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良い教育とは、 (テルグ語の詩) 教育とは、ただ、さまざまな本を読んだり、書物上の知識を集めたり、それを他者に教えたりすることではありません。ただ本の知識を集めても、役に立ちません。本の知識を得ることで、もしかしたら、あなた自身が本になってしまうかも知れません。本当の教育とは、同胞の人類の一体性、平等、平和的な共存を促すものです。教科書や定期刊行物を読んで机上の知識を獲得することは、いわゆる世俗的な教育です。今日では、世界中の多くの人々が、この種の教育のみを追及しています。しかし、これは本当の教育と呼べるものではありません。 真の教育は心(ハート)から流れ出るものであり、それは「エデュケア」と呼ばれています。「エデュケーション」(教育)と「エデュケア」の間には大きな違いがあります! エデュケアは、あらゆる種類の教育の根本であり、基礎となるものです。エデュケアはアーダーラ(支え)であり、エデュケーションはアーデーヤ(支えられるもの)です。私たちが読む教科書はどれも、エデュケーションのみを教えています。しかし、これではまったく不十分です。私たちはエデュケーションと共にエデュケアも追求しなければなりません。 トレーター ユガ〔ラーマが降臨した時代〕の聖者ヴァールミーキは、大叙事詩『ラーマーヤナ』を著しました。『ラーマーヤナ』は、聖なる感情の自然な発現として、この偉大な聖者から顕れたものです。偉大なリシ〔聖仙〕、ヴェーダ ヴィヤーサによって書かれた『バーガヴァタ』も、そのようにして顕れたものです。この二人の偉大なリシは、自分たちの心の奥底から顕れる聖なる感情を、大叙事詩という形に表現したのです。この二つの叙事詩が永遠の真理を説く不滅の著作物となったのは、そのためです。この二大叙事詩は、偉大なアヴァター〔神の化身〕たちの聖なる人生とメッセージを伝えています。これらは、神のヴィジョンを得た偉大なリシたちによって書かれたのです。 シーターが14年の追放期間に森でラーマと暮らしていた間、ラーマはシーターに多くの事を教えました。シーターは、それらを誰にも明かしませんでしたが、注意深くその教えに従っていました。追放期間が終わり、シーターとラーマとラクシュマナは、アヨーディヤーの都に戻りました。ラーマはアヨーディヤーの王位に就きました。そして、時は過ぎていきました。 ある日、ラーマはラクシュマナを呼び、馬車でジャーナキー〔シーター、ジャーナカ王の娘の意〕を人里離れたガンジス川のほとり〔の森〕に連れて行き、そこに独り残して戻ってくるようにと言いつけました。ラーマの命令に従い、ラクシュマナはシーターを森に置き去りにして、都に戻ってきました。その森を、沐浴の行をするために出向いたガンジス川から自分の庵への帰る途中の、聖者ヴァールミーキが通りかかりました。ヴァールミーキは悲しみに打ちひしがれたシーターの声を耳にしました。ヴァールミーキはシーターの悲しい身の上話に耳を傾け、シーターを慰めて自分の庵に連れて行きました。 その庵で、シーターは、絶えずラーマとラーマの栄光を想って時を過ごしました。ラクシュマナに森に置き去りにされたとき、シーターはすでに身ごもっていました。九ヶ月後、シーターはラヴァとクシャという双子を出産しました。聖者ヴァールミーキの愛に満ちた世話と指導を受けて、双子の兄弟は、偉大な戦士に、そして、ラーマの子として恥じない息子たちへと成長しました。 ある日、シーターは我を忘れて深くラーマを想っていました。ラーマと共に過ごした幸福な時間と、あの転機での絶望感を想っていました。そうするうちに、クシャとラヴァが庵に戻ってきて、母が涙を流しているのを見ました。息子たちには母の悲しみの理由が分かりませんでした。二人は母に涙のわけを尋ねました。そして、母を慰めようとして言いました。 「ああ、母上! ラーマ神よりも力強い勇敢な息子がいるのに、なぜ泣くのですか? 僕たちの力と勇気を侮らないでください」 シーターと息子たちが話しているのを見ていた聖者ヴァールミーキは、シーターにこう助言しました。 「アンマ〔母なるお方〕! どうか感情を抑えてください。この子たちは普通の子どもではないのです。博識であるだけでなく、問題を熟考して、しかるべき決断をする能力を備えているのです。この子たちには、優れた識別力と分析力があるのです」 ラーマは、王国を統治している期間に、敵を倒して王国の平和と繁栄を確かなものとするために、ヴェーダに述べられているアッシワメーダ ヤーガ(馬供犠)を執り行うことを望みました。そのために一頭の純白の馬が選ばれ、その額には、大陸のすべての君主に向けてのメッセージが書かれた金製のプレートが付けられました。そのプレートにはこう刻まれていました。 「強き者は、勇気あらばこれを捕えよ。さもなくば、ラーマの統治を受け入れて、税と貢物を支弁せよ。あるいは、この地から立ち去るがよい」 その馬は王国に放たれ、シャトルグナが率いる膨大な軍隊がそれに続きました。行軍の途中で、軍隊は何人かの王を降伏させ、ラーマの支配下に置きました。 そうして移動しているうちに、軍隊を従えた白馬は、ある日、聖者ヴァールミーキの庵のそばにやって来ました。ラヴァとクシャの双子は、供犠のための馬と、それに続く軍隊を見ました。二人は馬を捕らえ、額につけられた銘を読むと、シャトルグナとその軍に立ち向かうことにしました。二人は白馬を制御して、ヴァールミーキの庵につなぎました。それから、白馬の守り手たちと戦うために戻っていきました。双子の兄弟は、その結果起こった戦いで、あらゆる敵を次々と制していきました。 まず、バラタ、そしてシャトルグナが対峙しました。彼らは二人が戦いを思いとどまるよう、こう言って最後の説得をしました。 「君たちはまだ子どもだ。君たちは母君と聖者ヴァールミーキの愛情深い保護の下にあって、これまでの人生で何の困難にも遭っていない。どうか我々の軍隊と戦うという考えは捨てて、アシュラム〔庵〕に戻ってくれ。もし、どうしても戦うというのなら、私たちには用意ができている」 二人の子どもは、アシュラムに戻れという説得にはどうしても応じませんでした。二人に戦いへの恐れはまったくありませんでした。そのため、二人は言い返しました。 「僕たちにも戦いの用意はできている」 そう言うと、二人はバラタとシャトルグナとの真剣な戦いを開始しました。バラタとシャトルグナは、ラヴァとクシャの放つ矢の雨に耐えられず、倒れてしまいました。 その知らせはアヨーディヤーにいるラーマに伝えられました。そして、戦いを続行するためにラクシュマナが送り込まれました。しかし、ラクシュマナもまた、バラタとシャトルグナと同じ運命に遭いました。 少年たちが、ラクシュマナ、バラタ、シャトルグナ、そして、軍隊を制し、さらにラーマと戦うことを望んでいるという知らせが、ラーマに届けられました。ラーマには、ハヌマーンと他の戦士を含む軍隊を率いて戦場に赴く以外、選択肢はありませんでした。 ラーマと双子の兄弟との間で長い議論が続きました。二人が幼すぎるため、ラーマは戦いを望まず、馬を放して立ち去るよう説得しようとしましたが、結局、ラヴァとクシャは、完全に勝利するためにラーマと戦うことを決意しました。 ラーマと双子の間で、そのような舌戦が繰り広げられている最中、ラーマと息子のラヴァとクシャの間で破滅的な戦争が起きようとしている、というニュースが、ハヌマーンを通じてシーターに届けられました。このニュースを聴くやいなや、シーターは目を閉じて事態の成り行きを思い浮かべました。シーターは嘆き悲しみました。 「なぜ、これほど大きな不幸が私の息子に降りかかるのでしょう? 二人がラーマと戦おうとしているのはわかりました。けれども、ラーマがどれほど偉大で無敵であることか! それにひきかえ、息子たちの力はどれほどのものでしょう! 二人はまだ子どもで、この悲惨な戦いの重大さがわからないのです。二人は実の父であるラーマと戦おうとしているです! 何と恥ずべきことでしょう!」 このように、シーターは力なくその事態を嘆いたのでした。 シーターは心の中で思いました。 「ラーマは気高い王であり、理想的な父親です。ラーマは我が子と戦ったりはしないでしょう。愛を込めて二人を撫でて、可愛がるでしょう。父親は決して自分の息子と戦ったりはしないもの。ラーマは息子たちに徳を教えようとしているのでしょう」 シーターは、ハヌマーンに苦悩を明かしました。 「親愛なる息子よ! あの子たちは私の子です。あの子たちはラーマチャンドラ〔ラーマ〕の息子です。しかし、二人はそれを知りません。二人が知っているのは、ラーマが私を森に送り、とても苦しい状況に置いたということだけです。それゆえ、息子たちは、ラーマの弟たちと軍隊、必要ならばラーマ自身とも戦おうと心に決めたのです。けれども、二人にとって、ラーマと戦うことは正しいことではないと私は確信しています。 ハヌマーンは平凡な存在ではありません。ハヌマーンは偉大な魂の持ち主です。ハヌマーンは、内なる平安、美徳、そして、強靭な体力の持ち主です。ハヌマーンはシーターの神聖な言葉を聴いて、大きな喜びを感じました。ハヌマーンは心の中でこう思いました。 「母なるシーター様は、とても徳高いお方だ。美徳においてシーター様をしのぐ者は誰もいない」 シーターは急いで戦場に赴き、こう言ってラヴァとクシャを説得しました。 「愛しい息子たちよ! 実の父親と戦うのは正しいことではありません。それは大きな罪です。父は敬われ、崇められなければならず、あなたたちの主張を認めてくれるよう説得されなければなりません。戦いによって父を征服しようとしてはなりません。そのような考えを抱くのは愚かなことです。どのような状況に置かれようとも、父親は父親であり、父として敬われるのです。父の命令に逆らうべきではありません。 このようにして、シーターは、ラヴァとクシャに警告したのでした。 この時、ラーマは、ラヴァとクシャがわが子にほかならないことを理解しました。同様に、双子の兄弟もまた、この戦いがほかならぬ実の父親に対するものだと知り、即座にラーマの足元にひざまずき、赦しを請いました。 このようにして、ヴァールミーキは、想像や創作を加えることなく、事実そのままに、大叙事詩『ラーマーヤナ』を著しました。当時の偉大な聖人賢者たちは、真実のみを語ったのです。 シュリ ラーマは、つねにサティヤ(真実)とダルマ(正義)という、対の行動規範に従いました。ラーマの生涯は、これら偉大な人間的価値の英雄伝です。ラーマは偉大な価値に従っただけでなく、皆に、「サッティヤム ヴェーダ(真実を話し)、ダルマ チャラ(正義に従いなさい)」と説いていました。ラーマは、口先だけでダルマを説いたのではなく、誠実にダルマを実践して、ダルマを強調したのです。それ以来、日々の『ラーマーヤナ』のパーラーヤナ(尊敬の念を込めて朗読すること)が、インド文化やインドの道徳規範に定着したのです。皆さんも、私たちのアシュラムでそれを見たことがあるでしょう。毎年、ヴェーダ プルシャ サプターハ グニャーナ ヤグニャ〔ババの御前でダサラ祭の最後の七日間に連続して行われるヤグニャ〕の最中に、『ラーマーヤナ』と『バーガヴァタ』と『サプタシャティー』〔女神の物語『デーヴィーマハートミャ』の別称〕の栄光を、歌ったり、詠唱したりするのが慣わしになっています。 皆さんは神への信仰を培わなければなりません。もし、疑いに入る余地を与えるなら、あなたの信仰の炎は消されてしまうでしょう。ですから、神への信仰は、万人にとって前もって必要なものなのです。「マーナヴァ」(人間)という言葉は何を意味しているのでしょう? マーナヴァとは神への信仰を持つ者という意味です。現代では、残念なことに、人間は徐々にその信仰を失いつつあります。神は人類という媒体を通して、自らのアヴァターの使命を果たします。 神が人間に従うよう求める絶対的な命令は、「サッティヤム ヴァダ(vada)」(真実を話すこと)と「ダルマ チャラ」(正義に従うこと)です。ところが、今の人間は、神の願いに反して、これらの行動規範を「サッティヤム ヴァダ(vadha)」(真実を葬る)、「ダルマム チェーラ」(正義を閉じ込める)として、ゆがめています。こうした傾向が逆に向き、人々が適切な観点からこれらの行動規範に従うときのみに、国家は繁栄するでしょう。真理は永遠です。真実は神です。真実を話しなさい。真実こそがあなたを守護します。この点については、明日、もっと詳細に説明しましょう。 愛の化身である皆さん! 神は、絶えず守護する者です。神は罰しません。人々は、この真理を理解することができずにいます。この真理を理解できないために、一部の人々は、神にあるまじき感情があるとして、神は罪のない人々を苦しめているといって非難します。 現在、さまざまな「神」や「神性」などについての本が出版されています。しかし、これらのどの本も、『ラーマーヤナ』で実践されたような人間的価値を賞賛していません。偉大な叙事詩『ラーマーヤナ』は、ロシア語を含め、世界中でさまざまな言語に翻訳されています。『ラーマーヤナ』は世界で広く読まれている古典文学です。外国人の中には、母語で読むだけでなく、この偉大な叙事詩を崇敬し、尊んでいる者もいます。 先日、旧ソビエト連邦のカザフスタンのファーストレディーが、プラシャーンティ ニラヤムを訪れました。そして、私の『ラーマーヤナ』についての講話を、深い崇敬と喜びをもって聴きました。実に、『ラーマーヤナ』は、以前共産主義だった国々で深く尊敬されています。そうした国々は『ラーマーヤナ』とその生き方に、深い信仰と信愛を育くんできました。残念なことに、インド人はこの点でまだ遅れをとっています。『ラーマーヤナ』は、誰もが最大の尊敬と信愛を持って読むべき偉大な霊性の教科書です。 神はすべての人間を愛しています。神は誰も憎みません。実際、怒り、憎しみ、暴力といった言葉は、神の王国には存在しません。それほどの「愛の神」が、今日、実にさまざまな形で非難されています。 アヴァターの使命は人類の心に変容をもたらすことです。皆さんは一つの事実に気づくことができなければなりません。人類の世界規模の変容はすでに始まっています。短期間のうちに、すべての人間社会が一体となり、次のヴェーダの祈りの中で尊ばれている理想に沿って、平安と一体性のうちに生きていることに気づくことでしょう。 共に生きよう、共に成長しよう 私は、黄金時代はとても近いと断言します。バーラタ(インド)、そして、全世界で、個人の対立、不和、同胞への憎しみは、過去の遺物となるでしょう。 愛の化身である皆さん! 神の愛を、こういうものだ、ああいうものだと、表現できる者はいません。愛の神を憎悪するなら、それは自分自身を憎悪するに等しいのです。それゆえ、皆、神を愛しなさい。 ナヴァラートリ祭とヴェーダ プルシャ サプターハ グニャーナ ヤグニャは、めでたく終わろうとしています。ヤグニャの最終日には、プールナーフティの儀式〔満供式〕が行われます。プールナーフティは、皆が護摩の火に邪な性質を捧げ、純粋で神聖になって出てくるという、象徴的な儀式です。 私は再度、皆さんがどこにいようとも、どのような状況にあっても、絶えずラーマナーマ〔ラーマの御名〕を唱えているよう、念を押しておきます。決して偉大なラーマナーマを忘れてはなりません。最期に息を引き取るまで、ラーマナーマを唱え続けなさい。 翻訳:サティヤ・サイ出版協会 |
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