サイ クリシュナ

       

 ある意味で、この話は1975 年11月まで完結しませんでした。
何年も前のことになります。私はババの車に同乗していました。ババは後ろの座席に二人の人と一緒に座っておられました。私と運転手は前に座っていました。私たちはプッタパルティに向かう途中でした。ババの同乗者として一緒にドライブすることは魅惑的な体験です。ババの近くにいられるというわくわくする気持ちはもとより、時折ババは質問の機会さえも与えてくださるのです。時にババは、話し相手とテルグ語で活発な話のやりとりをなさいます。また、時に、私たちにはまったく見えない存在に注意を与えていると思われる、あの独特の手振りをしながら沈黙なさっていることもあります。そして多くの場合、ババは車の中で皆(カラスのような声をした私を除いて)に加わってバジャンのコーラスをお歌いになります。
 この心奪われる一切のおかげで、私の首は後ろの座席の様子を見ようとして絶えずねじ曲げられていました。ババは私の苦境を理解していましたが、やめるようにとはおっしゃいませんでした。ババは私に後ろを振り向く自由を与えてくださっていたのです。もちろん、私はずっと凝視していたわけではありません。できる限り長く見ては、前に向き直っていました。つまり、私がババを見るのは、後ろ、前、後ろ、前、と断続的なものだったのです。
 この旅の途中で、おそらく半分くらい来たところだったでしょうか、その時、ババは話をなさっており、私はババを見ようと後ろを振り返りました。私は息を呑み、唖然としました! 私は自分の目を信じることができませんでした。私はババの顔立ちに主として力と威厳を感じるのですが、帰依者たちは皆、当然のことながらババのお顔を美しいと思っています。その時、私の目が釘付けになり、息が止まりそうになったのは、それが、ババのお顔が――私の知っているババではなかったのです! 代わりに、そこには並外れて美しい顔がありました。それは私たちの最も愛するサイの顔立ちの特徴とは似ても似つかぬものでした。その魅力はあまりにも素晴らしく、私は肝を潰しました。生まれてこの方、写真でも、偉大な画家たちが描いた絵でも、これほどの究極の美は見たことがありませんでした。それは想像と概念を絶しており、完全に体験というものを超越していました。
 その上、肌は青い色をしていました。それは、ただの青ではなく、画家がシュリ クリシュナを描くような青ではなく、ときおり暗い空に見られるベルベットのブルーのような濃い青、ちょうど海岸から何千マイルも離れた太平洋上の船のデッキから、いつか私が見たようなあの青色だったのです。これ以外、どのように説明してよいのかわかりません。
 私はババの顔から目を逸らすことが出来ませんでした。やっと私は我に返って体の向きを変えました。しかし、すぐにまた振り向きました。同じ美が、確かにこの世のものではない美が、そのままそこにありました。それは少なくとも15分間続きました。ババと一緒に後ろに座っていた二人は、不思議そうな表情をして私を見はじめました。凝視する私の目が、二人の慣れ親しんでいた私の目とはまるで違っていたからです。何マイルか走ったところで、シュリ・ヴィッタラ・ラーオ(ババの右隣に座っていた男性)が私に尋ねました。
 「ヒスロップ! さっきはなぜ、あんなにじろじろスワミを見つめていたんだい? 」
 私は答える代わりにババに質問しました。
 「スワミ、あの青色は何だったのですか?」
 ババはお答えになりました。
 「ああ! あれですか? 何か底知れぬ深みのあるものが存在する時、それは濃い青色となって現れるのです」
これで、この出来事に関する会話は終わりになりました。
 当然、あれはクリシュナ神だったのだろうとの思いが心に浮かびましたが、その時も、またこの体験に関する他のどんな時も、私は決してババにシュリ クリシュナの名は口にしませんでした。

 1975年の11月までその問題は保留となりました。それは、御降誕祭のために群集が押し寄せ始める前のことでした。ババのスケジュールにはまだ余裕があり、ババは私をジープに同乗させたりといったようなことをなさっていました。そして、おそらく例の件のゆえに、私はあるインタビューに呼ばれました。ある軍人とその家族がアッサム州からやって来ました。その一家は帰依者でしたが、実際にババを見るのはこれが初めてでした。大抵、インタビューに与るまで何ヶ月も待つことが多いのですが、この一家は到着するとすぐに呼ばれました。私はマンディールのベランダに座っていて、一家がババの部屋に入るのを見ていました。一家が入るとすぐ、ババは私にも中へ入るよう合図をくださいました。
 それは母、父、息子、娘という一家でした。ババは、その一家に、大変愛情をこめて英語で話しかけられました。ババは一家の生活をすべてご存知で、それはババがその家族の親密な一員である証拠でした。
 しばらくすると、ババは私におっしゃいました。
 「ヒスロップ、彼らにあなたの体験をいくつか話してあげなさい」
 私はそれに応えていくつかの出来事を話した後に、今、このページに綴った話をしました。しかし、その時も私はシュリ クリシュナという名は口にしませんでした。男は深い感銘を受け、
 「おお! それはクリシュナ神に間違いありません! 」
という言葉が口をついて出ました。ババはにっこりと微笑んでおっしゃいました。
 「そうです、あれはクリシュナでした。画家が描いたり作家が想像したりしたクリシュナではありません。私はヒスロップに本物のクリシュナを見せたのです」
 その軍人は言いました。
 「ああ! 私はどんなにクリシュナ神を見たいことでしょう!」
 ババは再び笑っておっしゃいました。
 「待ちなさい、待ちなさい」

 この話には続きがあります。1ヶ月ほど後、私は12月に、ブリンダーヴァン(バンガロールのアシュラム)でババと話をしていて、過去の何人かの有名な聖賢やグル(導師)の名前をあげました。ババは各人について何らかの言及をなさいました。それから、私にある考えがひらめきました。それは、それらの偉大な聖賢たちについて知り、彼らから学ぶことは素晴らしいことには違いないけれども、現代はシュリ クリシュナの時代以来、初めて神ご自身をグルとして持つことのできる時である、というものです。そこで、私は言いました。
 「スワミ! クリシュナ神の時代から何千年・・・」
 ババは私が次を言う前に言葉をさえぎり、大声でおっしゃいました。
 「クリシュナの時代から? 私はクリシュナですよ! 時代などどこにありますか?」
 私は両手を合わせ、ババの御前にひざまずいて言いました。
 「なるほど、スワミジ、今は生まれるには最高の時代だということですね!」ババはお答えになりました。
 「そうです、すべての時代の中で最も幸運です。クリシュナ・アヴァターの時代よりも、今生まれるほうがさらに幸運なのです」

 以前あるとき、ババは私に聞こえるところで、ご自分はクリシュナ神であることを宣言なさいました。その話はこの本の他のページで詳しく述べました。それはボンベイのダルマクシェートラでのことで、ババと共にその部屋にいた私たち数名が目撃して心を奪われた「涙を流すサリー」という驚くべきドラマの一部としてなされました。注(※) これは、シュリ ラーマ アヴァターと、その後シュリ クリシュナ アヴァターの時代に起こったあの山〔ゴーヴァルダナ山〕の有名な話が、今日まさにこの部屋で再現されたに違いありません、と私は叫びました。
 ババは次のような確信に満ちた言葉でお答えになりました。
 「そうです。そして、今日ここにいるのは、そのときと全く同じラーマであり、全く同じクリシュナなのです!」

 直接の目撃者として、また観察者として、これまで私がこの本で述べてきたことを考えれば、私たちはクリシュナ アヴァターの素晴らしい時代に生きていた幸運な人々を、わずかなりとも羨望じみた思いを持って振り返って見る必要は全くありません。なぜなら、最も敬愛するサイを見る喜びを感じるとき、いつも私たちは、実に、シュリ クリシュナその人を直に見つめているのですから。
 時節が到来すれば、私たちの時代の豊富な体験は、サイ アヴァターの不思議な物語として語り継がれることになるでしょう。

出典:『My Baba and I』 ジョン.S.ヒスロップ著

※ 参照:『サティアサイババとの対話』P51~52



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