サイババの御言葉
 
神に捧げる真の花

『心の中から、すべてのけがれと不純なるものが取り除かれ、崇高で純枠な感情が培われるとき、
英知に満ちたビジョンが生まれ、全宇宙(ヴィシュワ)が、ブラフマン(至高神)としての
本来の光のうちに見て取れる。

  花がなければ、青く小さな実は生まれない。
青く小さな実がなければ、熟した大きな果 実も存在しない。
同様に、献身的な行動(カルマ)がなければ、帰依(バクティ、信愛)も起きず、
帰依がなければ英知(グニャーナ)も生まれない。』

 純粋な霊の化身である皆さん。
 人間がいつまでも同じ段階(霊的な領域における初歩的な段階)にとどまっているのは正しいことではありません。それは、生徒がいつまでも同じ学年に留まりたいとは思わないのに似ています。生徒は毎年、上の学年へと次々に進むことを願います。同様に、霊的な求道者が、進歩をしてより高い段階へと昇っていくこともなく、同じ状態に留まっていることは、ふさわしくなく、正しいことでもありません。一生を通 じて二元論(ドワイタ)の道に踏み留まっているようであってはなりません。二元論の道から、条件付不二一元論の道に進み、そしてそこから、不二一元論(アドワイタ)の道へと進んで、至高の原理と真理を体験し、実現するよう努力すべきです。このことを究極の理想とし、目的とする一方で、最初のうちは、準備的な修行として、「プージャー」や「アルチャナ」のような礼拝等を行う必要があります。

  我が国においては、花を捧げ、16種類の奉仕を行うことによって神を礼拝する伝統があります。ところが、この通 常のありふれた礼拝方法よりも優れた、神への礼拝の仕方があるのです。その高度の礼拝方法とは、善良で純粋な想いと、善良で純枠な行動によって神を崇めることです。これは、はるかに優れた種類の帰依であるために、「パラ バクティ」とも呼ばれています。そのようなやり方を身につけずに、花や物質的な品物だけを用いる、次元の低い礼拝ばかりを続ける人は、いつまでも低い段階のみに留まって、霊的道において先に進むことはできません。
 とはいえ、初期の段階においては、そのような礼拝の仕方は非常に重要であって、大変有益でもあるのです。しかし、この同じ初歩的な状態にいつまでも留まって、より高い段階へと進むことができないとすれば、それは善いことではなく、本当に不幸なことであると言えましょう。

 善い行いや、善い想いによって神を喜ばせ、聖なる仲間(サットサング)と共にいることは、はるかに高度で尊い礼拝の形式です。このように、自分の美徳によって神を礼拝することは、通 常の礼拝ではなく、高度で優れた礼拝の仕方なのです。諸聖典は、このような礼拝の仕方を「グナ アルチャナ」(美徳による礼拝)と呼んでいます。またそこには、それを捧げることによって神を喜ばせ、私たちが恩寵を得ることのできる8つの美徳が拳げられています。

  次に挙げるのが、神への礼拝に供えるべき、真の花です。
  アヒムサー(非暴力)が最初の花です。
  インドリヤ ニグラハ(感覚のコントロール)が2番目の花です。
  サルヴァブータ ダヤー(万物に対する慈悲)が3番目の花です。
  クシヤマ(忍耐)が4番目の花です。
  シャーンティ(平安)が5番目の花です。
  タパス(苦行)が6番目の花です。
  ディヤーナ(瞑想)が7番目の花です。
  サッティヤム(真理、真実、サティヤ)が8番目の花です。

 これらの8つの花によって神を礼拝することにより、完全な神の恩寵を勝ち取ることができます。皆さんは、すぐに色が褪せ、萎びて香りも失われてしまう自然界の花を用いて神を礼拝して、捧げた花同様に一時的な見返りを望むのではなく、いつまでも変わらない真の花である、あなたの美徳によって神を礼拝し、究極の真理を体験し、それを実現するという、永遠に変わることのない報いを求めるべきです。

 私たちの国であるバーラタ(インドの古称、神を愛する者の意)には、この礼拝方法を実践することによって、最高の状態である神実現に到達した人々がたくさんいます。ところが、普通 の人々は、いつまでも自然界から与えられた花を使った礼拝を続けて、より高度の礼拝を始めることをしません。そして、それによって受ける報いは、礼拝に用いる花と同じように一時的で些細なものでしかないために、彼らは永遠に満たされないままでいるのです。ですから、永続的で変わることのないものを得るという最高の段階に到達しようと努める求道者たちは皆、美徳という花で礼拝するという、より優れた礼拝の実践を始めなければなりません。

  まず最初に、この高度の礼拝方法に必要とされる花は、自分自身の心の花であって、庭や畑に育って、誰かから篭一杯いくらで買うことのできるような類の花ではないことを知っておく必要があります。いつまでも新鮮で良い香りを保つ美徳の花は、あなた自身の心の中にあるブリンダーヴァンに生えて咲く花なのです。

 神の化身である皆さん。
 あなたが毎日習償的に礼拝に使っている花は、あなたが自分で創ったものではありません。あなたはただ、神の意志によって花が咲いている、木々や庭から花を摘み、それを再び神に戻しているだけです。神が創ったものを神に捧げるということに、どれほどの価値があるでしょう? 人々は、聖なるガンジス川に沐浴に行って、川の水を両手ですくい取り、捧げものとしてそれを再び川に戻します。あなたが捧げる水はあなたのものではありません。それは、あなたのお祖父さんから遺産として伝えられたものでもなければ、あなたが創ったものでもありません。ところが、人生という樹木から、自分が養い育ててきた花や果 実を摘み取るのであれば、すなわち、あなたの心の中で培ってきた美徳を神に捧げるとすれば、それは本当にはっきりと区別 のできる尊い捧げ物となります。

  善い性質を培うためには、根気強い努力が必要です。あなたはその過程で、幾つもの障害物を乗り越えなければなりません。美徳を培うことによって初めて、あなたの心は浄化され、集中力を獲得することができて、神の黙想や瞑想に没頭できるようになるのです。そのような善い性質が備わっていなければ、心は一時の間も静かにしていることができません。心に善い性質や善い想いが備わっていないのであれば、どうして心を瞑想だけに向けることができるでしょう? レンガや漆喰を準備しなければ、どうして家を建てることができるでしょう? ですからあなたが、瞑想に没頭したいと望むのであれば、まず初めに、善い性質と善い想いを身につけなければなりません。

  最初の美徳の花は、「アヒムサー」(非暴力)です。
 一般的には、アヒムサーとは、いかなる生き物をも肉体的に傷つけないことであると理解されています。これは本当の意味ではありません。アヒムサーの本当の意味は、想いと言葉と行動のすべてにおいて、いかなるものをも傷つけないということです。人間の想いと言葉と行動を浄化することは、霊的な言葉では、「トリプティ」と呼ばれています。私たちは、想いと言葉と行動を調和させ、それを花として神に捧げなければなりません。

  2番目の花は「感覚器官のコントロール」てす。私たちの感覚は、何の制限もコントロールも受けないままに突っ走る習慣を持っています。もし馬や野獣を自由に解き放ち、思うままに動き回らせれば、大変危険な状態になります。ですから私たちは、勤物すなわち感覚を制限し、正しい道に沿って、正しい方向へと導かなければなりません。私たちは、正しいものとそうでないもの、永遠で不変のものと一時的で変化するものとを識別 する力(ヴィヴェーカ)を働かせて、自分たちの感覚に規律を持たせ、感覚をコントロールしなければなりません。

  神の霊の化身である皆さん。
  肉体や、様々な器官や、心や知性は、私たちが着ている服のようなものです。それらは私たちの付属物です。肉体は、「焼かれるもの」と定義されています。私たちはこれを、死後に遺体を焼くことを言っているのだと理解すべきではありません。肉体には絶えず火がついています。それは四六時中、様々な心配や問題で焼かれています。肉体には、「絶えず衰えていくもの」というもう1つの定義があります。絶えず消耗し、いつかは必ず脱ぎ捨てなければならないこの肉体によって、何らかの真の幸福を得ることができると想像して希望を持つことは、まったくの妄想です。

 神は、私たちの身体の一つひとつの器官を、それぞれに固有の、特定の目的のために授けました。私たちがそれを正しい目的のために使うとき、すなわち、それらの器官が作られた目的に合った使い方をするときにだけ、神の目的が満たされることになり、私たちは神の恩寵を受け取る資格を得るのです。人間の器官の一つひとつは、それぞれが意図された目的のためにのみ使われるべきです。これらの器官の振る舞いは、特定の選ばれた正しい道に沿ってコントロールし、規制しなければなりません。

 神は鼻を授けました。鼻は、空気を吸ったり吐いたり、匂いを嗅いだりするためのものです。ところがもし、私たちが、嗅ぎ煙草を吸い込むために鼻を使ったとすれば、鼻の目的は失われ、無駄 になるのです。同様に、神は私たちに、栄養のあるサットウィック(浄性の)食物、すなわち純枠な食物を食べるための口と舌とを授けました。しかし私たちが、浄性でない食物を食ベ、酩酊状態を引き起こす飲み物を飲むために口を使うのであれば、口の神聖さと目的が失われてしまいます。以上のことを心に留めて、私たちは、様々な器官を何の目的でどのように使うべきかを識別 して考え、正しい使い方のみをしなければなりません。

  神の霊の化身である皆さん。
  肉体は、それ自体には命がありません。皆さんは、もし肉体に命がないのであれば、それはなぜ成長するのかと疑問に思うかもしれません。その問いに対しては、大きさが増えるためだけであれば、生命原理は不要であると答えることができます。毎日、家の掃除をした後で、あなたがゴミを一カ所に捨て続ければ、何日か経つとそこは大きなゴミの山になってしまいます。この生命のない肉体に関しても同じことが言えます。毎日あなたは、朝から晩まで、食事や、軽食やコーヒーなどを身体に詰め込んでいます。そしてそのために、あなたの体は大きくなっているのです。身体に飲食物を与えることをやめてごらんなさい。そうすれば、肉体が大きくなるのもストップすることが分かるでしょう。

  肉体それ自身に命がないのであれば、私たちはどのようにして様々な器官をコントロールすれば良いのでしょう? 身体の諸器官は、興奮を呼ぶ反抗的な冒険に使われるべきではありません。もしくは、それらを悲しみに合わせてもなりません。そうすることは目的に添わないからです。悲しみや嘆きは人間にとって自然なものではありません。至福こそが人間の本性なのです。至福こそが人間の生来の性質であるのに、人は悲しみこそが自分の定めだと妄想して、何の目的もなく悲しみに身を委ねます。

  もし私たちが諸器官を不要な興奮や悲しみにさらせば、自分の力とエネルギーは損なわれ、弱ってしまいます。心の動揺と興奮のために、身体に病気が生じます。人間が興奮と悲しみに 身を委ねるために、あまりにも早いうちから老化が始まります。私たちの貴重な人生が浪費される理由は、感覚が正しくコントロールされていないことに尽きます。ですから、美徳の2番目の花である、感覚の制御、感覚のコントロールによって神を礼拝することが大切なのです。

 3番目は、「万物に対する慈悲という花」(サルヴァブータ ダヤー プシパム)です。私たちは、無知のために、宇宙の中に多様性のみを見ます。表面 的な多様性のみを見て、根本的な統一原理、すなわち神そのものである一体性を見る努力をしないのです。私たちは俗事にどっぷりとつかり、世俗的な欲望を追い求める中で自分を見失っています。私たちは、これらの世俗的欲望によっては決して満たされることがないので、俗事に嫌気がさして神の方を振り向きます。

「我々の世俗的欲望が幾分かでも満たされれば、神への帰依心は突然高まる。
そして欲望がくじかれれば、我々の神への帰依心は、
たちまち神への嫌悪へと変わってしまうのだ。ああ!」

  世俗的な欲望を満たすことだけが人生の目的であるという誤った考えを抱き、神の遍在と人生の真の目的を忘れて、絶えず世俗の欲望に悩まされ、私たちは、持って生まれた力をすべて失い、自分は弱く、助けてくれるものもいないと感じています。諸聖典が真理(真実)は一つである(エーカム サット)と宣言しているにも関わらず、私たちは多様性という非真理の見かけに引きつけられ、それに騙されて、この多様性の背後にある、二元性を超えた神の真理を理解できないでいます。

  昨日話したように、私たちはただ小さな種子を植えているだけです。時間が経てば、その小さな種子から、巨大な樹木が育ちます。その樹木には、何千もの果 実がみのります。一つひとつの果実の中に、私たちが植えたのと同じ種類の種子が見られます。同様に、神という種子から、宇宙(ヴィシュワ)という巨大な樹木が出現しました。この宇宙という樹木の中では、生き物や人間などは果 実にあたります。原初の神は、このような一つひとつの果実の中に、種子のように隠れています。神が『バガヴァッドギーター』の中で、「私は万物の源であり、始まりであって、果 実の種子のように、それぞれのものの中に内在している。私はアートマンである。すなわち、あらゆるものに内在する神の原理である」と言ったのは、そのような理由からです。

 私たちは、この真理に照らして、神が万物に内在していることを認識し、万物に対する愛を養い、それを顕現すべきです。これが、「サルヴァブータ ダヤー プシュパム」すなわち「万物に対する愛と慈悲の花を捧げること」の意味です。神は万物に内在しています。私たちがこの真理を理解したときに初めて、万物への慈悲(サルヴァブータ ダヤー)の花が心の中に咲き揃い、美と芳香に満ちたその花を、神の御足に捧げることができるのです。

 4番目は「忍耐(クシャマ)の花」です。実際、クシャマ(忍耐)こそは、人間にとって、最高にして最も重要な美徳の一つです。不幸なことに人間は、非常に狭い視野を持ち、心を大きく開く代わりに、「私」「私のもの」「自分自身」というような想いを大事にして、心を狭くしてしまっています。ひとは、「自分のことだけが大事なのだ。他人は皆、私とはかけ離れた、私に関係のない存在だ。」「他人のことは私の知ったことではない!」という誤った考えを持っています。そのような狭い考えが私たちの心に根付いている限り、そこには、決して忍耐の花は咲きません。

  「すべての人々が神の子供であり、私たちは皆同胞であって、本当は私たちにとって他人はいないのだ」と感じる心を養うことができたときに、初めて、私たちの心に忍耐の花が咲くのです。愛があるときにのみ、忍耐が生まれるのです。忍耐は、万物に対する愛と慈悲の結果 に他なりません。

  1つの小さなたとえがあります。私たちの家に、自分の子供と召使いの少年がいるとします。不幸なことに、私たちの子供には悪い癖があって、毎日、家のお金か何かをごまかしています。そのような状況で、私たちが何をするかといえば、まずその子を教え論そうとします。せいぜいその子をぶったりするかもしれませんが、警察に届けて、その子を引き渡すようなことは考えもしません。ところが、召使いの少年が、最も些細な盗みを働いたとしても、例えば彼が、小さな匙一本でも盗んだとすれば、私たちはすぐに警察に届けて、その子を引き渡してしまいます。

  私たちが、自分の子供に対しては、その子がどれほど大きな盗みを働いても寛大さを示すにも関わらず、召使いの少年に対しては、小さなステンレスの匙一本のような些細な盗みに対してさえ、ラーマーヤナか何かのような大騷ぎをして、警察に突き出すような行動の背後にある、本当の理由はいったい何でしょう? それは、息子は自分の子供で、自分のものであり、召使いの少年はよその子で、自分のものではないという狭い考えと執着のために、その召使いの少年に対する忍耐の余地が、私たちの心の中に存在しないからに他なりません。

 ですから、「誰もが皆私のものである」という愛に満ちた心を持ったときに、初めて、忍耐という美徳を獲得できるのです。そして、そうなった時にのみ、あなたの心の中に、愛もまた育つことができるのです。「愛は、与え、許すことによって生き、エゴは、取り込んで、忘れることによって生きる。」と言われているのは、そのような理由からです。したがって、心の中に忍耐(クシャマ)という花を育てたいと思うのであれば、そのための道は、まず万物に対する愛を育てることです。そうすれば、忍耐の花は、私たちの中に自然に花開きます。

  5番目は「シャーンティの花」、すなわち「平常心と平安の花」です。平安とは、どれほど叩かれても叱られても、(心の中では動揺し、怒りに燃えながらも)頑固に押し黙っていることだと解釈してはなりません。平安とは、決してそのようなことではありません。もし誰かが、あなたに落ち度がなかったことに関して、あなたを責めているときに、あなたが平常心を保ち、興奮しないでいることができれば、それが真の平安です。あなたの心が愛に満ちているときにのみ、おのずから平安がもたらされます。

  私たちが平安を失うのはどのようなときでしょう? 実は、平安はあなたが外の世界から取り入れることのできるものではないのです。平安は、好ましくない性質の結果 失われる場合がほとんどです。純枠な想いがあれば、人間は純枠になります。不純な想いを抱いていれば、人間は悲しみの餌食になります。人間が、自分の抱くすべての想いを崇高なものにすることができれば、平安に満ちた聖人賢者になることができます。私たちが、あらゆる想いから自由になり、善悪両方向の心のひずみがなくなったとき、平安が定着します。ですからあなたが、あらゆる想いと心の動揺を止めることができれば、平安を得ることができるのです。

  私たちのあらゆる苦痛と悲しみの原因は何でしょう? 私たち自身の、善からぬ 不浄な想いが、私たちの苦痛と悲しみの原因です。善い想いや神聖な考えによってのみ、人間はサードゥ(修行僧)となることができるのです。サードゥとは、オレンジ色の法衣を着て、頭を剃り、首にルッドラクシャの数珠をかけた人という意味ではありません。サードゥとは、本当は、神聖な考えに満ち、「サティヤ サンカルパ スワルーパ」すなわち、「あらゆる純枠で神聖な考えの化身」となった人のことです。

  平安の境地にある人の性質は、おのずから、波一つない鏡のごとき湖面 のようになります。貯水槽に水が入っていれば、風の動きによつて、水面にはさざ波が立っているのが見えるでしよう。水の表面 が振動していれば、水に映ったあなたの姿も揺れているはずです。泥が多く、濁った水に映ったあなたの姿は、はっきりせず、ぼんやりしたものになることでしょう。透明で波のない水の場合は、そこに映ったあなたの姿は、動くこともなく、はっきりと見えます。同様に、根本的な真理、すなわちアートマ(真我)の実質は、宇宙万物に遍在しており、唯一にして変わることがありません。

 ところが、それが反映された姿は、反映する媒体の純枠度と特質によって、実質が反映される度合いが異なります。アートマがタモーグナ(暗性、鈍性)に反映された場合、それはアヴィッディヤーすなわち無知という姿で表れます。アートマがラジョーグナ(激性)に反映されれば、それはジーヴァ(個我。肉体を持った個別 の存在)として映ります。アートマが、純枠なサットワグナ(浄性)に映し出されれば、それはマーヤーとして、すなわち、神にまつわる幻影として映ります。マーヤーは、神がまとっている衣です。したがって、マーヤーは神聖な性質を持っています。サットウィックな(浄性の)反映は神意識です。ラジョーグナ(激性)の反映はジーヴァであり、タモーグナの反映は自然(宇宙)です。

 ですから、反映された姿は異なっているように見えても、それらはすべて同じ神聖な原理に由来しているものであるために、基本的には同じものであるということを認織しなければなりません。このように、神と人間と宇宙は、本質的には同じものなのです。したがって私たちは、万物の根源である、根本的な真理(ムーラーダーラ サティヤ)を理解するように努めなければなりません。

  ここに果実があるとします。たとえそれがニームの実であっても、完全に熟すれば甘くなります。シャーンティ(平安)の場合でも、あなたが完成の状態に到達したときに初めて、至福と、平安の無上の甘美さを味わうことができるようになります。私たちが、忍耐(クシャマ)の美徳を自らのうちに高めれば、そのような平安の状態を得ることができるのです。

 6番目は、「タパス(苦行)の花」です。タパス(苦行)とは何のことでしよう? それは、妻子を捨てて森の中に逃げ込み、逆立ちの姿勢を続けることではありません。タパス(苦行)に関する私たちの認識は、すべてを捨てて森に入り、神を黙想するというようなものです。タパスとは、まず、心の中のあらゆる不純な想いを取り除くことを意味します。タパスとは、実際的には、想いと言葉と行動を一致させることです。――私たちの想いと言葉と行動を調和させることです。私たちの心に浮かんだ想いを、ありのままに言葉で表現し、それを忠実に行動に移すこと一一それがタパスの意味するところです。このような意味において、想いと言葉と行動が調和して、一致している人こそがマハートマ(偉大な魂)であるという諺があるのです。

「犠牲とは、心の中から、あらゆる悪い想いを追い払い、手放してしまうことである。
それによってあなたはヨーガへと導かれる。
財産を手放し、妻と別 れて森の中に逃げ込むことは、ヨーガではない。」

 一般的な認識として、犠牲とは、財産を手放し、妻のもとを出ていくことであると考えられています。これはまったくの誤りで、犠牲に関する間違った考え方です。心の中から、あらゆる悪い想いや、けがれた想いを追い払って、心を純枠にしなければなりません。苦行(タパス)をそれ以外の意味として理解すべきではありません。苦行とは、あなたの言葉を想いに一致させ、またあなたの行動を言葉に調和させることです。

  7番目の花は「瞑想の花」です。こんにち、瞑想は様々な形をとり、多くの意味が持たされています。人々が現在採用している数々の瞑想法は、本来のバーラタ(インドの古称)の精神・文化・伝統に反しています。蓮華座を組んで座って、ムーラーダーラ チャクラにあるクンダリニー シャクティ(生命エネルギー)を呼び覚まし、それを頭頂部のサハッスラーラ チャクラに導こうとすることは、真のディヤーナ(瞑想)ではありません。真のディヤーナ(瞑想)とは、あらゆる場所に神の臨在を認め、その意識(霊的覚醒の意識)を、自分の行う小さな一つひとつの仕事の中にまで表現することです。

  神は遍在です。神はすべてに内在しています。神は、宇宙万物の内にある遍在の原理であり、実質であるのです。これと対照的に、自分が瞑想のために選んだ一つの場所のみに神の存在を限定することは、あまりにも狭く窮屈な見解です。あなたが車を運転しているときは、車が神であると感じるべきです。市場で商売をしているときは、市場があなたの神であると感じるべきです。

 私たちの国バーラタの神聖な伝統に関して言えば、自分たちが取りかかろうとする仕事に対して最初に祈りを捧げるという習慣があります。私たちが仕事を始めるとき、たとえどのような仕事であれ、それが神であるという気持ちで仕事に取りかからなければなりません。ウパニシャッドには、「タスマイ ナマハ カルマネー」(仕事に祈りを捧げます)と祈りなさいと教えられています。それは、「私は、自分のなすべき仕事を神と見なします。そして、その仕事という形をした神に祈りを捧げます」という意味です。

 神の霊の化身である皆さん。
  私たちは、毎日体験する日々の暮らしの中で、しばしば、このような敬虔な見解の例を目の当たりにします。たとえばタブラを演奏する人がいます。タブラ奏者は、演奏を始める前にタブラーに向かって合掌します。ハーモニウムを弾く人をご覧なさい。ハーモニウムを弾き始める前にハーモニウムに合掌します。舞踊を踊る人は、踊り始める前に、足首につける鈴に向かって合掌します。また、だとえエンジンのないトロッコの運転手でさえも、ハンドルに手をかける前に、ハンドルに合掌(ナマスカール)を捧げます。

  あるいはもっと身近な例を考えてもよいでしょう。たとえ不注意てあっても、もしあなたの足が別 な人の足にぶつかったとすれば、あなたはすぐに、その人の足、もしくはその本人に対して合掌をします。今言ったことはどれも、神がすべての生き物やすべての品物の中に存在している、と人々が信じていることを表しています。このように、全宇宙を神の姿と見なし、どんな小さな仕事をするときも、そのような意識を持って行うことが瞑想(ディヤーナ)です。

  したがって、あなたは宇宙万物に対して、同砲意識と愛を培わなければなりません。全宇宙があなた自身の心とつながっているという確信を持ち、そのように感じるようでなければなりません。クリシュナ神はアルジュナに宇宙普遍相と呼ばれる神の普遍的な姿を見せました。私たちがこのことの意義を理解しようと努めれば、全宇宙が神に包まれていて、宇宙全体が神の中のみに存在することに気づきます。

  アルジュナはクリシュナに何を見たのでしよう? クリシュナの姿の中に、アルジュナは、すべての海洋と、すべての山々と、すべての生き物と、そして全宇宙を見ることができたのです。宇宙万物が神のみの中に存在しているために、宇宙は本質的には、神と同じものであるということになります。

 もしあなたが、クリシュナ神はあなたのものであると感じるとすれば、あなたは、神を自分の心の範囲内に閉じこめようとしているのであり、それは賢いことでもなければ、正しいことでもありません。正しい態度とは、あなたが神のものであると感じることです。もしあなたが、神はあなたのものであると感じているとすれば、それはまったくのエゴです。ところが反対に、あなたが、自分は神のものであると感じるのであれば、それは純枠な「パラ バクティ」、すなわち帰依心(信愛)の高次の形です。

  ドワーラカーの都の人々は、「クリシュナ神は自分たちのものであり、自分たち(ヤーダヴァ族)のものであるクリシュナ神のおかげで、パーンダヴァ兄弟はマハーバーラタの戦争に勝ったのだ」と誇らしげに感じていました。この慢心と態度とが、彼ら自身に滅亡をもたらしました。そのような態度は、エゴを増長させます。

 一方、ゴーピカー(牛飼い女)たちの態度は、まったくそれとは異なっていました。彼女らは常に、自分たちは完全にクリシュナのものであると感じており、いつも、「クリシュナ様、私たちはあなたのものです」と言っていました。このため、ゴーピカーたちは聖典『バーガヴァタム』の中で、クリシュナ神に完全に全託している人々として特徴付けられており、ドゥワーラカーの人々は、クリシュナ神は自分たちのものだと言って高慢になっている人々として描かれています。

  比類のない帰依者であるゴーピカーたちのように、あなたもまた、神に対する全託の心を培うべきです。あなたは、「私は神様のものです。私はあなたの中に生きています。私はあなたに包まれ、あなたの中で成長しています」と感じる心を持ち、そのような想いと共に、宇宙的なビジョンを養わなければなりません。宇宙的なビジョンとは、あなたも全宇宙も、共に神の中にあるというビジョンのことです。これこそが、真のディヤーナ(瞑想)のための正しい基盤であり、正しい態度なのです。

 次(8番目)の美徳の花は、「真理(真実)」(サッティヤム、サティヤ)です。単にあなたが真実を語ること、すなわち事実をあるがままに語ることは、ロウキカ サッティヤム(現世的な真理)もしくはヴャヴァハーリカ サッティヤム(相対的な真理)でしかありません。実際、「真理」という言葉が意味するものはこのようなことではありません。この言葉は、はるかに深い意味を持っています。真理という言葉の本当の意味は、永遠に変わらないもの、いかなる時も変わらないものということです。それはトリカラ サッティヤム――永遠の真理一一です。ロウキカ サッティヤム(現世的な真理)は、もっと低い次元のものです。それは、その瞬間のみに真理であるもののことです。次の瞬間には、それはもはや正当性を失い、一瞬前にはそうであったものが、そうではなくなります。あなたの目に映る、この世のすべての物質は、一瞬一瞬絶えず変化を続けており、すべてがいつかは崩壌してしまいます。この変化してやまない移ろいやすい世界の中で、私たちが見たり聞いたりするもののうち、一体いかなるものが正当で永遠なる真理であり得るでしょうか?

 真理とは、本当は神のことなのです。これが礼拝の8番目の花です。真理は神の姿です。この世界と自然界の中で、私たちが真理として体験し、真理であると受け取るものは、相対的なものでしかなく、ヴャヴァハーリカ サッティヤムに過ぎません。

 化学を例に取ってみましょう。いくつかの化学物質を、ある特定の順番で混ぜ合わせると、化学反応が起こって、別 な物質ができます。ライムの果汁と、ターメリックの粉を混ぜると、赤い色になります。これは化学的な真理です。物理の例を考えてみましょう。9cmの針を火で暖めると、10.5 cmの長さになります。そのようなことが物理学の真理です。化学や物理学の真理はどのくらい永続するでしょう? それらの正当性は、相対的な価値しかありません。その重要性は、相対的なものでしかありません。

 しかし、霊的な真理、すなわち神の真理は、永遠に正当性を持ち続けます。いかなる状況の下でも正しく、あなたがそこに火を持ってこようがどうしようが、決して変わることがありません。つまり、真理とは決して変わることのないものであり、永遠に同じであり続けるもののことです。それが真理であり、それが神なのです。

  私たちは、真理という美徳を失っており、それを養うためのいかなる努力もしないので、今日の世界にはあれほど多くの残酷な状況と苦しみとがはびこっているのです。今日人々が、自分たちは神を信じていると言おうが、信じていないと言おうが、あるいは半分信じて半分信じていないと言おうが、すべての人に共通 して同じ種類の、好ましくない態度や行動が見られます。しかし私たちが、少なくとも神を信ずる性質を持った人々の間に、美徳を奨励する手助けができるようになれば、かなりの役に立つことが行われるのであり、そのうちに、世界から無神論者が一掃されることでしょう。

  神の特質は、サット(真理)・チット(知識・理性・意識)・アーナンダ(至福)であると言われています。ところが、これらの諸特質は、万物の本来の性質であり、程度の差こそあれ、すべてのものに顕現されている特質でもあるのです。私たちが真理の道(サット)を歩み、真理に基づいた行動を通 じて、霊的な知識や科学的な知識(チット)を獲得しようと努めるとき、おのずから至福(アーナンダ)が訪れます。

  真理は、生まれついたときから私たちに備わっています。知識もまたその通 りです。至福という様相もまた、潜在的に私たちに備わっています。それもまた、私たちの生来の特質なのです。私たちが絶えず至福を求めるのには、そのような理由があるのです。もし至福が私たち自身の性質でないとすれば、私たちは、いかなるときにも、アーナンダ(至福)を要求することができません。もしアーナンダ(至福)がすでに私たちの生来の特性でないとすれば、私たちは、アーナンダを得るのにふさわしくなく、そのための資格もないことになります。

 私たち自身が、サット・チット・アーナンダという三つの特性の化身なのです。
あなたが思うあなたは「サット」(真理)です。
他の人が思うあなたは「チット」(意識)です。
本当の あなたは「アーナンダ」(至福)です。
これらの3つの特性は、人間の特権です。それは人間に生まれながらにして備わっている権利です。それらは人間の本性です。実にそれらは、人間の本質的な特性なのです。

  この本質的な真理を忘れ、私たちは人間の尊厳に対して何の敬意も払わず、他者を非難し、嘲笑し、彼らの悪口を言います。他者を嘲笑することによって、私たちは彼らの罪の一部を我が身に負うことになります。決して他者を嘲笑して、彼らの心を傷つけてはなりません。もし誰かの欠点を見つけた場合は、優しく彼らに話して道理を説き、理解と愛を持って彼らに判らせ、正すように努めなさい。

 アートマ(真我)という実体を持った人間の尊厳と、神の遍在とを、絶えず揺るぎない心で信じていなければなりません。信ずる心の欠如は破滅につながります。疑いは、魔物の特質であり、私たちは決してそれが心に入り込んでそこに居座ることを許してはなりません。猜疑心に取りつかれた人は、眠ることすらできず、心の平安を得ることもできません。疑いは、愛という花を食い荒らす害虫のようなものです。疑いに満ちた心は、多くのコウモリが住み着いた穴蔵に似ています。心の中から疑いを取り除いて、神の遍在を知っている意織に安住するために、私たちは、これらの8つの花を用いて行う礼拝を始めなければなりません。

 愛の化身である皆さん。
 皆さんは、中庸の習慣を身につけるべきです。私たちは、いかなる物事や行為においても、極端を避けなければなりません。膨大な恩恵の源であり、世界を養っている海でさえ、自分の領域を超えることはありません。肉体の維持に欠かせない食物でさえも、少しでも食べ過ぎれば、毒に変わって病気の原因となります。もうひとつ、ベテルの葉を噛む場合のことを考えてみましょう。それにライムを加えなければ、ベテルの葉をそのまま食べることはできず、役に立ちません。しかし、ライムが必要だからといって、ライムの汁をふんだんに振りかければ、口の中が腫れてしまいます。ですから、ライムもまた、適切な限度をもって使われなければなりません。

  霊的な真理を宣言している諸聖典は、聖賢たちが自らの経験や手本を通 じてその正しさを証明してきたものですが、それが、「いかなる場合にも極端を避けなさい」と教えているのは、以上のような理由からです。たとえどのようなものであっても、それを食べ過ぎれば健康が損なわれます。しかしまた、食物をあまりにも少ししか食べない場合も、身体に害が及び、健康が損なわれてしまうでしょう。ですから皆さんは、常に「中庸」を守る必要があるのです。

  皆さんは、あらゆるものを神と見なし、あなたの行う一つひとつの些細な行為をも神と見なすべきです。一一これこそがバクティ(帰依、信愛)の道です。あなたが、まだ霊的な道の初心者に過ぎない初期の段階においては、神の象徴として、神像や絵や写 真を使っても良いでしょう。しかし、徐々にその状態を超越するよう努めるべきです。あなたは、写 真を神として崇めることができます。しかし、神を写真として崇めてはいけません。神の無限の姿を、あなたの小さな写 真の中にのみ限定してはなりません。あなたは、自分が帰依を始めたときの、初歩の段階から、より高い段階へと成長しようと努力すべきです。

  最初の段階は花のつぼみのようなものです。それは一般 的によく見られる初歩的な段階であり、サハジャ バクティと呼ばれています。それよりも高い段階は花にたとえることができ、ヴィセーシャ バクティと呼ばれます。そして、それよりもさらに高度の、美徳を通 じて礼拝を行なう、果実にたとえるべき段階があります。これがパラ バクティです。

花芽がなければ花はなく、花がなければ果 実もない。
したがって、その三つのものは、帰依の道における
自然な段階であり、順々に熟していくものである。

 

翻訳:サティヤ サイ出版協会

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