真理の教師

       

 オーム シュリ サイラム。最愛なるバガヴァン、あなたの蓮華の御足に愛を込めてお祈りを捧げます。そして、尊敬する先達の皆様、親愛なる兄弟姉妹の皆様にお祈りを捧げます。

 何年も前、バガヴァンはご自分についてお話しになっていた時、次にように宣言なさいました。

ナ フム マヌショー ナチャ デーヴァ ヤクシャハ

ナ ブラフマチャーリ ナ グリヒ マナスタハ

ナ ブラフマン クシャトリヤ ヴァイシャ シュードラハ

アハム サッティヤム ボーダカ

サッティヤム シヴァム スンダラム


私は人間でも天使でもなく、独身者でも家長でもなく

ましてや世捨て人などではない

私はいかなるカーストにも属さない

もしどうしても私を言葉で言い表すとすれば、

人は私を真理の教師、

真理、幸福、美の具現者と呼ぶことができる


 この吉祥のグルプールニマー祭の前日、バガヴァンは私たちを教師の中の教師、グルの中のグル、全宇宙のジャガドグルであられる神の蓮華の御足のもとにお導きくださいました。私たちはこれを稀にみる幸運と捉え、感謝しなければならないと感じます。バガヴァンがお話しになるすべての言葉はディヴィヤ マントラ(神聖なマントラ)です。私たちがその言葉を理解して、日常生活の中で実践するなら、それは人生やその幸福を守る拠り所となるでしょう。スワミの御足が触れた大地は、隅々までディヴィヤ ブーミ(聖なる大地)、プンニャ ブーミ(功徳の大地)となります。そこはシュリ ラーマの生誕地(アヨーディヤー)やシュリ クリシュナの遊んだ地(ブリンダーヴァン)のように、後世まで崇められることでしょう。

 今日、私は数ヶ月前にバガヴァンがサイ大学の学生たちに助言なさった言葉を思い出しています。学生たちが夏休みで故郷に帰ろうとしていた時、バガヴァンはある宣言をなさいました。これは学生たちにおっしゃったことですが、すべての人が応用できます。バガヴァンはこうおっしゃいました。

「親愛なる学生諸君、この世には決して忘れてはならないものが二つあります。第一は神です。そして第二は死です。この世で忘れなければならないものが二つあります。第一はあなたが他者に為した善行です。第二は他者があなたに為した悪行です」

 なぜ他者から与えられた痛みを忘れることがそれほど重要なのでしょう? それを忘れなければ、心の中に敵意が生じるからです。また心に抱く怒りがバクタ(帰依者)の本分である神聖な愛の成長をもたらすことはありません。高潔な人の愛と憎悪と怒りは、水面に文字を書くようなものだと言われています。それは一時的なものであり、ある目的のために呼び起こされて生じ、その目的が果たされると跡形もなく消え去ります。普通の人の悪い感情は、砂浜に文字を書くようなものです。しばらくの間はそこに留まり、やがて海の波に押し流されてしまいます。しかし、心の卑しい人は、一生その感情を持ち続けます。それはまるで鉄に彫刻を施したようなものであり、おいそれとは消えません。ですから私たち一人ひとりの第一の義務は、他者が私たちに為した悪行を忘れることなのです。それどころか、私たちは彼らに感謝すべきです。そのような時こそ、私たちの神への思いは強められ、深められ、普段は神に対して感じないような親近感を感じさせてくれるからです。

 次に、なぜ他者に為した善行を忘れなければならないのでしょうか? 通常、何か善いことをすれば、将来それに対する何らかの見返りを得るだろうという期待と欲望が心の中に残ります。父親が幼い息子を育てる時、口には出さないかもしれませんが、心の内では「年をとったら息子に私の世話をさせよう」という思いがあります。誰かを自宅に招いて一杯のコーヒーを出せば、結婚披露宴は無理でも、せめて昼食には招いてくれるだろうという思いが残ります。すべては秘めたる動機によって行われているのです。真のセヴァ(奉仕)はどのような動機も持たずに行われるものです。それゆえスワミは、「義務のない世話は神聖である」とおっしゃるのです。

 これに関連して、私は少し前に偶然知った『ラーマーヤナ』の大変美しい感動的なエピソードを思い出します。ラーマとラクシュマナとシーターが森へ追放され、大臣のスマントラはアヨーディヤーのダシャラタ王のもとへ帰ろうとしていました。そのとき、シーターはスマントラを呼びとめて言いました。
「スマントラ、私は慌ててアヨーディヤーを離れたため、可愛い小鳥たちに餌をやるのを忘れていました。小鳥たちの世話について何も指示してこなかったのです。あなたが帰ったら、どうかあの子たちが餌をもらえるように取り計らってください」
 つまるところ、その小鳥たちがシーターに何をしてくれたというのでしょう? 小鳥たちには恩返しする力もなければ、その見込みもありません。しかし、これこそが高潔で貴い人のハートなのです。

 スワミは「フルダヤ(ハート)とはダヤ、すなわち慈愛に満ちたものです」とおっしゃっています。またシーター自身の命が危険にさらされ、助けを必要としていた時、私たちは何を見出すでしょう? この小鳥と同じ鳥類のジャターユ(ハゲ鷲)がシーターを助けにきました。ジャターユはシーターをラーヴァナの魔の手から救い出すことはできませんでしたが、少なくともラーマにシーターの居場所を気づかせる重要な道具となり、お陰でシーターを救出することができたのです。ですから、真のセヴァとは私たちに何も与えることのできない人、決して私たちにお返しのできない人に、何の目的も期待も持たずに奉仕することなのです。それゆえバガヴァンは「他者に為した善行はすべて忘れなさい」とおっしゃるのです。

 バガヴァンが「死を忘れてはなりません」とおっしゃるのは、私たちに悲観的で、否定的な人生観を持つよう求められているのではありません。バガヴァンは人生の真実に気づかせてくださいます。バガヴァンがなさった素晴らしいお話があります。

 ある若い男が、暗く深い森の中を歩いていて道に迷ってしまいました。突然、運の悪いことに、男は一頭のライオンに出くわしました。そのライオンはお腹が空いていたので、目の前に昼食が現れたことを喜びました。ライオンは必死に逃げる男を追いかけ始めました。もう少しで力尽きるところで、男は木によじ登り、束の間の安らぎを得ました。この重大な危機に瀕して、そろりそろりと木によじ登りながら、男はいったい何を見たのでしょう? 木のてっぺんから猛毒のコブラが降りてきたのです! 下にはお腹を空かせたライオン、上には猛毒のコブラです。この逃げ場のない恐怖の中で、男はそっと別の枝に移ると、死に物狂いでその枝にぶら下がりました。運の悪いことに、どこからともなく二匹のネズミが現れました。一匹は黒ネズミで、もう一匹は白ネズミでした。
二匹のネズミはその枝の付け根をかじり始め、枝は今にも折れそうになりました。この木の上で起こった一連の騒動によって、木のてっぺんのミツバチの巣から蜂蜜が漏れ出し、上から数滴したたり落ちてきました。これほど絶体絶命の危機に瀕していたにもかかわらず、地面にしたたり落ちる蜂蜜を見た男は、それを舐めようと自分の舌を出したのです!

 バガヴァンは、これが今日、人類が直面している危機的状況であることに気づかせてくださいます。私たちの命はロウソクの炎のようにいつ吹き消されてしまうかわかりません。にもかかわらず、私たちは人生の目的が何であるかを忘れているのです。人生の目的とは何でしょう? 人生の目的とは、神を愛し、神と私たちが一つであることを悟ることです。

 なぜ神を忘れてはいけないのでしょう? つまるところ、神は私たちの創造主なのです。神は変わることのない私たちの伴侶であり、永遠の友であり、人生における頼みの綱です。一切のものが離れてしまっても、神だけは私たちと共にあります。

 『ラーマーヤナ』の中にまた別の素晴らしいエピソードがあります。一人の船頭が舟でラーマを川の向こう岸に渡しました。岸に着いた後、ラーマは舟代を払いたいと思いましたが、船頭はそれを断りました。「主よ、私はあなたから舟代はいただきません」と船頭は言いました。ラーマは「なぜですか? 」とその理由を尋ねました。「なぜなら私たちは同業者だからです。同じ職業の者を手助けして報酬を受け取るのは正しいことではありません」そこでラーマは尋ねました。「なぜ私たちが同業者だと言えるのですか? 」「ラーマ、今日あなたはこの川を渡りたいと望まれました。そして私はあなたを手助けしました。私にもサムサーラ(人生の大海)を渡らなければならない時がくるでしょう。その時、あなたは私にこの人生の大海を渡らせてくださるはずです」 船頭はこのように答えました。これがその教訓的エピソードの内容です。神を忘れないようにしましょう。神は私たちにとって非常に大切な存在なのです。

 バガヴァンは無数の方法で帰依者たちを覚えていてくださいます。ある時、それはスワミがダルシャンを与えていらっしゃる時でしたが、息子を連れた父親がダルシャンの列に座っていました。その親子は久しぶりにスワミのもとへやって来たのです。10年前、その少年がまだ赤ん坊だった頃、スワミはその親子の家を訪問なさったことがありました。

 その時、スワミは赤ん坊をご自分の腕に抱かれました。しかし、赤ん坊は興奮のあまりスワミの腕の中で尿意を催してしまったのです。十年後、ダルシャンの最中にこの父親が座っているのを見つけ、スワミは息子を指さしておっしゃいました。「この子は私の腕の中でお漏らしをしたあの少年ではありませんか? 」神は数え切れないほど多くの方法で私たちを覚えていてくださるのです。

 ある時、スワミは蓮華の御足のもとに座っていた学生たちのグループに話しかけられました。
「皆さんは私を忘れてしまうかもしれません。しかし、私は皆さんを決して、決して、決して、忘れません」
 帰依者は神を忘れてしまうかもしれませんが、神は決して帰依者を忘れないのです。人が神を忘れない方法はいくつかあります。スワミがおっしゃっているように、カリの時代に最善の方法は神を想うことです。目の前に神がいらっしゃる時、私たちは神の御名を想うために神を見つめます。私たちは神の美しい御姿に魅了され、その美しい神の御名を唱えます。神が目の前にいらっしゃらない時は、神の御名だけが頼みの綱です。あるとき、スワミは学生たちと一緒におられました。スワミは一人の学生のノートを手にお取りになりました。最初のページを開くとその学生の名前が書いてありました。その名前の下に、学生は「S.S.S.大学」と書いていました。「なぜこのような省略形で書いたのですか? 君は私の名前が好きではないのですか? 」とスワミはご指摘になりました。いかなる時も神を忘れないように最大限努めましょう。なぜなら神はまさしく私たちの糧であり、支えであり、この世のすべてだからです。
ある時、スワミは次のようにおっしゃいました。
「人生で困難に見舞われたときは思い出しなさい。サイはあなたの盾であり、あなたの保護者です」

 皆さんはいつでもサイを頼ることができます。サイの御言葉は剣のようなものです。困難や問題に直面した時、もしスワミの御言葉を理解して、それをしっかりと守り実践するなら、あなたが人生で直面するあらゆる問題はばらばらに切り裂かれることでしょう。私たちの中にそのような神がいてくださるのですから、それを最大限に活用しましょう。そして、私たちの真の住処は神の蓮華の御足のもとにあることを理解しようではありませんか。

ジェイ サイ ラム

1996年7月29日

シュリ サンジェイ サハニ

出典:The Study Of Sathya Sai




(C) 2010 Sathya Sai Organization Japan