サイババの御言葉

2010年ババ様御降誕85周年記念サティヤ サイ プレ世界大会用
日付:2000年5月23日・場所:プラシャーンティニラヤム
夏期講習の 「God is」(神がいる) に関する御講話@

神は純粋な至福

最高の至福の権化、超越的な幸福の権化
超越的な知の権化、二元性を超越した者
永遠の至福にある者、唯一性の権化
至高なる者、永遠なる者
けがれなき者、つねに不変なる者
永遠の照覧者

リグヴェーダの「アーナンダヴァッリー」の一部に、ブラフマーナンダすなわち「最高の至福」に関する美しく詩的な言及があります。ブラフマーナンダとは、限りなく、言葉での描写をはるかに上回る至福を指しています。また、ブラフマーナンダは、通常の心では理解できないものでもあります。人は、穏やかで、純粋で、高潔で、徳高く、平和な、穢れない生活を送っていない限り、ブラフマーナンダを理解することも、体験することもできません。最高の至福は、物質的で世俗的ではかない世界を超越しています。

束の間のよろこびから神の至福へ

我らが古代人たちは、体験し得るさまざまな歓喜と幸福を分類しました。その最も下の種類は、マーナヴァーナンダで、これは人間が日常生活の中で味わう喜びのことを指しており、この世の物や存在や事柄に関係しています。その千倍大きなものが、ガンダルヴァーナンダすなわち「天界の存在」が味わう幸福です。ダイヴァーナンダは、その次に高い水準の幸福で、ガンダルヴァーナンダの千倍大きいものです。これはデーヴァすなわち「半神」の味わう歓喜を指しています。ダイヴァーナンダよりもさらに大きなものが、ブルハスパティアーナンダ、すなわちブルハスパティというデーヴァの師たちが味わう至福です。その千倍大きなものがプラジャーパティアーナンダ、すなわち、プラジャーパティ(古代インドの聖典では、プラジャーパティは創造の実際的な側面に関わるものとされる)の味わう歓喜です。ブラフマーナンダは、プラジャーパティアーナンダより千倍大きなものであり、尺度の限界内で測れる最大の歓喜です。人間が切望し、通常それで甘んじているマーナヴァーナンダと、人間が本当に求めるべきブラフマーナンダの間を、どれほど巨大な溝が隔てているかがわかりますね。

人は、ブラフマーナンダという言葉を、それが実際はどういう意味をもつかについてわずかな考えもなしに、かなり気安く使っています。そのため、あらゆるささいな悦びが、いい加減にブラフマーナンダだと表現されています。たとえば、おいしい食べ物を食べると、その体験をブラフマーナンダムなどと表現しているのです。マーナヴァーナンダとブラフマーナンダの間をどれほど計り知れない溝が隔てているかを、人は理解していません。人が日常味わう悦びは、ブラフマーナンダのほんの小さなかけらですらありません。この世の悦びが言葉で表せるのに対して、ブラフマーナンダは言葉では表すことのができないということを、人はよくわかっていないのです。

サンディーパン・チャッテールジー(先にスピーチをした人物)は、神の愛と至福は、空間と時間の限界を超越しており、さらには、時季と理由さえ超えていると述べました。確かに、アーナンダは、いかなる時にも、いかなる状況の下でも、アーナンダです。ブラフマンとアートマは同意語ですから、ブラフマーナンダは、アートマーナンダとも呼ばれ得ます。最高の至福は、まさしく真我の至福と同一です。実際、アーナンダは、まさにブラフマンすなわち「神」の別名にすぎません。人がたいそう夢中になっているこの世の幸福は、ブラフマーナンダやアートマーナンダの莫大ばくだいさと比べれば、微々たるものです。

皆さんは、空気はどこにでもあり、特定の形はないということを知っています。ですが、無形でどこにでもある空気も、風船に入れられると、形――(膨らんだ)風船の形を得ます。風船を膨らませ続けていると、風船が破裂してしまう段階が来ます。すると、風船の中の空気は外の空気と混じり合い、再び無形で莫大なものとなります。閉じ込められた限られた空気と、莫大で自由な空気との間には、何と大きな違いがあることでしょう! マーナヴァーナンダと呼ばれる小さな粒と、ブラフマーナンダという無限なるものとの比較についても同様です。

幸福を体験するための能力は、神からのたくさんの贈り物のうちの一つです。しかしながら、限られた視覚のせいで、人は幸福を享受するための自分の能力を最低限しか使っていません。人はいつもただのマーナヴァーナンダに甘んじがちです。これはいけません。風船が破裂して、中に入っていた空気が外の空気と混ざり合うように、人は人間の束縛から脱け出して、ブラフマーナンダのレベルに上昇しなければなりません。

ブラフマーナンダは神の名前のうちの一つです。ブラフマーナンダは、神はつねに最高の至福の状態にあるという見解を伝えています。つまり、至福は神の姿であり、それゆえ、至福はブラフマーナンダと呼ばれる神なのです。こうした御名は他にもたくさんあって、〔この講話の〕初めに述べたものがそれです。その一覧で次に来るのは、

パラマ スカダム

で、これは「真の法悦」を意味します。このスカム〔スカ〕(幸福や法悦)とは何でしょう? それは体と結び付いたものなのでしょうか? それは肉体的なものなのか、感覚的なものなのか、それとも知的なものなのでしょうか? スカムはそのどれをも超越しています。我らが古代人たちは、「タスマイ ナマハ」と言いました。この意味は、「私は幸福の化身なるお方に敬礼を捧げます」というものです。古代人たちは至高の法悦を描写しようとはしませんでしたが、神がまさにその化身であることを知っていたのです。そのため、古代人は神をパラマ スカダムと呼んで称賛したのです。神は幸福の権化であり、空間と時間、そして、人間の理性の限界も超えています。もし、人がパラマ スカダム、すなわち「超越的な至福」を描写するとしたら、ただ言えることは、それは肉体的なものではなく、理解可能な形もないということです。甘露には外観があり、その味は描写が可能です。けれども、パラマ スカダムは形と言葉の両方を超越しています。神は永遠の至福である――これ以外、何と言えるでしょう? 神は、称賛と非難、〔世俗的な〕歓喜や悲哀といった、あらゆる対極による影響をまったく受けません。神はつねに幸福至極です。

ケーヴァラム グニャーナ ムールティム

ケーヴァラムとは、「空間と時間と状況を超越しているもの」を意味します。グニャーナは知を意味します。よって、グニャーナ ムールティムは「知の化身」という意味です。それはどのような類の知でしょうか? 本から得られるものでしょうか? 物質界と結び付いたものでしょうか? ヨーガの行によって得られるものでしょうか? グニャーナはこうしたタイプのものではありません。グニャーナは至高の超越的な知であり、この世を超越し、空間と時間を超越し、状況をも超越しています。グニャーナは、ブラフマグニャーナ(ブラフマンの知識)やアートマグニャーナ(アートマの知識)としても知られています。グニャーナは永遠です。世俗的な知識が本から得られ、誰々は誰々よりも優れているとか、誰々は知識が浅いなどといって学者を比べることができるのに対して、ブラフマグニャーナは完全であり、教科書的、学術的知識を超えています。

神のみがグニャーナの化身です――実際、神はグニャーナそれ自体です。ブラフマグニャーナは永遠であり、完全で遍在です。ブラフマグニャーナは真我の知識です。真我はあなたの内にあるのですから、真我の知識も同様にあなたの内にあります。皆さんは、本当の自分を悟った瞬間に、真我の知識を得ます。真我の知識の取得は、至高の知を与えてくれます。真我の知識は最高の至福も与えてくれますから、ブラフマグニャーナの取得は、あなたを自然にブラフマーナンダとパラマ スカダムの状態へと上昇させてくれます。

ドヴァンドヴァーティータム

ブラフマーナンダと称される状態には、ドヴァンドヴァーティータムという別名があります。ドヴァンドヴァーティータムは、苦と楽、善と悪、称賛と非難、徳と罪といったあらゆる二元性を超越した状態です。完全なる唯一性という無比なる状態です。ヴェーダは述べています。

エーカム サット ヴィップラーッ バフダー ヴァダンティ
〔真理は一つ、しかし、賢者はそれをさまざまな名前で呼ぶ〕

(リグヴェーダ1巻164讃歌16節の一部)

真理は一つであるにもかかわらず、学者たちはそれをさまざまに描写します。真理は一つであり、二つはない――これがドヴァンドヴァーティータムの含意です。これは、ブラフマン、すなわち「神」は、人間が囚われている二元性を際限なく超えていることを意味しています。

次は、

ガガナ サドルシャム

です。これは「空のようである」という意味で、最高の至福は空気のようなものであり、かつ遍満しているのです。ガガナ サドルシャムという名前で呼ばれる者は誰でしょう? もちろん、神です! 実際、スワミがこれまで述べた言葉、つまり、ブラフマーナンダム、パラマ スカダム、ケーヴァラム グニャーナ ムールティム、ドヴァンドヴァーティータム、そして、このガガナ サドルシャムは、すべて全能の神の御名です。

タットワマッスヤーディラクシヤム
〔タットワマスィという大格言によって示される者〕

四つのヴェーダは、四つのマハーヴァーキャ〔大格言〕すなわち根本的な真理を宣言しています。四つの宣言とは、

  1. 「プラグニャーナム ブランマー」〔至高の知は神である〕、すなわち、神は純粋な意識です。

  2. 「アヤム アートマ ブランマー」〔この真我は神である〕、これは、アートマ(真我)とブラフマン(神)は一つであるという意味です。

  3. 「アハム ブランマースミ」、これは、私は神であるという意味です。

  4. 「タット トワム アスィ」〔タットワマスィ〕、これは、なんじはそれであるという意味です!

四つの宣言はすべて、同じことを暗示しています。つまり、神がいるのみであり、それゆえ、人は神であるということです。四つの宣言は神性の一体性を強調しているのです。それゆえ、神は、タットワマッスヤーディラクシヤム、すなわち、〔完全な一体性を表す〕究極のゴールであると描写されているのです。

この後は、

エーカム、ニッティヤム、ヴィマラム、アチャラム

です。この四つの言葉もまた、神の名前です。エーカムは「一」という意味です。この広大な宇宙のすべては、ただ神のみなのです(もっともそれは「変装しているもの」でしょうが)。しかしながら、人は物理的な外観に心を奪われています。そのため、人は多様性のみを知覚、体験し、その根底にある神聖な一体性を完全に見落としているのです。人が見ている多様性は、まったく物理的で表面的なものです。人が多様性しか見ていないのは、人の視覚と見解の両方が完全に世俗的で外向きだからです。

あなたが数字の1を持っているとしましょう。次に、その隣に0を加えます。そうすると、それはあなたが10と呼んでいる数字になります。次に、もう一つ0を加えると、それは100になります。さらに0を加え続けていくと、どんどん大きな数になっていきます。それは100、1,000、100,000等々となります。そのようにして、単なる0の連なりによって、百万や一兆、等々と数字を増やすことができます。1に0を足していくだけで、天文学的な数字を得ることができるのです。1を取り除くと、残るのはただの0の連なりだけです! たくさんの0があるかもしれませんが、それには何の価値も含まれていません。ところが、その0の連なりの前に1という数字を置くと、それは価値のある数字になります。この0こそが、そのまったくの違いを作っているのです! この宇宙において、1は神であり、神の御名のうちの一つがエーカムなのです。あなたが神を呼ぶのにどんな名前を選ぼうとも、神にどんな姿があると思いたがろうとも、神はただ一つです。

次はニッティヤムで、これは「永遠」という意味です。神は永遠であるのみならず、不変でもあります。神は、過去、現在、未来という三つの時期のすべてに、三界のすべてに、さらに、三つのグナ(サットワグナ、ラジョーグナ、タモーグナ)すべての存在下において、永遠不変であり続けます。神のこの恒久性は、聖典において、神はトリカーラム(三つの時期)、トリローカム(三界)、トリグナム(三つのグナ)を超越している、と描写されています。それゆえ、神はニッティヤム、ニッティヤム、ニッティヤムです!

この後は、ヴィマラム――「純粋さ」です。今、いたるところに不純物の混合と汚染があります。空気と水は汚染されています。食べ物も、不純物が混合され、汚染されています。さらに深刻なのは、人の心自体が汚染されていることです。その一方で、神は完全な純粋さの権化です。神はまったく穢れなく、水晶のように澄みきっていて、原初のままに純粋です。

アチャラム、これは「一定で揺れ動かない」という意味です。五大元素でできている一切の物や存在は、時間による変化をまぬがれません。実際、変化はそれらの性質に固有の一部です。太陽は時間と共に変化し、月も同様です。星もまた時間と共に変化します。地球はいつも動いています。皆さんは、映画では一秒に16コマ変わることを知っているでしょう。宇宙では、いつでも、どこでも、万事において、変わります。一方、神はアチャラム、すなわち一定で普遍です。

チャラナム アチャラメーヴァ チャ
〔動でもあり、つねに不動でもある〕

神は、疑いなく一定不変ですが、変化を免れないものにも内在しています。それでも、普遍であるということは絶対者の基本的な性質であり、神はアチャラムとして知られているのです。

サルヴァディー サークシブータム

これまで述べた名前に加えて、神は「永遠の目撃者」とも呼ばれています。神は、すべての物事、すべての時間の目撃者です。

人が付けたものではない神の御名

昔の敬虔で気高い聖賢たちは、神にたくさんの名前を付けました。神性を体験することを切に望んで、聖賢たちは世俗的で物質的なものすべてを犠牲とし、厳しい苦行を重ねました。内なる思いに誘導されて、聖賢たちはそれぞれ自分が選んだ属性や姿を神のものと考えて、その概念に合った名前を神に付けました。実際には、神は無形であり無名です。神に関するすべての描写は、昔の聖賢たちによるものです。しかしながら、ブラフマーナンダム等々といった神の名前は、世俗的な描写や物理的な描写とは関係ありません。それらはそのすべてを超越しており、もっと優れた次元と関係しています。その次元では、神は一般的で概念的なすべての描写を超えています。神はあらゆる二元性を超えた至高者であり、

ブラフマーナンダム、パラマスカダム、ケーヴァラム グニャーナムルティム、
ドヴァムドヴァーティータム、ガガナサドルシャム、タットワマッスヤーディラクシヤム、
エーカム、ニッティヤム、ヴィマラム、アチャラム、サルヴァディーサークシブータム、

と、描写されているのです。

神だけに、これらの栄光に満ちた名前のすべてを与えられる資格があるのです。

すべてを包括する神の御名の性質

あるとき、聖賢ナーラダは、ナーラーヤナ神の機嫌を取るために厳しい苦行をしていた幼いドゥルヴァを見かけました。ナーラダは尋ねました。

「ドゥルヴァ、おまえは幼い。おまえにそれほど厳しい苦行をすることが可能か? おまえはどうやって神を黙想するつもりだ? おまえはどんな姿の神を瞑想しようというのだ?」

こういった具合に、ナーラダはたくさんの質問をしました。ドゥルヴァはにっこりして言いました、

「ああ、聖者様、苦行をすべしというのは、神がお立てになった計画です。思いという種は神のおかげで若木になります。若木は神によって大きな木になります。そして、木に実をならせるお方も神です。僕は、まさにその神が僕の面倒を見て下さることをまったく疑っていません。僕はウパニシャッドも他の聖典も学んでいません。僕が知っているのは神の御名だけです」

するとナーラダは尋ねました。

「おまえは何という御名を唱えるのだ?」

ドゥルヴァはしばらく考えて、こう答えました。

「僕は、ゴーピージャナヴァッラッバーヤ ナマハ〔ゴーピーがいとおしむお方に帰命し奉る〕と唱えます」

ここでのゴーピーという言葉は、ブリンダーヴァンのゴーピカー〔牧女〕だけを指しているのではありません。ゴーパは、大地、ヴェーダ、言葉、牛を意味します。この四つの言葉の基となっている語はゴーです。ゴーピーとは、この四つの神聖な存在を崇めて世話をする者です。ゴーピーは大地を崇め、ヴェーダを育み、自分の言葉に忠実で、牛も守ります。要するに、ブリンダーヴァンのゴーピカーたちは、そのすべてを行ったのです。神は本来、どんな名前ももっていないのですが、さまざまな名前が付けられたのです。

ドゥルヴァはナーラダに言いました、

「僕はゴーピーのうちの一人です。僕は大地の一部で、ヴェーダの一部です。つまり、僕は主によって創造された多くのもののうちの一つなのです。誰が多くのものを守り、維持しているのでしょう? 神です。そのお方こそが、僕がこれを唱えながら礼拝しているお方です」

スワミは先日、こう言いました。

クリーム、クルシャナーヤ、ゴーヴィンダーヤ、ゴーピージャナヴァッラッバーヤ、スヴァーハー

皆さんは、クリームは地を意味するということを思い出すでしょう。クリシュナーヤ〔クルシャナーヤ〕は水を意味し、ゴーヴィンダーヤは火、そして、他の二つの言葉はそれぞれ風と空です。ですから、この五つの言葉は、まさに神の権化である五大元素を象徴しているのです。このように、五大元素の名前のうちのどれか一つを唱えることですら、神を呼んでいることになるのです。先に述べた五つの言葉はすべて神の御名であり、特にクリシュナやヴィシュヌやシヴァといった名前を唱える必要はないのです。ヴィシュヌやシヴァといった特定の名前を唱える流行が起こったのは、ヴァイシュナヴィテー〔ヴィシュヌ派〕やシャイヴィテー〔シヴァ派〕といった宗派が生まれた後です。この行は、人の心の視野を狭めるのみならず、不必要な論争をも助長します。神はどんな特定の名前ももっていません。

欲望から自由になって、完全な幸福に到達しなさい。

タスマイ ナマハ

これは短い挨拶で、「おお、神よ、最高の幸福の化身よ!」と、神を歓迎するものです。あなたが本当に幸せなのはいつでしょう? どんな心配事や不安もないときに、あなたはそう感じます。神には何も欲がなく、だから神はいつも幸せなのです。あなたもそのように、欲望をもたないよう努めてごらんなさい。そうすれば、あなたもいつも幸せでいられるでしょう。幸福を壊すものは、欲望と世俗的な期待をすることです。永続する幸福を得るためには、まったく欲望のない状態でなければなりません。あなたがこれを信じるかどうかはわかりませんが、スワミはどんな心配事もありませんし、それゆえ、いつも至福の状態にあります。スワミは自分のことは何も考えません。しかしながら、肉体の姿をもって降臨して人々と触れ合うという理由から、スワミは時たま、心配そうだったり、悩んでいるように見えたりするかもしれません。けれども、本当のことを言えば、スワミは欲望も心配も超えています。スワミは、誰からも、どんな時も、自分のためには何も欲しくはありません。スワミが欲するのは皆さんの安寧だけであり、いつでもそれがスワミの中で優勢な思いなのです。

自己満足の本当の意味

果物が食べたくなったとします。あなたが果物を欲しいと思うのは、自分のためでしょうか? それとも、果物のためでしょうか? いいえ、果物のためではありません。果物が欲しいのは自分が果物を味わいたいからです。すばらしい織物に心引かれたとします。あなたがそれを欲しいと思うのは、自分のためでしょうか? それとも、その織物に満足感を与えたいからでしょうか? 言うまでもなく、後者は当てはまりません。あなたが織物を欲しいと思うのは自分のためです。食べ物についても同じです。同じように、あなたがもっているあらゆる欲は、あなた自身を喜ばせるためのものです。あなたの中に何かあなたを操縦するものが存在していて、その操縦する力が高まるのです。なぜなら、あなたが意識している意識していないにかかわらず、自分自身のために満足を得ようとしているからです。しかしながら、そのほとんどの場合には、低次の自己が携わっており、そのため、人はそうした行いを自己中心的だと言い表すのです。霊性においては、高次の自己に焦点を当てなければなりません。すべての行いは、高次の自己、すなわち、真の自己〔真我〕を満足させようという願望から生じなければなりません。これが本当の自己満足です。内なる自己を満足させることを目指した行いは、世俗的な意味での自己中心的なものではありません。というのは、それらは世俗的な欲望や狭量きょうりょうな期待とはかけ離れたものだからです。

この内なる真の自己はアートマにほかなりません。そして、ブラフマーナンダはアートマに幸福をもたらすことと結び付いているのです。先に述べた名前以外にも、アートマは、パラマートマ〔至高我〕、パラートマ〔最高我〕、エーカートマ〔唯一我〕等々としても知られています。

神への旅は社会への無私の奉仕を通らなければならない

人は、ヴィヤシュティすなわち「個人」です。個人は、サマシュティすなわち「社会」の一部です。そして、社会は、パラメーシュティすなわち「神」の一部です。ヴィヤシュティはサマシュティを通ってパラメーシュティへと旅しなければなりません。個人は何らかの形で社会に携わり、無私無欲で社会に奉仕しなければなりません。もし、個性という名において社会との関わりを断ち、自分の個人的な大望等々を追い求めることを優先するなら、あなたは決して神と一つになることはできません! そのような利己心は、一体性の精神や唯一性といった神を表しているものに反します。ブラフマーナンダを体験することを切に望む者は、まず神への愛と、神と一つになることへの思慕を強めなければなりません。この思慕は、まず社会と一つになること、という実用語に言い換えられなければなりません。どうすれば社会と一つになれるのでしょうか? 無私の奉仕によってです。あなたが私心なく社会に奉仕するとき、すべては一つであることを実感しはじめるでしょう。

悟りは瞬く間に起こり得る

ヴェーダは宣言しています。

ヴェーダーハメータム プルシャム マハーンタム
アーディッティヤヴァルナム タマサッ パラスタート

(「プルシャスークタム」より)

古代の聖賢たちは人類に明言しました。

「おお、人よ! 我々は神を(人の内に)見た。神は自らの内に隠れる太陽の光輝をもっているが、(無知の)暗闇に横たわっている」

すると人々は尋ねました。

「どこで神を見たのですか? 内ですか、外ですか?」

これに対して、聖賢たちはこう答えました。

アンタルバヒシチャ タット サルヴァム ヴィヤーピャ ナーラーヤナッスティタハ

(「ナーラーヤナスークタム」より)

「神はあらゆる場所にいる、内にも外にも」

それから聖賢たちはこう付け加えました。

「人よ、そなたの内には神がいる。そなたは太陽の光輝をもっているが、無知の暗闇がその輝きを覆いつくしているのだ」

聖賢たちはあらゆる場所で神を見たのです。神が遍在である以上、至福は神の姿なのですから、至福もまたあらゆる場所に存在しているのです。神に欲望はなく、それゆえ神の状態はパラマ スカダム(最高の幸福)と描写されているのです。欲望がないなら、本当に人は永遠なる最高の幸福という、神がそうあるものを体験することができます。欲望の欠如は、神を最高の知識の権化ともならしめました。最高の知識は、最高の至福があるときにのみ存在します。二つは共にあります。ですから、最高の知識、最高の幸福、最高の至福――これらは皆、神の同意語です。これら神の側面は、因果の結果ではなく、神に本来備わっているものです。理性を超越している全能者は因果律を超えており、また、空間と時間も超えています。全能者はまた、状況にも縛られません。

一例があります。あなたは今、ブリンダーヴァンにいます。あなたは自分の部屋で眠っていて、カルカッタ〔コルカタ〕にいる夢を見ています。あなたはどうしてカルカッタに行ったのでしょう? どうやってカルカッタまで旅をしたのでしょう? 誰といっしょに行ったのでしょう? カルカッタに着くまではどれくらい時間がかかったでしょう? これらに対する確かな答えはありません。なぜなら、夢は人が起きている状態のときに体験する空間も時間も状況も超えているものだからです。実際にカルカッタに行きたくなったとします。あなたは午前7時の飛行機に乗り、約3時間後には実際に現地に着きます。カルカッタ空港でタクシーに乗り、家に向かいます。何のためでしょう? そこで親戚に会うためです。このように、現実の生活では、旅には目的があります。親戚に会いたい――これがその目的です。この場合は飛行機の旅で、出発は朝でした。飛行時間は3時間でした。出発時刻は午前7時でした。起きている状態のときの体験は、このように時間と空間と理由と状況によって完全に左右されます。その一方で、夢を見ている状態での体験は、それら考慮すべき事柄を一切超えています。

夢を見ている状態での体験は、もう一つの重要な点を例示しています。夜、あなたはぐっすりと眠っています。午前1時半、あなたはお手洗いに行くのに起き出しました。それから、戻ってきて、また眠りに着きました。時間は午前1時35分です。あなたは夢の中に入っていきました。夢であなたは、自分が大人になり、教育を身につけ、職を得て、結婚し、息子ができ、それから、その息子と遊んでいるのを見ました。夢の中で子どもが泣き始めました。そこで目が覚めました。あなたは時計を見ました。午前1時40分でした。たった5分の夢の間に、あなたは人生におけるとても多くの段階を体験しました。現実の生活での40年近くをです。それと同じように、もし、あなたがトゥリーヤヴァスタという超越的な状態に上がることができれば、ほんの一瞬のうちに神を体験することができます。あなたは「そんなことが可能なのか?」と驚くかもしれません。では、現実の生活では40年かかることが夢では5分で可能だということを、誰か説明できますか? 誰にもできません。同じように、このことは誰にも説明できませんが、神性を文字通り一瞬のうちに体験することは可能なのです。

もう一つの例があります。あなたが一件家に住んでいるとします。状況が変わって海外に行き、家を探します。海外で10年を過ごした後、家に戻ります。あなたは家の鍵を開けて中に入ります。スイッチをつけると、10年間暗かった部屋は一瞬の内に明かりで満たされます。スイッチをつけるにはほんの1秒しかかからず、暗闇は一瞬のうちに取り払われます。それと同じように、無知の暗闇を取り除いて悟りを開くのに長い年月は必要ありません。悟りは理由と時季を越えたプロセスです。なぜでしょう? それは、悟りを授ける神もまた、理由と時季を超えているからです。自分の知性を一心に神に向けることは、パチッとスイッチをつけることに相当します。霊性のスイッチがつくと、たちどころに最高の至福を体験することができます。ですから、ブラフマーナンダム、パラマ スカダム等々とさまざまに描写されている高い状態の実現は、明確な理由なしに、即座に起こり得るのです。この体験を得るには、人々が誤解して想像しているように森へ入る必要はありません。それはまさにこの場で起こることができます。

奉仕を差し出し、愛を受け取りなさい!

平安はまさにあなたの内にあります。まさに自分の内にあるものを体験するのに、どうして森に入ることなど考えるのでしょう? そのような考えは愚かです。平安はその場にあるのに、あなたはよそで探そうと考えているのです。平安はあなたの内にあります! もし、自分の内にあるその宝を見つけようと望むなら、スワミが先に述べたように、あなたは他の人々に奉仕して愛を体験しなければなりません。もしそうするなら、あなたは自然に平安を見つけることができるでしょう。悟りとは、内なる平安と愛を体験することにほかなりません。そして、悟りは最高の至福と絶対的な幸福以外の何ものでもありません。

心が揺れると信仰も揺らぐ

すべてはあなたの内にあります。そのため、こう言われているのです。

サルヴァタッ パーニパーダム タット サルヴァトークシ スィロームカム
サルヴァタッ シルティマローケー サルヴァマヴルッティヤ ティシタティ

(バガヴァッドギーター13章13節)

いたるところにある手と足、いたるところにある目、頭、口、耳で、すべてを覆いつくして神は存在しています。神はそれらすべての手段を通して遍満しています。

あるとき、クリシュナはアルジュナに尋ねました。

「君はいくつだ?」

アルジュナは答えました。

「70歳です」

するとクリシュナは言いました。

「アルジュナ、私がいくつか知っているか? 75歳だ!」

この体にも75歳が近づいています! (言うまでもなく、これは来るべき75歳の誕生日を指しています。おそらく、スワミはご自身がクリシュナの再来以外の何ものでもないことを忘れている人々にヒントをお与えになったのでしょう!)

ビーシュマはその時、113歳でした。その年齢で、ビーシュマはクルクシェートラの戦いでカウラヴァ軍の総司令官として仕えたのです。そんなことが今の時代に考えられますか? 当時、人々は長生きでした。

心が定まらず揺れ動いているとき、逸脱が存在します。あるとき、クリシュナはアルジュナに小言を言いました。

「私は君にギーターを説いて、多くの霊的な助言を与えた。ところが、君は何も覚えていない。それがなぜだかわかるか? それは君が私の教えを重要なものと考えていないからだ。君は私の教えに無関心で、だから私が説いたことを全部忘れてしまったのだ。重要だと思っていたら、私の教えをすべて覚えていたはずだ。君は、君と私が多くの生でいっしょだったことも忘れている」

アルジュナは申し訳なく思い、へりくだって尋ねました。

「主よ、あなたがすべてを覚えていて、すべてを思い出せるのに、どうして私にはそれができないのですか?」

本当の君、すなわち、内在者は
つねにすべての状態において目覚めている
起きている状態であれ
夢を見ている状態であれ
熟睡している状態であれ
内在者は忘れることを知らない

一方、君はタラカの状態、すなわち、完全な意識のうちの一つではなく、麻痺まひの一つであるタマスの状態にある――アルジュナは途方に暮れて尋ねました。

「主よ、どうしてそのようなことがあり得るでしょう? 私はそれほど鈍ってはいません」

クリシュナは微笑んで答えました。

「そうか? では、言ってみなさい。私たちはずいぶん長い間いっしょにいるが、君は事のすべてを覚えているか? 君は覚えていない。ところが君は自分の誕生日は覚えている。スバドラーと結婚した日も覚えている。その結婚式が何十年も前に挙げられたにもかかわらずだ。アルジュナ、君は去年のマールガシールシャの月〔11月ごろ〕のチャトゥルダシーの日〔14日目〕にどこにいた?」

意気消沈したアルジュナは、

「覚えていません」と答えました。

クリシュナは続けました。

「君は50年前に挙げた自分の結婚式の日は正確に思い出すことができるのに、ほんの去年の特定の日のことは覚えていられないのだ! これは、揺れ動く心に因をなす、忘れやすいという人間の傾向を反映している」

この対話がなされてから、ほどなくしてアルジュナの息子アビマンニュに死が訪れました。しかし、アルジュナはそのことを知りませんでした。帰宅したアルジュナは不思議がりました。

「毎夕、私が戦場から戻ってくると、息子が出迎えてくれるのに。今日はどうして来ないのだ?」

その時アルジュナの隣にいたクリシュナは、アビマンニュの死について前から知っていたにもかかわらず、それをアルジュナに明かしていませんでした。すべての物事には時と場所というものがあり、いずれアルジュナもそのニュースを知ることになるのでした。神の劇には、すべての物事に時と場所があります。アビマンニュの死を知ったアルジュナは、そのショックに耐えられず、その場に崩れ落ちました。アルジュナはクリシュナを、

「ヴァムシャナーシ!」(一族を滅ぼす者)と呼んで叫びました。

自分の息子を守ってくれなかったからです。アルジュナは続けました。

「私たちは、また子どもを作るには年をとりすぎている。アビマンニュの死によって、私たちの家系は絶えた。その責任はあなたにある!」

クリシュナは微笑んで答えました。

「アルジュナ、君の心は揺れ動いている。今まさに、君は嘆きに捕らえられ、感情に揺り動かされて考えもなしに話をしている。しかし、それはたいしたことではない。その感情も過ぎ去ってゆく」

しばらくして、アビマンニュの妻が子どもを産みましたが、残念なことに死産でした。ドラウパディーは死んでいる赤ん坊を手に持って言いました。

「ああ、この子までもが死んでいる」

サハデーヴァがクリシュナを呼びに行かされました。クリシュナがやって来ると、ドラウパディーは死んで産まれた子の遺体をお盆に載せて、クリシュナのところに持っていって言いました。

「ああ、クリシュナ、あなたは私たちに死んだ子どもという贈り物をくださったのですか?」

クリシュナはいつものように微笑んでいました。状況のいかんにかかわらず、いつも微笑んでいるのがクリシュナの習性でした。他の人は、心配したり、不安になったり、落ち込んだり、絶望したりしますが、クリシュナはいつも微笑んでいました。嘆きと悲しみは決してクリシュナに触れることはできませんでした。クリシュナはそれらをはるかに超えていたのです。クリシュナはドラウパディーに言いました。

「この子はアビマンニュに瓜二うりふたつだ。この子の目はアビマンニュの目にそっくりだ、顔もそうだ」

アルジュナはそれに耐えられず、叫びました。

「そうです、息も似ています! アビマンニュは死に、この子もそうです!!」

クリシュナは微笑んでアルジュナをたしなめました。

「君は愚か者だ。私の言っていることが理解できていない」

それから、クリシュナはアルジュナを無視して、ドラウパディーに向かって話を続けました。ドラウパディーは、クリシュナのことを、そして、クリシュナが信者に対して行うすべてのことを、完全に信頼していました。

信愛に関しては、女性は手本です。夫を神のもとに引きずっていくのは妻です。神は女性にバクティ(信愛)という贈り物を、男性にはグニャーナ(英知)という贈り物を与えました。宮中の言葉によれば、男が行けるのは謁見の間(王が謁見をする場所)までなのに対して、女は中にある部屋(女性が寝泊まりしている場所)に行けます。それと同じように、女性の信愛は女性を神の心の中まで連れて行くことができますが、男性にとってそれは容易なことではありません。なぜでしょう? それは、女性と比べて男性は信仰が薄く、また信愛も浅いからです。一方、女性は完全な信仰心をもっています。アルジュナは、クリシュナが何をするかわからないのに、ドラウパディーはクリシュナが死んだ子どもを生き返らせてくれるという完全な信仰心を抱いていることが、信じられませんでした。

パーンダヴァ兄弟は皆、その場に座って意気消沈していました。その間、クリシュナは会話を続けていました。アルジュナの心は煮えくり返っていましたが、何も言えずにいました。突然、クリシュナはドラウパディーに、

「妹よ、その子をよこしなさい」と言いました。

ドラウパディーはそのとおりにしました。すると、クリシュナは赤ん坊をポンポンと叩き、赤ん坊は泣き出しました。パーンダヴァ兄弟は仰天しました。信じられませんでしたが、死んだ子どもが生き返ったのです! クリシュナがその子をパリークシット(子どもを生き返らせる前にクリシュナが兄弟にパリークシャーすなわち「試練」を経させたことによる)と命名するや、兄弟は喜んで叫びました。アルジュナもその奇跡を目の当たりにしました。アルジュナはクリシュナのもとに駆け寄ると、御足にひれ伏して、こう言って絶賛しました。

「クリシュナ! ヴァムショーダッラカ!!」(クリシュナ、一族を解放する者)

クリシュナは微笑んで言いました。

「アルジュナ、ほんの今しがた、君は私を、一族を滅ぼす者と呼んだが、今、君は私を、一族を解放する者と言って絶賛している。君は何と速く変わるのだ! 君は何と気が変わりやすいのだ! 君の心は何と揺れ動いていることか!」

あなたがイエスと言うならば、
サイはイエスと言い、
あなたがノーと言うならば、
サイもノーと言う
イエスとノーはあなたに関わるもので、
サイに関わるものではない
サイはつねに、イエス、イエス、イエス!

(拍手喝采) クリシュナは、いっときは破壊者と呼ばれ、次には解放者と呼ばれました。これらの描写はクリシュナには関わりはなく、その言葉を使った人に関わりがあります。それらは人間の揺れ動く心を反映しています。神は不変であり、変動をはるかに超えています。

パリークシットは命を吹き返し、誰もがとても幸せを感じました。皆、クリシュナの周りに座っていました。アルジュナはクリシュナの近くに移動して、穏やかに尋ねました。

「主よ、なぜ、私の息子アビマンニュをあのような若さで死なせたのですか? 私は息子が死ぬ前に一目会うことさえ、かないませんでした。死というものは、それほど早く来なければならないものなのですか? もう少し長く生きさせてはやれなかったのですか?」

クリシュナは答えました。

「ああ、愚か者よ! 君は今ある体を見て人の年齢を決めている。君が話している年齢は、実際には意味がない。自然の摂理に従って、体の生と死は付いて回るもの」

人は早死や不慮の死と呼ばれるものをどう理解すべきかを示す、一つの例があります。あなたがカシミールに行くとします。知らないかもしれませんが、カシミールはカイケーイーの故郷の州です。カシミールで、あなたはスーツを仕立てるためのウールの生地を買いました。帰宅後、あなたはその生地を棚に入れて鍵をかけ、それからその生地のことはすっかり忘れてしまいました。10年が経ち、あなたは家を移ることになりました。引っ越し荷物を詰めているとき、だいぶ前にしまっておいたウールの生地を見つけました。あなたはその上等な生地のことを何年もずっと忘れていたことを残念に思いました。あなたはその日のうちにテイラーに行って、これで上等なスーツを仕立ててくれと依頼しました。スーツはすぐに仕上がって届けられました。あなたはその新調したばかりのスーツを着て、結婚披露宴に出席しました。会場にはビュッフェの夕食が用意されていました。あなたは自分でお皿に食事を盛ろうとして少し身をかがめました。と、その時、スーツがビリっと裂けて破れてしまいました(笑)。あなたは悲しくなりました。あなたは、

「新調したばかりのスーツなのに、どうしてこんなふうに破けてしまったんだろう?」


と不思議がりました。確かにスーツそのものは新しくはありましたが、生地は新しいわけではなく、古いものでした。

クリシュナはアルジュナに言いました。

「アビマンニュは、君が想像しているように若くして死んだのではなく、"旧蔵品"だったのだ。今生ではわずかな年月しか生きなかったかもしれないが、実際には、君がアビマンニュと呼んでいた人物はちっとも若くはなかった」

するとアルジュナは言いました。

「主よ、私はそのような微妙な点には気づきませんでした」

クリシュナは微笑んで答えました。

「そうだ、私の親愛なる息子よ、生と死はどちらも神秘的なもの! 君には理解できないだろう」

神を味わいなさい、神を分析しようとしてはならない

神を理解することは誰にも不可能です。神がある瞬間に行うことは、次の瞬間に行うこととは相反するように見えるかもしれません。神の行為は不可解で、時間と空間と人間の理性を超えています。スワミがよく言うように、「理由はなく、時によらない!」のです。ですから、神の行為を分析すること、解釈することは無意味であり、かつ、適切なことでもありません。もし、神が「イエス」と言うのなら、それはその通りになるのです。もし、神が「ノー」と言うのなら、それはその通りになるのです。これが運命です! あなたはそのすべてを受け入れなければならず、異議を唱えてはなりません。神の行為に疑問をもつことは、信仰心の欠如という意味を含んでいます。

今、あなたが商店街に行って、そこにいる人たちにスワミが述べたことについて話して聞かせるとしましょう。あなたは人々にスワミは神だと言います。群集の中の一人の男が、

「神はどこにいる?」と尋ねます。

あなたは男に、

「神は向こうの壇上にいて、御講話をなさっています」と言います。

男は、

「あれは神じゃない。神は存在しない」と異議を唱えてきます。

そうしたら、あなたは男にこう言うべきです。

「もし、あなたが神は存在しないと言うのなら、それはあなただけに当てはまることであって、私には当てはまりません。私にとって、神は存在します。あなたはどのような権利があって、私に神は存在しないと言う必要があるのですか? 神を信じることは私の権利です。もし、あなたが神を信じないという運命にあるのなら、それはあなたの不運です」

あなたの信心は強いものでなければなりません。もし強ければ、神はいつも必ず返答してくるでしょう。もし、あなたが自分の固い信仰心を力強く宣言するなら、神を信じない人たちは自ら口をつぐんで、立ち去っていくでしょう。

神の創造は神秘に満ちている、ということを理解しなければなりません。ブラフマーナンダで始まる11の言葉は、神を称賛しているのではありません。神を描写しているのでもありません。実際、あれは神の御名です。名高い「ガーヤトリー マントラ」は基本的に三つの部分からなっています。

オーム
ブール ブヴァッ スヴァハ、タット サヴィトゥル ヴァレーンニャム、
バルゴー デーヴァッスヤ ディーマヒ、
ディヨー ヨー ナッ プラチョーダヤート

最初は称賛、次は瞑想、最後は祈りです。つまり、称賛、瞑想、祈りです。しかし、ブラフマーナンダで始まる讃歌は、この有名なガーヤトリーさえも、はるかに超えています。ブラフマーナンダ等々という言葉は、称賛とは一切関係ありません。それらは神の御名そのものです。「ガーヤトリー マントラ」は聖賢ヴィシュワーミトラから人類への贈り物です。「ガーヤトリー マントラ」には根拠があります。「ガーヤトリー マントラ」は分析することができ、意味は理解可能です。一方、神の原理〔ブラフマーナンダ等々という言葉が指しているもの〕は、人間の理性、人間の分析、そして、人間の理解をも超えています。

神は悲しみを知らず、痛みをもたず、思考を超えています。嘆きと悲しみは思考がある者にのみやって来るものであり、思考のない者はつねに幸せです。神は思考を超えており、それゆえ、いつも至福にあります。人々が何を言ってきても、スワミはいつも、

「サントーシャム、サントーシャム」(「それを聞いて私は幸せです」という意味)と言って応じます。それは、スワミはパラマ スカダムであるからです。一人の女性がスワミのところに来て、

「スワミ、私の夫が死にました」と言って泣きました。

スワミは、

「サントーシャム」と答えました。

その女性はショックを受けて、

「何ですってスワミ! 私は夫が死んでしまったと言っているのです。それなのにスワミは幸せだとおっしゃっています!! スワミは私の夫が死んで幸せなのですか?」

スワミは答えました。

「あなたが何と言うかに関わらず〔私は幸せです〕、なぜなら、私はつねに、サントーシャム、サントーシャム、サントーシャムだからです!」

あるとき、一人の人物が私に言いました。

「うちの者が事故に遭いました」

スワミは、

「チャーラー サントーシャム」(とても幸せです)と言いました。

スワミはいつも幸せです。そのせいで幸せでなくなるものなどありますか? 運命に従って、起こるべきことは何であれ起こるのです。ならば、どうしてそのことを気にしたり、悲しんだりするのですか? 生死は自然なことです。生死はすべてのものに共通であり、特にこの人にはあるが、あの人にはない、というものではありません。ですから、人は平然と運命の審判に向き合い、何が起こっても落ち着きをもって受け入れなさい。人は運命のせいで苦しむのではなく、欲望と執着のせいで苦しむのです。もし、この世のものへの執着があるなら、あなたは必ず喜びと悲しみを交互に体験することになります。苦楽は二元的な世界の切っても切れない部分なのです。

すべてのものごとは神の意志によって起こります。神が望むものを、神が望むときに、神は与え、神は取り戻します。皆さんは、鉄道貨物の貨車に印が付いているのを見たことがあるでしょう。それは返却の日付です。つまりそれは、その日に貨車を大元の鉄道局に返却しなければならない、ということを意味しています。体は貨物の貨車のようなものです。皆さんは気づいていないでしょうが、体がこの世に送られてきたとき、体に返却日が押されます。その日が来れば体は元の場所に戻っていく――それだけです。このように、生があれば死もあります。二つが自然な一組を形成しているのです。ですから、人は死のために悲しみに道をゆずるべきではありません。

人生のあらゆる局面には至福があり、神は純粋な至福です。神はあなたの中にいるのですから、あなたはいつも幸せであるべきです。あなたはいつも愛で満ちているべきです。決して、愛が汚れることや、憎しみへと低下することを許してはなりません。


(御講話の最後に、バガヴァンは「プレーマ ムディタ・・・」のバジャンをお歌いになりました)

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:2000年5月23日、プラシャーンティ ニラヤム:夏期講習の御講話
    Summer Showers in Brindavan 2000 C10

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