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いかなる場所においても平安の足跡は見られず (テルグ語の詩) 愛の化身の皆さん! いとしい学生の皆さん! 全世界で、従来のカリキュラムに加えて、霊性教育が施され始めています。霊性とは最近発見されたものではなく、太古からの英知であるという真実を人々は認識しています。しかしながら、この原理の重要性は、霊性を提示し、教えることだけに限定されています。実際、日常生活で霊性を実践することは少なくなっているのです。したがって、実践的な教育が、今日、最も重要なのです。実践なき教育は平安を乱すことにつながります。 教育機関における現代の学校教育は「エデュケーション」と称されますが、ハートに響く霊的な教育は「エデュケア」と呼ばれます。エデュケアとは、人に生来備わっている神性を引き出し、全世界の理想としてそれを確立することです。現代の教育は単なる本の知識に終始しており、書物に書かれていることに限定されています。一方、エデュケアは書物には関係しません。エデュケアはあらゆる知識の源についての教えに関係します。そして、その源は一人ひとりのハートの中にあります。それゆえ、この種の教育を基礎とすることが、今日非常に必要とされているのです。人々は霊的でない分野での高等教育を 霊的教育と世俗的教育の調和のとれた混合が、今日の世界にかなった理想なのです。前者は内界の教えすなわち内なる気づきであり、後者は外界すなわち世俗に関する教えです。 世俗的な教えは物質的な世界に関わるものです。それらはマイナス極をあらわします。一方で、内なる気づきに結び付いた教えはプラス極です。愛を例にとってみましょう。愛の形を定義できる人がいるでしょうか? 愛を定義するための最善の方法は、人を愛し、人から愛されること、それによって愛の至福を体験することです。内なる気づきに結び付いたそのような教えが、今、至急必要とされています。エデュケアは、人と人の間に愛と親近感を確立します。今日、他の人の心の内は誰にもわかりません。思いと言葉と行動が一致していない人の場合はなおさらです。そのような人は、何かを思い、その思いとは違うことを話し、それから、まったく違った行動をとります。これは真の教育の特質ではありません。あなたが思ったことを話し、言葉として表現したことを行動に移しなさい。思いと言葉と行動の間に一致が見られないために、現代人は、「マハートマ(偉大な魂)」のレベルに到達することがなく、「ドゥラートマ(不道徳な人)」になりつつあります。次のように言われています。 思いと言葉と行動が完全に調和している人は 高貴な人 教育を受けていない一般の人々よりも重大な罪を犯している人は、いわゆる「教育を受けたエリート」です。彼らこそが国に対して大きな損害を与えているのです。教育を受けていない村人たちは尊敬に値する生活をし、他の模範となっています。たとえば、教育を受け、大変な知識人だと考えられている人々は都会で 村に出向き、見てごらんなさい。村に入るとすぐに、素朴な村人が尋ねます。「ようこそ! どこから来られましたか? お国はどちらですか?」村人たちは尊敬の念をもって話しかけ、あなたのことを気遣います。しかし、都会にあっては親子間でさえもそうした気遣いをすることはありません。人々は非常に機械的な態度で日々の決まった仕事をこなし、お互いを気遣うことはありません。こうした状況を招いた原因は現代の教育にあります。 「教育の目的は人格を培うことにある」といわれます。今日の人々が高貴な人格を失ってしまったために、尊敬や崇敬の心もまた次第に失われつつあります。親でさえもこうした状況を生み出す原因の一端となっています。村の親の中には子どもを都会の学校に送り出す人もいます。そうした親は子どもに高等教育を受けさせ、学位 をとらせたいと願うのです。親の動機は間違いなく良いものですが、子どもたちは都会で悪い道に入ってしまいます。村にいたときは年長者を敬い親に従順であった子どもたちも、高等教育を求めて都会に入ったとたんに、故郷で培ってきた尊敬・崇敬・良き人格・謙虚さといったすべての善良な資質を失ってしまうのです。今、学生は高潔な生活の価値を忘れてしまっています。親の目の前であってもタバコを吸うことをためらわないのです。悪い習慣がますますはびこりつつあります。 しかし、村の状況はいささか異なります。村の子どもたちは年長者や両親の前で自制して行動します。親の健全なしつけが村ではまだ機能しています。町中や都会ではそうしたしつけは見られません。青年は、喫煙し、友人にタバコを差し出し、映画館に行って非常に多くの悪癖に耽るのです。彼らを自制させ、悪癖から引き離すものは何もありません。なぜ彼らはこのような振る舞いをするのでしょう? それは現代の教育が原因なのです。彼らは年長者・両親・社会に対する尊敬の念をもっていません。誰かに間違いを指摘されると、「なぜ間違いの罪を恐れなくてはいけないんだ? 私のタバコを私が吸うのは私の勝手だ」といって議論をし始めるのです。 ここで一つの例をお話しましょう。昔、旅をしていた一人のインド人学生と一人の外国人が寝台列車で同室になりました。学生はひっきりなしにタバコを吸っていました。それだけに留まらず、タバコの煙を外国人の顔に吹きかけていました。その外国人はしばらくの間我慢していましたが、もはや耐えられなくなって学生に言いました。「学生さん、すみませんが、私は気分が良くないのです。タバコの煙にたえられません。タバコが吸いたいのなら、トイレで吸ってください」 現代教育を受けて育ったそのインド人学生は次のように言い返しました。「私のタバコにたえられないのなら、あなたがトイレにいけばいいでしょう。私が買ったタバコを私が吸うのは私の自由です。タバコを吸おうが吸うまいが、タバコをどう吹かそうが私の自由です」。こうしてその学生は口論をし始めたのです。外国人はなす術がありませんでした。 しばらくして、外国人はトイレに行きました。彼がトイレに行っている間に、学生は彼の靴を寝台車から放り投げました。外国人はそれを見たものの、 皆さんもご存知のように、このカリの時代にあっては、すべてのことに反応・反響・反射が返ってきます。優しく甘美に話せば、同じことが返ってきます。無作法な態度で人に接すれば、無作法な態度で振る舞われることになります。したがってすべての人が、年齢や国の別 にかかわらず、優しく甘美に話さなければなりません。教育を受けていようが、無学であろうが、人は優しく甘美に話さなければなりません。人は謙虚さを備えていなければなりません。 教育とは何でしょう? サイの真の言葉を聞きなさい (テルグ語の詩) 今日、人は自らのダルマを忘れています。自らの義務を果たすことは、規律です。規律がなければ教育が何の役に立つでしょう? 知識のない教育は無益であり、教育のない知識は愚かなものです。したがって、そのような無益で愚かな教育に従っても何の目的も達成されません。人は高い教育と共に、良い態度も培わねばなりません。しかし、今日私たちが目にしているのは高度な学問と堕落した態度です。ですから、皆さんは、高等教育を獲得しても質素な生活を送らなければなりません。それが真の教育です。 かつて、マハートマ ガンジーが一冊の本をかかえて涙を流していたことがありました。ガンジーはその本を読み終えて、その内容がまったく無駄 なものだとわかったのでした。そのとき、一人の英国人がやって来て、なぜ涙を流しているのかをガンジーに尋ねました。ガンジーは「教育の真髄は人格であると信じていましたが、この本はそのような人格形成を促すものではなかったのです」と答えました。 現代教育といにしえの英知の間には大きな隔たりがあります。皆さんが教育を受けている時代は現代かもしれませんが、皆さんの態度や振る舞いはいにしえの英知に基づいたものであるべきです。そのとき初めて、あなたの受けた教育が尊敬に値するものとなるのです。 皆さんは両親を敬わなければなりません。年老いた人が家を訪ねてきたら、敬意をもってお迎えしなさい。優しく穏やかに話しかけなさい。その人に父親の居場所を尋ねられたら、「自分で探してください」と言って無視するのはいけません。これはあなたがしなければならない返事ではありません。礼儀正しく「はい!父は応接間におりますので呼んでまいります」と答えるのです。このように優しく穏やかに話すことで、訪問客はあなたに良い印象をもち、あの父親にしてこの子あり、と感心することでしょう。皆さんは父親の名誉と信望を守らなければなりません。どのようにして守ることができるでしょう? 優しく穏やかに話すこと、そして良き態度と振る舞いをすることによってです。そうでなければ、訪問客はあなたに対して次のような印象をもつことでしょう。「父親は素晴らしく、尊敬できる人だけれど、息子は不良で、態度も悪く傲慢だ。この息子はあの父親にふさわしくない」それゆえ、現代に生き、現代の教育を受けていたとしても、私たちが学ばなければならないことは、謙虚さを培うことです。 学生とはどのような存在でしょうか? 学生とは、教育を受け、謙虚さ・従順さ・規律をもって行動する人のことです。従順さや規律を身に付けていない人は、学生(studentステューデント)ではなく愚か者(stupidステューピッド)です。さまざまな学問を探求する大勢の学生が過ごすキャンパスには、静かで穏やかな雰囲気がなければなりません。今日、年長者は学生のいる場所に足を運ぶことを躊躇します。その理由は、学生が問題を起こすことを恐れているからです。このような事態は以前には考えられないことでした。昔の学生は謙虚さをもって行動していたものでした。彼らには教育を通
して培った識別力がありました。現代の教育には、正直さ・誠実さ・義務感・規律・献身が恐ろしいほどに欠けています。そのような教育がどうして役立つことがあるでしょうか?
いとしい学生の皆さん!
このように、言葉・行動・思い・人格・ハートに注意し続けることが本当のウォッチです。腕にはめているものがウォッチなのではありません。腕時計(リストウォッチ)は修理に出さなくてはならないかもしれませんが、「WATCH」という言葉は決してさびれることはありません。それは常に思い・言葉・行動を純粋にしてくれます。何と偉大な言葉でしょう! いにしえの教育は人をして崇高で高貴な存在となさしめる上で大きな役割を果 たしていました。 次に、清浄さと純粋さについてです。清浄さと純粋さは教育の最も重要な側面 です。学生の皆さんは、規則的な入浴・清楚で清潔な服装など、身の回りの衛生状態に気を配らなければなりません。「清潔さは神性」です。それゆえ、清潔で純粋でいなさい。幸福で足るを知る生活を送りなさい。常に人を助けなさい。常に人を助け、決して人を傷付けてはなりません。たしかに、皆さんは現代の教育を追い求めることができます。しかし、それと同時に、古の英知をもまた学ばなくてはなりません。この2つは調和され混合されなければなりません。科学的知識の探求はもちろん必要です。しかし、今日、私たちは誤った方法で科学を理解しています。科学はある一点から始まり、別 の一点で終わります。これでは完全な円を描くことはできません。一方、霊性は元の点に戻るために、完全な円を描くことができます。したがって次のように言われているのです。 それは完全であり これも完全である 科学は「これは何か? これは何か? 」という探求から始まります。一方で、霊性は「あれは何か? あれは何か? 」という探求で始まります。「これは何か? 」という探求は、感覚への接近を示唆しています。これは科学です。これに対して、「あれは何か? 」という探求は、隔たりすなわち、感覚からの隔たりを示唆しています。それが霊性です。 簡単な例を挙げてみましょう。皆さん(註:ディプロマを取得した学生たち)は、ザンビア・東アフリカなど遠方から、はるばるサイ
ババのダルシャンを受けにやって来ました。それほどの遠方に住んでいるがために、皆さんはサイ
ババに対して大いなる愛をもつようになり、ダルシャンを熱心に求めるのです。隣の村に住む人に会うにあたって同じような熱心さは見られません。遠くにあるものに興味が 『ラーマーヤナ』に出てくるカイケーイ妃について皆さんご存知でしょう。彼女はあらゆる種類の武器に熟達していました。彼女はケーカヤ王国の王様の娘でした。彼女はまたダシャラタ王の妃の中で最も若く、最も王の 召使は召使のままで、主人は主人のままでいるべきだというのは、こうした理由によるのです。皆さんは主人であり、感覚は召使です。「マインド(心)をマスター(支配)して、マスターマインド(大いなる智恵者)になりなさい」それが学生の特質です。そのとき初めて、皆さんは真の高等教育を獲得し、それを他の人々と分かち合うこともできるのです。私は教育についてもっと詳細に皆さんにお教えすることができますが、時間も限られています。 皆さんへの私の教えは「質素な生活と 私はまた、ジュムサイ博士にヒューマン バリューの機関が運営するすべての学校で、自助の原則を実行するよう助言します。この機関の学生は自立した存在にならなければなりません。学習する場・寮・本棚などは常に学生自らが清掃しなければなりません。こうした仕事のために別 途、使用人が雇われることがあってはなりません。私はよく学生に次のようなジョークを言います。「野菜の値段は2アンナなのに、ポーター(運搬人)に支払う野菜の運び賃は4アンナだ」皆さんは野菜の値段よりも高いお金をポーターに支払いますか? そのようなことでお金を無駄にすべきではありません。お金の誤用は悪です。皆さんが学生時代に使うお金は皆さんの親が与えてくれたものです。そのお金はご両親の血と汗の結晶です。皆さんの手元の1ルピー1ルピーを、ご両親の血の一滴であるとして用いなければなりません。出費を減らし、より高位 の教育を目指しなさい。 今日、高等教育を受けるために海外へ行くことを望む学生がいます。そのためには何と多くのお金がかかることでしょう! 巨額のお金を費やして外国にたどり着き、さて、それから何をするというのでしょう? 留学生は勉学に集中してはいません。それどころか、非常に多くの活動に時間を費やし、貴重なお金を無駄 にしているのです。こうした無駄使いのためにお金が足りなくなると、レストランで皿洗いをして収入を補うという手段をとるのです。海外で皿洗いをする代わりに、なぜ自らが生まれた国で、自らの家庭で行わないのでしょうか? そうすれば、両親を助けることになり、両親も幸せを感じるでしょう。 いとしい学生の皆さん! 両親を幸せにしなさい。先生を幸せにしなさい。親と先生に仕えなさい。そのとき初めて、先生から良い教育を受けることができます。 愛の化身の皆さん! いとしい学生の皆さん!
翻訳・監修:サティア サイ出版協会 |
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