母の子宮から生まれ出るとき
人はいっさい富を持ちはしない
この世を去るときも
人は何ら持っていきはしない
億万長者であっても
飢えを満たすために黄金を飲みこむことはできず
食物を口にせねばならない
どんなに富を誇っていても
人はこの世を去るとき
一銭たりとも持っていくことがかなわない
蜜蜂が集めた蜜を人間が楽しむごとく
人が蓄えた富は
やがては盗人か王の所有物となるのだ
(テルグ語の詩)
母の子宮から生まれ出るとき
人はその首もとに花輪をつけてはいない
真珠の宝飾品も
光り輝く黄金の装身具も持ちはしない
エメラルドやダイヤモンドのごとき
高価な宝石が散りばめられたネックレスも花輪も身につけてはいないのだ
しかし 人はその首もとに
ある一つの輪をつけている
ブラフマー神が
人の過去生での行為の結果をつないで
重たい輪となし
また生まれ出るその人の首にかけるのだ
(テルグ語の詩)
愛の化身である皆さん!
人には皆、母親がいます。母を喜ばせることなく、その愛を受け取ることもない人は、真の息子ではありません。母を敬うことは、子どもの最大の義務です。あなたが朝起きて真っ先にすべきは、母の足に触れて礼拝をささげることです。この尊い習慣は、常にあなたを守り、あなたにあらゆる種類の富を授けます。
神聖なオームの音に耳を澄ませなさい
「身体は寺院であり、その身体に住み給うものは神である」と言われます。どの寺院にも、鐘があります。しかし、人間の身体という寺院の中に存在する鐘は、外から見ることができません。誰もこの鐘を鳴らしてはいません。その鐘は、誰が鳴らさずとも自ら鳴り続けているのです。これをアナハタ(自ら鳴る)と称します。アナハタとは、人間の心臓に他なりません。この鐘が鳴り続けているとき、身体は吉祥であると考えられています。この鐘が鳴ることを止めるとき、身体は生命を失います。そのとき、私たちはその身体を死体と呼ぶのです。宇宙のすべてが神の寺院です。この宇宙という寺院の中で、鐘が絶えず鳴っています。それが、オーム(プラナヴァ)の響きです。それがゆえに、神は、音、動くものと動かざるもの、光、言葉、永遠の至福、完全なるもの、幻、富の化身として表現されるのです。今日、私たちは、この神聖なオームの響きに自らを調和させることをせず、世俗的な会話や虚しい噂話に耳を傾けています。私たちは、永遠の絶対存在、純粋意識、至福の化身なる神の神聖な声を聞くことができなくなっているのです。
もっとも偉大な神の帰依者とは?
昔、カーシーにあるヴィシュヴェーシュヴァラ(シヴァ神の別名、すべてのものの主の意)の寺院で、ある僧侶が神にアルティー(樟脳に火を灯して回す献火の儀式)をささげていました。すると、突然、大きな黄金の皿が上方から落ちてきました。僧侶は驚き、そばに寄って皿を眺め回しました。皿には、次のような文章が刻みつけられていました。「この皿は、もっとも偉大な帰依者に与えられるべきである」
それを読んだ僧侶は、こう思いました。「私は、毎日サハスラリンガルチャナ(神であるカイラスを描いたヤントラ【幾何学的模様の彫像】を形造った粘土でできた千百三十二のシヴァリンガムを配置する作法)とアビシェーカム(彫像の頭から水を注ぐ礼拝形式、リンガルチャナではビルヴァの葉をささげ、二十一種類のフルーツジュースをヴェーダのマントラを唱えながら注ぐ)の儀式を神にささげている。四つのヴェーダからのマントラを唱えて、自分の時間を神聖なものとしている。私よりも偉大な帰依者が存在し得るだろうか?」
そのような高慢な思いの中、彼は皿を手にしました。すると、突然、彼が持っていた黄金の皿は土の皿に変わってしまいました。その結果
に困惑した彼がすぐに皿を置いて手を離すと、土の皿は再び黄金に変わったのです。その日以来、黄金の皿を得るに値する人物を見出すために、寺院を訪れる人はすべて、その皿に触ることを請われるようになりました。しかし、誰が触っても、その皿は土に変わってしまうのでした。この素晴らしい皿を見ようと裕福な人々も大勢この寺院を訪れましたが、誰が触ろうともその皿は土に変わってしまいました。そのような日が長く続きました。当然のなりゆきとして、金持ちがいるところには、彼らから施し物を得るために貧者もまた集まってきます。毎日、大勢の人々が寺院に集うようになりました。
ある日、シヴァ神の熱心な帰依者がこの寺を訪れました。彼は、寺に集まる貧しい乞食たちの同情すべき状況を目にして、心を動かされ、こう思いました。「神は貧者をたいそう愛される。それゆえ、これほど多くの貧者を寺院へとお引き寄せになったのだ。神は、私が貧者に仕えるときにのみお喜びになるだろう。それこそが私がやりたいことなのだ。これらの貧しき人々の苦痛を和らげ、彼らを幸せにしてあげられたときのみ、私は幸福になるだろう」と。彼の心は貧者たちへの親切心と同情心で溢れていました。彼は、他の人々のように皿を触りにいこうとはしませんでした。彼には何の欲望もありませんでした。彼は、ダーマ(感覚のコントロール)の境地に達していたのです。
この帰依者を見かけた僧侶は、皿に触れてほしいと彼に頼みました。しかし、この帰依者はこう答えました。「僧侶さま、私には何の欲望もありません。ですから、この皿に触りたいとは思わないのです」。僧侶は、せめて自分を満足させてくれるためだけにでも皿に触れてみてほしい、と帰依者に頼みました。帰依者は、僧侶を失望させたくはなかったので、その皿に触りました。彼が皿に触れるや否や、それはさらなる光を増して輝き始めました。その状況を目撃していた人々は、彼のまわりを取り囲み、尋ねました。「おお、高貴なるお方よ!
あなたはどのような方法で礼拝をなさるのですか? どのような霊性修行をしていらっしゃるのですか?」
すると、帰依者は答えました。「私は、ヨーガも苦行も祭儀も供儀も、何もしてはおりません。ただ、貧しい人々に奉仕しているのです。神にとって、彼らはきわめて愛しい存在なのです」
苦行によっても巡礼によっても
聖典の学びやジャパによっても
人は人生という海を渡ることはできない
人は信心深い人々に奉仕することによってのみ人生の海を渡ることができるのだ
(サンスクリットの詩句)
裕福な者であっても、黄金を食べることはできず、飢えを満たすためには食物を口にしなければなりません。人はこの世を去るときは、蓄えた富を残していかなければなりません。そうであるならば、なぜ富を蓄えようと苦闘する必要があるでしょうか?
その代わりに、神の恩寵を得ようと格闘するほうがよいのです。あなたが、一途な帰依心で常に神を憶念し続ければ、神はあなたが必要なことすべての面
倒を見るでしょう。これこそが、神の真の帰依者の物語が教えるものなのです。私たちが蓄える金銭は私たちについてはきません。最終的に、金銭が誰のところに行くのかは、誰にもわかりません。たった一文すら持っていくことは不可能です。
皆さんは、神の恩寵を得るにふさわしくなるために、正しい行いをして、功徳を積まねばなりません。生まれ出たるとき、皆さんは首もとに何の花輪もかけてはいません。しかし、良かれ悪しかれ、すべての過去の行為の結果
という目に見えない花輪をかけているのです。そのカルマ(行為の結果)の首輪なしにこの世に生まれ出る者は一人としてありません。しかし、人はこの真実を忘れ、常に快楽と富を追い求めます。世俗的な喜びがどれほど長く続き得るでしょうか?
若者たちは、自らの若さや富を誇りに感じます。しかし、それらは一時的なものなのです。この真理を悟り、私たちは、神の恩寵という富を蓄えなければなりません。 先の帰依者は、そのような神聖な教えをまわりに集まった人々に教え、そののちに寺院を去ろうとしました。彼が外に出ると、黄金の皿もまた、そのあとをついてきました。皿と共に、すべてのコインもまた、転がりながら彼のあとを追いました。すると、乞食たちも、金の施しを求めて彼のあとに続きました。帰依者はこのように言いました。「愛しい皆さん、私に求めることに何の意味があるでしょうか。神がすべての守護者なのです。神が、すべての中のもっとも富める者です。それゆえ、神に祈ってください」
彼が移動するにつれ、たくさんのコインが黄金の皿からこぼれ落ちました。乞食たちはそのコインを集めました。帰依者は至福の境地に達し、目を閉じました。彼は、ヴィシュヴェーシュヴァラ神の御姿を見ました。彼は祈りました。「おお、ヴィシュヴェーシュヴァラ神よ、あなたは宇宙全体の主であります。この貧しい人々の面
倒を見てくださいますでしょうか? どうか、あなたの恩寵を彼らにお注ぎください」。
無私の愛をもって、すべての人々の安寧を祈ることがもっとも高貴な祈りです。この帰依者には、エゴの証跡さえありませんでした。彼は、無私の愛によって他者のために祈りました。それゆえ、神はこの帰依者に満足したのです。皆さんは、常に無私の態度で祈るべきです。そのような祈りのみが、神のハートを溶かすのです。世俗的な利益を求めて神に祈ることには、何の意味もありません。愛の化身である神は、私たちの心の中に住み、その中で鐘を鳴らし続けています。私たちは、その音色に耳を澄まさなければなりません。私たちの聖典は、帰依の九つの道を教えています。すなわち、聴くこと、歌うこと、ヴィシュヌ神を憶念すること、神の蓮華の御足に仕えること、礼拝すること、崇拝すること、神の召し使いとなること、友情をもつこと、真我に全託すること。
純粋な心は神への真のささげ物
真我への全託は、あなたが神に手向けねばならない真のささげ物です。神は、あなたがささげる世俗的な物には関心がありません。あなたが神にささげなければならないのは、神があなたに与えた、その心です。
おお神様
私は あなたが私にお与えくださった
この心をささげます
あなたの蓮華の御足に
それ以外の何をささげることができましょう?
私の礼拝をどうぞお受けください
(テルグ語の詩)
神は、あなたが稼いだ、もしくは蓄えた富には関心をもちません。神には、窮乏も富もありません。神はヴィシュヌ神の真なる本質なのです。富の女神ラクシュミー自身がヴィシュヌ神の内に住むというのに、あなたは神に何をささげることができるのでしょうか?
*パクシー ヴァーハナは
女神ラクシュミーを妻としている
その神が
どうして他者に施し物を乞うというのか?
*乗り物としてガルーダを従えるヴィシュヌ神
それゆえ、あなたは神に何もささげる必要はありません。神があなたに与えた神聖な心が、「彼」にささげられるべきなのです。カリの時代(正法がすたれ悪徳がはびこる時代)の影響により、人々は、神に与えられた心を神にささげる、という思いをもちません。その代わりに、彼らは、蓄えた富や世俗的な物品という、卑しく価値のない物を神にささげています。そのように低級で価値のない物を神にささげるべきではありません。あなたは、自らの神聖な心を神にささげなければなりません。それは、アナハタ
ダルマと呼ばれます。これこそが、私たちが常に護らなければならない宝物です。
愛の化身である皆さん!
カリの時代の影響を受け、帰依も知識も無執着も表面的なものとなっています。人々は、他者を喜ばせようとはしますが、神を喜ばせようとはしません。あなたがたは、神を喜ばせる行為をしなければなりません。あなたが、自分自身の好みによって行為するとき、どうして神が喜ぶでしょうか?
神がもっとも好まれるのは、愛に満ちた心(アナハタプレーマ)です。愛、犠牲の精神、至福で溢れているあなたの心(フリダヤ)をささげなさい。あなたは、いくらでも物をささげることができるかもしれませんが、あなたの心を神にささげるのでなければ、神はそれらの物を何ら受け取りはしないでしょう。受け取るふりをするかもしれませんが、それらを喜びはしないでしょう。あなたは、神を喜ばすものをささげなければなりません。それはあなたの心(フリダヤ)です。心(フリダヤ)は、愛と至福の源泉です。実際、心(フリダヤ)はすべての基盤です。あなたが、そのような神聖な心を神にささげるのでなければ、その他の表面
的なささげ物は何の役に立つでしょうか? 神は、そのような表面的なささげ物には関心を示しません。貧しい人々に慈悲深くありなさい。彼らが求めるものを与えなさい。彼らが寒さの中で震えていたなら、毛布を差し出しなさい。彼らには、あなたが与えたいと思う物ではなく、彼らが必要な物を与えるべきです。これこそが、母イーシュワランマの教えです。
母イーシュワランマが教えた尊い真実
私が学校に通っていたころ、夕方、私たち兄弟がブッカパトナムの学校から帰宅すると、母のイーシュワランマは、その日学校で何があったかを愛情深く尋ねたものでした。ある日、子どもたちは彼女にこう言いました。「おかあさん、今日、ある先生が、サティアを椅子の上に立たせたんだよ」。そして、彼らはその教師を批判し始めました。イーシュワランマは、それをさえぎりました。「子どもたち、自分の先生の悪口を言うものではありません。ちゃんとした理由もなしに自分の生徒を罰する教師などいませんよ。サティアのほうが、何か間違えを犯したのかもしれません」。そして、母は私に尋ねました。「サティア、どんな間違えをしたの?」 私は、起こったとおりの事実を彼女に告げました。教師は、生徒にこう命じたのです。「ノートを書き終えた者は、机の上に置きなさい。書いていない者は、椅子の上に立ちなさい」。私は、ノートをとっていませんでした。それは私の過ちです。それゆえ、私は椅子の上に立ちました。そして、また、必要である以上のことを次のように言いました。「先生、ノートをとっていた生徒たちは皆、先生の質問に答えられるでしょうか?
僕はノートをとってはいませんでしたが、先生がお尋ねになるどのような質問にも答えることができます」。
教師は、私のことをエゴイストであると感じ、私に、三時限にわたって授業の間立っているようにと命じました。私は彼の言うことに従い、椅子の上に立ちました。そうこうするうちに、もう一人の教師、マフブーブカーンが教室にやって来ました。彼はイスラム教徒で高貴な人物でした。彼は、私が椅子に立っているのを見て胸を痛め、なぜこの少年を椅子の上に立たせているのか、と尋ねました。「ノートをとっていなかった罰です」と、教師が答えました。マフブーブカーンは、このように言って私をかばいました。「ノートをとっていないことが何なのでしょう?
彼は、あなたの質問にすべて答えることができます。それで充分ですよ。彼に座るようにおっしゃってください」。しかし、教師は、自分の命令に従わなかったのだから罰されるべきだ、と言い張りました。
やがてベルが鳴り、教師は別のクラスに行かねばなりませんでした。しかし、彼は椅子から立ち上がることができませんでした。最初、彼は、自分のドーティー(下衣)が椅子の釘に絡みついたのかと思いました。しかし、そうではありませんでした。彼が椅子にくっついてしまったのです! 彼が椅子から立ち上がろうとすると、椅子もまた、彼にくっついてくるのでした。マフブーブ
カーンはこう言いました。「彼は普通の少年ではないのです。彼は偉大なる神聖な力の持ち主の一人です。あなたは、適切な理由なしに彼を罰しました。せめて今からでも、彼に座るようにおっしゃってください」。教師は自分の過ちに気づき、私に座るように言いました。するとただちに、彼は椅子から立ち上がることができたのです。
このすべてが母イーシュワランマに告げられたとき、彼女はこう言いました。「愛しいサティア、あなたは自分の先生を罰するべきではありません」。私はこう答えました。「私は彼を罰しはしませんでした。実際、彼が自分で自分を罰したのです」。
イーシュワランマは、子どもたちに、このように神聖な教えを伝えました。「私の愛しい子どもたち、あなたがたは、学ぶために学校に行っているのです。何を学ぼうとも、それを適切に役立てなさい。そのときに初めて、真に教育された者と呼ばれ、サークシャラ(真我に目覚めた者)という称号を得ることができるでしょう。学んだことを適切に役立てないとすれば、あなたがたは、ラークシャサ(悪魔)となってしまいます。サークシャラという称号を得られるように努力しなさい」。そして、彼女は私にこう言いました。「サティア!
どんなときでも、どんな状況にあっても、誰にも憎しみの感情をもってはいけません。すべての人を愛しなさい。そうすれば、あなたはすべての人から愛されるでしょう」。もしも私たちが他者を愛さなければ、どうして私たちが他者から愛されることを期待できるでしょうか?
愛を与え、愛を受け取りなさい。愛は一方通行のものではありません。あなたは与え、受け取るべきです。私は、すべての者を愛しています。それゆえ、皆が私を愛するのです。私の中には憎しみや悪意の証跡もありません。このようにして、母イーシュワランマは、子どもたちに多くの神聖な理想を教えました。
人は、そのように神聖な教えを授けるために、いかなる正式な教育をも受ける必要がありません。高い教育を受ける人々はたくさんいますが、その用途は何でしょう?
彼らは、その知識を適切に用いようとはしません。多くの神聖な教えを受けたならば、それらを実践すべきです。皆さんは、帰依心をもって礼拝をし、バジャンを歌います。そのバジャンの歌詞の少なくとも一つの言葉を実践しなさい。たとえば、あなたは、神を愛の化身と賞賛します。それと同様に、あなたの生活において、神の愛の原理を実践しなければなりません。
母イーシュワランマは、私の帰依者が彼女のまわりに集うとき、彼らに多くの神聖な教えを与えたものでした。私は、プラシャーンティニラヤムで彼女に小さな部屋を与えました。たくさんの女性がそこを訪れ、彼女にこう嘆願したものでした。「母上さま、私たちはここに長い間滞在しています。さらに留まるためのお金は尽きてしまいました。どうか、私たちにインタビューを与えてくださるようスワミにお頼みください」。彼女はいつも、次のように正しく答えました。「愛しい皆さん、スワミは私たちの目には小柄に映るかもしれませんが、誰の言うことにも従われません。人の勧めに従って行為されることはありません。彼は、皆さんが受けるに値するものをお与えになります。皆さんは、スワミの神聖な原理を理解するように努めるべきです」。このようにして、彼女は帰依者たちに適切な導きを与えたものです。
ある日、彼女は私にこう言いました。「サティア! あなたの名前と名声は、広く遠くまで広まりました。世界中の人々が、あなたのもとにやって来ます。どうか、あなたの意志によって、世界に平和をもたらしてください」。私は、彼女にこう言いました。「世界の平和は私が意志しなければならない、というものではありません。それぞれの人が自分たちで平和を達成しなければなりません。なぜなら、人は本性として平和の化身だからです。人は真理の化身です。人は愛の化身です」と。皆さんは、平安であり、真理であり、愛なのです。愛を体験し、平安を得て、真理の道に従わなければなりません。真実を語り、正義を実践しなさい。この原理に従うとき、皆さんは何であれ達成することができるのです。
国の将来は高貴な母親たちの手中にある
古より、子どもたちを正しい道に沿って導いた多くの高貴な母親がいました。国家の将来は、母親たちの手の中にあります。それゆえに、人は自分の国を母国と呼ぶのです。バーラタ(インドの古称)は多くの高貴な母親たちを生み出しました。私たちの古の文化は、母親に第一の場所を与えました。父親はその次に位
置するのみです。
招待状でさえ、私たちは、夫婦の宛名の敬称をSmt. and Sri.(シュリマティ&シュリ、英語のミセスとミスターに相当)のように女性、男性の順で記します。夫は高い教育を受け、権威ある地位
を得ているかもしれません。彼は、国の大統領であるかもしれません。しかし、私たちは、招待状を送る際に、Sri.
and Smt.と書くことはできません。Smt.が先に来なければなりません。古来、バーラタにおいては、婦人は大いなる崇敬と敬意をもって処遇されてきました。このバーラタの国は極めて神聖です。しかし、不幸なことに、人々は母国への愛を失ってしまいました。
自分の母を愛し、その母の愛を受け取る者のみが、真の人間です。母の愛を得ることができない者はまさに悪魔です。それゆえ、あなたの母を尊重し、崇敬しなさい。母の愛を体験し、味わいなさい。あなたの生活を、母親の幸福のためにささげなさい。皆さんは、いくらでも学位
を取ったり、神聖な行為をすることができるかもしれません。しかし、もしあなたが母を喜ばせないのなら、それらすべては虚しいものとなるでしょう。この世に、母親に勝るものは何もありません。ヴェーダは、「母を神として、父を神として、師を神として、客人を神として崇めよ」と宣言する際に、母親にもっとも重要な位
置を授けています。この世に、母を愛さない息子はいるかもしれませんが、息子を愛さない母は存在し得ないのです。母と子の間で意見の相違は起こるかもしれませんが、母の愛は決して衰えることがありません。
学生の皆さん、少年少女の皆さん!
あなたがたも、やがては父となり母となるでしょう。現在、皆さんが両親を愛し敬ってこそ、皆さんも自分の子どもたちから愛し敬われるのです。皆さんは、自分の行為の反応、反響、反映に直面
することになるのです。両親を敬うなら、将来皆さんには豊かな報酬がもたらされることでしょう。
両親を敬い、人生を神聖なものとしなさい
今日、私たちは「イーシュワランマの日」を祝っています。皆さんに、イーシュワランマが子どもたちに注いでいた深い慈悲と愛を物語る出来事をお話ししましょう。そのときは夏期講習が開かれており、さまざまな州や国から訪れた学生たちが参加していました。講習を統率していたゴーカクは、犠牲の精神をそなえた気高い人物でした。また、偉大な学者でもありました。彼は、模範的なやり方で講習を統括していました。
ある日、学生たちは食堂で昼食をとっていました。その中の一人が立ち上がり、他の学生たちが食事を終える前に外に出て行きました。それを窓越しに見ていたゴーカクは、彼を呼んで、彼の規律を欠いた行動をたしなめました。「仲間の学生たちが食事をしているときは、たとえ君が自分の食事を終えたとしても、途中で立ち上がるべきではない。それは、結果
的に仲間への無礼となるのだよ」。そう言うと、ゴーカクは、彼に講習を受けてはならないと告げました。少年は涙を流しましたが、ゴーカクの決意は変わりませんでした。
少年は、イーシュワランマの部屋を訪ね、彼女の足にひれ伏して泣き出しました。彼は、ゴーカクから厳しく罰せられたことをイーシュワランマに告げました。そして、自分を助けてほしい、と彼女に嘆願しました。イーシュワランマは少年を慰めてから帰しました。彼女は、ゴーカクがいつも通
る階段のところに腰掛けていました。しばらくすると、彼が姿を現わしました。彼女がゴーカクに挨拶をすると、彼も最高の敬意をこめて彼女に挨拶を返しました。すると、イーシュワランマはこう言いました。
「私があなたに挨拶をすれば、あなたも挨拶を返してくださいます。同じように、もしあなたが他の人を罰すれば、あなたもまた罰されることになるでしょう。あの少年は、自分の無知から過ちを犯しました。どうか彼を許し、講習に参加させてやってください」。ゴーカクは、イーシュワランマの忠告に従い、少年を許しました。このようにして、イーシュワランマは、他者を助け、癒し、慰めるために心を配ったものでした。彼女の英知の言葉は、人々の心に刻みこまれました。
あなたは、自らの行為の結果に直面することになるのです。もしも他者に荒々しく話しかけるなら、それは反響としてあなたへと返ってくるでしょう。もしも他者を打ったなら、それは反映としてあなたへと返ってくるでしょう。それゆえ、他者を傷つけてはなりません。善いことをして、善い人間となり、善いものを見て、善いことを話しなさい。そのとき、あなたは豊かな報酬に恵まれることでしょう。
母イーシュワランマは、正式な教育はいっさい受けていませんでしたが、深遠なる英知の持ち主でした。イーシュワランマが与えた教えは、ゴーカクの心の中にずっと刻みこまれました。のちに、彼が副学長としてプッタパルティに来たとき、彼はイーシュワランマの英知の言葉を思い出したものでした。彼は、しばしば彼女のことを思い浮かべました。彼はこのように言っていました。「私は毎日のようにイーシュワランマ様の夢を見るのです。私は、彼女が伝えてくださった英知の言葉に従っています。彼女のアドバイスは、私にとってのみならず、皆にとっても有益です」
私たちは、他者を批判するべきではありません。他者を傷つけてもならず、愚弄すべきでもありません。私たちは、すべてを愛するべきです。これが、私たちが学ぶべきことです。すべてを愛しなさい。これが、母イーシュワランマのもっとも大切な教えです。愛を与え、愛を受け取りなさい。真摯に自らの義務を果
たしなさい。そうすれば、あなたは確実に人生において進歩することでしょう。あなたが誰であろうと、年長者の神聖な教えに従いなさい。人々は、教えのそれぞれを、ラーマによるもの、あるいはクリシュナや聖賢の誰それによるもの、などのように規定します。その教えがラーマのものであろうとクリシュナのものであろうと、関係ないのです。導師たちが、何の教えを、なぜ、いつ、どこで、そしてどのような状況のもとで与えたのかを尋ねなさい。あなたは、それらの教えが与えられた背景を把握し、状況に応じた行動をとるべきです。年長者や聖者たちの命ずることに従うとき、あなたは確実に人生において高い位
を獲得するでしょう。
愛の化身である少年少女の皆さん!
母親の言葉に関心を払わない学生がたくさんいます。それは重大な誤りです。母親は、子どもの安寧を願い、心の底から語りかけているのです。皆さんは、母の気持ちを理解し、その言葉にしかるべき敬意を払わなければなりません。母の教えを無視するなら、人生において成長できません。両親の命令に従いなさい。皆さんは、あらゆる種類の教育と力を必ず授けられることでしょう。それらを得るために、いかなる特別
な努力もする必要はありません。誠実にあなたの義務を果たしなさい。両親の言葉を決して軽んじないようにしなさい。愛をもって両親の言葉に従い、あなたの人生を神聖なものとしなさい。皆さんが両親に幸福を与え、それによって他の人々に理想を示すようになることを願いつつ、私は皆さんを祝福してこの講話を終えることとします。
バガヴァンは、「サッティアム グニャーナム アナンタム ブランマー・・・」のバジャンをもって御講話を終えられました。
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