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愛の化身である皆さん! 今日、人間は自分の個人的な進歩を最優先しています。しかる後に、社会に注意を向けます。そして最後に、霊性の道に入るのです。これは重大な過ちです。人間が真理に気づくことができずに様々な困難に直面 するのは、このためです。サイ(SAI)のメッセージとは何でしょう? 「S」は霊性(Spirituality)を表し、「A」は結びつき(Association)を、「I」は個人(Individual)を表します。それは、皆さんが霊性を最優先し、次に社会(結びつき)を、そして個人的な興味を最後に考えるべきである、ということを意味しています。ところが今日、人はその順番を逆にしています。つまり、社会的責任よりも個人的な興味を優先し、霊性を最も軽視しています。その結果 、人は神から遠ざかっています。このようにして、人は時間を無駄にしています。時間は貴重です。実は、時間は神なのです。 まず最初に、人間は霊性の道をたどるべきであり、その後に一体性の原理を理解した上で、社会に奉仕すべきです。そうして初めて、個人のレベルでの進歩が生まれます。ところが、もしあなたが、第一に個人のレベルに集中するのであれば、決して霊的側面 を理解することができないでしょう。ヒラニヤクシャ、ヒラニヤカシプ、カムサといった人々は、個人的な興味を中心として、霊的側面 を完全に無視していました。肉体的にも知的にも、彼らは大きな力を持っていました。ヒラニヤカシプは偉大な科学者でした。しかし、尽きることのない至福をもたらすことのできない科学的知識が、いったい何の役に立つでしょうか? ヒラニヤクシャとヒラニヤカシプの心は、否定的な感情で一杯でした。彼らは、一時的で否定的な世俗的欲望を抱えていました。現代の科学者たちは、月に到達することができましたが、ヒラニヤカシプとヒラニヤクシャは太陽にすら行くことができました。彼らは、素晴らしい力と科学的知識を持っていたにもかかわらず、物質的な態度のゆえに悲運の最期を遂げました。彼らは神を体験することができませんでした。同様に、人間は自分の力と知識を誤用しています。人々は、自分の本当の目的に注意を集中していません。人間には、非常に大きな力が備わっています。だからこそウパニシャッドは、「目を覚ましなさい。起きなさい。完全な理解を得るまでは立ち止まってはいけません」と力説しているのです。『おお、思慮の無い者よ! この無知の惰眠から覚めなさい。プラグニャーナ(絶えざる神意識)の光輝に目を向けなさい。鈍性(タマス)の性質を取り除きなさい。世俗的な欲望を手放しなさい。この世が移ろいゆく性質を持ったものであることを理解しなさい。』ヒラニヤカシプとヒラニヤクシャは、あらゆる力を自在に操ることができましたが、神の近くにいることはできませんでした。彼らは、宇宙の神秘を調べ、天体の位 置すらも変えることができました。ところが、神の原理に関しては、少しも理解することができなかったのです。しかし、ヒラニヤカシプの息子、若いプラフラーダは、神の原理に気づいていました。あるときヒラニヤカシプが、プラフラーダに、先生たちから何を学んだかを尋ねました。プラフラーダは答えました。「先生方は私に多くのことを教えてくださいました。私は、正しい行い(ダルマ)、富(アルタ)、欲(カーマ)、解脱(モクシャ)という、人生の四つの目標について学びました。実は、お父さん! 私は教育の真髄そのものを学んだのです。」ヒラニヤカシプはこのような言葉を聞いて、たいそう喜びました。そして、「おお息子よ! お前が先生たちから何を学んだかを聞かせてくれ」と言いました。プラフラーダは言いました。「私は、神が遍在であるという真理を知ることができました。どこを見ても、私はそこに神を見ることができます。」ヒラニヤカシプはこれを聞いて激怒しました。彼は膝に乗っていたプラフラーダを押しのけて叫びました。「お前は、先生たちが多くのことを教えてくれたと言った。これがお前の学んだことだというのか? 富と欲(アルタとカーマ)に関しては、我々にとって非常に大切な、学ぶべきことがたくさんある。ところがお前はそれを無視して、神のことを話している。神などどこにいるというのだ?」プラフラーダは、とても静かに答えました。「お父さん。神はここにはいるが、あそこにはいない、などとは決して考えてはなりません。実際、我々がどこを探しても、神はそこにおられるのです。」(テルグ語の詩) ヒラニヤカシプのエゴは傷つけられました。彼は「こんなに年端もいかない者が、よくもこのわしに説教をするつもりか?」と思いました。そして「もし神が遍在であると言うのなら、お前は、この柱の中に神の姿を見せることができるか?」と言って、プラフラーダに迫りました。「はい、できます。」すぐに答えが返ってきました。彼の信仰と帰依はそれほどのものだったのです。ヒラニヤカシプは、すぐにこん棒で柱を叩きました。すると、御覧なさい! 神がそこに姿を現したのです。この出来事には、どのような内的意義があるのでしょう? 人間は、肉体的執着という束縛を断ち切ったときに、初めて神の姿を見ることができるのです。今日、人は学識があるにもかかわらず、無知に埋没しています。 あなたにゆるぎない信仰と帰依があり、重ねてしっかりとした純粋なハートを持っていれば、あなたは神を自分の前に出現させることができます。ここにひとつのたとえがあります。あなたはミルクをかき混ぜてバターを作ります。そして、それに熱を加えてギーを作ります。バターに水分が含まれていれば、熱を加えると悪臭がします。その匂いは、熱を加え続けるうちに段々少なくなっていきます。バターに水分が含まれている限り、悪臭を避けることはできません。水分は完全に蒸発しなければなりません。バターは個人個人の性質を表しています。あなたの中にあるよこしまな性質は、悪臭にたとえることができます。あなたが「バター」を完全に溶かす努力をするとき、だんだんと「悪臭」は消えていきます。人が霊性修行(サーダナ)をするとき、その過程の途中で「よこしまな傾向」という悪臭が漂います。人は、サーダナを続けて、そのようなよこしまな諸傾向を克服しなければなりません。霊性修行をすればするほど、彼の中にあるすべての悪い傾向が、水分のように蒸発していきます。あたかもバターを熱すると純粋なギーが得られるように、最終的に、その人の霊性修行は望みの結果 をもたらします。 すべての人が、身体と心と知性と内的心理器官(チッタ)を授かっています。ヒラニヤカシプから尋ねられたとき、プラフラーダは「お父さん、私は体でも、心でも、知性でも、また内的心理器官でもありません。私は真我の化身です」と答えました。もし人が、エゴを取り除き、肉体への執着を育てず、心の気まぐれさに惑わされないとすれば、純粋なバターのような状態を保つでしょう。もし、そのバターに世俗的欲望という水分が残っていれば、悪臭が漂い始めます。心の中に世俗的欲望がある限り、人は悪臭から逃れることができません。これがヒラニヤクシャとヒラニヤカシプの運命でした。 今の時代にも、バジャンを歌い、霊的な事柄に関する講演を行うけれども、世俗的欲望という悪臭を取り除くことのできない人々がたくさんいます。彼らが世俗的欲望を取り除かない限り、彼らは純粋な状態に到達することはできません。彼らは物質的な人生に慣れ親しんでいます。彼らは、世俗的な願望を満たそうと思って、バジャンや瞑想などを行うのです。彼らは、水気の混じったバターにたとえることができます。霊的な道にあっては、人は世俗的欲望という悪臭に付け入る隙を与えてはなりません。中には、自分自身を帰依者と呼びながら、欲望のためによこしまな人間になっていく人がいます。そのような人を帰依者と呼ぶことができるでしょうか?
いいえ。それはできません。もし彼らが真の帰依者であるのなら、どうして彼らから悪臭が漂うのでしょう?
彼らの身体も、心も、知性も、またその行動も、不純さに 帰依者の皆さん! 愛の化身である皆さん! 愛の化身である皆さん! 愛の化身である皆さん! 世界中で、いわゆる帰依者と呼ばれる人々の数は増えています。今私は、いくつかの大事なポイントを皆さんに伝えるための時節が到来したと感じています。皆さんのハートに湧き上がる感情は、ガンジス河の水源地の水と同じくらい純粋でなければなりません。言葉だけでは充分ではありません。必要なのは行動です。思いと言葉と行動が一致していなければなりません。思いと言葉と行動が一致しない人はよこしまな人です。人間は人間について研究するべきです。こんにち私たちは、非真実の行いや、不正な行い、それに暴力的な行いの中にしか、思いと言葉と行動の一致を見かけなくなりました。崇高な思いを抱き、有徳の行いに携わるべき人間が、それとまったく逆のことをしています。 中には、サイの名前を使って商売をしている人々がいます。彼らは、サイの帰依者を装って他者を騙しています。私は、そのような行動には賛成しません。彼らは帰依者などではありません。彼らは、国の内外を問わず、様々な場所に行ってサイの名前を使って金集めをしています。それは重大な犯罪です。私はただの1パイサも人に求めません。私は、決してそのような商売を承認することはありません。もし誰かが、そのような世俗的な意図を持ってあなたに近づいてきた場合は、それが誰であれ、すぐに出て行くように言いなさい。霊性の領域に商売が侵入するのを許してはなりません。人は、自分の家族を養うためには、自分の好きなことをして良いでしょう。しかし、誰一人として、サイの名前を使って商売をすべきではありません。ところが、不幸なことに、そのような活動が増えてきています。多くの村々で、人々が個人的な利益のためにサイの名前を誤用しているのを見かけます。このようなことは、アメリカ、イギリス、日本、ドイツ、シンガポール、マレーシア等々、多くの諸外国でも起きています。そのような悪い人々と関係を持ってはなりません。あなたの心を純粋で神聖に保ちなさい。そうしなければ、あなたは生ける屍と同じになってしまいます。そのような人々を尊敬してはなりません。彼らの葬儀を執り行う方が良いのです! あなたは、神聖な気持ちで神に祈らなければなりません。世俗的な欲望を抱くとき、あなたは神から遠ざかっているのです。 愛の化身である皆さん! 今朝、何人かの昔の学生が、ひとつの願い事をもって私のところにやって来ました。皆さんは、バンガロールのC.スリニヴァスをご存知でしょう。彼は我々の大学で教育を終えた後、しばらくホステル(学生の寄宿舎)で学寮長を務めました。彼はスワミに仕えたかったので、外の仕事に就こうとはしませんでした。彼は今、バンガロールにある我々の病院の責任者をしています。彼は言いました。「ここ以外のどこでも、これほど水準の高い教育と医療が、すべての人に無料で施されている所はありません。スワミは私たちに、無料で教育を授けてくださり、この上ない愛と心遣いで私たちのお世話をしてくださいました。私たちは、ささやかなやり方でスワミに奉仕をしたいと思っています。」彼は、企画書を持って来ました。彼は、学校のない村々に学校を建てたいと考えています。彼は、スワミがこのプロジェクトを今日から始めることを望んでいました。私は彼に急いではならないと言いました。今の若い人々は、物事を速くやろうとします。これは正しい態度ではありません。早く出発し、ゆっくり運転をして、無事に到着することが大切です。ですから、私は彼に、ゆっくり時間をかけるように言いました。しかし彼は、「スワミ、ここには私たちの学校の昔の学生たちがたくさんいます。あなたが私たちにしてくださったすべてのことに対して、感謝の心を表すのが、私たちの務めではないでしょうか?」と言いました。彼は、スワミがこの件を公表するように、祈りを捧げました。私は同意しました。私は、善い行いに対しては、決して「ノー」とは言いません。そのような神聖な任務を引き受けたい人々は、責任を持って、熱心に遂行すべきです。そうして初めて、昔の学生たちは、自分たちの人生を神聖なものにしたと言えるのです。チェンナイやハイデラバードには、スワミに奉仕したいと考えている昔の学生たちがたくさんいます。ところが、状況によっては、彼らは年長者の命令に従うことを余儀なくされてしまいます。もし年長者たちが誤った道を追求するとしたら、若者たちも同じようにしなければならないのです。チェンナイやハイデラバードでの我々のオーガニゼーションの運命は、いったいどうなってしまうのでしょう! 私は彼らに、私が建物を建てるので、そのためのちょうど良い土地を選ぶように言いました。しかし彼らには、帰依心も誠実さも欠けています。彼らは、ただ帰依と誠実さがあるふりをしているだけです。そのような不誠実な振る舞いは、彼ら自身のためになりません。そこの帰依者たちの多くが、様々な迷惑をこうむっています。若い人々がしたいと考えていることは、数多くあります。しかし、年長者たちの支援がなければ、彼らに何ができるでしょう? 年長者たちは、自分が率先して行動しようとも、若者たちが自分で責任を持って行動することを許そうともしません。バガヴァンは、いかなる神殿も必要ではありません。バガヴァンは不動産にはまったく興味がありません。バガヴァンが望むのは、ただひとつ、皆さんが至福に満ちて無私の心で社会に奉仕することです。もし年長者たちが皆さんの提案を受け入れないようであれば、彼らを無視しても構いません。それは彼らの運命です。若い皆さんは、真剣な努力をすべきです。困っている人々を助けなさい。おなかを空かしている人に食べ物を与えなさい。他の人々の援助を求めて歩き回るようなことはやめなさい。もし何らかの助けが必要であれば、私のところに来なさい。バガヴァンは、ためらうことなく与えましょう。1パイサたりとも寄付を集めてはなりません。中には100ルピーの寄付をして、それによって1000ルピーにも相当する自己賞賛を行う人もいます。バガヴァンはそのような活動には興味がありません。バガヴァンが皆さんのそばに山のようにしっかりと立っているとき、どうして皆さんは、バガヴァン以外の人の助けを求める必要があるでしょうか? 人の言いなりになってはなりません。彼らはただ、虚飾に満ちた高尚な哲学を説くだけでしかありません。そのような状況がはびこっているのはインド国内ばかりではありません。世界中どこでも同じことです。イギリス、日本、ドイツ、どこに行っても同種の商売が行われています。あらゆるところから、そのような取引のニュースが届いています。バガヴァンにはそのような情報がたくさん伝えられています。私は、このようなことをすべて迷惑に思っています。このような種類の情報は、バガヴァンが聞きたいと思っているものではありません。バガヴァンが一番聞きたいのは、すべての人が元気で、幸福と至福を味わっているという報せです。バガヴァンの名前を使って商売をすることは、非常に不快で、嘆かわしいことです。帰依に関する事柄に商売が関係してはなりません。塩辛い海の水ですら飲む水に使えるかもしれませんが、この種の帰依には何の価値もありません。 時間もだいぶ遅くなってきました…。バガヴァンは、決して誰にも寄付を求めることはありませんし、バガヴァンのメッセージを広めるためのエージェントも持っていません。私はこのような虚偽に満ちた人々とは何のつながりもありません。バガヴァンは、物質的な富などはまったく必要としていません。バガヴァンが必要としているのは純粋な愛のみです。愛を与え、愛を受け取りなさい。それが唯一の取り引きです。その愛によって、皆さんの人生を成就しなさい。愛よりも偉大な帰依はありません。どれほどささやかな奉仕でも、愛を持って行えばそれで充分です。もしあなたが、喉の渇いた人に、純粋な愛をこめてコップ一杯の水をあげるとすれば、それは素晴らしいことです。いわゆる帰依者と呼ばれる人々のうち、約90%は、実は欺瞞に満ちています。昔は、今とはずいぶん様子が違っていました。帰依者の数は少なかったのですが、彼らは皆、純粋な帰依者たちでした。最近は、帰依者の姿を装う、利己的な意図を持った詐欺師たちが多すぎます。彼らは朝一番に額にヴィブーティを付けて首にスカーフを巻き、帰依者を装って自由にあたりを歩き回ります。そのような偽の帰依者たちよりも、食べ物を捜し歩く野良犬の方が優れています! 愛の化身である皆さん! 愛の化身である皆さん! 愛の化身である皆さん! 明日、皆さんが抱えているすべての疑問を持ってきなさい。私がそれをすべて解明してあげましょう。まず第一に、悪い仲間に近づかないようにしなさい。私は皆さんに、私のために働くことを求めているのではありません。私は、自分のためには、皆さんから何ものも求めません。私は、すべての仕事を自分で行います。私は人の助けを求めません。私が意志しさえすれば、全世界が私を助けるでしょう。ですから皆さんは、自分自身を助け、社会に奉仕をして、人生を理想的なものにしなさい。 (ここでスワミは「ハリ・バジャナ・ビナー・・・」というバジャンをお歌いになり、再び御講話をお続けになりました。) 愛の化身である皆さん! (了) |
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