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母の子宮から生まれ出るとき (テルグ語の詩) 愛の化身である皆さん! それほど神聖な力をもつ母親を無視するのは大きな罪です。まさに、母親の心の気高さと神聖さを思い出させるために、霊性の分野では、まず母を神として崇めよと説き、母親には第一の位 が与えられてきました。それは「マトゥルデーヴォー バヴァー」(母を神と崇めよ)、「ピトゥルデーヴォー バヴァー」(父を神と崇めよ)、「アーチャーラデーヴォー バヴァー」(師を神と崇めよ)、「アティティデーヴォー バヴァー」(客を神と崇めよ)と謳われています。このように、母親は真っ先に謳われています。母親に対する名誉と尊厳を守って初めて、真の息子と呼ばれる資格を与えられます。母親の愛を獲得できなかった人の人生は浪費にすぎません。ですから、私たちはまず第一に、母の愛を得るに値するようにならなければなりません。母の愛を言葉で説明しつくせる人などいません。母親の意志の強さがあってこそ、息子は人生で成功を収めます。ですから、人は自分の母親を敬い、愛するべきなのです。母親には最高の位 を与えなけれなければなりません。それができる人だけが、真に国をリードしていくことができます。神々は崇めても崇めなくてもかまいませんが、母は必ず神として崇めなければなりません。決して自分の母親の愛を忘れてはなりません。母の愛は最高です。子どもの中にある神聖な思いは、唯一、母の愛によって発達します。気高い性質を備えた母親のいるところには、必ず平和と繁栄がもたらされるでしょう。自分の母親の愛を無視して人々の愛を切望するのは愚かなことです。それゆえ、人は母を崇め、尊ぶべきです。経験によって母の愛を知ろうと努めるべきです。 シュリ・ラーマ・クリシュナ・パラマハンサの母親は気高い女性でした。飲み物も食べ物もない悲惨な状態にあったとき、彼女は神に対する揺るぎない信仰と信愛を育み、気高い思いを抱き気高い行いに従事することに時間を費やすことで、神の恩寵を得ました。母親を尊敬し、母親の愛を獲得して初めて、人は真の意味で人間と呼ばれることができます。この世には母親より偉大な神はいません。残念なことに、今、人々はこの真理を忘れ、さまざまな場所に神を探しに行っています。目に見えない神を切望する代わりに、自分の目の前にいる生きた神に、礼拝し、奉仕すべきです。これをしないで、神の聖なるダルシャンを得ようと、苦行や聖地巡礼、礼拝や儀式といったさまざまな行いを始める人がいますが、それは無駄
です。先に自分の母親の愛を勝ち取らずして神の恩寵を勝ち取ることはできません。 シュリ・ラーマクリシュナ・パラマハンサはたいへん貧しい家庭に生まれました。ラーマクリシュナの母親は物乞いをして息子を育てていました。通 りで物乞いをして集めた食べ物は、それがどんなにわずかなものであれ、すべて息子に食べさせ、自分は何も食べずに済ませていました。そうこうするうちに、母親はたいそう弱り、健康が衰えてしまいました。ある日、ラーマクリシュナは母親にこう尋ねました。「お母さん! どうしてそんなに健康が衰えてしまったの?」。隣にいた女性がそれに答えて言いました。「坊や! お母さんは通りで物乞いをして坊やを養っているんだよ。そして、もらった食べ物は全部坊やに食べさせているから、自分は食事なしで済ませなくてはならないのさ。それほどの、愛の化身そのもののようなお母さんを苦しませることがあってはならないよ」。それ以来、ラーマクリシュナは母親が至極健康でいられるために十分な注意を払いました。ラーマクリシュナは、村のいろいろな家から食べ物を集めてきて、まず最初に母親に食べさせ、自分はその残りを食べるようになりました。そうすることによって、ラーマクリシュナは母なるカーリー女神の恩寵を得て、女神の神聖な御姿を見ることができました。 バーラタ文化は何よりも「マトゥルデーヴォー バヴァー「(母を神と崇めよ)」と「ピトゥルデーヴォー バヴァー(父を神と崇めよ)」を強調しています。自分の母親の愛を得ることができた人は、他のすべてを得ることができます。シュリ・ラーマクリシュナ・パラマハンサが名声を得ることができたのは、もっぱら母親の愛を得ることができたからです。西ベンガル州には何人の偉人がいるでしょう? 気高い性質を備えた人、金持ち、教養のある人は何人いるでしょう? そうした人たちでも、神への信仰に欠けていたために、この世で成功を収めることはできませんでした。ラーマクリシュナ・パラマハンサが、母親を愛し、母親の命令に従うことによって理想的な生活を送ることができたのは、ひとえに母親の強い信仰心と信愛のたまものです。ラーマクリシュナはよく、この世に母の愛ほど偉大で気高いものはないと人々に説いていました。実に、母は神です。それゆえ、愛の化身である母の気持ちを傷つけるのは、正しいことではないのです。母親への愛を育んで初めて、人生に幸福と繁栄が訪れるでしょう。ですから、私たちはまず第一に、自分の母親の愛を勝ち取るよう努力しなければなりません。母親のすることは何であれ私たちのためになることです。私たちもそのような不動の信念を育てなければなりません。世間のどんな偉人の歴史を見ても、その偉大さは母親のおかげです。 現代の学生は自分の母親の愛を勝ち取ることができずにいます。子どもを育て、どうにか教育を受けさせるために、母親は辛い体験をし、わずかなルピーを得るために重労働をも引き受ける覚悟です。それほど気高い母の愛を忘れてしまうとは、何という神への冒涜でしょう!母親の愛を勝ち取ることができた人は、神の愛も得ることができます。私たちは大地から生まれたのでも、空から生まれたのでもありません。私たちは母親の子宮から生まれました。母と息子の間には、時たま意見の相違が生じることもあるでしょう。けれども、だからといって母親が息子を嫌い、息子を見捨てることなどありません。自分の母親を嫌う息子はいるかもしれませんが、自分の息子を嫌う母親は一人もいません。母親はつねに息子の幸せを強く願っています。母と子が争いを起こして法廷に立ったとしても、「彼は私の息子であり、私は彼の母親です」と母は言うでしょう。母と子は、それ以外にお互いを言い表すことはできないのです。母親はいつも子どもの安全と、健康と、幸福のために励んでいます。 今、人がさまざまな困難に遭っているのは、それほど気高い母の愛を無視しているからです。自分の母親の愛を得ようと努めるなら、他のすべての人々の愛を得ることができます。あなたのお母さんの愛は、いつもあなたと共にあり、あなたが努力を傾けるとき、絶えずあなたを守り導いてくれるでしょう。残念なことに、人々はこの真理に気づくことができずにいます。そして、「あんな婆さんには少しの食べ物を与えるだけで十分だ」と思っているのです。人々はひどく心が狭く、利己的です。母親に食事を出せば自分の責任は果 たされると思うのは、重大な誤りです。母親はいつも高い尊敬を受け、尽くされていなければなりません。母親には幸福感と満足感が与えられなければなりません。 プンダリカはパーンドゥランガ神の熱心な帰依者でした。プンダリカはつねに、両親への奉仕はもっとも重要であると考えていました。ある日、プンダリカは足をもんで両親に尽くしていました。そこに、両親に対するプンダリカの愛を試そうとしたパーンドゥランガ神が現れました。けれども、プンダリカは集中をそらされたくなかったため、両親への奉仕を続けていました。すると、パーンドゥランガ神が尋ねました。「親愛なる私の息子よ! 私はダルシャンを与えようとおまえの前に現れた。なのにおまえは私を見ようとはしない。おまえはだれに対してそれほどいちずに尽くしているのか?」プンダリカは、自分は両親に尽くしているのだと答えました。次に、パーンドゥランガ神はこう質問しました。「神は両親よりもすぐれているのではないか? ほんの一瞬だけでも私のダルシャンを得てはみないか?」しかし、プンダリカは心を乱されませんでした。プンダリカは返答しました。「両親は私にとっての生き神様です。両親を寝つかせるまでは、あなたのダルシャンをいただくことはできません。もし、私にダルシャンをくださることをお望みでしたら、このレンガの上に立ってお待ちになってください」。そう言って、プンダリカはパーンドゥランガ神にレンガを差し出しました。すると、パーンドランガ神は、親に対するプンダリカの愛と献身を褒め称え、こう宣言しました。「すべての人間が自分の親に対するこれほどの愛と献身を育むなら、この世はつねに安泰で、栄え続けるであろう。願わくばこの世におまえのような気高い息子が増えんことを」。それ以来、犠牲と無執着という偉大で気高い理想がプンダリカの中で育ち続けました。プンダリカは幸せな気持ちで、自分の親に尽くすこと、親の愛を得ることに時間を費やしました。 プタリバイはマハトマ・ガンジーの母親です。プタリバイは昔に立てた誓いを守り続けていました。プタリバイは、カッコーの鳴き声を聞かないうちは午後の食事を取りませんでした。当時、ガンジーは子どもでした。ある日のこと、午後三時を過ぎてもカッコーが鳴かず、ガンジーの母親は食事を取っていませんでした。ガンジーにとって、お腹が空いている母親は見るに堪えませんでした。そこで、ガンジーはある計画を思いつきました。ガンジーは家の裏に行って、カッコーの鳴きまねをしました。それから、家に入って、「お母さん!
カッコーが鳴いたよ。だから、ご飯を食べてもいいんだよ」と母親を説き伏せようとしました。しかし、ガンジーの母親は息子の嘘に気づいていました。プタリバイはたいそう腹を立てました。そして、ガンジーをつかむと、ガンジーのほおをピシャリと二度ぶちました。プタリバイは怒りと悲しみを抑えることができなかったのです。プタリバイはこう言ってガンジーをたしなめました。「おまえのような嘘つきを生んだとは、私は何と不幸なんだろう」。ガンジーは自分の犯した悪さを悔い、母親に許しを請いました。そして、ガンジーは、今後一切、一生嘘はつかないという誓いを立てました。
あるとき、イーシュワランマが私のもとに来て、こう願いました。「スワミ! 貧しい母親たちが子どもを連れて来ています。この人たちには食べるものもないのです。どうか祝福してあげてください」。そこで私は、適切な助けを施し、イーシュワランマの望みをかなえました。また、あるとき、イーシュワランマは私のもとに来て、自分の苦悩をこう打ち明けました。「スワミ! 五歳の幼子たちが、ブッカパトナムの学校までの行き帰りを歩いて通っています。毎日そんなに長い距離を歩いたあとで、どうして勉強などできるでしょう?」。そこで私は、その子どもたちの両親を呼んで、こう助言しました。「このおちびさんたちは、学校で教師から習うよりも多くのことを自分の母親から学ぶことができます。教育を受けさせるためとはいえ、こんな小さな子どもをあんなに遠くまで行かせる代わりに、まず、自分が知っている小さなことを子どもたちに教えることができるでしょう。少なくとも自分が知っている2か3つのアルファベットを教えておあげなさい」。その後、私はプッタパルティに学校を建て、イーシュワランマの望みをかなえました。 当時の母親たちは、無知で文盲でしたが、決して神に祈ることをやめはしませんでした。神を愛しなさい。世俗の物事に時を浪費するのは無駄
なことです。決して他の人の真似をしようとしてはなりません。私たちは、自分の かつて、この肉体が一生徒であったときに、何人かの政治的指導者が私のところにやって来て、こう求めました。「ラージュ! 我々は君が良い詩を書くことを知っている。 我々は同胞たちが多く集まる会合を開くことになっている。君に、同胞を奮い立たせることができるような良い歌を書いてもらいたい」。それは第二次世界大戦の最中でした。アドルフ・ヒトラーがヨーロッパの諸国を征服しようと進攻していました。ヒトラーはロシアにも進攻しようとしていました。一方、インドは英国人の支配下にありました。そういった状況を考慮に入れて、私は短い芝居を書きました。その芝居の中で、私は揺りかごにゴム人形をしのばせて、そっと揺りかごを揺らしながらこのような歌を歌いました。 泣かないでおくれ、我が子よ、泣かないでおくれ 当時の母親たちは、人々を奮起させるこのような愛国的な歌を歌って、子どもに良いことを教えていました。母親たちは子どもの人格を国の英雄となるよう形造っていました。母親たちの話に真実でないことは一つもありませんでした。母親たちは真実に即した言葉によって、子どもに真理の道を教え込んでいました。 あるとき、プッタパルティの村がコレラやペストといった伝染病に襲われたことがありました。何人かの人が死にました。そこで私は、こうした病気は汚染された水を飲んだり不純な食べ物を食べたりすることで広まるのだから、よく気をつけるようにと村の子どもたちに警告しました。 私は子どもたちにこう忠告しました。「水は浄化してから飲むんだよ。ほんのちょっと食べるときでも、清潔で衛生的な食物だけを食べるようにするんだ。それだけでなく、口はいつもきれいに、清潔にしておくんだよ。いくつかの病気は口を不潔にしておくとかかるんだ。お腹が空いているからといって、見つけたものを何でも食べるのは良くない。その食べ物が健康や幸福を保つものであるにせよ、ないにせよ、重要なのは神の恩寵なんだ。だから、必ず神様にお祈りをするんだよ」。幸せは、つねに神を憶念することによって達せられるものに他なりません。幸せは外界の事物によって達せられるものではありません。幸せは唯一自分自身の 理想的な人生を送った両親こそが、古より私たちの国バーラタを養い育ててきたのです。残念なことに、今、親の言うことを聴く息子を見ることがありません。現代の若者は、まるでそれが馬鹿げた話であるかのように、親の言葉を払いのけ、親を無視しています。これは正しいことではありません。親の言葉は馬鹿げた言葉などではありません。親の言葉は、まさに心の底から話している真実の言葉です。神は、純粋な意識で言葉に出された祈りをよく聞いていて、その人に神の恩寵を降り注ぎます。ですから、どのような御姿をとった神であれ、自分の好む神にいつも祈り、神の恩寵によって人生を聖化すべきです。古より、バーラタの女性たちは、そのようなひたむきで信愛のこもった祈りを神に捧げてきました。それこそが、バーラタという国が大いなる高みに達することのできた理由です。 愛の化身である皆さん! ニワトリが鳴く早朝に起きなさい (テルグ語の詩) 今、年長者も子どもも正しい歯磨きをしていません。そのため、私たちの間からさまざまな病気が広まっていくのです。良いことであれ、悪いことであれ、その両方の責任は私たち自身にあります。善悪はひとりでにはやって来ません。神聖な思いを育てるなら、良い報いを得るでしょう。神聖な思いを根づかせるには、良い習慣を育てなければなりません。 「実に、知識は機械的な実践にまさる。さらに良いのは瞑想である。しかし、行為の果 報の捨離は瞑想にまさる。なぜなら、実に、行為の果報の捨離は解脱をもたらすからである」 (ギーター第12章12節) 朝早くから夜寝床に就くまで、もし、良い活動に従事するなら、それは自然と習慣となるでしょう。まさに、国はそのような若者を必要としています。若者とはだれでしょう?
一般に、人々は、18歳から20歳の年齢にある少年少女が若者であると考えています。これは正しくありません。気高い考えを抱いている人だけが若者と見なされるのです。ですから、人は高貴な考えを培わなければなりません。朝起きてすぐに行うべきことは、「ラーマ!
クリシュナ! ゴーヴィンダ!」と神の御名を唱えることです。そして再び、夜寝る前にも神の御名を唱えなければなりません。このようにして神の御名を唱えていれば、あなたはいつも良い思いを抱いていることができるでしょう。残念なことに、現代人は神の御名を唱えることをすっかり忘れてしまっています。現代人は、高い教育を受け、高い学位
をもっていると人々は考えていますが、皆に正しい道を歩ませることもできずにいるのです。自己探求を促すことのない教育など教育ではありません!
そのような教育は混乱へと導くものにすぎません! 単なる読書は教育とは言えません。読書で得られるのは本の知識だけです。それは人工的な知識です。真の知識は 愛の化身である皆さん! 古代の母たちはこうした神聖な物事を自分の子どもに教えていました。そのため、当時の子どもたちはいつも神の憶念に従事していたのです。その結果
、国はつねに神に守られていました。私たちにとって重要なのは体ではなく、思いと気持ちです。さまざまな人が「神はどこにいるのですか?」と尋ねてきます。私はそのような人々にこう言っています。「愛しい者よ!
私は神です。あなたもまた神なのです」。これが真理です。なぜこの真理を語るのを恐れる必要があるでしょう?
神は遍在です。すべては神の顕れです! 神性はすべての人の内にあります。そうでなければ私たちはこの世で生きられません。神への信仰があったからこそ、私たちは今日までこの世に生き続けることができたのです。このことを実証する小話があります。
愛の化身である皆さん! (バガヴァンは「ラーマ・ラーマ・ラーマ・シーター」のバジャンで御講話を終えられました)。 翻訳:サティア・サイ出版協会 |
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