、「ダルマクシェートレー クルクシェートレー」〔ダルマの地、クルクシェートラ(カルマの地)に〕という言葉で始まるのはそのためです。心に浮かぶすべての想いもまた、カルマクシェートラに関係しています。このように、カルマとダルマに関するすべての活動が、ダルマクシェートラとカルマクシェートラを包含している同じ肉体の領域の中で行われるのです。神が介入して、ダルマクシェートラとカルマクシェートラ(クルクシェートラ)を分離します。明確な認識力を備えた人は、ダルマとカルマを識別 することができます。

 世の中で、神に到達することほど容易なことはありません。皆さんは、この真理を理解しないので、困難に遭遇し、落胆するのです。皆さんは昨夜、学生たちの演じた劇を見ましたが、その中で、ビジネスマンが政府から営業許可証を発行してもらえずに泣いていました。そのような世俗的な物事のために涙を流す代わりに、神の姿を見ることを求めて泣き叫んではどうですか? あるとき、ヴィヴェーカーナンダがラーマクリシュナ・パラマハンサに、神を見たことがあるかどうかを尋ねました。ラーマクリシュナ・パラマハンサは、力強く答えました。「もちろん私は神を見たよ。私がお前を見、お前が私を見ているのと同じように、私は神を見たのだ。」「では、私が神を見ないのはなぜでしょう?」とナレーンドラ(ヴィヴェーカーナンダ)は尋ねました。それに対して、ラーマクリシュナは完璧な答え方をしました。「お前は家族のために涙を流し、事業や富のために苦しい思いをしている。しかし、神の姿を見たいと涙を流したり、切に願ったりすることがあるかね? そのように熱烈に神を求めてごらん。そうすれば、間違いなく神を見ることができるのだ! 私はどんなときにも神の姿のみを求めて心を焦がしている。だから私には、いつも神の姿が、すべての人々の中に見えるのだ。」私たちが生まれた目的を、他のすべてを犠牲にして達成しなければなりません。だからこそヴェーダは、「ナ カルマナー ナ プラジャヤー ダネーナ ティヤーゲーナィケー アムルタットワーマーナシュフ」 〔不滅は、富や子孫や行為によってではなく、犠牲によってのみ得られる〕と述べているのです。

  私たちは、息を吸います。もし息を吐かなければ、肺は正常に機能することができません。私たちはものを食べます。もし排泄をしなければ、腹の調子がおかしくなります。同様に、私たちの循環器系統の中で、血液は毎日大変な距離を移動しています。この経路の中のどこか一箇所で、少しでも通 り道がふさがれるようなことがあれば、血の固まりができます。血液の流れは体内でできた様々な毒素を取り除く役割を果 たし、毒素を対外に排出するのを助けます。身体から不健康な物質を取り除かない限り、健康を保つことはできません。犠牲には満足が伴います。実際、犠牲には至福が伴うのです。今日の実利主義の人々は、犠牲の有用性を疑問視します。人々はあまりにも自分のことばかりで、飢えている物乞いに一握りの食べ物を与えることすらしていません。飢えた人の空腹を満たすことができたとき、私たちはどれほど大きな幸せを味わえることでしょう! お腹を空かせた人に食物が与えられるとき、あなたは喜びを感じずにいられるでしょうか? 人間社会に心の狭い利己主義がはびこっています。

  先日ムンバイで、インドラル・シャーとケーキ博士とスワミが、ダルマクシェートラから市内に移動していたときのことです。そこに一人の物乞いが近づいてきました。インドゥラル・シャーが、その物乞いに二ルピー札を渡しました。物乞いは、彼にお札を投げ返し、「そんなものではパンの一個も買えやしない」と言いました。物乞いでさえ、惜しげもなく二ルピー札を捨てることができるのです。それが今の社会の状態です。お金は基本的な価値を失っています。お金ばかりでなく、人間の命さえも、今日の社会ではわずかな価値しかありません。人々は大変な苦労をして、富や、快適さや幸福を獲得しようとします。そのためには自分の命を危険にさらすことすらあります。事故や災害で誰かが死ねば、亡くなった命に対する償いとして、政府から何ルピーかのお金が支給されます。命の価値は何ルピーかでしかないのでしょうか? 命はそれほど安くなったのでしょうか? いいえ、そんなことはありません。人間の命は、お金よりはるかに大きな価値があります。肉体が死んでも、生命原理が完全に失われてしまうわけではありません。

  人々は、あらゆることに近道を求めています。霊性に関しても例外ではありません。しかし、実際、神に至る近道はあります。様々な場所をさまよい歩く必要はありません。神はあなたのハートの中に住んでいるのです。目を内側に向けなさい。そうすれば、すぐに神を見ることができます。これが最も易しい道です。神はどこにいるでしょう? 神はあなたの中に住んでいるということを完全に信じなさい。自分は神の一部だと絶えず自分に言い聞かせていれば、必ずあなたは神になります。反対に、自分は神とは別 個の存在だと感じていれば、あなたはいつまでも神から遠く離れたままです。休暇を返上する必要はありません。社会での自分の仕事を果 たし続けなさい。ただ、自分本当は神であるということを、いつも覚えておきなさい。帰依者が社会で自分の仕事を果 たすのに苦労しているときには、神自身が介入します。皆さんは、ゴーラ・クンバル〔陶工だった聖者〕やカビール〔織物工だった聖者〕の物語を知っているしょう? 二人が不可能な仕事に直面したとき、、神自身が人の姿をとって、二人の代わりに壷作りや布織りの仕事をして助けました。神は思うままの姿をとることができます。それゆえ、神は、ヴィラート スワルーパとして知られているのです。リグヴェーダの「プルシャスークタ」は、ヴィラート スワルーパの説明をするのに、

サハッスラシールシャー プルシャハ
サハッスラークシャッ サハッスラパート
〔神は千の頭と目と手足を持っている〕

  と述べています。ヴィラート プルシャは無数の手足を持っています。

 神から愛されるのにふさわしい人間になりなさい。そうすればあなたは何でも手に入れることができます。これは、ニシカーマ プレーマ(無私の愛)によって初めて可能になります。自我そのものには愛はありません。愛には私心がありません。無私の愛を養うことによって、あなた自身が神になります。神は分割できない存在です。「アドワイタ ダルシャナム グニャーナム」(不二一元を見ることこそ真の英知である)と言われているのはそのためです。

 信仰心を育て、それを堅固なものにしなさい。信仰心には、むらがあってはなりません。もしそのような心の揺れを許してしまえば、自分がそれまで持っていた信仰心すら失ってしまうことになりがちです。揺るぎない信仰心があれば、結果として、ブラフマアーナンダ(神の歓喜)を得ることになります。肉体で体験する幸せは、人間の幸せ(デーハアーナンダ、肉体の歓喜)です。心(マインド)で感じられる喜びは、チッタアーナンダ(理性の歓喜)です。心が消滅したとき、喜びはハートの中で感じられます。ハートが経験する喜びはチダアーナンダ(ハートの喜び)であり、それは心の喜びとは比較にならないくらい大きいものです。それと同程度の比率で、心の喜び(チッタアーナンダ)は肉体の喜び(デーハアーナンダ)よりも大きなものです。人は、これらの歓喜を獲得する機会を不必要なまでに失っています。ブラフマアーナンダを手に入れるまで、一歩一歩段階を追ってこれらの歓喜を獲得していかなければなりません。

  このようにして、個人的な至福をブラフマアーナンダの普遍的な至福に融合させます。普遍的な至福は永遠に変わることがありません。それは、ニッティヤアーナンダム(永遠の至福)等々とサンスクリット語で詠われている至福です。私たちは、この至福を味わわなければなりませんが、それはサット チット アーナンダに他なりません。サットは存在であり、永遠のものです。チットは完全な知識、すなわち全知です。この二つが結び付けられたとき、完全なる至福であるサット チット アーナンダが顕現するのです。すべての人にサットとチットとアーナンダが存在しており、それゆえ、神はサット チット アーナンダの姿で万人に内在していると言われています。ですから、何の霊性修行も行う必要はありません。また、あなたが何らかの霊性修行をしているとすれば、それをやめる必要もありません。しかし、いかなる場合であれ、あなたのハートを神に全託しなさい。これはシャラナーガティ(全託)と呼ばれます。

  あるとき、ラクシュマナがラーマに、「私の富も家族も持ち物も、私の体を使った奉仕も、すべてラーマに役立ててもらうためにある」と言ったことがあります。するとラーマは言いました。
「私はそのようなものは必要ない、そんなものをもらっても、何になるだろう? それよりも、ただお前の思考と言葉と行いとハートを清めなさい。そうすれば天国を体験できるだろう」
幸福は天国そのものであると言われています。幸福は、感覚を制することによって得ることができます。「プラシャーンティ ニラヤムで天国そのものを体験することができる」と言う人がたくさんいます。その幸福はどのくらい持続するでしょうか? それは、あなたがこの場所を離れたとたんに消えてしまいます。本当の天国はあなたの中にあります。これはまた、不滅の命とも表現されています。不滅の命とはどういう意味でしょう? 肉体はいつか滅びますが、生命原理は不滅です。不滅の命を得たいと思うのであれば、神に完全な愛を捧げることです。それは無条件の愛でなければなりません。愛にはいかなる条件もあってはなりません。それはちょうど金細工の職人のところに金の塊を持って行き、自分の好きなデザインで装飾品を作ってもらうようなものです。あなたの仕事は、金の塊を職人に預けて、装飾品の重さとデザインを指定するだけです。職人がどのようにしてその金の塊をあなたの希望通りの装飾品にするかに関しては、あなたが口出しをする余地はありません。もしあなたが、火で焼いてはいけないとか、ハンマーで叩いてはいけないといった条件を付けはじめたら、どうやって注文した装飾品を手に入れることができるでしょう? それと同じことで、神に対するあなたのハートの全託が条件付きのものであったなら、どうやってあなたの望む至福が得られるでしょう? いったん完全な全託がなされれば、神はあなたに分相応の至福を与えるでしょう。それまでの間、神があなたの全託に対して何をするかは、神の領分です。様々な条件でいっぱいの愛であれば、結果として、 あなたの体と心は嘆かわしい状態に陥るだけです。ですから、無条件の全託のハートで神に祈りなさい。あなたの体、心、理知など、あなたが持っているものすべてが神の贈り物であるというのに、あなたが条件を付ける必要がどこにあるでしょうか?

 勇敢でありなさい。恐れに左右されることなく人生を送りなさい。周囲の人の意見や助言に影響されて、自分の良心に反する行動をしてはいけません。中には、家庭にいるときは敬虔に額にヴィブーティ〔神聖灰〕を着けていながら、一歩家を出るときは拭い取る人がいます。また中には、自分たちがプラシャーンティ ニラヤムに来ていることや、アナンタプールに行っていることを友人に言うことさえ恥ずかしく思っている人がいます。どうして他人の意見を心配する必要があるのでしょう? ここに来ることに、何か悪いことでもあるのですか? 皆さんは実に様々な過ちを何の恐れもなく犯しています。そうであるというのに、自分が神に会いに行くということを人に言うのを、どうして恐れる必要があるのでしょう? 神への信仰を表明することを決して恐れてはなりません。勇敢に名乗り出なさい。最近の人々は、文化的習慣や霊的習慣を実践することや、善い行いをすることを、恐れたり恥ずかしがったりします。

(ここでスワミは、絶えず恐れにさいなまれている人々の惨めな有様を表現した、テルグ語の歌をお歌いになりました。)

 恐れを捨てて至福のうちに生きなさい。世俗的な生活に携わることによって、あなた方は臆病になり、霊的な生き方を忘れてしまいました。あなたが神と共にあるときに体験する至福を、言葉で表すことはできません。言葉や思考は、そうした体験を表現することができず、何の役にも立ちません。皆さんは、そうした聖なる至福のうちに日々を送らなければいけません。それこそが本当の人間の生活です。人間として生まれたからには、動物のような生き方をして人生を無駄 にすべきではありません。食べたり、飲んだり、子供を作ったり、眠ったりすることは、人間にも動物にも共通 のことです。人間と他の生き物とを区別するものは何でしょう? 人間は、英知を持つ能力を有している唯一の生き物です。英知のない人間は、動物より優れているとは言えません。人間のレベルで生きる段階からさらに進んで、神に到達するために努力をしなければなりません。幾つかの生き方のレベルがある中で、魔物のレベルは低いところにあって、次に動物レベル、その上に人間レベルがあり、最後が神のレベルです。そのような神の生き方が、あなたの手が届くところ、あなたの目に見えるところにあるとき、どうして恐れる必要などあるでしょう? こういった意味において、決して恐れてはなりません。同僚に影響されて間違った道を歩くようなことがあってはなりません。

 先日、バガヴァンは、皆さんが勉強すべき書物について話しました。実際のところ、勉強する価値のある唯一の書物は、この世界そのものです。世界こそが、皆さんが必要とするすべてのものが書かれている唯一の書物です。この書物は、読み終えたら捨ててしまいなさい。

 霊性に関しては、次のような三つの原則が説明されています。

1)肉体に頼り切ってはいけません。いつ何が起きるか、あなたには判らないからです。
2)外側の世界を頼ってはいけません。
3)決して神への信仰を手放してはなりません。

あなたがこの三つの原則を十分に意識していれば、何でも達成することができます。

あなた方に向けた今日のスワミのメッセージは、「スワミはあなたであり、あなたはスワミである」ということです。実際、スワミはあなたと別 個の存在ではありません。

 誰が皆さんをここに招待したのでしょう? 皆さんは誰もが、スワミへの愛があるからここに来たのです。その愛のみによって、あなた方、何十万人もの人々がここに来たのです。バガヴァンはここにいて、あなた方に連れて帰られるのを待っています。自分の好きなようにスワミを連れて帰りなさい。スワミは完全に、バガヴァンを心から愛する人のものです。バガヴァンが皆さんに望むものは、皆さんの心を込めた無条件の愛のみです。この真実を心に留めて、愛に満ちた人生を送りなさい。これを、スワミから皆さんへの贈り物として受け止めなさい。いかなる人をも憎んではなりません。誰を憎んでも、神自身を憎むのと同じです。あなたの存在それ自体と、あなたの一切の持ち物を神に全託しなさい。混じり気のない神の至福を経験しなさい。

学生諸君!

 勤勉に勉学に励みなさい。試験でよい成績を収めなさい。自分が選んだ適切な分野でよい仕事に就いて、母国に仕えなさい。スワミは、諸君が職業に就いて働くことも、結婚することも、勉強や仕事のために外国に行くことも、止めはしません。自分の好きなところに行きなさい。どんな職業であれ、働きなさい。それは諸君の宿命です。しかし、決して神を忘れてはなりません。諸君が何をしても、ハートの内なる神と共にするならば、スワミはそれを喜びます。神を忘れることは、諸君が自分自身を忘れることに等しいのです。

 神を探してさまよっている人は、愚かな人です。この世に、自分自身を探し求めてあちこち歩き回る人がいるでしょうか? もしあなたが誰かのところに行って、「私がいないのですが、どこにいるのでしょう?」と尋ねたとしたら、あなたは即刻、精神病院に入れられることでしょう。あなたは神であり、神はあなたなのですから、神を探す必要などどこにあるでしょう? 神を探し求めるという表現は、不毛な学問をする学者が発明した表現です。そのような表現は必要ありません。この世の事物を探してもかまいませんが、神を探しに出かけてはなりません。なぜなら、神はあらゆる所にいるからです。あなたがこの信心を持っていれば、どこを見ても神を見ざるを得ません。そして、間違いなく至福を味わうことになります。信仰心を強めなさい。

 (バガヴァンは「ハリ バジャナ ビナ スカ シャーンティ ナヒン」(神の栄光を歌わなければ人に平安と幸福はない)というバジャンで御講話を終えられました。)

 

訳:サティヤ サイ 出版協会
英文: http://www.sathyasai.org/discour/1999/d991123.html/

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