一者のみが存在する

       

トワメーヴァ マーター チャ ピター トワメーヴァ
トワメーヴァ バンドゥ サカー トワメーヴァ
トワメーヴァ ヴィッディヤー ドラヴィナム トワメーヴァ
トワメーヴァ サルヴァム マーマ サイ デーヴァ

あなたは母、あなたは父、あなたは家族、親しき友
あなたは英知、富、強さ、勇気、そして力
あなたは私のすべて! ああ、私の神よ、私のサイよ

(サンスクリット語の祈り)


 最大の慎みと愛を込めて、私たちの母なるサイの蓮華の御足にお祈りを捧げます。尊敬する年長者の皆さん、そして兄弟姉妹の皆さん、サイ ラム。

 全知、全能、遍在である万物の創造主が、人間の姿をまとい、私たちの中に降臨されました。なぜ知識も豊富も権力も有するインドの行政官が、自分の3歳の子どもの前では腰を屈めて遊び、その子にA、B、C、Dを教えるのでしょうか? それはその行政官が自分の子どもを愛しているからです。これが、私たちの只中に神が降臨なさった理由です。この人間の姿をまとわれて以来70年間、神は人類がその源へ戻ることができるよう導き、指示し、援助してきてくださいました。普通の母親が10回か20回繰り返し言うところを、私たちの母なる神は、私たちの内に変容が起こり、神に戻ることができるまで、何度も何度も繰り返し言い続けられます。それが神の愛です。ラーマ、クリシュナ、アッラー、イエス、どのような御名であれ、神をお呼びなさい。神はいつでも応える準備が出来ています。神は愛の大海だからです。

 昔、あるジャガンナータ神の信者がいました。彼の名前はサラベガでした。サラベガは年に一度の山車祭で、ジャガンナータ神のダルシャンを授かりたいと望みました。聖地プリーに赴いてジャガンナータ神のダルシャンを受けるには、何百マイルも歩かなくてはなりません。サラベガは自宅を出て歩き始めました。プリーでは山車祭の準備が行われていました。そして、祭りの当日がやってきました。すべての祈りが捧げられた後、三体のご神像が三台の山車に乗せられました。何千人もの信者たちが手に持ったロープで山車を引こうと待ち構えていました。しかし、このサラベガという信者はまだプリーに到着することができませんでした。サラベガはジャガンナータ神に向かって叫びました。
 「おお主よ! もし私のことを愛しておられるなら、私が到着してあなたのダルシャンを受けるまで、あなたが動かれるはずはありません!」
 何千人もの人々が山車を引っぱりましたが、山車は動きません。国王は心配し、王宮の象や馬を呼び出して引かせましたが、すべての努力は徒労に終わりました。その晩、王は夢を見ました。ジャガンナータ神が夢の中に現れて言いました。
 「私の信者、サラベガがまだプリーに来ていない。サラベガが到着し、私のダルシャンを受けたとき、初めて私は動くであろう」
 翌朝、王はサラベガを連れてくるために家来を遣わしました。サラベガが到着し、ジャガンナータ神のダルシャンを受け、祈りを捧げた後、ようやく山車は動き始めました。

 これが私たちの神の愛です。神は、真心のこもった祈りには何であれお応えになるのです。神には呼びかける必要さえありません。ここに、この御姿を取られた私たちの神は、とても慈悲深いゆえに私たちの呼びかけすら必要とされないのです。

 本校の初等科のある少年が、休暇の間、自分の実家へ帰りました。少年はカルカッタ(コルカタ)まで勇敢にも一人で汽車に乗って帰ったのです。少年は汽車から降りて市バスに乗りました。ところが、バスを降りてみると自分が東カルカッタ行きではなく、西カルカッタ行きに乗ってしまったことに気づきました。この大都会の中で何をすれば良いのか、どこへ行けば良いのかわかりません。途方にくれた少年は泣き始めました。しばらくして、サルダルジ(ターバンを巻いたシク教徒)の運転するタクシーが停車しました。サルダルジは少年に、
 「坊や、なぜ泣いているんだね?」と尋ねました。少年は答えました。 「東カルカッタへ行きたかったのに、西カルカッタ行きのバスに乗ってしまったんだ。どこへ行けばいいのか、どうすればいいのか、僕には何もわからないよ」
 その運転手は少年に車に乗るように言い、まっすぐ少年の家まで走ると、そこで少年を降ろして立ち去りました。

 少年は休暇を楽しみ、休暇が終わると学校へ戻ってきました。 ある清々しい朝のことです。学生たちは皆、ダルシャンを受けるために座っていました。スワミは優雅にその少年に近づいて、お尋ねになりました。
 「休暇はどうでしたか?」
 「とても楽しかったです、スワミ。僕は楽しい休暇を過ごすことが出来ました」と少年は答えました。
 「旅の道中はどうでしたか?」とスワミはお尋ねになりました。少年は間違ったバスに乗ったこと、途方に暮れたときにサルダルジのタクシー運転手が現れて助けてくれたことなど、一連の出来事を話しました。するとスワミはおっしゃいました。
 「そうです、私があなたを助けに行きました」
 それゆえ、少年の家に着いた時、運転手はタクシー代を請求しなかったのです。神なる母が、自分の子どもたちから何かを受け取ることなどできるでしょうか? それが神の愛なのです。

 スワミはよく「口数を減らし、甘く優しく話しなさい」とおっしゃいます。私たちに授けられたこの「話す言葉」という贈り物には多大な力があります。かつて、私のバルヴィカス教師がこの話す言葉の力を説明するために、ある出来事を話してくれました。

 一人の調査官が学校を訪れ、教室に入りました。教師は男子生徒たちにサティヤ・ハリシュチャンドラ王の章を教えているところでした。調査官は教師に、
 「君は何を教えているのかね?」と尋ねました。
 「はい、サティヤ・ハリシュチャンドラ王の人生から学ぶべき教訓を教えております」と教師は答えました。調査官は、
 「君はいったい何を考えているのだ? サティヤ・ハリシュチャンドラ王の一生を話すだけで、生徒に道徳的価値を教え込むことが出来るとでも言うのかね?」と言いました。教師は「もちろんです」と答えました。しかし、調査官は同意しませんでした。言葉の持つ力をその調査官に気づかせるため、教師は一人の生徒に、
 「ラメーシュ、この調査官を部屋から追い出しなさい」と命じました。その瞬間、調査官は激怒しました。調査官は教師に向かって怒鳴りつけました。
 「おまえは何を言っているのか? 自分が職を失うかもしれないとわかって物を言っているのか?」  
 教師は丁寧に答えました。
 「調査官どの、私もその生徒も何もしておりません。私が一言二言、その生徒に話しかけただけで、あなたは怒ってしまわれました」
 これこそ言葉の力であり、神が私たちに授けて下さった贈り物です。

 さあ、神の御名を唱え、神の栄光を歌うためにその力を使いましょう。
 おお神よ、私は知識、知力を求めませんそれは私のエゴを増幅させ、あなたを忘れさせてしまうかもしれないからです。

トゥルシーダースは言います。

ボーレー バヴェー ミレー ラグ ライ
チャトゥライ ナ チャトゥル ブジャ パイ

賢く知力のある者ではなく、
純粋な者のみが神に到達できる


カビールは言います

ポーティ パール パール ジャグ メー
パンディト ホーエー ナ コーイー
ドー アクシャル プレーム ケー パルレイ
ソー パンディト ホーエー

聖典を読むだけで、偉大な学者になることはできない
愛の言葉という価値を悟った者こそ、真の学者である


 おお神よ、私たちの内に宿る愛を拡大し、あなたの神聖な愛に溶け込ませてください。兄弟姉妹の皆さん、スワミと共にいれば、私たちの人生は価値あるものとなり、幸福で満たされます。しかし、スワミなしでは、私たちは人生の目的を知らず、自分たちが何をしているのかもわからないのです。

 再び、カビールの引用句を添えさせていただきます。

ジャブ マェン タ、タブ グル ナヒン
アブ グル ハイ、フム ナヒン
プレーム ガリ アティ サンカティ

愛の道は狭い
その道は二人ではなく、一人だけしか通れない
私がそこにいれば、私のグルは存在しなかった
私のグルがそこにいれば、私は存在していない


 おお神よ、私でなくあなただけを存在させてください。愛の中には、ただ一者が存在するのみです。スワミ、あなたは私たちに、体、心、魂など多くのものを授けてくださいました。あなたは一切を授けてくださいました。あなたは私たちに愛する方法を教えてくださいました。私たちはあなたに何を捧げることができるでしょう? 私はただ祈ります。あなたの御名を唇にのせ、私たちが永遠に、いついつまでもあなたの蓮華の御足に留まることができますように、と。

ジェイ サイ ラム
1996年7月12日
シュリ・ラーメーシュワラ・プルシティ

出典:The Study of Sathya Sai 第1話



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