サイババの御言葉:決して両親を忘れてはなりません

日付:2008年5月6日・場所:プラシャーンティ ニラヤムのサイ クルワントホール
イーシュワランマ デーの御講話より

決して両親を忘れてはなりません


学生の皆さん、少年少女の皆さん!

G・ヴェーンカタラーマン〔サティヤ サイ大学前副学長〕が皆さんに、今日の祝祭にふさわしい話をしました。ヴェーンカタラーマンは、ムンバイのバーバー原子力研究所〔インドの核開発のリーダーであった故ホーミ・J・バーバーにちなんで名づけられた原子力研究所〕に勤めていた、大変学識のある人物であり、かつてサー・C・V・ラマン〔光散乱に関する研究とラマン効果(ラマンスペクトル)の発見により1930年にノーベル物理学賞を受賞したインドの物理学者〕が進めていた科学の分野で研究をしていました。彼は数多くの賞も受賞しています。

さて、私はこの体の母親について、何を話すことができるでしょう?人は実際には三つの体を持っています。それは物理的な体と、精神的な体と、霊的な体です。ですから、あなたは一人ではなく三人います。それは「あなたが自分だと思っているあなた」すなわち肉体と、「他者があなただと思っているあなた」すなわち心(マインド)と、「本当のあなた」すなわちアートマ(魂)です。けれども、あなたの本当の姿はアートマであって、肉体や心ではありません。

自分の両親に最大の敬意を払いなさい

現代では、自分の母親を尊敬している人はごくわずかしかいないという状況が主流となっています。母親は自分の胎内で9ヶ月間〔インドの妊娠期間の数え方は日本と異なり1ヶ月少ない〕あなたを育て、多くの困苦を経た後にあなたを産みました。そのような母親を忘れるのは神を忘れるのと同じです。それは自分自身を忘れることを意味します。母親はあなたの最初の教師です。あなたの母親はあなたを食べさせ、育て上げました。あなたは母親のひざの上で育ち、さまざまな幸福を味わいました。人は誰しも母親から受け取った愛を忘れるべきではありません。母親はあなたの最大の敬意を受けるに値します。

母親の死後、シャンカラーチャーリヤは、隠遁者であったにもかかわらず、母親の葬儀を執り行いました。偉大な学者であったにもかかわらず不適切な行いをした〔隠遁者は葬儀に関わってはならないとされている〕と言って、多くの人がシャンカラーチャーリヤを批判しました。重要なのは聖典の知識ではありません。文化的洗練にこそ大きな価値があります。洗練をもたらすのは文化です。それゆえ、シャンカラーチャーリヤは、

「母が私を離れることも、私が母を離れることもない。母と私は永遠に一つだ。肉体は異なっても私たち二人の中にあるアートマ原理は同じなのだ」

と人々に話しました。シャンカラーチャーリヤは自分の家の敷地内で母親の火葬を執り行いました。今でもケーララ州の人々は家の敷地内で火葬を行います。なぜなら、シャンカラーチャーリヤのような偉人がそうしたのであれば、自分たちもその行為に従うべきだと思っているからです。

物理的には、あなたの母親はあなたと一緒にいないかもしれません。しかし、母親に対するあなたの愛は、同じままであるべきです。1972年の5月に、インド文化と霊性に関する夏期講習が、バンガロールのブリンダーヴァンで開かれました。その時、この肉体の母であるイーシュワランマも、私と一緒にそこに行きました。ある日、朝食をとった後、イーシュワランマは一杯のコーヒーを飲みました。そして突然、

「スワミ、スワミ、スワミ!」と大声で呼びました。私は、

「今行きます、今行きます、今行きます」と言いました。それからイーシュワランマは、

「早く来てください」と私に頼みました。

私はすぐにイーシュワランマのところに行きました。イーシュワランマは、私の両手を握って息を引き取りました。

肉体に命が宿っている限り、私たちは肉体の世話をしなければなりません。肉体から命がなくなったら、肉体には何の価値もありません。実際には誰が母親でしょう? 生命原理こそが母親であり、肉体は母親ではありません。肉体は水の泡のようなものであり、心(マインド)は狂った猿のようなものです。なぜ私たちは肉体を維持しなければならないのでしょう? 私はプッタパルティにイーシュワランマの遺体を運ぶため、すぐに車の手配をしました。私はブリンダーヴァンに留まりました。夏期講習を受けるために、一つの大学からだけでなく、インドのさまざまな大学から、学生たちが来ていました。学生たちは皆、その日スワミは教室には来ないだろうと思っていました。けれども、私はきっかり朝の九時に笑顔で教室に入っていきました。学生たちは教室で私を見て仰天しました。そして誰もが、

「これは一体何なんだ? お母さんが亡くなったのにスワミが教室にいらっしゃるなんて!」

と考え始めました。母親はどこにも行きません。「お母さん」と呼ばれていた肉体は逝きました。けれども母親は私と一緒にいます。だから悲しむ必要はないのです。それゆえ私は学生たちに、幸せでいるように、この肉体の母親が現世のしがらみから離れたことを悲しまないように、と話しました。

その時、その場にはV・K・ゴーカク〔サティヤ サイ大学初代副学長〕もいました。ゴーカクもまた驚き、

「何なのだろう? スワミがこのように話されるとは!」

と考えていました。

結局のところ、この肉体は何でしょうか? 五元素がこの肉体の中にある限り、この肉体は存在します。肉体は五元素の入った袋のようなものです。五元素が肉体を離れると、肉体は空っぽの袋になります。

体は五元素でできており、遅かれ早かれ朽ちるもの
しかし内在者は生まれることも死ぬこともない
内在者には何の執着もない
内在者は永遠の照覧者
真理を語るなら
アートマの姿をとったこの内在者こそは
まさしく神そのものである

(テルグ語の詩)

私たちが重きを置くべきは内在者(デーヒ)であって、肉体(デーハ)ではありません。眠りに落ちると、誰もが肉体のことを忘れます。寝ている時に忘れることができるのなら、どうして永遠に忘れることができないのでしょうか? それゆえ人は、肉体に執着しすぎてはなりません。すべての母親と子供は、このような無執着の思いを育むべきです。

この世の関係は一時的なもの

母親が生きている間は、母親を敬い、母親を愛し、できる限りのすべての方法を使って、母親を幸せにすべきです。母親が肉体を去っても悲しむ必要はありません。ここ、プッタパルティにおいてすらも、人々は、

「これは一体何なんだ? スワミはイーシュワランマの遺体を送ってこられたが、御自身がいらしていない!」

と言いました。

何のために私が肉体と一緒に行く必要があるでしょう? 肉体は衣にすぎません。肉体は皮の袋のようなものです。五元素が肉体を離れると、五元素と一緒に五感も離れます。その時、私たちが命の宿っていない肉体のことを嘆き悲しむ必要がどこにあるでしょう? 私は世俗的レベルで必要だと思われていることをすべて手配しました。私はブリンダーヴァンに留まり、幸せに夏期講習を指導しました。この世における身体的な関係はすべて自分たち自身が作ったものです。さもなければ、誰が誰と関係があるというのでしょう? 母親と息子の関係は身体レベルに限られたものです。母親は、来て、定められた務めを果たし、去って行きます。私は私の義務を果たさなければなりません。それゆえ私は、自分が来た目的である職務を果たすことに従事したのです。

この世の生と死という現象を見れば、肉体は一時的ではかないものであることが理解できます。肉体の健康を軽視してはなりません。けれども、肉体に執着し過ぎてもいけません。夫と妻の関係は、結婚後に初めて生じます。妻は人生の途中でやって来ますが、母親はあなたが生まれた時から存在します。生まれた時から一緒にいる母親を忘れ、人生の途中でやって来た妻を愛することだけに夢中になるのは、まったく愚かなことです。

息子や娘、孫や義理の息子などといった他の関係も、人生の途中で形成されるものです。実に、この世の関係はすべて一時的なものであり、過ぎ行く雲のように、来ては去って行きます。あなたが存在している間は、あなたはそうした関係とつながっています。あなたがいなかったら、その関係はどこにあるのでしょうか? それゆえ、身体に基づいた関係は、どんなものも作らないようにしなさい。ただし、肉体レベルや世俗レベルで行わなければならない義務は、すべて誠実に果たしなさい。

あなたの品行は良くあるべきです。あなたの行動もまた良くあるべきです。決して自分の母親を忘れることなく、母親の姿を大切にハートに留めておきなさい。私たちは母親のハートから来たのです。母親はいつも私たちのハートの中にいるべきです。ですから、母親があなたを離れることも、あなたが母親を離れることもありません。母と子は互いに永遠に結ばれているのです。

あなたがどこにいようとも、母親への愛でハートを満たし続けなさい。昔、ナラシンハ・ムールティが私のところに来て、

「私の母が亡くなりました」と言いました。私は、

「亡くなったのは誰かね? おまえの母親か? それとも母親の肉体か?」と尋ねました。

それから私はこう話しました。

「おまえの母はここにいます。私がおまえの母親です。(大きな拍手) 死ぬのは肉体です。肉体は水の泡のようなものです。肉体は来ては去って行きます。だからおまえは自分の母親の肉体が亡くなったことを気に病むべきではありません。私はおまえと一緒にここにいます。自分の母親に頼んでいたことは何でも私に頼みなさい。私が与えましょう。(大きな拍手)だからおまえが悲しむ必要はまったくありません」

それ以来、ナラシンハ ムールティは私と一緒にいます。私は彼が望んだものを何でも与えています。母親も父親もほかの関係も、一時的なものであり、来ては去って行きます。しかし、神は来ることも去ることもありません。神は常に存在しています。つまり、すべての時に存在しているのは神だけなのです。(大きな拍手)

マータ ナースティ、ピター ナースティ
ナースティ バンドゥ サホーダラ
アルタム ナースティ、グリハム ナースティ
タスマート ジャーグラタ ジャーグラタ

母、父、兄弟姉妹、友人という関係は、現実のものではない
家も富も架空のもの
それゆえ、用心せよ! 用心せよ!

(サンスクリット語の詩)

全世界は一時的なはかないものです。何人の人間がこの世に生まれてきたでしょう? 彼らは今ここにいますか? 死はあらゆる形で起こります。死には特定の前兆がありません。死は死です。たとえ何らかの死の兆候が見えたとしても、私たちは一切心配すべきではありません。

決して自分の母親に敬意を欠いた態度を取ってはなりません。決して自分の振る舞いによって母親を泣かせてはなりません。いつも母親を幸せなままにしなさい。母親の幸福は、人生におけるあらゆる良いことを、あなたにもたらすでしょう。けれども、自分の両親の死を心配してはなりません。先日私は、私の母と父が自分の目の前に現れたという話をしました。私は二人をずっと見続けています。二人は私を見ると微笑みます。私も二人を見ると微笑みます。両親が笑顔でいる時に、私たちは喜ぶべきです。幼い子供は誰にでも笑いかけます。子供が笑い始めると、私たちも笑顔になります。両親もまた幼い子供のようなものです。母親はいつも我が子を愛しています。ですから、人生において自分がどれほど高い地位に就いたとしても、決して親に敬意を欠いた態度をとったり、見下したりしてはなりません。

あなたは自分の両親の面倒を見なければなりません。愛と敬意をもって両親に接しなくてはなりません。いつも両親を神と見なしなさい。母親は神です。父親は神です。そのため、母と父と師(アーチャーリヤ)と客人を神として敬え、と言われているのです。母親はあなたに身体を与えてくれました。父親はあなたの身体を養う手段・資金と、成長する機会を与えてくれました。師はあなたに教育を与えます。神はあなたにすべてを与えます。ですから、この四者のことを決して忘れることなく、ハートの中に大切に留めておきなさい。

母親と父親は、いつもあなたのハートの中にいるべきです。たとえ困難に直面している時でも、両親をなおざりにしてはなりません。自分の両親を忘れる人を、人間と呼ぶことはできません。両親がいなかったら、あなたはどうやって存在できるというのでしょうか? 両親はあなたの命の種であり、地上におけるあなたの人生の源にほかなりません。それゆえ、両親があなたの人生の中で一番重要な場所を占めるべきなのです。両親がどれほど年老いても、あなたの状況がどれほど厳しくなっても、あなたはできる限り親を幸せにするよう努めなくてはなりません。たとえ物乞いという手段を使ってでも、両親を食べさせなくてはなりません。両親の面倒を見るためなら、あらゆる苦労に耐えなさい。両親の望みをすべて叶えてあげなさい。それによって、あなた自身の望みが叶うことになるでしょう。この世のすべては反応であり、反映であり、反響です。このことから逃れられる人は誰もいません。もし今あなたが両親に迷惑をかけているならば、将来あなたの子供があなたに同じことをするようになるでしょう。さほど長くかからないうちに、あなたは自分の行動の結果を受け取ることになるでしょう。あなたは自分と気が合った人を愛するようになるかもしれませんが、両親を忘れてはなりません。あなたの両親は決してあなたを忘れません。ですから、あなたも親を忘れてはなりません。

このため、私はブリンダーヴァンからまっすぐここ(プッタパルティ)に来たのです。イーシュワランマ デーはコダイカナルで祝われるだろうと、人々は考えていました。けれども私は決意したのです。5月6日に自分はプッタパルティにいるべきであり、重要な行事はここで行われるべきであり、衣類と豪勢な食事を施して困窮者たちを幸せにすべきだということを。私がどこにいたとしても、私は同じやり方でこの祝祭を催します。私たちは決して困窮者たちを無視してはなりません。私たちは常に困窮者のことを思い出し、援助しなくてはなりません。

けれども、気が短いために、困窮者に嫌がらせをしたり、あざ笑ったりする人もいます。それは大きな過ちです。もし今日困窮者をあざ笑うなら、将来それが自分に還ってくるでしょう。あなたは、自分は困窮者をあざ笑っているのだと考えているかもしれませんが、実際には自分自身のことをあざ笑っているのです。決して困窮者をあざ笑ったり、侮辱したりしてはなりません。常に困窮者を愛しなさい。もしほかの人の前で困窮者を侮辱すれば、自分もほかの人から侮辱されることになるでしょう。反応と反映と反響から逃れることはできません。困難は来ては去るものです。

強靭なラーマでさえ
伴侶のシーターとの別離の痛みに苦しみ
普通の人間のように泣いた
勇敢なパーンダヴァ兄弟でさえ
草や根を食べて森で暮らさなければならなかった

(テルグ語の詩)

パーンダヴァ兄弟は、どれほどの力と勇気を備えていたことでしょう! そうであっても彼らは、森で暮らし、あらゆる苦難に耐えなければなりませんでした。一体何のためでしょう? 賭け事をして負けたからです。このような間違った道に進む者の運命は、同じようになります。

神とだけ関係を持ちなさい

賭け事はまったく良くありません。同じように、お酒を飲むのも良くありません。飲酒に溺れると、自分が制御できなくなります。お酒の影響で何でも話しかねません。そして、しらふに戻った時に後悔するはめになるのです。同様に、色欲と怒りは悪魔の性質です。決して自分の近くに来るのを許してはなりません。かっとなって、結果を考えずに何でも口に出してしまったとします。しかし数分後に通常の状態に戻った時には、

「しまった! 何であんなふうに罵ってしまったんだろう!」

と悔やむことになります。ですから、何よりもまず、怒りをなくしなさい。ラーマが多くの男鬼や女鬼を殺したのは、鬼たちの色欲と怒りという邪悪な性質のせいです。誰であろうと、男であろうと女であろうと、色欲と怒りという邪悪な性質を持っていたら、その人は必ず苦しむことになります。人間にとって怒りと色欲は大変悪いものです。神を愛しなさい。神を崇敬し、神を礼拝しなさい。神はあなたの父であり、母であり、すべてです。神とだけ関係を持ちなさい。

トワメーヴァ マータチャ ピター トワメーヴァ
トワメーヴァ バンドゥシチャ サカー トワメーヴァ
トワメーヴァ ヴィッディヤー ドラヴィナム トワメーヴァ
トワメーヴァ サルヴァム ママ デーヴァデーヴァ

あなたは母 あなたは父
あなたは家族 親しき友
あなたは英知 尽きせぬ宝
私のすべて 至高の神よ

(サンスクリット語の詩節)

神は決してあなたから離れません。神は遍在です。あなたが愛しているこの世の人々は皆、過ぎ行く雲のようなものです。人は来ては去ります。しかし、神は来ると大きくなります。ですから、神を愛し、神を信じなさい。神への愛を持っている人だけが真の人間です。

(ここでスワミは、シュリ サティヤ サイ小学校の生徒でイランから来た1人の少年をお呼びになり、ヴェーダのマントラを唱えるようにとおっしゃいました)

このイランからの少年が、どれだけきれいにヴェーダのマントラを唱えたか見ましたか! この少年はイスラム教徒です。もし名前を尋ねたら、彼は「僕の名前はサティヤです」と言うでしょう。

(スワミは少年に「君は何という名前かね? 君の両親の名前は?ヴェーダのマントラを上手に唱えて、すべてのヴェーダのマントラを習いなさい。リグ ヴェーダを知っていますか?」とお尋ねになりました。少年は全聴衆からの拍手喝采に応えて「ルッドラム」と「シリー スークタム」を完全なイントネーションと発音で唱えました)

ヴェーダの中にはすべてがあります。ヴェーダの中には、すべての宗教――すなわちヒンドゥー教、イスラム教、キリスト教―の真髄があります。キリスト教徒も同じような方法で神の栄光を歌います。イスラム教徒も同じようにして神に祈ります。ですから、すべての宗教にとっての神は同一なのです。違うのは名前だけです。イスラム教徒は1日5回神に祈ります。ヒンドゥー教徒も朝夕に神に祈ります。ヴェーダはヒンドゥー教徒だけのためにあるものだと考えてはなりません。ヴェーダはすべての人のためにあります。唯一かつ普遍なるもの、それがヴェーダです。

ヴェーダは人間のあらゆる種類の苦しみを軽減することができます。ですから、ヴェーダを習うのは誰にとっても良いことです。アメリカからの帰依者がここに来てヴェーダを習っています。ロシアやドイツでもたくさんの人が朝夕にヴェーダのマントラを唱えています。ヒンドゥー教徒は毎日唱えていないので、ヴェーダのマントラを忘れつつあります。ですから、誰もヴェーダを忘れてはなりません。ヴェーダとヴェーダーンタ(ウパニシャッド)はあなたの両親のようなものです。常にヴェーダとヴェーダーンタを覚えているべきです。決して忘れてはなりません。

ですから、学生の皆さん! 何を勉強しても、決して神を忘れないようにしなさい。そうして初めて、皆さんは平安を得ることができます。人々は「私は平安が欲しい」と言います。バジャンをしなければ平安はあり得ません。

(ここでバガヴァンは「ハリ バジャナ ビナ」のバジャンをお歌いになり、御講話を続けられました)

多くの人々が平和のためにヤグニャ(供犠)を行います。平和はどこから得られるのでしょうか? 皆さん自身の中からだけです。ピース(平和、平安)は外部から来るのではありません。外部から来るのは、ピーセズ、ピーセズ、ピーセズ(断片)ばかりです! 平和は自分のハートからのみやって来ます。平和を達成するために、皆さんはバジャンをしなくてはなりません。バジャンだけが皆さんに真の平和をもたらすことができるのです。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sanathana Sarathi June 2008
    サイラムニュース122号(2008年9・10月号)p.2-12掲載

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