ある帰依者の体験談

       

スワミのご葬儀での体験のご報告



スリカンタ レッディ

バガヴァン シュリ サティヤ サイ ババ様の蓮華の御足にお祈りを捧げます。プッタパルティにて執り行われました、バガヴァンの最後のダルシャンとマハー サマーディ(お墓)に関する体験をご報告させていただきます。

2011年3月28日から、スワミはスーパー・スペシャリティ・ホスピタル(サティヤ サイ高度専門病院)に入院なさっており、私は毎日、スワミのご容態に関して情報を確認しておりました。4月24日、愛するスワミが地上での旅を終えられたと知り、私は完全に仰天してしまいました。その日の夜、インド行きのチケットを購入することを決意し、4月26日の朝、プッタパルティに到着する予定で日本を発ちました。

プッタパルティに向かう多くの車は、その隣村であるカルナータ・ナーゲパッリ村に停められていました。ようやくプッタパルティに到着した時には、すでに何十万人もの人たちでごった返しており、愛するスワミの最後のダルシャンを受ける人たちの長い列ができていました。ダルシャンの列は、ずっとチットラーヴァティー川の方に伸びて、更に川に沿って遠くまで続いているような状態でした。そこでは多くのボランティア(プッタパルティや近隣の村人)たちが、ダルシャンラインに並んでいる人たちに水や食べ物や飲み物を自主的に提供していました。このようなことが、3日間寝る間もなく行われており、私はその光景を見て非常に感動し、感銘を受けました。

プラシャーンティ・ニラヤムに向かう道は、すべて警察によって築かれたバリケードで封鎖されていたため、アシュラムのゴープラム・ゲート(南インド建築の塔門)近くにある私の姉の家に、どのようにして辿り着いたらよいのか、全く見当もつきませんでした。プッタパルティ村をぐるりと一周して、何とか私の姉の家に辿り着き、ようやく私はホッとすることができたのでした。

そうしているうちに、故郷であるハイダラーバードから来ているセヴァダル(奉仕者)の世話役の方と連絡を取ることができました。その方は偶然にも今回のご葬儀の裏方、壇上のサマーディの敷地の設営を取り仕切ることになっていたのです。そのセヴァに私も参加できないかとお願いしたところ、サマーディ設営のセヴァに従事させていただけることになりました。そのため、私は長い列に並ぶこともなく、セヴァダルの一員として直接マンディールに入ることができました。マンディールに入るとすぐ、私はスワミのダルシャンを受けることができ、その後、直ちにサマーディの敷地でのセヴァに取り掛かりました。

そのとき、壇上のサマーディの敷地はカーテンで覆われていました。カーテンの中に入ると、スワミがお入りになる穴が掘られた状態になっているのが目に入りました。サマーディの穴の両側には、大理石の壁が構築されていました。私たちは穴を掘ったときに出た土を選別して小石を取り除く作業を行いました。このセヴァを行うメンバーとして11名のセヴァダルが選出されたのですが、スワミの恩寵により、私もその中の一名に入れていただくことができました。私たちは、掘り出されたすべての土を袋に詰めてマンディールの外に持ち出し、小石をすべて取り除くという作業を行ったのです。そして、選別された土をまた袋に詰め直し、再びマンディールに持ち帰りました。この作業はずっと4月26日の夜まで行われました。

ダルシャンの列は、4月26日の23:30にて終了となりました。そして、日付が27日に変わる頃、スワミのご遺体は奥にあるバジャン マンディールに場所を移され、朝までそこに安置されていました。私たちセヴァダルのメンバーは、スワミのご遺体をお守りすると共に、サマーディの敷地の飾り付けのお手伝いも行いました。その時、スワミが中にいらっしゃるバジャン マンディールをプラダクシナ(右回りに寺院を巡回するお祈り)する機会をいただくこともできました。

朝5時になると、スワミのご遺体は、再びバジャンマンディールから外に場所を移されました。ご遺体がバジャン マンディールから移されていた時、私はちょうど朝のシャワーから戻ったところで、とても近くからスワミのダルシャンを受けるという祝福を授かりました。その後、私たちはまたサマーディの敷地でのセヴァで忙しくなりました。

私たちはサマーディの裏で、沢山のヴィブーティの袋や、穴から掘り出した土の袋、砂の袋、トゥラスィー(薬用バジル)の葉、聖水などの準備を行いました。ご葬儀が開始されると、マンディールの帰依者たちは皆、悲しみに暮れて、誰にもその涙を止めることはできませんでした。やがて、壇上のカーテンが閉じられました。私たちは、指示された通りに準備していたヴィブーティ、掘り出した土、砂、聖水などをスワミのご遺体の近くにおられたパンディット(僧侶)やご親族の方々に手渡しました。最初のうち、それらのものは水盤の器に移し替えて手渡していたのですが、儀式が進行するにつれて間に合わなくなってきたので、袋のままお渡しするようになりました。マハー サマーディの穴を一杯にするため、私たちは人間の鎖のように一連に繋がり、それらの袋を手渡し続けたのです。

スワミのご親族の方々が退席された後、大勢の学生やスタッフ(と思われる)方々がサマーディの敷地に押し寄せてきました。私たちはその方々を制御して場所を確保しなければなりませんでした。このとき、私はサマーディのすぐ横にいたのですが、スワミの恩寵によって一握りの土をマハー サマーディの中に捧げることができました。すべてが終わると、サマーディの場所から人々を退出させて、敷地内をきれいに清掃しました。

最後に、サマーディの上部が数多くの花々で飾り付けられ、葬儀に参列した要人の方々がマハー サマーディに敬意を表してお参りすることが許されました。私は、マハー サマーディのすぐ横に座ったまま、夜になるまでずっとそこにいました。その後、姉のアパートに戻って少し休息を取りました。この3日間一睡もしていなかったので、その時は若干疲れていました。翌日までプッタパルティに滞在し、私は故郷であるハイダラーバードに発ちました。この度の貴重な体験と感情を、永遠の宝物として心と魂に深く刻み込みながら。

ジェイ サイラム



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