やっと来たか

       

セヴァ(奉仕)団体

 1993年(平成5年)末、私は家内と初めて「サイババ・ツアー」でプッタパルティに行った。旅行に行く直前に、知らずにお膳立てした「ビフォア」に対し、帰って来た直後、自分でも全く信じられない奇跡、「アフター」が待っていた。私と家内は旅行から帰ってみると、自分でも知らない内に完全なベジタリアンになってしまっていた。旅行で見聞きしてきた不思議な出来事や奇跡が自分にも起きたのである。旅行で同室になったF氏からもらった『理性のゆらぎ』は、帰国後、早速読んだ。読みながら先の旅行を想い出し、ある部分では「そうだそうだ」とうなずきながら追体験していた。

 サイババに興味を覚えて、帰国後、サイババに関する本を読んだり資料を取り寄せたり、少し調べてみた。サイババの説く教えは至極単純なもので、「全ての人に、全ての物に、唯一の神が宿っている。全ては神です。だからどんな人をも愛しなさい。たとえ自分に敵対する人であっても愛しなさい」「神は愛、愛は神です」「常に人を助け、決して傷つけてはなりません」「どんなに些細なことでも“正義”を守りなさい。正義を守れば今度は正義があなたを守ります」「人にも動物にも非暴力でいなさい」等、人として基本的なものであり、その教えのどこにも“納得できない引っ掛かり”を見つけることは出来なかった。

 「私はこのサイババという肉体にだけ宿っているのではありません。私は全ての人の中に、全ての物の中に宿っています。私はあなたです。あなたは私です」「全ては私です」「誰も私に知られずに心を動かすことなど出来ない」とも言っている。

 日本でサイババの教えに共感する人たちが奉仕団体を作っていることを聞き及んだ。サイババは「セヴァ」(無償の奉仕、見返りを求めない奉仕、愛で行う奉仕)と単なるボランティアとを明確に使い分けており、サイババに心を寄せる者には「セヴァ」を薦めている。その教えの通り、宗教とは全く無関係な「セヴァ団体」が日本に出来ている。その名を「サティア・サイ・オーガニゼーション・ジャパン」と言い、昨年(平成5年)6月に我々夫婦と家内の友人の三人が金沢のサイババ・セミナーに参加したのは、この団体の金沢支部設立の時だったことが分かった。

 私はその時、「これはきっとインドの新興宗教団体である」と頭から誤解してしまった。しかし、住所・名前を記帳させられることも、入会を勧められることも、お金を要求されることも、寄付を迫られることも、教義を押し付けられることも、全く無かった。昼食をご馳走になった上に、一輪の花とお土産まで戴いた。「入会者を集めている筈なのに、何か不思議な団体だなぁ」という印象を受けたことが心の片隅に残っていた。
 サイババのことをいろいろ見聞きし、人の体験を聴き、自分も奇跡を体験した今、はっきり言えることは、「もじゃもじゃ頭のサイババ」は「教祖」などではなかったし、あの団体は新興宗教団体でも、カルト教団でもなく、宗教団体でさえなかった。それが分かったからこそ、会員でもない私が「サティア・サイ・オーガニゼーション・ジャパン」の第4回全国大会なるものに参加してみたくなったのだ。大会は全て「セヴァ」で運営されているという。

第4回サティア・サイ全国大会

 今年(平成6年)9月にその奉仕団体が、二年に一度の全国大会を東京で開催することを聞きつけた。福井県にはその奉仕団体の支部が無いことがわかり、直接東京のサイ・センターに参加を申し込んだ。
 平成6年(1994年)9月23〜25日の三日間、東京台東区東上野のラ・ベル・オーラム(オーラムビル)で、第4回サティア・サイ全国大会が開かれるという。
 いよいよその前の晩、我々夫婦は鯖江から特急で金沢に行き、21時金沢発上野行きの夜行列車「北国」で東京へ向かった。
 その大会では、音楽評論家のY氏の夫のT氏が司会し、米国のヒスロップ博士、インドのシャーストリ博士、『理性のゆらぎ』の著者; A博士の講演があった。
 実は、サイババのことが今年6月13日に、朝はモーニングショー(テレビ朝日)で取り上げられ、夜は特番(日本テレビ)で放映された。8月15日にも日本テレビの特番で報道された。勿論、週刊誌や雑誌は格好の話題として取り上げた。期せずしてサイババ旋風が巻き起こったことから、日本では無名だったサイババの名が一躍日本中に知れ渡った。その影響で、9月のこの大会は結果として毎日1,000人以上が詰めかけ、発表によると3日間合計で3,500人以上になったのだ。当然会場は第1会場のメインホールだけでは入りきらず、急遽第2会場まで用意され、大会を大きなスクリーンで見ることになった程であった。

「やっと来たか」

 私が体験した不思議な出来事は、その大会の始まる直前の会場で起きた。 9月23日午前11時から受付が始まった。我々夫婦が受付を済ませたのは11時を少し過ぎた頃である。会場は多くの係員がまだ準備の追い込みをしている最中で、何人かは受付の周りの飾りつけをしており、ある人は大きな声で他の人と打ち合わせしながら音響機器を持ち運んでいる。長いコードを廊下に敷いている人もいる。女性が何人も忙しくあちこち出たり入ったりしている。

 早目に受付を済ませた為、随分時間の余裕がある。メイン会場を覗いてみたくなった私は、まだ懸命に大会の準備に追われる関係者の邪魔にならないように注意しながら、階段を降りて地下2階のメイン会場の前に来た。人が忙しく出入りする1階や地下1階とは対照的に地下2階は薄暗く、廊下には誰もいない。試しにドアを少し押してみた。鍵は掛けられていない。ドアは容易に開いた。半分ほど開けたドアの間からそっと顔を出し、中を覗いた。メイン会場となっている大きなホールは、ダウンライトの光を落として薄暗い補助ライトだけになっており、明るいところから急に中を覗いたものだから暗くて奥が良く見えない。思い切って忍び込み、目が慣れてから周りを見回してみた。誰も居なくてシーンと静まり返っている。もう会場のセッティングは、既に全て完了している様子である。小さな座布団も、縦横に何列も等間隔で詰めて並べてある。正面にはライトアップされた二つの大きな写真と絵が飾りつけられていて、薄暗い広い会場でここだけが明るくなっている。右はサティア・サイババの等身大の立ち姿の写真で、左はシルディ・サイババの上半身の絵である。シルディ・ババの絵は白い布を頭からすっぽり額まで覆って後ろで束ねている。白い口髭と顎髯を蓄え、右手をこちらに向けて立てている写真のような絵である。誰かに見つけられて「まだ入ってもらっては困ります」と言われはしないかと気にしながら周りを見回し、恐る恐る写真に近づいた。

 目の前のサイババの写真の前に跪いた。じっと写真を見上げた。5分ほどそうしていただろうか。去年の6月、全く行くつもりがなかった金沢へ行くことになり、全く受けるつもりがなかったサイババ・セミナーを受ける羽目になり、申し込むつもりのなかったサイババ・ツアーに受付締め切り日の、それも締め切り時間(午後5時)のほんの5分程前に急に気が変わり、申し込んでしまった。気がつけば12月には、家内と共にインドへ行ってしまっていた。旅行直前に、会社の先輩をお近づきの印として寿司屋とパブへ接待し、肉・魚を口にし、ビールをがぶ飲みしていた人間が、インドから帰った直後には、自分でも知らないうちに完全なベジタリアンに一変してしまっていた。これまでの一年三ヶ月、インドへ、サイババへと何か見えない糸で引っ張られていくような不思議な流れが自然に思い出された。写真に向かって「これはあなたの仕業か? 」と聞けるものなら聞いてみたいと思った。

 次にシルディ・ババの絵の前に移動して、同じようにまた跪いて、絵を見上げた。こんなに大きい絵は初めて見た。よく見かけるあの腰掛けて右足を左膝の上に載せた像や、その他いろいろある肖像画はどうも余り好みではなかったので、取り立てて関心が無かった。その為、今日ほどじっくり見たことは無かった。改めて目をじっと見つめた。向こうも優しくじっと私を見ている。その時、口元が何か言いたそうな感じに取れた。ふっと頭の中に、
 「やっと来たか!」「まだそんなことやっているのか!」
 という言葉が続けて唐突に浮かんできた。それはあたかも、シルディ・ババが私に話しかけたように感じた。そして次の瞬間、私の胸に熱いものが込み上げてきて、鼻の頭が「ツン」となり、目頭にジワッときた。それと同時に、ワーッと頭に血が上り、顔が熱くなってくるのが分かった。「えっ!」私はびっくりした。その言葉を確かめるようにオウム返しに写真に聞き返していた。「『やっと来たか!』『まだそんなことやっているのか!』って?」と。自分が勝手に想像したのか? それなら今の体の反応は何だったのか。その言葉に瞬時に反応したものであって、想像では決して起こりえないものである。過去世でシルディ・ババと何か繋がりがあったのだろうか。「そんなこと」が何を指すのか、皆目見当がつかないが、「まだ喜怒哀楽をむき出しにして、それらに振り回された生活をしているのか? 」と、たしなめられたのだろうか。

シルディ・ババとのつながり?

 この体験はこれで終わった。それからどれ程も経たないある日、我が家で行っていたバジャンに参加していた一人の若い女性から、サイババ・ツアーのお土産にシルディ・ババの絵の置物を戴いた。それから何ヶ月か経ってから、また別の女性からシルディ・ババのアシュラムを訪ねたお土産にシルディ・ババ・グッズを戴いた。

 さらに、この第4回全国大会の何年か後に、家内と二人でプッタパルティのサイババを訪ねた時のことである。家内がダルシャン会場で隣に座っていたインド人の女の子が早朝の寒さで震えていたのを見て、自分がしていたホッカイロをその子に貼ってあげたと言う。その子は不思議なものをもらって笑顔を見せ、大層喜んだそうである。お礼に、大切そうに持っていたシルディ・ババの写真をくれたという。(シルディ・ババの写真は一枚だけ記録された本物の写真があり、それをコピーしたものが売られている)

 その日、部屋に戻った家内は、「ハイ、これはシルディ・ババからあなたへ届いたものだと思うわ!」と経緯を説明して、写真を私にくれた。私は今もその写真を財布に入れて大切に持って歩いている。

【追記】
 その後、何度かシルディ・ババの同じ絵に出くわすことがあったが、どれだけ見ていてもその絵の口元が何か言いたそうに感じたことは二度となかったし、何の言葉も浮かんでこなかった。
(平成22年5月)


【参照】シルディ・(サイ)ババ
 1872年頃、一人の放浪の托鉢行者が当時のボンベイ州シルディ村の回教寺院に住みついた。彼はサイババという尊称で呼ばれるようになった。彼は驚くべき奇跡を行い、彼の周りに集まって来たヒンズー教徒や回教徒その他の信仰者達に霊的教えを与えた。彼の名声はその当時のゆっくりした情報伝達法によって広がり、1910年から彼が死没した1918年の間のシルディを訪れる人々の流れは絶えることが無かった。彼は肉体を去る前に、帰依者の一人、弁護士でボンベイ市会議員のシュリ・ディキシットに、自分は8年後少年となって戻ってくる(死んで8年後生まれ変わる)と言い残した。・・・省略・・・。

 シルディ・サイババの死後8年、即ち、1926年11月(23日)、一人の男の子がアンドラ・プラデシ州のプッタパルティという鄙びた村に生まれ、サティア・ナーラーヤナと名付けられた。サティアとは真理、ナーラーヤナとは内在する神、という意味である。彼がサティアと呼ばれていた子供の頃から注意を引く事柄が沢山あった。記録によると、彼は超常能力を示し、何度も遊び仲間達のために砂糖菓子や果物を物質化し、病気の友のためには遠くのヒマラヤ山脈にしか生えていない新鮮な薬草を物質化した。・・・・・・このような異常現象に困惑し心配した彼の父は、1940年5月のある日、少年に向かって、「お前は誰か、何者なのか」と問い質した。少年はそれに答えた。「私はサイババです。」・・・・・

 ―『世紀末の奇跡 サイババ・アバター』ハワード・マーフェット著 序文より



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