サイババの御言葉
 
ヴェーダに関連する御言葉集

ヴェーダやウパニシャッドやシャーストラは、日常生活に実践するための教義です。それゆえ、実践を伴わなければ、言葉がいかに豊富であっても、学識がいかに優秀であろうとも、すべて膨大な浪費でしかありません。ヴェーダやウパニシャッドやシャーストラの教えを実際の生活に実践するためには、「自分は知っている」という感情をもたず、真のエッセンスに目を開き、教えについて深く内省しなければなりません。そうすれば、まちがいなく至福に到達することができます。

『Prema Vahini』

ヴェーダやウパニシャッドやシャーストラの崇高な特長は、平安と解脱に達する方法について教えることにあります。しかし、それらの経典には至福のエッセンスが浸透しているわけではないので、いくら経典を絞ってもエッセンスが集まるわけではありません。私たちは、経典に書かれた道、方向、目標を発見しなければなりません。道を歩み、示された方向に進み、目標に到達しなさい。しかし、もし、「自我意識」から「自分は何もかも知っている」との高慢が生じるなら堕落は必定です。迷いは死の原因です。解脱の秘訣はこの危険を認識することにあります。危険を避けないなら再生は免れません。

『Prema Vahini』

ヴェーダやシャーストラや賢者のメッセージはすべて、神はあらゆるものの内に存在し満ち渡っていることを、異口同音に、まったく疑うことなく、今日に至るまで宣言しています。

『Prema Vahini』

香料を背に積むロバは象になれるでしょうか? ロバは白檀の束を背に載せて運びさえすれば象に変身できるでしょうか? ロバにわかるのは荷の重さだけであり、香りはわかりません。一方、象は重さには無関心です。象は芳しい香りを吸い込みます。そうではありませんか? それと同様に、霊性修行者、隠遁者、神を愛する者は、良い行為、神さながらの人、シャーストラやヴェーダやウパニシャッドの清らかな真理と清らかなエッセンスのみを吸収します。一方、単なる学識と、勉学と、非難のための議論をし続けるならば、真理の香りを知ることはなく、論理という重荷を知るだけでしょう。傍観者はそのような人を、シャーストラやヴェーダの権化であると賞賛するかもしれません。しかし、エッセンスの欠如した人が、どうして権化であり得るでしょうか? エッセンスを求める者は荷物の重さには関心がありません。単に理屈をこねるだけでは価値あるものは得られません。信愛は至高の神を絶えず憶念するための大切な道具です。霊性修行者にとって、道具を安全に丈夫に保つためには識別 という刀の(さや)以外に器具は要りません。

『Prema Vahini』

世の中には膨大な学問を議論のために用い、自分はすぐれた学者であると確信する者がいます。それは大きな誤りです。もし真の学問があるならば、そんなに議論をしないはずです。名誉ある態度として沈黙を守るでしょう。なぜなら、真に学問のあるものは、ヴェーダやシャーストラやウパニシャッドのエッセンスを体験するからです。

『Prema Vahini』

自分で実践せずにヴェーダーンタをオウムのように他の人に話して聞かせるだけなら、単に他の人をあざむくのみならず、もっと悪いことに、自分自身をだますことになります。それゆえ、他の人にそうであってもらいたいように、あなた自身がそうでありなさい。

『Prema Vahini』

シッダーンタやヴェーダーンタのような教典自体には、個人の欠陥や弱点を癒す力はありません。完全な結果 を得たいと望む人は、誤った感情や低次の感情のすべてを手放し、ヴェーダーンタやシッダーンタの真の教えに沿って行動しなければなりません。そのようにする人は、成果 を手に入れることができます。

『Dhyana Vahini』

ヴェーダーンタは非常に古い聖典です。ヴェーダーンタはヴェーダヴィヤーサ(「ヴェーダの編者」の意。聖賢ヴィヤーサの別 称)によって復興され、ヴィヤーサの『ヴェーダーンタ スートラ』という著書において説明されています。『ヴェーダーンタ スートラ』は、『ブラフマ スートラ』という名前において、より知られています。六世紀にはアーディ シャンカラーチャーリヤが『ブラフマ スートラ』の解説書を記しました。サーンキヤ学派と同じように、『ブラフマ スートラ』においてもアートマはドラシュタ(傍観者)としてとらえられています。傍観者あるいは目撃者として、アートマはラーガ(執着)にもヴィカーラ(変化)にも影響されることはありません。その究極の目的も、この世のかせから解き放たれることです。

『A Glossary of Sanskrit Words Gleaned From Sai Literature』

シュルティとは、古代のリシ〔聖賢〕たちによって神聖な音として『聴かれたもの』という意味です。グル〔師〕がヴェーダの讃歌を唱え、弟子たちは一心にそれを聴き、同じ声の調子でそれを再生するのです。こうした過程は弟子たちが各讃歌をマスターするまで繰り返されます。

『Leela Kaivalya Vahini』

ヴェーダは宣言しています。「父母と教師の言いつけを尊び、正しい道を歩む者はだれであれ、すべての人にとってのすぐれた手本である」と。

『Rama Katha Rasa Vahini』

人は皆、ヴェーダ〔インド最古の聖典群〕やシャーストラ〔論書〕やプラーナ〔古伝説〕に詳述されているダルマの概要をよく理解しなければなりません。

『生きる道 ダルマ ヴァヒニ』

鈍感で道を外れた人々はヴェーダの道徳そのものを変えてしまい、自分たちの作り上げたものこそヴェーダが教えていることだと皆に信じ込ませて、世界中を惑わしています! ダルマがそのように乱暴に扱われ、神に敵対する者の手によって傷つけられたとき、主なる神は天界の神々や神のおきてに従う者たちの祈りに応えました。

『生きる道 ダルマ ヴァヒニ』

ヴェーダは神をダルマと呼び、仏陀は悟りと呼びました。というのも、その頃「ヴェーダ」という言葉を好む人はだれもいなかったからです。当時はソーマカと呼ばれる阿修羅の時代にあったため、ヴェーダに従う人々はそれを「ヴェーダ」〔真の知識〕と呼ぶのをはばかっていました。生命が危機にさらされる状況にあれば、そのような行為も許されます。しかし仏陀は、ヴェーダに対して大いなる崇敬の念を抱いていました。仏陀は常に神に満たされていました。仏陀はしばしば無神論者(ナスティカ)として語られます! では仏陀が無神論者だとするなら、いったいだれが有神論者(アスティカ)だというのでしょう? 仏陀の生き方はすべてダルマからなる武勇伝です。

『生きる道 ダルマ ヴァヒニ』

「グニャーナ〔英知〕という祭壇にアグニャーナ〔無知〕とアハムカーラ〔自己意識〕を捧げなさい。そしてそこにダルマを安置しなさい」。これがヴェーダのメッセージです。

『生きる道 ダルマ ヴァヒニ』

ダルマはヴェーダであり、マントラ〔真言〕であり、それらが伝える英知です。

『生きる道 ダルマ ヴァヒニ』

女性は、今日重要視されている物質世界に関する学科を何でも習得して構いません。けれども、霊的な豊かさも忘れてはなりません。内なる洞察力を培うヴェーダーンタの学習に興味を持たなくてはなりません。こういった修養のない女性は支えのない岩のようなものであり、自分にとっても他人にとっても危険で、ひどくバランスを欠いた存在です。

『生きる道 ダルマ ヴァヒニ』

シャーストラは、目に見える形で確実に利益をもたらす規則を常に支持しているわけではありません。またヴェーダ等も、有形の利益をもたらす行為のみを示そうとしているのではありません。ダルマをそのような観点から試すことはできません。直接目に見える形で証明するのは不可能です。ダルマはヴェーダのマントラ〔真言〕を通 してのみ知ることができ、ヴェーダは目に見える形では証明することのできない真理をこそ解明しようとしている、とミーマーンサー学派〔インド六派哲学の一つ、ヴェーダの祭式の規定や意義を考察〕の人々は言明しています。

『生きる道 ダルマ ヴァヒニ』

マヌ〔人間の始祖〕はこのように語りました。「ダルマを知りたいと願う者はだれでも、ヴェーダやシャーストラに反することのない論理、すなわちタルカの体系(論理学体系)に従うことによってのみ、ダルマを知ることができる」。
 ヴェーダに反する結論は論理的ではあり得ません。不毛な論理学は無益であり、マヌはヴェーダ等を学ぼうとする人々に対してそのような論理学を推奨してはいません。それでもなお今日、そのような論理的推論に固執して自らアダルマ〔不正〕の道を歩み、他人をも誤った道に引きずり込む人々が大勢います。だからこそヴェーダ ヴィヤーサ〔ヴェーダの父ヴィヤーサ、ヴィヤーサ仙はヴェーダを編纂へんさんした〕は、遠い昔に次のように宣言しました。「原因と結果 の関係を追求し、因果論や論理学の道を辿る者は聖なる火に犠牲を捧げたりはせず、品位 を損なう低次の行為に没頭する」。

『生きる道 ダルマ ヴァヒニ』

もしブラーミンが病弱のあまりヴェーダの研究を推し進めることができないのであれば、少なくとも最後の瞬間までガヤトリーを唱え続けなければならないとマヌは言っています。

『生きる道 ダルマ ヴァヒニ』

母なるヴェーダ(ヴェーダマータ)はガヤトリー女神を崇める人すべてにあらゆる恩恵を授けるでしょう。

『生きる道 ダルマ ヴァヒニ』

アートマグニャーナ、すなわち自らの根源的真理としてのアートマの英知を授かった人は生死の大海を渡り、まちがいなく解脱を得ます。他方、ヴェーダやウパニシャッドやギーターを学んでいないのに、単なる外面 の清らかさや誇示に満足してしまう人は言うに及ばず、自分たちのために定められた誓約や儀式を無視する人たちも、確実に悲しみに悩まされるでしょう。

『生きる道 ダルマ ヴァヒニ』

何が正しく、何が間違った行為であるかを決定するには、シャーストラ〔論書、経典〕のみが拠り所となります。人生のどの段階にいようと、何のアーシュラマであろうと、ブラフマンの認識を目的とし、スワスワルーパ(自分自身の本当の真理)を実現しようと探究するなら、その人は無知の覆いを取り除くことに成功し、自分自身がブラフマンであることを知るでしょう。自らのアートマに心を集中すること──それが解脱への手段です。ヴェーダの説くこの教えを理解し、自分の人生の特定の段階に対して定められている生活の原則に従うならだれであれ、たとえカーストが何であろうとも、パラマパーダという最高の段階に達することができます。

『生きる道 ダルマ ヴァヒニ』

ヴェーダは二つの部分から構成されています。アグニャーニ(無知な者)に対するカルマカーンダ〔儀式的行為に関して聴く部分〕と、ヴィグニャーニ〔英知を得た者〕に対するグニャーナカーンダ〔唯一の霊、至高の知識に関する英知の部分〕です。シャーストラのみを考えた場合にも、やはり二つの部分があります。学者たちの言葉と、アートマグニャーナ〔アートマの英知〕を体験して発せられた賢者の言葉です。その中でもブラフマンとアートマは同一であると認識した結果 、自分が行為者であるという考えをまったく放棄してしまった人の言葉、生命の多様性の中に同一のアートマが内在すると知り、それを実感している人の言葉、「私のもの」、「あなたのもの」といった区別 をまったくなくしてしまった人、あらゆる生物と無生物の幸福を追求する人、そのような、アートマを知る人々の言葉のみが真実であり、価値あるものなのです。

『生きる道 ダルマ ヴァヒニ』

ヴェーダ文献はサムヒター〔本書〕、ブラーフマナ〔梵書〕、アーラニヤカ〔森林書〕、そしてウパニシャッド〔奥義書〕から成ります。このうち最初の三つはカルマ〔行為〕を論じており、カルマカーンダ〔行為の巻〕として知られています。最後の一つ、ウパニシャッドはグニャーナ〔英知〕に関するものであり、それゆえグニャーナカーンダ〔英知の巻〕と呼ばれています。ヴェーダ サムヒターの中のマントラは、インドラ〔天界のデーヴァ神々の主〕、アグニ〔火の神〕、ヴァルナ〔「リグ ヴェーダ」の主神、水の神〕、スーリヤ〔太陽神、時間の父、マヌの父〕、ルドラ〔宇宙を消滅させるヴェーダの神、シヴァ神の別 名、幸運と慈悲の神〕のような神々を讃えるストートラ〔格言〕に満ちています。

『生きる道 ダルマ ヴァヒニ』

古代、アーリア人たちはマントラを通して神に捧げた犠牲と儀式によって平安と満足を獲得し、願望を成就しました。彼らは絶対原理、パラマートマは唯一無二の存在であると知っていました。そして唯一であるにもかかわらず、異なる名と姿をもって、変化に富んださまざまなものとして顕れているということも知っていました。「リグ ヴェーダ」のマントラの多くはこのことを明確に伝えています。「たった一つのものがあるだけだ。真理を見た者はそれをさまざまに賛美する。アグニ〔火の神〕、ヤマ〔死の神〕、マータリシュヴァン〔一切を清浄にする風の神〕として」。唯一無二の存在であるこのブラフマンは、「リグ ヴェーダ」の中ではヒラニヤガルバ〔黄金の胎児〕、プラジャーパティ〔創造物の主〕、ヴィシュヴァカルマ プルシャ〔すべての行為をなす者〕として記述されています。「ヒラニヤガルバ シュクタ」〔ヒラニヤガルバ讃歌〕や「プルシャシュクタ」〔プルシャ讃歌〕はこのようなヴィジョンを表現した古典的実例です。

『生きる道 ダルマ ヴァヒニ』

ウパニシャッドのリシ〔聖者、賢者〕たちは皆一様に、至高の原理の本質を次のように確信しました。「このナーマルーパ ジャガット(名と姿より成るこの移り行く世界)の根底に、唯一永遠不滅の存在がある。それは絶対者、パラ ブラフマンである。この至高の存在はグニャーナヨーガによってつかみ取ることができる」。したがって「それを探究しなさい。それがブラフマーである」。――これがウパニシャッド(ヴェーダーンタ)の教えるブラフマヴィディヤ〔ブラフマンの知識〕です。

『生きる道 ダルマ ヴァヒニ』

ウパニシャッドは次のようにも宣言しています。「ヴェーダは主として、天界に到達しようという人間の目的に関するものであるが、解脱、すなわちモークシャを得るための基本的な修練をも提供している。絶対者への到達はブラフマヴィディヤに完全に精通 することのみにかかっているのではない。それは学問や学識や知性によって克服できる領域にはない。絶対者への到達を実現可能にするのは、ウパーサナ〔礼拝〕のみである」。力を尽くして勉学に励んでいる学者がウパーサナにも熱心であれば、その人の人生は真に神聖なものとなります! 「そのような求道者の前に、神は真の栄光を表すであろう」。
 『ブリハッド アーラニヤカ ウパニシャッド』は、ジーヴィとパラマートマ、すなわち、個人と普遍なる者とのつながりについてこのように宣言しています。普遍なるものは個々の存在にとってもっとも崇高な目的地、最高の富、もっとも高貴な極み、もっとも深い喜びです。
 『タイッティリーヤ ウパニシャッド』は次のように宣言しています。「パラマートマは幸福の根源である。パラマートマはラーサ、すなわちもっとも純粋な感情の具現であるのだから。パラマートマに到達したとき、ジーヴィ〔人〕は至福に浸るだろう。パラマートマがハート〔心〕という大空に輝いていないなら、だれがそれを味わえるというのだろう? だれが生きていけるのだろう? パラマートマはすべてをアーナンダ〔至福〕で満たすのだ」。
 ヴェーダサムヒター〔本書〕の中に蒔かれたバクティの種は、ウパニシャッド〔奥義書〕の中で芽生え、プラーナ〔古譚〕の中で幾重にも枝を伸ばし、いっせいに花を咲かせ始めました。

『生きる道 ダルマ ヴァヒニ』

ヴェーダの規律の中でも、御名と、心を御名に留めておく義務がもっとも重要であるとして強調されています。「オーム──その一言がブラフマンである」とアーリアの賢者たちは宣言します。

『生きる道 ダルマ ヴァヒニ』

ダルマに立脚している賢者はヴェーダに示されている通 り、真理の道を歩みます。それが今日のすべての「人」の道です。

『生きる道 ダルマ ヴァヒニ』

神への礼拝はヴェーダに定められた規則に従っていなければなりません。そうすることによって、人はダルマを実践する力を得るでしょう。

『生きる道 ダルマ ヴァヒニ』

あらゆる外的な困難や心配事を歓迎しなさい。そのような状況にあったとしても、純粋なバクティ(神への信愛)もしくはヴェーダに従って生きなさい。

『プレーマ ダーラ』

お金も若さも妻も子も、すべて一時的なものでしかありません。真理(サティヤム)と名声(キールティ)のみが永遠です。そのようなわけで、神(ブラフマン)は真理と呼ばれているのです。英知(グニャーナム)は真理から生まれます。サティヤムとグニャーナム(真理と英知)は万物に浸透しています。ヴェーダ経典が「サティヤム グニャーナム アナンタム ブラムハ」(神は真理・英知・無限である)と宣言しているのはそのような理由からです。

『一体性の実践』

あなたはラジオで聞いたこと、テレビで見たこと、新聞で読んだことを信じていますが、一方で、古のヴェーダやその他の聖典にある「賢者や聖者の格言や教義」(リシヴァーキヤ)を信じていません。ヴェーダは「イーシュヴァリーヤ」すなわち「神の創作物」(アパウルシェーヤ)と呼ばれています。あなたはヴェーダを信じていません。何と奇妙で嘆かわしいことでしょう! このことについて、しばらくよく考えてごらんなさい。

『サティヨーパニシャッド』

「マートル デーヴォー バヴァ――母は神なり。ピトル デーヴォー バヴァ――父は神なり」というヴェーダの訓令を知っていますね。人はこの訓令に従わなければなりません。

『サティヨーパニシャッド』

「ヴェードーキロー ダルマムーラム」〔ヴェーダはあらゆるダルマの源である〕とも言われています。ヤグナやヤーガといった儀式を記したヴェーダは、儀式の履行をダルマと呼んでいます。ヴェーダに定められた行為をなすのは私たちの義務です。

『サティヨーパニシャッド』

磁石は、錆びてほこりだらけであれば一片の鉄も引き寄せません。鉄片や鉄の棒も、長い間磁石にくっついていれば磁石になります。これはヴェーダの詩節、「ブラフマンを知る者はついにはブラフマンになる」(ブラフマヴィッド ブラフマイヴァ ブラヴァティ)の意味するところです。あなたは、人生という鉄は世俗の欲で錆びるべきではないことを理解すべきです。さもなければ、人生は崩壊して終わります。

『サティヨーパニシャッド』

ヤグナやヤーガのような神聖な儀式を見て、人は ギーを始めとするたくさんの物が犠牲の火に投げ込まれるのを無駄 と感じるかもしれません。それは違います。それらの物が護摩壇に投げ入れられたときに出る煙と、それと同時に詠唱されるヴェーダのマントラは、汚れた空気を浄化します。大気全体が清められます。ですから、そうした儀式を、時代遅れであるとか、滑稽であるとか、無意味であるなどと考えるのは愚かなことです。そうした儀式は、適時に雨を降らせ、収穫を約束します。ヴェーダ聖典に定められているそうした儀式のすべては、実際に、人類の幸福のためにあり、平安と至福を授けるのです。

『サティヨーパニシャッド』

聖賢ヴィヤーサはすべてのヴェーダを編纂し、一大叙事詩『マハーバーラタ』と、十八のプラーナと、 『ブラフマ・スートラ』を書きました。それでも依然として心には平安がなく、安らぎもありませんでした。ヴィヤーサがそれを苦悩していると、聖賢ナーラダが、神のリーラと神の奇蹟の輝かしい栄光を歌った、ひときわすぐれた帰依者たちの生涯のあらましを盛り込んだ書『バガヴァタ』を書くようにと勧めました。そうして初めて、ヴィヤーサは平安と至福を味わうことができました。

『サティヨーパニシャッド』

あなたに人生の目的と目標を説き、同時に霊性の道をも示してくれるもの、それはヴェーダです。あなたは自分の母親に感謝すべきであるのと同じように、母なる聖典にも感謝すべきです。

『サティヨーパニシャッド』

ヴェーダは二元論です。ヴェーダーンダは不二一元論です。ヴェーダーンタを超えるものはありません。

『サティヨーパニシャッド』

バラタ〔ラーマの弟〕はラーマが戻ってきて王国を治めることを望みました。バラタは何度も繰り返しラーマに懇願しました。けれども、ラーマは父の命令に従ってダルマを完全に守ることを決意していたため、戻るのを断りました。追放の期限が過ぎたらすぐに戻るとラーマが約束をすると、バラタはラーマのもとを去りました。もうすぐ期限が終わろうというころ、バラタはラーマが約束した時間に戻って来るのを待っていました。ラーマが着く気配が一向に見られないことに対する苦痛に耐えられず、バラタは火葬のための薪を用意して、我が身を犠牲にするためにそこに跳び込む覚悟を決めました。
 一方、ラーマはそうした事態を避けるため、そして、自分は以前約束したとおりに到着するということをバラタに伝えるために、事前にハヌマーンを送りました。ハヌマーンはただちにバラタの住むナンディーグラマへと飛んで行きました。ハヌマーンは着地するやいなや、その場の状況を把握しました。そこではバラタが、焼身自殺をするための儀式として、身を投じようとしている薪の山の周りを回っていました。ハヌマーンは思いました。「ラーマはどうやってここに来たのだろう? なぜ、ラーマは薪の周りを回っているのだろう?」。バラタがずっとラーマを瞑想していたために、どうやらバラタはラーマと寸分の違いもなく見えたようでした。それはハヌマーンを混乱させました。
 これがヴェーダの言う「絶えずブラフマンを意識することは人をブラフマンにさせる」(ブラフマヴィッド ブラフマイヴァ バヴァティ)という言葉の意味です。

『サティヨーパニシャッド』

ラーマは、ヴェーダのダルマが人間の姿をとって顕れたものです。

『1008の宝石』

シュリ ラーマが、アヴァター(神の化身)としての生涯を閉じようと決意して、氾濫したサラユー川に入水しようとしていたとき、一匹の犬がラーマの一団のあとについて来ました。その犬に、「なぜ随行者の一団に加わるのか?」と尋ねると、犬は、「私も皆さんといっしょに天界に入りたいのです」と答えました。「私は前生では熟達したヨーギでした。けれども私は、自制という正道から滑り落ち、自惚れ心の奴隷となって、感興のおもむくままに、とっぴではあれ人を引き付けるやり方でヴェーダを講釈しました。その成れの果 てに、今や、吠えたり、咬んだり、唸ったりすることを喜ぶ、このような畜生になってしまったのです。そして、私をほめそやし助長した者たちは今、ノミやハエとなって私の皮膚にたかり私を悩ませています。主よ、お助けください。この恥辱から逃れさせてください。私はカルマの負債を返しました。私は刑期を務め終わりました」。

『1008の宝石』

神に至る道は、ダルマ〔正しい行い、正義、義務〕に基づいたカルマ〔行動〕です。それはまた、喜びと、満足と、したがってまた、力に至る道でもあります。今やこの道は、いばらと藪に覆われて隠れており、橋や暗渠(あんきょ)は破損しています。人々は、ゴールと、そこに至る道と、その道を歩く習慣とを忘れてしまいました。その道こそが唯一の避難所であり、私たちは今日でなければ明日、その道を歩かなければなりません。というのも、私たちのゴールはその道の果 てにあるからです。その道が敷かれたのは何世紀も昔、有史以前のヴェーダの中でのことでした。「サティヤム ヴァダ、ダルマム パダ」(真実を語りなさい。正義を行いなさい)。ヴェーダは皆さんにそう呼びかけています。

『1008の宝石』

真理を意識しながら生きることこそが、万人にとっての義務です。地球に生きる者は、まず初めに「人」とならねばなりません。次に人は、神に至る方法を学び、魂の喜びを発見せねばなりません。これが、「ヴェーダ」の教えるラージャ ヨーガの道です。アートマは万物を照らし、輝くためには他の光源を必要としません。アートマは全宇宙の照覧者なのです。

『1008の宝石』

ヴェーダーンタ〔ヴェーダの奥義を述べた聖典、ウパニシャッド〕は、ライオンの雄叫(おたけ)びのようなものです。それは勇気と進取の気性をもたらし、人を英雄にしてくれます。それはクンクン鳴くことも、うめくことも、泣くこともなく臆病風を吹き飛ばし、この上ない自信を注ぎ込んでくれます。それは強奪という矢に対する最強の鎧であり、感覚的な快楽という雨あられに対する防水カバーの役目を果 たします。それは心配という蚊を防ぐ蚊帳であり、それなくして人は眠りを奪われてしまいます。ヴェーダーンタの浸透した心をもつ人は、誘惑の波に影響されることのない海辺の岩です。ヴェーダーンタはあなたの冒険心と本性を刺激します。

『1008の宝石』

あなたがこっそりしまいこんでいる財産は、あなたのものではありません。あなたが分け与えた財産こそ、あなたの財産です。というのも、あなたが持っている財産は死蔵されるべきものではないからです。あなたの与えた富こそが、あなたの真の財産です。それゆえ、ヴェーダは言明しています。「行動によっても、子孫によっても、財産によっても、永遠の生命を勝ち取ることはできない。永遠の生命は、放棄によってのみ、勝ち取ることができる」と。

『1008の宝石』

ヴェーダは、バーラタ文化の基盤です。もし現代社会にあって、ほんのわずかでも霊的輝きが見えるとすれば、その輝きの原因は、このヴェーダという基盤と、わたしが人々に要求する生活様式にあると言うことができます。すべてのダルマ(道徳律)はヴェーダから生まれたものであり、全世界がダルマによって維持されています。「ヴェーダムーラム イダム ジャガット」(全宇宙はヴェーダの投影にすぎない)のです。

『1008の宝石』

ヴェーダが宣言しているように、真理よりも崇高なダルマはありません。真理は隠され、ゆがめられたかのようであり、衰えつつあることが断言されています。だからこそ、この化身(サティア サイ ババ)は真理の有効性と価値を再び断言するのです。神は真理を身にまとい、善人は真理を探し求め、悪人は真理によって救われます。真理は解き放つもの、真理は力、真理は自由です。真理は心を照らし、疑いと闇を払う光です。神の光輝が真理です。心に神を迎え入れなさい。切なる思いで心に神を据えなさい。常にブラフマンのことを心にとどめていなさい。そうすれば、あなたはブラーミン〔バラモン、ブラフマンの原理を悟ったもの〕として知られる権利を与えられるのです。

『1008の宝石』

太陽光線の微細な火花に照らされて、目は見ることができます。「〔原人プルシャの〕チャクショースーリョ(目)より、スーリヤ〔太陽、太陽神〕アジャーヤータは生まれた」〔「プルシャシュクタ讃歌」(『リグヴェーダ』第10巻90讃歌一三詩節)〕。アートマ〔真我〕はいっさいの感覚の原動力です。目は、それを通 してアートマが外界をのぞく窓にすぎません。もし、ものを正しく見ることができないとすれば、目はいったい何の役に立つでしょう? 「サーマム」〔感覚のコントロール〕はブラフマンを意味し、「サーマドリシュティ」〔すべてを等しく見る〕とは、いかなるときにも万物の中に唯一者ブラフマンのみを見ることを意味します。この「エーカットワム」〔一体性〕こそが、根本の真理です。それ以外はすべて、部分的で、ゆがめられた、偽りの体験なのです。

『1008の宝石』

神は、「プルシャシュクタ讃歌」〔『リグヴェーダ』第10巻90讃歌〕において「千の頭をもつもの」と描写 されています。これは、神はちょうど千の頭をもっており、千以上でも千以下でもない、ということではありません。これは、「今、わたしの目の前にある『千の頭』には、すべてのものに生命と活力を与えているただ一つの心臓があり、その心臓とは神のことである」という意味です。だれもが自分の隣人と離れた存在ではありません。すべての人が無数の肉体を流れる一つの生命の源によって結びつけられているのです。これはサナータナ ダルマ〔永遠の理法〕の特別な教えであり、世界がこれを必要としているのです。

『1008の宝石』

世界の繁栄のために育まなければならないものが七つあります。牛、ブラフマンを求める者すなわちブラーミン、ヴェーダ、貞節、真理、無執着、そしてダルマです。これらのすべてが、現在、急速に衰退しています。そして、これらのもともとの純粋さと力強さを復興させるために、わたしは来たのです。

『1008の宝石』

「オームの『オ』は『ヴィシュワ物質的な相』、『ー』は『タイジャサ霊妙な相』、『ム』は『プラジュナ起因の相』である」。これらは聖典が示しているもう一つの解釈です。ヴィシュワは「目覚めている状態」、タイジャサは「夢見の状態」、プラジュナは「熟睡の状態」を意味します。ゆえに、プラナヴァ サーダナ〔聖音オームを瞑想する霊性修行〕は探求者にとって非常に重要です。「ヴェーダ」は、聖典を学んでいるとき、神の御名を唱えているとき、日常の義務を行っているとき、捧げものをするときに、プラナヴァ〔オーム〕を繰り返し唱えるよう定めています。

『1008の宝石』

ヴェーダは「イーシュワラ サルヴァブータナム」(神はあらゆる存在の中に棲む)と教えています。神の別 名はヴィシュワです。ヴィシュワとは、全世界が神の姿である、という意味です。

『真の教育』

ヴェーダでは、人間の中にある生命原理をサティヤ(真理)と呼んでいます。この真理という力がなければ、人間は存在することができません。

『真の教育』

真理が実践されるとき、それは正義になります。真理は言葉で表現され、正義は行動で表現されます。これに基づいて、ヴェーダは「サティヤム ヴァダ、ダルマム チャラ」(真理を語り、正義を行いなさい)と教えました。それゆえ、正義は真理に基づいています。真理がなければ、正義はありません。これこそヴェーダが「サティヤナースティ パロー ダルマハ」(真理に従うよりも高遠なダルマはない)と説く理由なのです。真理という土台がなければ、正義という家を建てることはできません。サティヤ チャーラナ(真理の実践)が真のダルマです。このダルマは全人類に共通しています。

『真の教育』

平安はどこにありますか? あなたが平安の化身です。ですから内面 を探しなさい。自分自身を知りなさい。そのときあなたはすべてを知るでしょう。これが ヴェーダーンタの教えです。

『真の教育』

ヴェーダ聖典は「ナー カルマナ ナー プラジャーヤ ダネーナ ティヤーゲナイケーナ アムルタットゥワマナスフ」(行動も子孫も富も不滅を与えることはできず、ただ犠牲によってのみ不滅に達することができる)と教えます。犠牲によってのみ、幸福に達することができます。食事を取ったあとで、排泄物を出さなかったら、あなたのお腹は調子が悪くなるでしょう。いったん空気を吸い込んで、その空気を吐き出さなかったら、あなたの肺は傷付いてしまうでしょう。同じように、あなたが働いて得た富を、他の人の幸福のために捧げなさい。

『真の教育』

「マトゥル デーヴォーバヴァー、ピトゥル デーヴォーバヴァー、アーチャーリヤ デーヴォーバヴァー、アティティ デーヴォーバヴァー」(母を神として崇めよ、父を神として崇めよ、教師を神として崇めよ、客を神として崇めよ)とヴェーダは述べています。こうした教えは非常に神聖です。今日、人々はテレビやインターネットで見ることは容易に信じますが、ヴェーダで述べられていることは信じようとしません。インターネットは、くずかごのようなものです。インターネットではなく、インナーネットに従いなさい。

『真の教育』

あなたの愛は揺らぐことなく変わることがないと知らなければなりません。これが「絶えざる意識」です。それが英知です。これは単なる文章上の知識ではありません。皆さんは、変わることのない知識をもたらす真理を身に付ける必要があります。ヴェーダではこの状態を「プラグニャーナム ブラフマー」(絶えざる神意識)と表現しています。だれもがこれを捜し求めなければなりません。

『真の教育』

すべての中に同じ一つの神性があります。宇宙に二元性はありません。ヴェーダは「エーカムサット ヴィプラー バフーダ ヴァダンティ」(真理は一つ。しかし学者たちはそれを多くの名で呼ぶ)と宣言しています。

『真の教育』

心が平静な状態が真のヴェーダーンタです。心が平静でないところに幸福はありません。ヴェーダは宣言しています。「サハナーヴァヴァトゥ サハナウブナクトゥ、サハヴェーリャムカラヴァーヴァハイ、テージャスヴィナーヴァディータマストゥーマーヴィッドヴィ」(願わくは、私たちの知性と、働く勇気とが、共に伸び育つことを。願わくは、主が私たちを守り、育んでくださることを。願わくは、私たちが憎しみのない友愛の中で生きていくことを)。ヴェーダの第一の教えは、一体性を培うことです。ヴェーダは、すべては一つであるという原則を教えています。けれども現代の世界には一体性がありません。

『真の教育』

肉体への執着が増えると、心配もまた増えます。これに基づいて「荷物を少なくしなさい。そうすれば心地よい旅ができる」と言うのです。ヴェーダーンタでは、これを「放棄」と呼んでいます。放棄とは、家庭を捨てて森に行くという意味ではありません。放棄とは、万物が一体であることを体験するという意味です。

『真の教育』

ヴェーダは「マトゥル デーヴォー バヴァー、ピトゥルデーヴォー バヴァー」(母を神として崇めよ、父を神として崇めよ)と言っています。それゆえ、皆さんは両親を神とみなしなさい。よい行動と振る舞いで、この世界でよい評判を得なさい。

『真の教育』

ヴェーダは「サルヴァム ヴィシュヌマーヤーム ジャガット」(全宇宙に神が浸透している)、「サルヴァム カルヴィダム ブラフマー」(このすべてが、真に神である)と述べています。このような神からの言葉を理解するためには、神聖な特質を培わなければなりません。崇高な特質を備えていない人には、これらの言葉が理解できません。

『真の教育』

非常に神聖なヴェーダの章句を唱えることにより、人は計り知れない至福を得ます。最初はヴェーダを信じていなかった仏陀でさえも、ヴェーダへの関心を深めたのは、そのためです。人々は、仏陀がヴェーダに反対していたという印象をもっていました。のちに シャンカラーチャーリヤは、仏陀が決してヴェーダに反対していたわけではないことを説いて、人々の思い違いを正そうとしました。シャンカラは「人々こそが、無知のためにヴェーダに反対しているのだ」と言いました。仏陀は欲望を克服しました。それはだれにでもできることではありません。欲望を克服するために、たくさんのサーダナ(霊性修行)をする必要はありません。人生の内なる意味を理解すれば、欲望に悩まされることはないでしょう。現代の人間は、お金のためなら、どんなレベルにも身を落とそうとします。神の偉大な帰依者のごとく装って、人々をあざむこうとします。これが人間がなすべきことなのでしょうか? そうではありません。人間は欲望を克服し、感覚をコントロールすべきです。

『真の教育』

よい特質を培ったときに初めて、ヴェーダの教えが理解できるようになります。よい習慣を通 じてのみ、よい特質を培うことができます。行く手に障害があったとしても、決してあきらめてはなりません。

『真の教育』

「サハスラ シールシャ プルシャハ、サハスラークシャ サハスラ パダ」(何千もの頭と足と目をもって、神は万物の中に浸透している)。これは、私たちがこの世界で見るすべての頭と、すべての足と、すべての目は神のものであるという意味です。このヴェーダの詩句が作られた当時、世界の人口はわずか数千人でした。ところが現在の人口は数十億にものぼっています。ヴェーダが書かれた時代には、人々は万人を神とみなしていました。彼らは「サルヴァ ブータ ナマスカーラム ケーシャヴァム プラティガッチャーティ」(すべてのものに捧げる敬意は神に届く)、「イーシュワラ サルヴァ ブータナム」(神は万物の内在者である)、「イサヴァーシャムイダム サルヴァム」(全宇宙に神が浸透している)というヴェーダの格言を信じていました。神は、特定の場所に限定されるものではありません。神はここにいます。あそこにいます。神はあらゆるところにいます。皆さんは、迷妄のために「違い」を創り出しています。しかし、神は唯一無二の存在なのです。グルの務めは、すべてが一つであるという原理を広めることです。

『真の教育』

内面からもたらされる教育には、しっかりした土台があり、色あせることがありません。それはサティヤム(真理)と呼ばれます。ヴェーダで述べられているところによれば、サティヤムよりも一段階上にあるものがリタム(絶対的真理)です。私たちが日々の生活の中で通 常「真実」と呼んでいるものは、単なる「事実」です。

『真の教育』

あなたは肉体と心とアートマの結合体です。肉体は変化するものです。変わらないものはアートマです。これはヴェーダの中で「リタム」と呼ばれています。それは不変であり、いかなる属性もありません。それは属性がなく、純粋で、永遠、最高位 の住居であり、不変で、無垢であると述べられています。

『真の教育』

ヴェーダには「母を神として崇めよ」(マトゥル デーヴォー バヴァー)と記されています。あなたを愛と世話と犠牲をもって育ててくれた母親を敬いなさい。どんなに名声がある人でも、自分の母親を敬わないなら、その人は尊敬に値しません。母の嘆願にも溶けることのない堅い心の持ち主は、嘲笑以外の何にも値しません。

『Sathya Sai Speaks Vol.V』

わたしたちが唱え得る「1008の御名」は何組もあります。そのわけは、ヴェーダに明記されているように、神には「千の頭と千の目と千の足」があるからです。帰依者は、一つひとつの神の御名を、それぞれの御名のもつ意味や重要性を理解しながら唱えることを通 して、神を崇め、至福を得ることができます。

『バジャン 神への讃歌』

マインドの中のすべての欲望をすぐに取り除くことなどできません。それゆえ人は、ヴェーダに定められている「一つの欲望」を抱くべきなのです。ヴェーダは人間に、ダルマ、アルタ(富)、カーマ(欲望)、モークシャ(解脱)という四つの目標を定めています。最初のダルマと最後の解脱は、感覚的な悦楽への執着を捨てるか、それを遮断してしまわない限り手に入れるのは困難です。そのため人間は、この二つを実現不可能なものとしてあきらめてしまい、いたる所で富と欲望という中間の目的のために苦闘しているのです。人生におけるあらゆる恐れと窮状は、元をたどればこのたいへんな過ちのゆえです。しなければならないのは、この四つの目的を、「ダルマと富」そして「欲望と解脱」という二つの不可分の組み合わせとしてとらえることです。つまり言い換えるなら、ダルマを貫いて富を得てその富を正義の振興のために使うこと、そして、解脱を唯一の望みとすることです。

『バジャン 神への讃歌』

ヴェーダは「ブラフマンを知る者は、ブラフマンとなる」と述べています。

『バジャン 神への讃歌』

ナーラダは、ラムボーダラー(ガネーシャ)がヴェーダの戒めに従って行動しさえすれば、その任務はよい結果 を得るだろうと断言しました。ナーラダはそのヴェーダの戒めとは何であるかを説きました。すべてのヴェーダは神の御名に秘められた力を賞賛しています。

『バジャン 神への讃歌』

バーラタ文化の起源はヴェーダにあります。音楽や文学はヴェーダよりもたらされました。『サーマヴェーダ』は音楽の源泉です。『リグヴェーダ』はあらゆる文学の源です。音楽で満たされた信愛は神の御姿です。それゆえ、ナーラーヤナ神は宣言しました。「わたしはヴァイクンタやヨーギたちハートの心に住んでいるのではない。帰依者がわたしの栄光を歌う所に、わたしは我が身を置くのだ。ナーラダよ!」、と。

『バジャン 神への讃歌』

世界そのものが『リグヴェーダ』であると言われています。世界は燦然と光り輝いています。心(マナス)は『ヤジュルヴェーダ』であり、命それ自体が『サーマヴェーダ』です。命は呼吸を生じさせます。そうした呼吸が歌となります。それゆえ、『サーマヴェーダ』は命そのものの姿なのです。『ヤジュルヴェーダ』は心(マナス)から生じたマントラの姿です。つまり、この三つのヴェーダが総合的に言明しているのは、(『リグヴェーダ』に述べられているように)光り輝く者である神は、祈りをささげられ、(『ヤジュルヴェーダ』に述べられているように)マントラによって礼拝され、(『サーマヴェーダ』に述べられているように)神にこよなく愛されるような甘美な歌でたたえられなければならない、ということです。言葉や話によってではなく、歌によってのみ、もっとも神を喜ばせることができるのです。

『バジャン 神への讃歌』

バジャンを歌うことは、通常、リズムに合わせて歌うことと結びついています。実際には、『サーマヴェーダ』の内容に形を与えることができれば、それこそがバジャンであると言うことができるでしょう。旋律の型はどれも『サーマヴェーダ』を起源としています。

『バジャン 神への讃歌』

どのような形式の礼拝や苦行や瞑想を採り入れようとも、その土台は神の御名です。『リグヴェーダ』の全編は神の御名であふれています。『ヤジュルヴェーダ』はマントラの集大成です。『サーマヴェーダ』はメロディーで満ちています。人間のハートは、音楽とマントラと神の御名の結合体です。

『バジャン 神への讃歌』

オームカーラの類まれな霊的意味を理解し、かつ体験したとき、そして、人が見聞きするあらゆるものはプラナヴァ〔オームの聖音〕から生じたことを実感したとき、そのときにのみ、人は『サーマヴェーダ』の内的意味を理解することができるでしょう。『サーマヴェーダ』やプラナヴァを正しく理解したとき、音という宇宙力を知ることができます。こうした知識は外界を探求しても得ることはできません。それは内側から得なければなりません。

『バジャン 神への讃歌』

悪い言葉を話したり、悪い話を聞いたりする機会を与えてはなりません。しゃべりすぎは慎まなければなりません。無駄 話、人を中傷するような噂話、陰口は、きっぱりとやめるべきです。話をするには多量 のエネルギーを伴います。決してそのエネルギーを浪費してはなりません。これは日常生活の中で養わなければならない最高位 の自制です。これは『サーマ ヴェーダ』の重要なメッセージです。『サーマ ヴェーダ』は、神聖で純粋な言葉と音には本来、神性と歓喜が備わっている――と述べています。人に苦しみをもたらすようなことはだれにも言ってはなりません。だれであれ、そのような話をする人は人間以下です。

『バジャン 神への讃歌』

マントラの詠唱は、定められたカルマ(行為)の実践といつも同時に行うべきです。こうした実践によって、人は神を悟ることができるのです。マントラを聞くだけで実践しないのであれば、決して幸福も平安も得ることはできません。神を悟るためには、ヴェーダに定められている戒めを実践しなければなりません。確かに、ヴェーダの詠唱を聞くことでも、そのこと自体心(マナス)を清めることはできます。それはシャブダ ブラフマンシャブダ〔音として顕れたブラフマン(神)〕です。音は神の第一の属性であり、ヴェーダシャブダの音はすべてに遍満しています。ヴェーダの及ぼす影響が衰えたために、今日、世界中で数々の不正、もめごと、そして混乱が横行しています。

『バジャン 神への讃歌』

ヴェーダは、正しいスワラ(音程)と節に忠実に、師から弟子へと口承されました。そうした古(いにしえ)の時代においてはテープレコーダーやレコードといったような機器はありませんでした。弟子たちは昼となく夜となく一心不乱に絶えず復唱することで、聖句を学び、マントラを暗記したものでした。音がその基本ですから、詠唱するときは、たとえ単語を抜かしてしまったとしても、音程や節にはほんの小さな欠損もあってはなりません。こういったわけでヴェーダはシュルティ(聞くことによって学ばれるもの)と呼ばれているのです。

『バジャン 神への讃歌』

たとえヴェーダを唱えることができなくても、信愛の心でその音を聴きさえすれば、あなたはより高いレベルへと高められるでしょう。母親の歌う子守唄の意味がわからなくても、子どもはその節を聞くと眠りに誘われるものです。同様に、ヴェーダの詠唱を一心に聴くことは、計り知れない恩恵を与えてくれます。もし、ヴェーダを反芻し、生活の中でそれを実践するならば、どれほど大きな至福を手に入れることができるか想像できるでしょう。ヴェーダの讃歌はナーダ ブラフマン(ナーダ〔音〕として表れた神)で成り立っています。それにはとても効力があります。

『バジャン 神への讃歌』

寺院へ行くと信者たちは鐘を鳴らしますね。一般的には神の注意を引くためにそうするのだと信じられています。つまり、神様は眠っているので鐘を鳴らして起こさなければならない、ということなのでしょうか? 神はつねに起きていますし、すべての人の祈りを聞いています。それはちょうど、あなたが世話や援助を受けたいと思っている重要な人物に差し出す名刺のようなものです。鐘を鳴らすのは、ただ神の注意を自分の方に向けることにすぎません。ヴェーダの響きも、お寺の鐘を鳴らす音のようなものなのです。古の時代においてはテープレコーダーやレコードといったような機器はありませんでした。弟子たちは昼となく夜となく一心不乱に絶えず復唱することで、聖句を学び、マントラを暗記したものでした。スワラ(音)がその基本ですから、詠唱するときは、たとえ単語を抜かしてしまったとしても、スワラ(音程)や節にはほんの小さな欠損もあってはなりません。こういったわけでヴェーダはシュルティ(聴くことによって学ばれるもの)と呼ばれているのです。

『バジャン 神への讃歌』

神のバイブレーションは永遠にして遍在です。それゆえ、ヴェーダは、「この神聖なバイブレーションは頭からつま先まですべての人に染み渡っている」と宣言しているのです。もしあなたが話す能力を正しく使うことに徹するなら、神のバイブレーションがあなたを満たし、神の至福を感じるでしょう。

『バジャン 神への讃歌』

ヴェーダ聖典のカルマ カーンダ〔カルマ行為カーンダの部、四ヴェーダのうちの最初の三部を指す〕とウパーサナ カーンダ〔ウパニシャッド奥義書の別称〕は、神への礼拝と神への信愛を強調しています。それらは、神の栄光を歌う歌や、神の光輝を瞑想する方法を、人々に伝えています。唯一の存在があるのみである。しかし、賢者たちはそれをさまざまに知り、表現する――と、それらには記されています。

『108の御名』

奉仕とは、神を「ヴィシュワ ヴィラータ スワルーパ」〔宇宙普遍相〕、すなわち、数多くの顔をもち全宇宙に内在する者、として崇めることです。「ヴェーダ」は神を「千の頭と、千の目と、千の足をもつ者」と描写 しています。祝祭のためにここに来ている何千という手や、目や、足は、すべて神のものです。神を崇めなさい。それがあなたの奉仕の目的です。そして神とは、あなた自身の真我以外の何者でもありません。個人を単なる個人と考えてはなりません。その人には、その人の真我として神が内在しているのです。それに気づきなさい。

『サイ セヴァ』

社会から何を得るかより、社会にどれほど借りがあるのかを、もっと考えなさい。自分の稼ぎばかり心配するのは、まったくの利己主義です。「ヴェーダ」は、「犠牲によってのみ、永遠の生命を得ることができる」と宣言しています。

『サイ セヴァ』

非真実と不正から遠ざかりなさい。ヴェーダは、「真実を語りなさい。正義を行いなさい。真理は神です。もしあなたが真理を忘れたら、いったいだれがあなたを守ることができるでしょう?」と人々に説いています。

『サイ セヴァ』

インドのすべてのヴェーダ聖典は、自分の本当の性質を知るようにと、人に勧めています。あなたは身体ではありません。あなたは心ではありません。あなたは知性ではありません。あなたは、この世のすべてのものが生まれた根源に到達しなければなりません。

『サイ セヴァ』

ブッダはヴェーダを学習することにも、生贄をささげる儀式を行うことにも関心がなかったために、無神論者と呼ばれていました。これは完全な誤りです。

『慈悲』

私のメッセージ、私の使命とは愛です。愛、愛です。他には何もありません。覚えておきなさい。それがヴェーダの本質でありダルマの本質であることを。愛がハートを満たすときあらゆる恐れ、あらゆる悪は消え去るでしょう。

「サイラムニュース」

ヴェーダの格言である「私は一なるものである。私は多になろう」は無視されています。『多なるもの』を装っているのは『一なるもの』なのです。ですから人はこの世で活動している間、『多なるもの』の影響よりもむしろ『一なるもの』の影響を感じなければなりません。

「サイラムニュース」

ヴェーダは次のように言っています。「行為によってでも、子孫や富によってでもなく、放棄によってのみ、不滅は得られる」。不滅性こそが真の涅槃です。

『英知の光』

すべては一つです。だれに対しても同じ心でありなさい。ですから、私たちは正見を養わなければなりません。正見は一体性の精神を促進します。 正見はすべてのものの内にある神性に気づかせてくれます。ヴェーダはこの原理に基づき、次のように述べています。「真理は一つ。学者たちはそれを多くの名で呼ぶ」。ですから、私たちはこの根本的な真理を理解し、この世界を真理の目で見るべきです。

『英知の光』

すべては神の現れです。ですから、私たちは多様性という感覚を捨て去り、一体性に到達しなければなりません。ヴェーダーンタは、多様性に内在している一なるものとはアートマ原理であると宣言しています。あらゆるものの内に等しく存在している、ただ一つのアートマがあるだけです。

『英知の光』

許しはすべての人が備えておくべき特質です。許しは真実そのものでありダルマです。それはヴェーダです。それはこの世における最高の美徳です。ですから、すべての人が許しという特質を培わなければなりません。

『Sanathana Sarathi』May, 1995

私が私の正体、私の使命、私の出現について公表すると決めた丁度その日に、私はアーパスタンバ スートラとバラドヴァージャの家系に属していたと宣言したでしょう。このバラドヴァージャはヴェーダを100年間かけて学んだ偉大な聖者でありましたが、ヴエーダの研究には際限がない(アナンタ)ということに気づき、贖罪の修養(タパス)を行い、インドラ神から一回につき100年の延命を二回にわたって得ました。それでもなお、ヴェーダを完全に習得することができなかったので、インドラ神にあと100年の延命を願い出ました。インドラ神は三つの巨大な山脈を示して言いました。「おまえが三世紀にわたって学んだものは、ヴェーダという巨大な三つの山脈からたった握りこぶし三つほどのものを掴んだにすぎない。それゆえ、ヴェーダの習得のために時間を浪費するのはやめ、代わりに私が教える供儀(ヤーガ)を執り行いなさい。それはヴェーダの習得の成果 であるすべてにして完全なものをあなたに授けるであろう」と。

1963年グルプールニマ

ヴェーダの格言、「Thath-thwam-asi」(タットワマシ、汝はそれである)は、「ラ」、「アー」、「マ」の三音からなるラーマという言葉に秘められています。「ラ」は、「タット」(それ、ブラフマン、神)の象徴です。「マ」は、「トワム」(汝、ジーヴィ、個人)の象徴です。 そして、その二つをつなぐ「アー」は、二つが一つであることを象徴しています。

1968年5月16日

皆さんはやがて、サナータナ ダルマ(太古永遠の法)、すなわち、世界中のすべての人々のためにヴェーダに定められているダルマ〔正義、正しい行い、法、本文、規範〕、ヴェーダに基づいたダルマの、正当な本来の地位 の復興を目の当たりにすることができます。これはサイのサンカルパ(意志)です。

1968年5月17日

神の到来は聖者や賢者が熱心に待ち望んでいたものです。霊的求道者たち(サドゥー)が祈ったので私は来たのです。私の主な仕事はヴェーダの教えをはぐくみ、帰依者を育てることであります。

1968年11月23日

私は人間の規範を定めたヴェーダやシャーストラのような霊的聖典の価値を人々に教えなければならないのです。

1968年11月23日

私の主な仕事はヴェーダとシャーストラの教えを再建し、これらに関する知識をすべての人々に授けることです。この仕事は成功するでしょう。この仕事が制限されたり遅れたりすることはないでしょう。神が決定して意思するとき、その神の意志が妨げられることは決してないのです。

1968年11月23日

私は、すべての人にヴェーダのエッセンスを教え、その貴重な贈り物を与え、そしてまた古代の英知(サナータナ ダルマ)を擁護し、それを維持するために来たのです。

1968年11月23日

私を理解したと公言している人々、たとえば、学者、ヨーギ、賢者、グニャーニ等は私の力については、そのほんの一部の外面 的な現れで重要でないもの、すなわち「奇跡」を知っているだけです。彼らは、あらゆる力とあらゆる知恵の源泉を、ここブリンダーヴァンで手に入れることができるにもかかわらず、それに近づくことを望んでいません。ヴェーダの教えを広めた者が彼らのためにここにいることに気づかずに、本で学んだ知識を発表し、ヴェーダの教えの学問的知識をひけらかす機会をつかまえることだけで満足し、自尊心からさらにあと何回かそのような知識をひけらかす機会を求めているのです。

1974年6月7日

マハーリシ大聖賢スッカはマハーリシ大聖賢ヴィヤーサの息子です。スッカは父ヴィヤーサを通 してヴェーダを学びました。ヴェーダとヴェーダーンタ〔奥義書、ウパニシャッド〕はサンヒターと呼ばれる四つの部分に分かれています。スッカにその書物の神聖な物語を話していた時期に、ヴィヤーサはまた『バガヴァタ』の物語も記していました。同時代にはカウラヴァ兄弟とパーンダヴァ兄弟〔両者ともヴィヤーサの孫〕も生きていました。ヴィヤーサはカウラヴァ家とパーンダヴァ家の戦いと、そこで見られた道徳を『マハーバーラタ』として叙述しました。『マハーバーラタ』は第五のヴェーダとも呼ばれています。

1978年夏期講習

人間の低いレベルの欲求を昇華させ、神聖な道へと導き、『ジーヴァ(個我)』と『デーヴァ(神)』とが同一のものであるという、宇宙意識と一体化した栄光に満ちた運命をもたらすために、『ヴェーダ(古代に啓示された諸聖典)』はこれまで、実現できる真理について、深遠な格言によって約言された多くの教えを示してきたのです。
 ミルクを凝固させてカード(凝乳)を作るためには、ミルクの中に少量のカードを加えます。そうすることによって、ミルク全体がカードに変わります。それでは、そのもとのカードは、どこから手に入れたのでしょう? それは、同じようなやり方でミルクを凝固させて手に入れたのです。人生の年月は、このミルクに相当します。神の原理である『ブラフマン』がカードであり、それが人生に浸透すると、その人生は『神の物語』へと変質します。これこそが、『ウパニシャッド』の中の、「ブラフマンを知る者はブラフマンになる」という宣言の意味していることです。人間性が神性に満たされた時、人間は神になるのです。
 それに続いて何が起こるのでしょうか? カードになったミルクは、霊的な問いかけや内的探究によって撹拌され、やわらかく甘い香りのバター、すなわち『アーナンダ(神の至福)』が生まれます。このアーナンダは、神を通 じてのみ、そして神からのみ得ることができるものです。それ故に、アーナンダはすべての『ヴェーダ』の核心であり、あらゆる言語で書かれたすべての『シャーストラ(すべての聖典の目的)』の果 実であると宣言されているのです。人は、この真実を信じなければなりません。そうでなければ、その果 実を手に入れることができません。私もまた、繰り返し何度も信仰の必要性を強調しています。というのも、信仰のあるところに愛があるからです。愛のあるところに平安があり、平安のあるところに真実があります。真実のあるところに至福があり、至福があるところに神がいるのです。

1983年1月1日

時は神の具現です。それゆえに、時は『年』と呼ばれています。賢者は神を『時の具現者(カーラルーパーヤ)』と表現しました。
 動くものも動かないものも、この宇宙のすべてのものに神は浸透しています。したがって、神は『時を胎内にもつ者(カーラガルバ)』として特徴づけられます。また、賢者は神を『勇者たちの中の至高者(ディーロータマ)』としても表現しています。『ディーラ』という言葉は、偉大な知識人や非常に頭の良い人などという意味にとらえるべきではありません。ディーラとは、自分の知性(ディー)を神に向ける人に対してヴェーダが与えた称号です。
 『カーラム(時)』という言葉は『カー』と『アラム』に由来しています。すなわち、時の具現である神は、それぞれが受け取るべき報いを与える者であるということです。神が世俗的な捧げ物や世俗的な権威、世俗的な権力に屈服するようなことはありません。神は霊的向上心に対してのみ応えるのです。

1991年1月1日

今日、私たちはこの世界について実にさまざまな知識をもっています。この種の知識はどれも、ヴェーダの言葉でいう『英知』ではありません。真我(アートマ)に関する知識だけが真の知識なのです。

1991年1月1日

もっとも高次の意味においては、『真我』と『英知』は異なるものではありません。それらはひとつであり、同じものです。ですから、ヴェーダは次のように言明しています。「ブラフマーは真理であり、英知であり、無限である(サティヤム ニャーナム アナンタム ブラフマー)」 真理、英知、無限、そしてブラフマン、これらはすべて普遍なる真我(パラマートマ)の別 名なのです。これらは同意語です。互いに異なるものではありません。

1991年1月1日

ヴェーダーンタにはこう宣言されています。「動かない者はまた、動く者でもある」 この意味は、神は動かないものでもあり、動くものでもあるということです。どのようにして、動かないものが動くものとして描写 されるのでしょうか?また、どのようにして動くものが動かないものとして描写 されるのでしょうか? 「神は不動であるが、神は動いている」というこの言明には明らかな矛盾があります。これに対してヴェーダーンタはすばらしい説明を加えています。夢見の状態では、自分自身があらゆる種類の動作を体験します。しかし、夢の中では動いているように見える身体も、実際はベッドの上で動くことなく横たわっています。物質としての身体は動いていません。夢の中の身体は動いています。どちらの身体も同じ一つのものです。身体は、ある意識状態においては静止しており、別 の状態においては動いています。
 ヴェーダーンタは、物質的な状態には動きがあり、霊的な状態には安定した不変性があると宣言しています。したがって、瞑想の目的は安定した不動の霊的状態に到達することにあります。ヴェーダーンタは、数多くのこのような深遠な真理を明らかにしています。 たとえば、自分の住んでいるところを聞かれたら、人は特定の地域の特定の住所を答えるでしょう。しかしヴェーダーンタによれば、すべての人の真の住居は神です。同様に、人は自分の属するカーストや共同体を示す言葉によって自分のことを言い表すかもしれません。しかし、そのようなものはすべて世俗的な属性にすぎず、世俗的な目的に役立つにすぎません。どのような物質的な違いも重要なものではありません。
 基盤となる実在は、すべての人の中にあるアートマです。ヴェーダはすべてを『不滅の子』と表現しました。人は精神について話をします。しかし、自分の信じることに矛盾した振る舞いをしています。思い、言葉、行動を一致させるべきです。この三つを一致させるためには、アートマ(真我)についての真理を理解しなければなりません。

1991年1月1日

ヴェーダには、「サティヤム ナスティ パロー ダルマ」(真実という基礎の上にダルマという壁が築かれる)という言葉があります。ダルマは、真実を基盤としています。私たちが真実とダルマを守るとき、十分に平安を体験することができます。この平安を体験している人は、決して暴力になじむことはありません。したがってこれらは、人間が大切に守るべき価値の主なものとなっているのです。

1992年1月13日

真実とは何でしょう? 私たちは、実際に見たこと、人が語ったこと、聞いたことをその通 りに告げることが真実だと考えています。それが真実の価値なのではありません。真実には、時間と空間に関する制限がありません。すべての国々のあらゆる土地において、時代を超えて、だれに対しても、真実は等しいのです。真実は変わることがありません。真実は一つであり、二つはありません。このような真実によってのみ、私たちは成功することができるのです。ですからヴェーダは、「真実は多くの姿を取るが、唯一無二である」と宣言しています。

1992年1月13日

自分自身と自分の家族のことしか考えないのであれば、社会の幸福のことをどうやって考えるというのでしょう? 私たちは、いつの日か、自分自身とか自分の家族というものを超えなければなりません。だからこそヴェーダは、「富や学問や子孫を持っていても、犠牲の精神なしには不滅の命を得ることはできない」と宣言しているのです。ですから私たちは、人間的価値を実践し、体験し、広めなければなりません。人間的価値を身につけるとは、どういうことでしょう? 私たちが為すべきことは、これらの価値を覆い隠しているものを取り除くことです。実は、これらの価値は常に存在しているのです。

1992年1月13日

私たちは、ヴェーダの格言に従う必要があります。「真実を話し、正しい行ないをなせ」という格言がありますが、これは、人が良心に忠実であることを助けてくれるものです。正しい行ないを実践し、真実を話す者は、必ず、そのうちに神聖な人間になっていきます。彼らは、川が海に流れ込むように、神に融合するのです。

1994年3月10日

人々は可能な限り協力し合って自分たちのさまざまな必要を満たすべきです。そうして初めて一つの家族であるという感情が生まれるのです。すべての人が兄弟であり姉妹なのです。私たちはこのような気持ちで協力しなければなりません。どうして政府にあらゆる便宜を図ってもらうことを期待できるでしょう? 政府のお金もまた人々から来ているのです。ですから公共の財産は公共の利益のために使われるべきなのです。この犠牲の原理は、ヴェーダによって次のように教えられています。「仕事によってでも子孫によってでも富によってでもなく、犠牲によってのみ不滅の命は得られるのである」。私たちは犠牲を捧げるべきです。犠牲こそ真のヨーガです。犠牲の伴わない行動は、ローガすなわち病気です。

1995年11月17日

バーラタの古代文明は、私たちが幸せになるためのさまざまな方法を教えてきました。スワミは何度も繰り返してヴェーダが私たちに教えたことを伝えて来ました。(拍手)皆共に動きましょう。共に進みましょう。私たちが理性によって学んだことを維持し保存しましょう。一切の対立と誤解なく生きましょう。しかし私たちは集団や社会の形でしかありません。私たちは神の姿そのものなのです。『プルシャスクタ』には、次のように書いてあります。「神には、千の頭と、千の目と、千の足がある」。世の中には実にたくさんの頭があります。世の中はそれらが集合したものの形です。ですから、私たちは普遍の宇宙の姿、全宇宙そのもの神の姿の原理を理解し、それに則して生きるべきなのです。神はあなたから離れて存在しているのではありません。この宇宙全体がヴィシュヌ神の姿なのです。私たちは全宇宙そのものがヴィシュヌ神の反映であるという事実を忘れ、神を求めてあらゆる所を探しています。一方の手でバターを持ちながら、ギーを探しているのです。これは無知です。全世界が神の顕現です。一人ひとりの人間すべてが、神の姿です。あなたの中にあるものは、それが何であれ神から来ているのです。私たちはこの神からの反映を体験し楽しまなければなりません。

1995年11月17日

すべての行動は神への奉仕です。その時、仕事は礼拝に変わります。決して、これは私の仕事、これは神の仕事というように分け隔てをしてはなりません。職場に行きなさい。それは神の仕事です。商売をしなさい。それは神の仕事です。あなたは教えます。それは神の仕事です。あらゆることが神の仕事です。神の存在しない場所はありません。今日ここで、その信仰を育てなさい。そのような理由で私たちのヴェーダはこう宣言しています。「あなたがだれを尊敬しても、それは神に届く」。あなたがだれに敬意を表してもそれは神に届くのです。そればかりではありません。「あなたがだれを責めても批判しても、それは神に届く」とも言っています。ですから、両方の意味合いにおいて、皆さんは平等心をもっていなければなりません。

1995年11月21日

真理そのものである神は、全宇宙が発生した本源であり、あらゆるものがその永遠の真理に融合します。この宇宙で、真理の原理――すなわち「純粋無垢で不二の真理の原理」が存在しない場所はありません。豊かさと繁栄、そして、すべての歓びの源は真理です。ヴェーダとウパニシャッドはこの真理から生じました。神にとって、とても愛しいものは、神の姿そのものである真理です。神なくして真理はなく、真理なくして神はあり得ません。では、神とはだれでしょう? 神は真理です。「神は真理である」とウパニシャッドは明言しています。

1995年11月23日

ヴェーダは宣言しています。「この世界が実に広々としているのと同様に、我々の心も、この世界と同じ位 広くなければならない。心から湧き出る愛は、万物を包み込むものでなければならない」――何という広い心でしょう! 心は、この世界と同じくらい広くなければなりません。あなたの心が広ければ、愛が広がります。そうすれば、世界は一つの家族になります。そういう理由から、ヴェーダは第一にこう教えました。「共に生き、共に動こう。共に知性を維持し、高めて行こう。共に生きよう。共に成長しよう。互いに交わって、争いや誤解をすることなく、共に生きよう」そして、最後に「オーム、シャーンティ、シャーンティ、シャーンティ」と平和を祈願しています。私たちは、なぜ三回「シャーンティ」と唱えるのでしょうか?それは、肉体の次元の平安、心の次元の平安、そして、魂すなわちアートマの次元における平安を祈るからです。平安は、肉体と心とアートマの三つのレベルで必要とされるのです。世界全体が、肉体によって象徴されています。国家は肉体の反映です。ですから、すべての人が、そして、すべての国家が幸せで平和でなければなりません。世界中のすべての人が幸せでありますように。私たちは、そのような広い心と、神聖な原則を忘れてしまいました。私たちは、個人的な感情に頼っています。私たちはヴェーダの教えそのものを忘れています。

1995年11月23日

今日はグル プールニマの日と言われます。これは正しい名称ではありません。弟子から捧げ物を受け取る機会を設けようと考えた幾人かの「グル」が原因で、このように呼ばれるようになりました。正しくはヴィヤーサプールニマと言います。ヴィヤーサ仙はこの満月の日に生まれました。彼はこの日に四つのヴェーダの編纂を終えました。この日に十八のプラーナを書き終えました。時の経過とともにヴィヤーサプールニマはグルプールニマと呼ばれるようになりました。

1996年グルプールニマ

ヴェーダは、「私はブラフマンである」と宣言しています。この「私」こそが、神の最初の名前です。この「私」を知ることは、真理の道に従うことによって、初めて可能になるのです。

1998年3月25日

アートマ(真我)やブラフマン(神)に関して、どのようなことを語るにしても、その根拠となるものは、さまざまなヴェーダ聖典です。私たちは、世間的な論議をする際に、神に関する基本的な真理には注意を払わなくなっています。あなた方が理解できるかどうかは別 として、全てのヴェーダ聖典の真髄は、ウパニシャッドの中にあります。全ウパニシャッドの真髄は『バガヴァッド・ギーター』です。そして、神の御名こそが『バガヴァッド・ギーター』の真髄に他なりません。

1998年ダサラ祭

一体性は非常に重要です。皆さんは、一人で歩いたり一人で仕事をしたりすれば、ストレスや無理を感じます。でも、グループの中にいるときはそうではありません。みんなで一緒に成長し、共に喜びましょう。一緒に働くことによって、英雄のごとき行為をしましょう。いっさい争うことなく生きましょう。ヴェーダ聖典も、次の詩節によって同じ心を歌っています。「Sahana-vavathu, Sahanau Bhunakthu、Sahaveeryam Karavavahai、Tejaswi Navadheethamasthu Ma Vidhvisavahai」。この、皆共にという精神が、インドを、犠牲の国にし、霊性と純粋さの国にしたのです。

1998年11月20日

ヴェーダは次のように宣言しています。「月は心を司る神である。ゆえに、心は純粋に汚れなくあらねばならない」。ヴェーダーンタの一つ一つの言葉には、測り知れない意味があります。その真意が理解できない時に、混乱が広がるのです。(その例として)今日、犠牲や儀式の名のもとに、罪もなく口もきけないヤギやヒツジのような動物をいけにえとして捧げる慣例があります。

1999年2月14日

人は愛なしに生きていくことはできません。この愛の原理がヒラニヤガルバ(黄金の宇宙卵、黄金の胎児)です。ヒラニヤガルバは人間の身体の右側に位 置するものであり、肉体上の心臓は左側に位置しています。左側(left)にあるこの心臓はいつの日にか環境の変化とともに消え去る(left)ものです。人体の右側(right)に位 置するヒラニヤガルバは常に正しい(right)のです。永遠であり、不滅であり、そしてあらゆるものを包含しています。人間のみならず、鳥や獣、生き物たちすべての内に存在しています。ヴェーダは宣言しています。「神はあらゆるものの内に存在する」、「神は全宇宙に浸透している」。

1999年2月15日

ヴェーダは宣言しています。「神はあらゆるものの内に存在する」「神は全宇宙に浸透している」 愛はヒラニヤ(黄金)から生じました。反作用、反響、反射という三つの原理がヒラニヤガルバから生じました。

1999年2月15日

ヴェーダーンタの一つ一つの言葉には、たくさんの意味が結びついています。多くの人々が様々に説明しています。今日、人々が人生の四つの目的について理解していることは、学生期や家長期、林住期、遊行期という四つの人生の段階に相当するものです。これらは霊的なダルマに相当するものではありません。霊的なダルマこそ真のダルマです。これによってのみ解脱が授けられます。解脱とは何でしょう? 解脱とは単に、神に到達するということではありません。思いと言葉と行為が神と一つにならなければなりません。ガンジス河やゴーダヴァリ河、サラスワティー河のような河にはさまざまな名と形がありますが、一旦大海に融けこむと、河はその名や形や特性を失います。同様に、一旦神に融合すれば、違いはまったくなくなります。そのような不二一元性を経験することこそが、人生の真の目的です。

1999年2月15日

私たちは、説教をする際に英雄であるばかりでなく、実践においても英雄でなければなりません。これこそが仏陀の理想でした。すべてのアヴァターや高貴な魂たちは、もっとも見本的な生き方をすることによって、人々が神を体験することを助けました。仏陀は言いました。「おお、人よ。お前たちは神を求めてどこにも行く必要はない。お前たち自身が神である」。『バガヴァッド・ギーター』も、ウパニシャッドも、ヴェーダも、同じ原理を伝えています。ヴェーダは、「タット トゥワム アシ」(あなたは絶対者である)と宣言しています。今の人々は、朝はヨーギ(ヨーガ行者)のように瞑想し、日中はボーギ(快楽を求める者)のようにたらふく食物を食べ、夜にはローギ(病人)のように眠ります。私たちはこのような生き方をしてはなりません。「人は常にヨーギであるべきである」(サタータム ヨーギナハー)。私たちは、絶えず神聖な感情に満たされていなければなりません。「人は、いかなることをも、神を喜ばせるために行なわなければならない」(サルヴァ カルマ バガヴァッド プリーティヤルタム)。神は空間と時間を超越しています。「すべてはブラフマンである』(サルヴァム カルヴィダム ブラフマ)。

1999年5月30日

今日、霊性の道を歩む求道者は、瞑想や苦行やヨーガを実践したり、ヴェーダの詩章を唱えたりして、さまざまな種類の霊性修行を行なっています。このようなすべての霊性修行の根底には、愛が流れていなければなりません。そうでなければ、それはまったくの時間の無駄 になってしまいます。たとえマントラを唱えても、愛の感情が伴っていなければ、何の恩恵もありません。ヴェーダは次のように宣言しています。「不滅の命をもたらすものは、富でも、子孫でも、善行でさえもない。それは、犠牲のみによってもたらすことができるのである」(Na Karmana Na Prajaya Dhanena Thyagenaikena Amritatwamanasu)。不滅の命とは、愛そのものに他なりません。

1999年7月28日

人生を、他の人々に奉仕するために使いなさい。人類同胞を愛しなさい。自分自身を神に全託しなさい。神の愛に勝るものはありません。愛は全世界に浸透しています。ヴェーダは、「すべてに満ち満ちている神は、我々の内にも外にもいる」と宣言しています。すべての名前と姿は神のものです。名前と姿は異なっているかもしれませんが、万物の内なるアートマは同じです。あらゆるものの一体性を認識しなさい。その結果 普遍的愛が生まれます。

1999年7月28日

ヴェーダは、『プラジュニャーナム ブラムハー』(至高の英知は神である)と宣言しています。このプラジュニャーナ(至高の英知)とは、放射に他なりません。人間は、物質化と波動と放射が組み合わさった存在です。皆さんは、外の世界に神を探す必要はありません。目を内面 に向けなさい。皆さんはそこに神を見つけることでしょう。

1999年7月28日

今日は満月です。ヴェーダは、「月は至高のプルシャの心から生まれ、太陽は目から、火とインドラ神は口から生まれた」と言っています。月は心を司る神です。心が純粋な愛で満たされた日こそが、真の意味での満月の日です。皆さんの心を、満月のように明るく輝かせなさい。これは、皆さんが心を愛で満たしたときに、初めて可能になります。

1999年7月28日

「常に助け、決して傷つけてはならない」。これがすべてのヴェーダ、そして聖書、バガヴァッド・ギーター、コーランといったすべての聖典の神髄です。これらの聖典は皆、同じ根本的真理について語っています。

1999年11月18日

神はあまねく満ちています。正にこのことに基づいて、ヴェーダは次のように宣言しています。「神は、その手、足、目、頭、口、耳をすべてのものに満たし、全宇宙に遍満している」。

1999年11月21日

アートマの原理は、ただ単にヴェーダや聖典を読んだり、講話を聞いたりするだけでは理解できません。

2000年3月4日

肉体は一時的なものという特性をもっていますが、それはアンナマヤ コーサ(食物鞘)と呼ばれています。この肉体は感覚と行動の器官に関係しているので、ヴェーダ聖典はそれにヴィスワドゥという名前を与えています。この身体は、さまざまな外的活動にかかわるので、ヴィヤーヴァハーリカという名前でも知られています。このようにヴェーダは、肉体に対してさまざまな名前を与えています。

2000年3月4日

アートマの原理は、肉体と心と生命原理にとっての原初の基盤です。海の水は、太陽光線によって水蒸気になります。次に、その水蒸気は雲になります。雲は雨になって地上に降り、河川となって流れ下って、ついには海と融合します。もともとは海から生まれた河川が、最終的に海と一つになるように、もともと神から生まれた万物は、最終的には神に帰融します。このことをヴェーダではムクティ(解脱)と呼びます。

2000年3月4日

ヴェーダの源は何でしょう? だれがそれを人類に授けたのでしょう? ヴェーダは、波動の形でいたるところに存在していました。このようにヴェーダは、音声を通 じて、波動を通じて、聞くことができたのです。静かに座って、純粋なハートをもって耳を傾ければ、皆さんもそれを聞くことができるはずです。どうしてそのようなことまで考える必要があるでしょうか? 耳を閉じれば、皆さんは、内側からオームの音(オームカーラ)を聞くことができます。オームはヴェーダの源です。「オームの聖音は神である」と言われます。いっさいのものはオームから生まれました。同じ空気が、ハーモニウムの異なったリードを振動させて、七つの異なった音階を出します。同様に、オームの音は一つであって、それ以外のすべての音はオームカーラが変形したものに他なりません。ヴィナーヤカは、このようなすべての波動の根源です。皆さんは、さまざまな音を聞きますが、もっとも神聖な音はオーム カーラです。

2001年8月22日

忍耐は真理であり
忍耐は正義である
忍耐こそはヴェーダの教えであり
忍耐は非暴力である
忍耐は犠牲であり
忍耐は幸福と天国の至福をもたらす
実際 それはすべての世界の
いっさいのものである

(テルグ語の詩)

2001年8月22日

「放射」は神であり、これこそが人の真の本質です。それは磁力であり、すべての人に潜在しています。この磁力は神性に満ちています。それは寺院にあるものと同じ神聖な力であり、万物を引き付けます。それゆえに、人を引き付けることが、あらゆる寺院の属性なのです。そうした磁力はどこからくるのでしょうか? 磁力はどこか外部からくるのではありません。磁力はすべての人に内在しています。同様に、金や鉄といった金属も人の内にあります。ヴェーダは宣言しています。「神はラサー(精妙な流動体、エッセンス)の形をとり、万物に遍満している」。

2002年3月13日

人は「体現」と「振動」と「放射」の組み合わせです。「放射」(アートマ)と「振動」(生命力)の助けがあって、人は「体現」(体)を道具として用い、生きていくことができるのです。体は行為を行うための基盤です。体はカルマ ヨーガ(行いのヨーガ)の象徴です。「振動」は人が思考することを助けます。「放射」は「振動」と「体現」を起こさせる源です。ヴェーダでは、このことを、「プラグニャーナム ブラフマー」(ブラフマンは至高の意識である)と述べています。至高の意識とは、単なる意識ではなく、不断の統合意識です。至高の意識は、あらゆる所に、あらゆる時に、一貫して存在しています。至高の意識に昼夜の別 はありません。至高の意識は、覚醒状態、夢見の状態、熟睡の状態という三つの状態を超越しています。至高の意識は、三つに区切られた時間を通 して一つであり同じです。

2002年3月13日

クリシュナはゴーピカたちの心にしっかりと据えられていました。そのような固い信仰心と信愛は、幾多の生にわたって積み上げられた徳の結果 です。「神は甘美さという形をとって、万物の中に遍満している」というヴェーダの格言を、ゴーピカたちは固く信じていました。

2002年3月13日

「ナ カルマナ ナ プラジャヤ、ダネーナ ディヤーゲーネーケーナ、アムルタットワマーナス」(行為によってでも、子孫や富によってでもなく、犠牲によってのみ不死は得られる)。ブッダはこのヴェーダの訓示に従いました。執着心はまったくありませんでした。それゆえ、親類知己から離れることができたのです。

2002年5月26日

ヴェーダーンタ哲学の真髄は「常に助け、決して傷つけてはならない」です。「パローパカーラ プンニャーヤ パーパーヤ パラぺーダナム」(人は他者に仕えることで功徳を得、他者を傷つけることで罪を犯す)と聖典にも述べられています。

2002年5月26日

このはかない物質世界にあって、人は神をさまざまな名前と姿で崇拝します。しかし、実際には「アハム」のみが神の永遠なる真の名前なのです。四つのヴェーダは、この真理を四つのマハーヴァーキヤ(深遠なる金言)の中で宣言しています。「プラグニャーナム ブラフマー」(ブラフマンは至高の意識である)、「アハム ブラフマースミ」(我はブラフマンなり)、「タットワマシ」(なんじはそれなり)、「アヤム アートマ ブラフマー」(この真我はブラフマンなり)。ヴェーダはまた、次のようにも宣言しています。「エーコーハム バフッシャーム」(唯一なる者が多となることを意志した)、「エーカム サット ヴィプラー バフダー ヴァダンティ」(絶対者なる者は一つである。しかし賢者はそれを異なる名前で呼ぶ)。神は「唯一なる者」であり、それが「アハム」なのです。

2002年8月21日

サラスワティーは、善き英知と知性を授けるがゆえに、「英知の女神」として崇拝されます。これは、「ヴェーダ」においてプラグニャーナ ブラフマとして表現されています。プラグニャーナは世俗的な知識を意味するものではありません。それは、常に統合されている意識、変化することのない永遠の意識です。

2002年10月9日

他者を傷つけてはなりません。「人は、他者に奉仕することで功徳を得、他者を傷つけることで罪を犯す」。それゆえ、ヴェーダは、「常に助け、決して傷つけてはならない」と教えるのです。ヴェーダは、神聖な感情を育む必要性を強調します。実際、神聖な感情は内在しているのですが、人間はそのことを忘れてしまいました。

2002年10月9日

「真実に立脚することよりも偉大なダルマは存在しない」(サティヤナースティ パロー ダルマ)。ヴェーダは、「真実を語り、正義を実践せよ」(サティヤム ヴァーダ、ダルマム チャラ)と教えます。あなたの思いと言葉と行動は、それぞれに調和を保っているべきです。

2002年11月19日

ウパニシャッドは、知識の宝庫です。ヴェーダには、プルシャ スクタ〔リグヴェーダにあるプルシャスクタ讃歌〕、シュリースクタ〔リグヴェーダにあるシュリースクタ讃歌〕などのマントラが記されています。ヴェーダをマスターした人がいたとしても、ウパニシャッドを学ぶことがなければ、そのすべての学びは無駄 になってしまいます。それゆえに、人はヴェーダを学び終えたあとに、ウパニシャッドを学び始めるのです。ウパニシャッドは、あなたをいっそう神へと近づけてくれます。私は、皆さんがウパニシャッドの教えに従い、自分の中にある神の力を顕現させることを望んでいます。

2002年11月19日

神は、人間は本質的に神であるという真理に目を開くように、ヴェーダ、シャーストラ、プラーナ、イティハーサという聖典を、人間に贈りました。

2002年12月25日

神聖なる叙事詩『ラーマーヤナ』はまさしく天から地上に伝わったヴェーダです。ヴェーダには「リグ ヴェーダ」〔神々を勧請するための讃歌の集成〕、「ヤジュル ヴェーダ」〔祭式の準備や実務的なことに関するマントラの集成〕、「サーマ ヴェーダ」〔祭式のあいだにサーマン旋律にのせて唱えるマントラや歌詠の集成〕、そして「アタルヴァ ヴェーダ」〔請願や呪法などの集成〕の四つがあります。「リグ ヴェーダ」はヤグナ〔護摩儀礼〕やヤーギャ〔供犠〕を進行させます。『ラーマーヤナ』の中で、ラーマは「リグ ヴェーダ」を象徴しています。ラクシュマナ〔ラーマの異母兄弟、母は第二王妃スミトラー〕はヤグナやヤーギャを執り行う際に唱えるマントラが記されている「ヤジュル ヴェーダ」を象徴しています。ラーマが森にいるあいだ、バラタ〔ラーマの異母兄弟、母は第三王妃カイケーイー〕はアヨーディヤー〔ラーマが統治するはずだった都〕を離れてナンディーグラマに留まり、一日二十四時間ラーマの神聖なる御名を唱え続けていました。ですからバラタは「サーマ ヴェーダ」を象徴します。シャトルグナ〔ラーマの異母兄弟、母はスミトラー妃〕はシャトル(敵)を全滅させ、敬虔なる者たちを守り、兄弟たちの言いつけによく従いました。シャトルグナは「アタルヴァ ヴェーダ」を象徴します。「アタルヴァ ヴェーダ」の神髄は、邪悪さを破壊し神聖な思いと行動を育くむことにあります。『ラーマーヤナ』はヴェーダであり、ヴェーダは『ラーマーヤナ』です。ヴェーダと『ラーマーヤナ』は異なるものではありません。このことを理解することによって真の人間らしさが得られます。

2003年4月11日

ヴェーダはプラヴリッティ(世俗の行動規範)とニヴリッティ(霊性の行動規範)の調和という道を説いています。私たちは数々の欲望をもっているかもしれません。けれども、欲望は制限されるべきです。欲望は真理と正義に基づいたものであるべきです。頭に浮かんだことを何でも話してはいけません。きちんと調べてから初めて話すべきなのです。これらは『ラーマーヤナ』が人類に説いている幾つかの教訓です。『ラーマーヤナ』がヴェーダそのものの様相を呈したものと呼ばれるのはこのためです。

2003年4月11日

もしあなたが母を喜ばせないのなら、それらすべては虚しいものとなるでしょう。この世に、母に勝るものはいっさいありません。ヴェーダは、「母を神として、父を神として、師を神として、客人を神として崇めよ」と宣言する際に、母親にもっとも重要な位 置を授けています。

2003年5月6日

9年前のある日、私は頭を洗ったあとに髪を乾かしたいと思いました。アメリカ人の医者の一人が私に愛を込めてヘアドライヤーをプレゼントしてくれたので、私はそれを使おうとしました。そのとき停電になりました。そして、私がちょうどドライヤーに目を近づけて見ていたときに電気が復旧しました。その結果 として、突如、熱風が私の目に当たり、網膜を傷つけたのです。私は少しもうろたえませんでした。この広い世界を見るにも片方の目で事足ります。「神は千の頭と千の目と千の足を持つ」〔「リグ ヴェーダ」10巻90讃歌第一詩節〕

2003年7月5日

子どもが評判や名声を得ることができるのは母親のおかげです。よい評判を得たいと望むなら、母親の言いつけを守るようにしなさい。そういった理由から、ヴェーダ聖典は母親と父親に最高の地位 を与え、「母は神なり。父は神なり」と宣言しているのです。

2004年1月1日

ヴェーダは感銘深く、広大な無限の英知の真髄です。トレターユガでは四つのヴェーダが、肉体をもつ姿で、ラーマ、ラクシュマナ、バラタ、そしてシャトルグナとして具現しました。「リグヴェーダ」がラーマの姿をとったのに対して、「ヤジュルヴェーダ」、「サーマヴェーダ」そして「アタルヴァヴェーダ」はそれぞれラクシュマナ、バラタ、シャトルグナの姿で具現しました。

2004年3月30日

ラーマは「リグヴェーダ」を象徴します。ラーマはマントラスワルーパ(マントラの化身)です。ラクシュマナはマントラドラシュタ(マントラを憶念する者)であり、ラーマの教えを実践しました。ラクシュマナは忠実にラーマに従いました。ラクシュマナはラーマの御名をターラカ(解脱を与える)マントラだと考えていました。事実ラクシュマナは、ラーマを、母親、父親、グルそして神、すなわちあらゆるものだと思っていました。
 バラタは「サーマヴェーダ」の具現であり、バーヴァ、ラーガ、ターラ(感情、旋律、リズム)をもって絶え間なくラーマの御名を唱えていました。バラタがニルグナの礼拝(形のない神を崇拝すること)を行っていたのに対して、ラクシュマナはサグナの礼拝(姿をとった神を崇拝すること)に喜びを感じていました。
 「アタルヴァ ヴェーダ」は、三人の兄に従い、世俗の世界だけでなく、感覚の領域をも征服したシャトルグナとして具現しました。このように、ヴェーダはもっとも貴重なメッセージを人類に伝えるためにトレターユガに具現化したのです。ヴァシシュタとヴィシュワーミトラの二人の偉大な賢者は、四つのヴェーダは、ラーマ、ラクシュマナ、バラタそしてシャトルグナとして人間の姿で誕生したと世界に宣言しました。ダシャラタ王が獲得したすばらしい功績の結果 として、四つのヴェーダが王の息子たちとして生まれて来たのです。だれかが賢者ヴィシュワーミトラにヴェーダについて質問をすると、「四つのヴェーダすべてが世界に理想を確立するため、ダシャラタ王の四人の息子として具現化したのだ」とヴィシュワーミトラは答えました。したがって、ヴェーダには形がないのではなく、形はあるのです。

2004年3月30日

ヴェーダに含まれているマントラには計り知れない意義があります。ラークシャサ(悪魔)たちがヴェーダのマントラの詠唱を()め、地上の正義と真実を破壊しようとしていることに気づいたとき、賢者ヴィシュワーミトラは、悪魔の力を破壊し、世界に平安を打ち立てるため地上に降臨された神なる力の象徴であるラーマとラクシュマナの助けを求めました。賢者ヴィシュワーミトラが教えたマントラの力で、ラーマとラクシュマナはラークシャサたちを絶滅させたのです。この出来事は、ヴェーダのマントラの力で人は自分の悪魔的な性質を破壊することができるということの象徴です。マントラを唱えることにより、トレターユガの人々は自分たちの悪魔的な性質を滅ぼしました。ヴェーダの神性なる力を象徴して、ラーマ、ラクシュマナ、バラタそしてシャトルグナは悪魔の力を滅ぼし、世界に神性なる力を育みました。したがってこの四人の兄弟は、姿をとった神という側面 を具体的に示すことにより、ヴェーダが至高の教えであることを確立したのです。それぞれのマントラには形があります。またそれは、独自の意義をもっています。形を憶念しながら唱えるとき、マントラは人を自己完成へと導きます。ヴェーダの教えを会得した先見者は、暗闇の領域を越え、十億の太陽の輝きを放つ神を我は見た、と宣言します。先見者や賢者は無知の暗闇を超越し、神の光輝を心に描きました。彼らはマントラを唱え、神の姿を憶念し、ヤグナ〔霊的儀式〕を執り行い、平安と至福に到達しました。彼らはトレターユガの人々の平安と繁栄を確保するための儀式において、マントラ、タントラ〔マントラを使うための手段と方法〕そしてヤントラ〔道具〕を用いました。マントラの助けによって彼らは悪魔たちを鎮め、神々の支配を確立したのです。

2004年3月30日

『ラーマーヤナ』は単なる物語ではありません。それはヴェーダの直接的な教えを含んでいます。ラーマはヴェーダの英知を象徴しています。

2004年3月30日

ラーマ、ラクシュマナ、バラタそしてシャトルグナは世界を病と苦しみから救うため、ヴェーダのマントラの輝かしい力を伝えたのです。

2004年3月30日

あなたたちは完全な英知を獲得する努力をしなくてはなりません。神からの贈り物である目、耳そして舌を正しく使わなければなりません。この三つをコントロールできる人はだれでも、偉大さを獲得するでしょう。ですから、正しく視る目、正しく聴く力、正しい話し方を培いなさい。常に甘く、やさしく話しなさい。これら三つの美徳を培う人はだれでも、確実に神性へと導かれることでしょう。これがあなた方の教育の第一の目的であり、必須の基本なのです。これらの美徳を欠いた者たちは実質的には悪魔です。これが『ラーマーヤナ』の真髄とメッセージです。四つのヴェーダとその他の聖典は人々がこれらの原理に従うことを勧めています。
 親愛なる学生たちよ! 決してヴェーダの教えを無視してはなりません。ヴェーダの教えは人類の解放と救済のためのものです。あなたたちの生活の中でその教えを実践しなさい

2004年3月30日

この世界にはすべての人に四人のグル(師)がいます。ヴェーダは「マトゥルデーヴォー バーヴァー、ピットゥルデーヴォー バーヴァー、アチャルヤデーヴォー バーヴァー、アーティティデーヴォー バーヴァー」と宣言しています。それは、母親、父親、教師、そして客人は神とみなされるという意味です。

2004年5月6日

皆さんは、ラーヴァナが四つのヴェーダと六つのシャーストラ(天啓経典)をマスターしていたことを聖典で読んだことがあるでしょう。これらの聖典を学んだことによってラーヴァナの中に何か変容はあったでしょうか? いいえ、ラーヴァナはダイヴァトワ(神の性質)を育てる代わりにダーナヴァトワ(悪魔の性質)を育てました。ラーヴァナの十の頭は四つのヴェーダと六つのシャーストラを表しています。ラーマは、ラーヴァナが会得した知識を実践しなかったため、その決定的な戦いの中でラーヴァナの頭を切り落としました。単に聖典を学び、ヴェーダを唱えることだけでは何の変容も生まれません。このメッセージを徹底させるため、ラーマはその矢でラーヴァナの十の頭を射落としたのです。ラーヴァナの魂がその肉体を離れようとしたその時、ラーヴァナは自分の誤りに気づき、それらを後悔し、その結果 神聖になったのです。

2004年9月6日

神が説くすべてのことは人間の利益と幸福のためです。ですから、ヴェーダの教えのうち、一つでも実践に移すならそれで十分です。神の教えを実践に移すことは、すべての人々にとって自然なことであるべきです。プラシャーンティ ニラヤムでは、小学生でさえ上級生に加わってヴェーダを唱えている光景が見られます。しかし、彼らはそれらを実践に移すために必要な知識はもっていません。単にヴェーダを唱えることはあまり役には立ちません。

2004年9月6日

ただ神のみがあらゆる所に、常に存在します。世界は幻影にすぎません。神はあらゆる場所に存在するという聖なる教えは、すべての人々に普及しなければなりません。多くのサーダカ(霊的求道者)たちがヴェーダを唱えたり、教えたりしています。次の例を考えてご覧なさい。カセットテープやCDは、ただ音を出すだけで、メロディーを体験することはありません。自分が教えていることを実践しなければ実りはありません。ですから、人は聖なる教えに気づき、理解し、それを実践しなくてはなりません。

2004年9月6日

あなたは肉体ではありません。肉体は単なる道具であり、崇高で高貴なことを成し遂げるための手段にすぎません。肉体はこうした崇高で高貴な目的を達成するために使われなければなりません。肉体は私たちが着る衣服のようなものです。衣服はいつの日か朽ちる運命にあります。それまでは肉体は正しく維持されなければなりません。人は、犠牲を通 してしかヨーガ(神と一体になること)を得ることができません。ヴェーダが、「不滅の命は、行動によっても、子孫によっても、財産によっても得られない。それは犠牲を通 して初めて手に入れることができる」と宣言しているのは、そのことです。人間として生まれてきた以上、皆さんは神への奉仕に一生を捧げ、絶えず深く神を思うことに専念しなければなりません。もしそうするなら、いかなる身体の病気もあなたを悩ますことはないでしょう。

2004年11月23日

ここの学生たちは毎日ヴェーダを唱えています。一つひとつのマントラは決まった神に捧げられています。すべてのマントラを知ることが必要です。もし、自分の想念を純粋にし、自分の真我を理解したいと望むなら、ヴェーダの教えを基礎にすべきです。多くの学生はこの真理を理解できずにヴェーダのマントラを唱えるとき、盗人のように振る舞っています。

2004年10月19日

間違ったことを行い、無知を装うのは泥棒です。それと同じように、ヴェーダを唱える知識をもっているにもかかわらず、大きな声で心から唱えない者は、泥棒と呼ぶことができます。すべての学生はヴェーダを唱えることができます。しかし、中にはほかの学生と一緒に唱えていない学生がいます。彼らは学習したことを正しく使っていません。彼らは習得したすべてを独り占めしています。

2004年10月19日

私はヴェーダを唱える学生たちを観察しています。マントラを習得すれば、それらを唱えることは義務づけられています。しかし、声を出していない者もいます。ある意味で、彼らはヴィディヤ チョラトワン(知識の盗み)、ダイヴァ ドローハン(神を裏切る行為)をしています。このように、教育を得たものが反逆者となり裏切り者になっているのです。習ったことを心の底から唱える者だけがサクシャットカーラ(解脱)に到達する資格があるのです。

2004年10月19日

学生たちがマントラを唱えるとき、反対側に座っている女性たちもそれに加わります。彼女たちにはヴェーダを唱えるすべての権利があります。だれも彼女たちの権利を否定することはできません。

2004年10月19日

ここには小さな子どもたちもたくさん座っています。だれがこの子どもたちにヴェーダを教えたのでしょう? 年上の学生たちがマントラを唱えるとき、子どもたちは注意深く聞いてそれを記憶します。一方、学生たちが唱えている側にはヴェーダを習得した人々がいますが、中には口を開かない人もいます。私は彼らを見ています。ヴェーダを唱えるグループの側に座っていながら、覚えたり唱えたりする努力をしないのでは、ヴェーダを唱えるグループと一緒に座ることが何の役に立つでしょう? 彼らはよりひどい泥棒です。彼らはヴェーダを聞いていますが唱えることに参加しようとしません。神を体験するためにはマントラを聞き、唱えるべきです。

2004年10月19日

ヴェーダは神の姿そのものです。パンチャ ブータ(五大元素)をなだめる多くのマントラがあります。五大元素は私たちの息吹そのものです。五大元素は私たちの生命を維持します。世界そのものが五大元素の現れです。しかし、人々は五大元素に感謝することを忘れています。何と罪深いことでしょう! 私たちは不必要な情報を頭に詰め込み、その結果として五大元素を尊重する義務を怠っています。

2004年10月19日

すべての人はヴェーダを学習し、それについて黙想し、心の底から唱える必要があります。もしヴェーダをただ習うだけで唱えないのなら何の意味もありません。中にはここにいるときはマントラを唱えていても、外に出ると忘れてしまう人もいます。どこに行っても構いませんが、最低限、心の中ではマントラを唱えるべきです。絶対にヴィディヤ ドゥローヒ(獲得した知識を不当に扱う者)になってはいけません。ヴィディヤ ドゥローヒはダイヴァ ドゥローヒ(神を不当に扱う者)にもなります。そして、最後には神の恩寵を得る機会を失ってしまいます。
 学生たちは知らない間に間違いを犯してしまうこともあります。しかし、間違いに気づいたあとは二度と繰り返すべきではありません。今日聞いたマントラが何であろうと、明日は唱えられるようにするべきです。すべての人がマントラをいっせいに完璧な調和で唱えたとき、ブラフマン(神)があなたの前に現れます。太古の聖賢や先見者たちは、「ヴェーダハメータム プルシャム マハンタム アディットヤヴァルナム タマサ パラスタートゥ」(私は何十億の太陽の輝きをもって光り、無知という暗闇を超越した至高の存在を見た)と宣言しています。

2004年10月19日

ヴェーダの音は非常に神性です。それは、サブダ ブランママイー、チャラーチャラマイー、ジョーティルマイー、ヴァーングマイー、ニッティヤーナンダマイー、パラーットゥパラマイー、マーヤーマイー、シュリーマイー(音の具現、動と静の具現、光の具現、言葉の具現、永遠の至福の具現、完璧さの具現、迷妄の具現、富の具現)として高く賞賛されています。ヴェーダを習得することはすべての人にとって必修課題です。もし、それが不可能であれば、最低限、神の御名を唱えるべきです。

2004年10月19日

あなたがどのマントラを習うにしても、それを正確に唱えることができるようにしなければなりません。そうでなければ、まったく習う必要はありません。私は、ここでマントラを習ってもバンガロールに行くと忘れてしまう学生たちをたくさん見ています。彼らはそこへ行き、目上の人たちを満足させるために一つか二つのマントラを唱えます。ヴェーダは、宣伝の為に唱えるのものではなく、至福を体験するという自分の恩恵を得るために唱えるのものです。

2004年10月19日

他の人が唱えているからといって機械的にマントラを唱えるべきではありません。それらを理解し、消化すべきです。あなたはなぜ食物を食べるのですか? それらを胃で保存するためですか? いいえ、摂取された食物は、消化され、身体のすべての箇所にその栄養が吸収されるようにすべきです。それと同じように、ヴェーダの知識を理解し、消化して、それから活力を取り入れるべきです。それがあなたの思いと言葉と行いに現れるようにしなければなりません。あなたもヴェーダを広める仲間に参加し、喜びを他者と分かち合うべきです。

2004年10月19日

ここで学んだことは何でも、すべて他の人と分かち合いなさい。他の人と分かち合うだけでは十分ではありません。あなたもまた、その知識を実践に移し、そこから恩恵を得るべきです。私たちは家でたくさんのごちそうを用意し、来客に振る舞います。あなたもまたそれを食べることが必要ではありませんか? それと同じように、私たちは習得したヴェーダの知識を消化し、他者と分かち合うべきなのです。

2004年10月19日

ヴェーダを起源としてさまざまな種類の知識が生まれました。それが、ヴェーダがサルヴァ ヴィグニャーナ サンパッティ(知識の宝箱)として高く評価されている由縁です。しかし、残念なことに、私たちはこのような宝を正しく使っていません。自分が身に付けた程度に応じて知識を分かち合いなさい。習得したことを決して忘れてはなりません。誠意を込めた努力によって、あなたは確実にサクシャットカーラ(神性)に到達することができます。マールカンデーヤはどのようにしてサクシャットカーラに到達したのでしょう? マールカンデーヤは我を忘れてパンチャクシャリ マントラを唱えました。その結果 として、イーシュワラ神がマールカンデーヤの前に現れ、恩寵を降り注いだのです。あなた方の中で、神の姿を見たいと願う人は、自分が得たヴェーダの知識を消化して、他者と分かち合うべきです。

2004年10月19日

 

※この御言葉集は、2005年ヴェーダクラス用に準備されたものです。

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