Special Interview  
 

サンドワイズ博士へのインタビュー

Part1

ワールドスペース「サイ・グローバル・ハーモニー」より

 
  Pink Line  
 

サミュエル サンドワイズ博士は、その著書"The Holy Man and the Psychiatrist"(『聖者と精神科医』)で知られています。この本は、多くの西洋人、特に医師たちに影響を与え、スワミの教えに向かわせました。「ラジオ サイ」は、先日のシヴァラートリー祭の期間にこのプラシャーンティ ニラヤムに滞在されたサンドワイズ博士にインタビューすることができましたので、その模様を皆さんにお届けしたいと思います。聞き手は、サイ大学(シュリ サティア サイ インスティテュート オブ ハイヤーラーニング)の前副学長、G.ヴェンカタラーマン教授です。インタビューは二部に分かれていますが、今回はその第1部をお聞きいただきたいと思います。


ヴェンカタラーマン:サイ ラム、サンドワイズ博士。ラジオ サイのスタジオへようこそおいでくださいました。さて、まずお聞きしたいのですが、このスタジオへおいでになって、どのようにお感じになりましたか? いつかこんなスタジオに来るというようなことを、一度でも想像なさったことがありましたか?

サンドワイズ:これは驚くべきことです。私たちはスワミのお姿を拝見するためにやって来て、スワミの偉大さを体験しながら、なおかつ、まだほんの少ししか人が集まっていなかった何年も前のころと同じような環境にいるわけですが、こうしたものが色々発展していくのを見るのは、実に驚くべきことです。ここの規模が拡大し、花開いて、近代的な装置がこういった神聖な仕事に使われているのを見るのはすばらしいことです。

ヴェンカタラーマン:実は私も、もし6ヶ月前に、誰かに「あなたはサンドワイズ教授にラジオのインタビューをすることになりますよ」と言われたとしたら、そんなことはとんでもない冗談だと思ったことでしょう。今、それが実際に起こっているのです。それに、ご存知ですか? ラジオ サイの放送は、プッタパルティから遠く離れたフィリピンまで届いており、間もなくヨーロッパやアフリカでも聴くことができるようになるのです。

サンドワイズ:それは驚きです。ぞくぞくしますね。

ヴェンカタラーマン:これは突然起こったのです。これがスワミのなさり方で…

サンドワイズ:ちょっと訂正させていただきたいのですが、私は実は教授ではありません。私はカリフォルニア大学サンディエゴ校の臨床の助教授です。おそらく、私は医者としてご紹介いただく方がよいでしょう。なぜなら、現在は教鞭を取ることは少ないからです。

ヴェンカタラーマン:分りました(笑)。でも、ご存知のように軍隊では誰もが将軍で…

サンドワイズ:分りました。(笑)どうぞ続けてください。

ヴェンカタラーマン:それでは博士をサムと呼ばせていただきましょうか。それも必要ないかもしれませんが。あなたは西洋出身で、学者です。あなたは医師で、精神科医として仕事をされ、たいへん由緒ある大学で教鞭をとっておられます。ほとんどの人が、博士はどうしてスワミのところへ来るようになったのかということを知りたがると思います。なぜなら、これは普通 の人々には考えられないことだからです。しかし、そういうことが実際に起きるのです。あなたの場合は、どのようにして起きたのですか?

サンドワイズ:ちょっとわき道にそれますが、私は自分のことを大学教師だとは考えません。私は学者のように何から何まで理詰めで考えるわけではありませんし、教鞭を取る時間もそれほど多くはありません。私は探求を好む、よく考える人間で、スワミについても、西洋の行動科学や精神医学とスワミとの関係についても、よく考えました。私は自分自身を大学教師だとは思っていません。どのようにして私がスワミの御教えを信じるようになったかですか? おそらく今の人生からそれを理解するのは難しいからなのでしょうが、私の前世でそのことが準備されていたと考えざるを得ません。なぜなら、私は今でも西洋文化から抜け出せないでいるからです…

ヴェンカタラーマン:そのように言った人は、あなたが初めてです。

サンドワイズ:うーん、それはおそらく、私自身、これからお話しするような考え方がよく理解されていない西洋の出身でありながら、なぜこんな幸運に恵まれたのか、自分でもよく理解できないからでしょう。西洋の精神医学でさえ、こういう考え方、すなわちヴェーダ哲学の考え方をするのは非常にまれなことです。そうですね…、しかし非常に早い時期から、私の中で、なぜ自分が生きているのか、なぜこんな世界が存在し、自分がこの並外れたゲームの中にいるのかというような、おおいなる探求が始まっていたように思うのです。私にはこうしたことが当たり前のことだとは思えず、いつも驚きを感じ、なぜだろうと不思議に思っていました。

ヴェンカタラーマン:それはサンドワイズさんがいくつくらいの時だったのですか?

サンドワイズ:とても早い時期だったと思います。11才か12才の頃、道を歩きながらそんなことを考えていたのを覚えています。

ヴェンカタラーマン:ほー、そんなに若い時から。それは非常に珍しいですね。

サンドワイズ:さあ、どうなのでしょう。子どもというのは…非常に無垢で、非常に純粋である可能性があり、早い時期にそんなことを考えるものなのです。しかし、教育を受けるに従ってそうした考えをもたなくなります。

ヴェンカタラーマン:おっしゃるとおりです。

サンドワイズ:ですから、人生の目的は何かというような一連の思いがあったので、自然に私は霊的な本や神秘的な本を読むようになりました。私は聖者や賢者や、彼らのもつ一般 的な世俗の知識を越えたレベルの知識にたいへん興味がありました。私の家系は皆医者で、医者になるのが我が家の伝統でした。おそらく私が生まれた日に、私は父から「お前は医者になるのだ」と言われたのでしょう。私は医学を専攻し、霊的な事柄を考えることができる一番近い分野を見つけました。それが精神医学でした。そして精神科医として9年間働いた後に、精神医学の分野には、自分の疑問に対する答えがないことが分ったのです。そこで私は、人々に「今までに、奇跡を見たことがありますか?」という質問をし始めました。私は、そのような質問をいつから始めたかということまで覚えています。というのも、私はそれまで多くの知識人と一緒にいて、さまざまな理論や概念をたくさん聞かされて、そういったものにはどうしても納得がいかないと思うようになっていたからです。私は、誰かもっと高いレベルのことを何か知っていて、何かを物質化させるようなことによって、そういう知識をもっていることを示すことのできるような人はいないのだろうかと考え始めていました。私はそんな風に考えていたのです。

ヴェンカタラーマン:ということは、奇跡が起きる可能性があると思っていたのですか? あなたは、大学で教育を受けた多くの人々のように、「『奇跡など不可能だ』と考えるのが当たり前だ」とは思っていなかったのですね。

サンドワイズ:そうですねぇ、それは私が…学校に行っている期間中ずっと、さまざまな神秘主義の本を読んでいたからです。ユダヤ教的神秘主義や禅の書物、第六感を備え、そういう類の逸話をもった、禅を極めた剣豪の話とか…。彼らは一方の足をこの世に着け、もう一方の足を別 の次元に着けていて、見えないものを見たり経験したりすることができ、おおいなる知恵をもっているわけです。時間を超越した理解のレベルが存在し、それは無限であって、私たちを非常に高い状態にまで高めてくれるとか、私たちは西洋の視点で考えるよりもはるかに高いレベルの存在であるとか、私たちは何らかの意味で神のごとき存在なのだという考え方は、私を高揚させてくれました。ですから、私はつねに探し求めていました。でも、もし、医科大の教授に対して、あるいは精神科で研修医として働いていたときに、私がこんなことを考えていると言ったらどうなったでしょう? 実際、ある時、ちょっと口を滑らせてしまいました。それは、催眠術や通 常以外の意識レベルに興味をもっていると言ったのですが、彼らがひどく真剣な顔で私を見たので、私は精神状態の検査に送られるのではないかと思ったほどです(笑)。ですから、こういった質問をすることはやめました。しかし、卒業すると実験してみました。私は、霊的な療法とはどんなものだろう、自分たちが行っている昔ながらの方法以外にどのような療法があるのだろうと考えました。最終的に…私は自分を批判して、「あなたは奇跡を見たことがありますか?」という単純な問いかけをし始めました。私たちの理解を超えたものが真実です。それから二、三週間の内に、サイババのことを聞きました。そして、二ヵ月も経たないうちに、私はインドにいました。

ヴェンカタラーマン:それはとても速く起きたのですね。何年のことですか。

サンドワイズ:1972年の5月でした。

ヴェンカタラーマン:よく覚えていますね。

サンドワイズ:ええ。

ヴェンカタラーマン:1972年の5月ということは、インドに滞在するにはどちらかというと厳しい季節です。

サンドワイズ:そうですね、西洋の精神科医にとって、厳しい理由はさまざまでした。こちらに来るとき、スワミの帰依者たちはスワミが私を呼んでいるのだと言っていました。

ヴェンカタラーマン:それを信じましたか?

サンドワイズ:もちろん信じていませんでした。その当時私は、そんな考えは狂った考え方だと思っていました。なぜなら、非現実的な別 次元の世界があると考える偏執症の患者からしか、そのような考えを聞いたことがなかったからです。そして、私は見知らぬ 国にやってきて…もちろん、私はそれまで何度も旅行をしたことがありましたし、そのときのインドへの旅はワクワクするものでした。でも、かなりショックを受けました。

ヴェンカタラーマン:そしてスワミに会ったとき、しばらく待った後で奇跡を見たのですね。

サンドワイズ:しばらく待った後で見たのではありません。私がボンベイに到着して、スワミは大きなスタジアムでダルシャンを与えることになっていました。一人の帰依者が私をボンベイの郊外に招待してくれました。そこでお茶を飲んで休憩した後に、タクシーでスタジアムに向かう予定でした。そこでしばらく休んだ後、出発するために立ち上がって、私がその小さいアパートの建物を出ようとした時、スワミが私とすれ違いで、その建物の中へ入っていったのです。その建物は9階建てのアパートでした。

ヴェンカタラーマン:ほう! スワミがそのビルに来られたのですか?

サンドワイズ:スワミはまさにそのビルに来られたのです。それはボンベイ市内からかなり外れた郊外にありました。ご存知のように、私はスワミを疑っていました。私は帰依者ではありませんでしたし、とても詮索好きの精神医で、ボンベイ市内から遠く離れた郊外の小さなアパートを出るところだったのです。ボンベイはとても大きな町です。ですから、そのような形でスワミを通 り過ぎるのは、そんなに時間を計ったようなタイミングで、スワミをよく見もせずに通 り過ぎるのは…スワミはただ私とすれ違って、その建物に入っていきました。私は回れ右をして、スワミの後を追って気が狂ったように走り出しました。しかも、私は帰依者ですらなかったのです。でも私は、スワミがそういう形で私の信念系統を揺さぶったので、「何ということだ! 本当に私をスワミのところへ連れてきたのはスワミじゃないだろうか?」と考えることができたのだということが分かりました。どうして、このような形の偶然の出会いが起きることなどあり得るでしょうか? 私の人生の中でこんなことが起きたのは、後にも先にもこの時だけです。

ヴェンカタラーマン:ところで、スワミが「偶然の出来事」について何とおっしゃっているかご存知ですか? スワミは、「『偶然』の出来事は、私が自分の姿が見えないようにして仕組んだ奇跡である」とおっしゃっています。(笑)どうぞ続けてください。

サンドワイズ:でも、この場合は、スワミはご自身を隠されなかった偶然の出来事です。スワミはまさにそこにおられ、私をそのことにすっかり心を奪われてしまいました。私はスワミを初めて見ましたが、特に何も感じませんでした。スワミは人間にしか見えず、比較的小柄で、そして人々はそれはもうたいへん尊敬し、崇めていました。それが私の初めての接触でした。私はスタジアムへ遅れて着いたので、スタジアムの外にいました。そこは身動きができないくらい人が一杯でした。スワミはずっと遠くのスタジアムの中央にいましたが、私の方に向かってゆっくり歩いて来られて、私から5、6メートルのところまで来て、このような状態でただ立っておられました。そのとき私は、何ということだ、これもまためったにない出来事だと思いました。そんな風にして、スワミは私に予行演習を与えていらっしゃったのです。そのとき以来、たくさんのことがありました。私は奇跡を見たかったのです。そして物質化の瞬間を見ることができました。私は、スワミが私に見せるためにそうしてくださったことが分かりました。至近距離からそれを見ることができました。私は、スワミが初めて夏期講習を開催されたときにやって来ました。それは第一回目の夏期講習で、ブリンダーヴァンで行われました。今はトライー ブリンダーヴァンで行われていますが、当時は古い建物の裏手で行われていました。その建物はシュロの葉を葺いた屋根で、屋根の上をサルが飛び回っている、といった状態でした。スワミがその夏期講習会で私に教えてくださった最初の教訓は、これだと思います。私は座って観察していました。そのとき、8年ほど前からスワミのところに来ていた人と一緒でした。彼は、そこで起きていることを説明してくれていました。それで、私たちはそうやって座っていましたが、それは暑いときでした。彼は、前の椅子に足を上げて、こういう具合に背もたれに身体を預けていました。すると突然、彼の椅子に誰かの足が乗ってきて、彼の椅子がこんな風に前後に揺さぶられるのが分かりました。振り向いてみると、後ろの椅子に座っているのはスワミでした。そうやってスワミは、私の隣の人の前に座っている人がどんな風に感じるのかを教えてくれたのです。それが、私がスワミから教わった最初の教訓でした。スワミが私たちに、「他からしてもらいたいことを、他に対してしなさい」ということを教えようとしていらっしゃると知って、本当に感動しました。そして、そうですね…私は、スワミに夢中になりました。私はスワミと一緒に昼食をとりました。スワミは全員に給仕なさいました。スワミは、何の気取りもなく、実に慎ましやかに給仕をなさいました。とても親密な感じで、スワミは生き生きとしており、本当に慎ましやかに、召し使いに徹していらっしゃいました。スワミが全員に給仕をなさったときの様子が、いつまでも心に残りました。そしてあるとき、私はスワミが本当に言いたいことに耳を傾け始めました。これは、本当に私がスワミから教わって、自分の仕事に応用していることの核心のようなものです。スワミはサイ大学の学生たちに、価値観の大切さや、単純で親切で謙虚であることの大切さについて話していました。「謙虚で、誰にも害を及ぼさず、正しい生き方をして、寛大でありなさい。見栄を張らず、欲望の束縛から自由になりなさい」。ご存知のように、それが、スワミが若い学生たちに教えていたことの核心なのです」。

ヴェンカタラーマン:それに感動したのですね。

サンドワイズ:いいえ、感動しませんでした。私はそれを聞いて憤慨したのです。私は若い精神科医で、衝動や興味や欲望をすべて十分に体験することこそが充実した生き方だと考えていました。そういうものをすべて満たし、満足させることだと考えていました。ですから、こんなことを話す人の言葉を聞いて、ひどく抑圧的でがんじがらめの17世紀の思想のように聞こえました。そして、私はそれを聞いて、非常に憤慨したのです。

ヴェンカタラーマン:それは不自然な自己否定のように聞こえたのですね。

サンドワイズ:そのとおりです。そして、ただとても単純なことを説教している人物だと思いました。私は遠くからはるばるやってきたのに…ただ単に、良くありなさい、善人であるように努めなさい、流行に捕らわれないようにしなさい、髪やヒゲを長く伸ばしたり、タイトパンツを履かないようにしなさい、などという話を聞かされるのです。ただ、シンプルで謙虚な良い人間でありなさいとね。ですから私は、これはなんという単純な考えなのだろうと思いました。私はもっととても複雑で洗練されている何かを聞きたいと思いました。それでつまり、私はとても気分を害して、ここを去りたくなりました。そういうわけで、私はスワミから少し離れた所にいました。私たちの間は何枚もの壁で隔てられており、スワミは、明らかにスワミの言っていることが好きで、スワミの近くにいたいと願う人たちに囲まれていました。私は、もうここを出なければならないと考えていました。すると、いつの間にか輝く瞳のスワミが、今まで見たこともないような微笑をたたえて私の目の前にいたのです。それは私を完全にとりこにしました。

ヴェンカタラーマン:私は、「誰もスワミのように微笑むことはできない」と誰かが言ったのを聞いたことがあります。本当にそのとおりですね。

サンドワイズ:本当に、誰も…それを言葉で言い表すことはできません。なぜなら、人間ではないのですから。深く大きな愛に満ちていて、それに飲み込まれてしまうのです。突然、その微笑に我を忘れてしまうのです。

ヴェンカタラーマン:あなたはスワミの微笑みに我を忘れてしまったのですね。

サンドワイズ:我を忘れました。スワミはお菓子を二個くださり、「お菓子だよ、食べなさい!」とおっしゃいました。そして、私はすべての問題が解けてしまうのを感じました。私たちの感情の全系統を支配する霊的なレベルがあるのだと、私はその時理解しました。感情や悲しみや痛みや憤慨や失望等々、私たちが考えている感情は洗い流すことが可能なのです。それはあっという間に洗い流されてしまいました。スワミの微笑みを見ただけでそれが起きたのです。そのとき私が分かったのは…

ヴェンカタラーマン:その瞬間にそう感じたのですか?

サンドワイズ:そのことには、今になっても驚いています。精神医として私は、「今までの苦悩や不安の感情はどうしたんだ? 私はそれを、ほとんど誇りにさえ思っていたのに?」と思いました。分かるでしょう? 「おお神よ、私の苦悩は何と大きいのでしょう、あまりにも惨めです」(と、悲劇の主人公役に陶酔するわけです)。しかし、そんな感情は1秒で完全に…そして、子どものようにクックッと笑いがこみ上げてきました。まるで子犬のようなものです。それからというもの、私は、スワミに可愛がってほしくて、スワミの後をほえながら追いかけているというわけです。

ヴェンカタラーマン:ここで専門家としてのお話をうかがいたいと思います。実は、このことについてはまた別 の機会にもっとお話しできればと思っています。あなたはプッタパルティにしばしばおいでになりますからね。これは、人間のマインドに関連することで、お分かりのようにこの質問は誰にでもできる質問ではありませんし、あなたのように西洋的概念を知っている上、人間の心に関するスワミの教えに接している人はごくわずかしかいません。私の質問というのは…その2つのものの間に矛盾があるか、それとも部分的に重なるとお考えですか? これをどうとらえておいでですか?

サンドワイズ:そうですね、心に関する2つの考え方は…。一般 的に心を内なる道具として捉えるヴェーダ的な考え方と、心に関する西洋の考え方には多くの点でたいへんよく似ています。欲望があり、感情があり、思いがあり、理知的な思考能力、分析能力、問題解決の能力などがあります。

ヴェンカタラーマン:いいえ、それは機能としての側面 です。心に関して、西洋哲学が、東洋哲学とは異なる特別な役割をもっているかどうかということを話してください。東洋哲学では心とは、特定の目的のために神が人間に与えた道具であると考えますよね…西洋哲学にはそのようなとらえ方がありますか?

サンドワイズ:そうですね、私の考えでは、両者の違いは、西洋では人間は心と体であると考える点だと思います。つまり、あなたという人間は心と体であると考えられているわけです。人間は心でも体でもないという考えは、常軌を逸しており、ほとんど狂人的な考えです。しかし東洋では、私たちは心でも体でもなく、スワミやヴェーダンタ哲学で明確に定義されている、より高い心のレベルがあると考えます。たとえば、高次の識別 心とか、良心というものが存在すると考えるわけです。実際私は、スワミが良心とは何かを示す図に、私たちの注意をひきつけたことにたいへん興味を覚えました。ウパニシャッドの一つにこう書かれていると言って、スワミが引用されたと思うのですが、良心を構成しているものは、信仰と、ヨーガ、すなわちバランスもしくは感覚のコントロール、真理、リタム、すなわちバランス、思いと言葉と行動の一致であるとおっしゃって、その後で「タット トワム アシ」すなわち、私とそれ(神)は一つである、私は神である、という言葉を説明してくださいました。良心はこれらの要素によって構成されており、信仰がその重要な部分を占めていて、感覚のコントロールとバランスと真実も大切だというような考え方は、西洋にはまったく欠落しています。そして、識別 力(ブッディ)が、つまり良心が崇高なものとして定義され、それが純化されると、そのとき、アートマから発せられる光を見ることができるのです。つまり、良心はアートマを見ることができるのです。ところで、西洋においては、アートマがどのようなものかということについても、私たちが実は神聖な存在であるということも、私たちは何も知りません。・・・また、心に関する最も重要な側面 の一つは、私たちが本当の自分を認識する過程において、心そのものが障害物になり得るということですが、西洋にはそのことに関する知識もありません。

ヴェンカタラーマン:その点に関して、いくつか質問をさせてください。たとえば、「良心」という言葉は、特に西洋人の良心という意味ではありません。西洋の人々は、「私は自分の良心に従います」という表現を使います。また人々は、人間の魂や精神について、とりわけ冒険や不可能なことを成し遂げることに関連づけて語ります。ですから、おそらく、ブッディ(識別 力・良心)とアートマ(真我)は、西洋の人々に知られてはいるのでしょうけれども、しかし、何か別 な言葉で認識されていて、またその認識の深さも違うのかもしれません。結局のところ、シェイクスピアが「なかんずく、汝自身に対して真実であれ」と言ったことを思い出すわけです。つまりシェイクスピアは、おそらく無意識のうちに、人間の内部のどこかに真の自己が存在していることに気づいていたのでしょう。そうは思われませんか?

サンドワイズ:そうですね、そのとおりです。そして、神秘家や芸術家たちは、直観的にそれを理解するのでしょう。しかし、冷酷で無情な精神医学という科学は…

ヴェンカタラーマン:あなたが何をおっしゃっているのか、分かります…

サンドワイズ:精神医学は、それ(良心や真我)を定義していないのです。また、魂という考え方、つまり、私たちの内に霊や魂が存在するということも定義していません。私は、今までに一度も見たことがありません…

ヴェンカタラーマン:そうですね、思い出したのですが、「心は、肉でできた機械である」と言ったのは、たしかワトソンだったと思います。おそらく、この表現は、実に明快な表現だと思うのですが。

サンドワイズ:そうですね。西洋では、心は、身体と非常に大きな関連があるとされています。ですから、身体と心は、相互に織り込まれていると考えられているのです。しかし、私たちの本当のアイデンティティは、神聖なものです。私が初めてスワミと接したとき、スワミは少なくとも、私たちが西洋的な定義によって理解していたものをはるかに超越した、何らかの広がりをもっていらっしゃるのだということが、非常に明確になりました。

ヴェンカタラーマン:このように言い換えてもよいでしょうか? つまり、西洋の冷酷で非情な科学者や知識人たちは、ある枠組みから踏み出すことをしないのです。神秘主義者は、おそらく心を理解し、心が何か神聖な意味合いをもつものであると理解しています。そして、スワミは心を、アートマ(すなわち宇宙意識)の派生物であるとおっしゃっています。ですから、スワミは、心について詳述され、心についてよく話をされるのです。このように、言い換えてもいいでしょうか?

サンドワイズ:そうですね、そのように言うことができます。霊性と精神医学を統合しようと試みることに興味をもつ心理学者や精神医学者は大勢います。ですから、多くの人々が、このように考えているのです。

ヴェンカタラーマン:心理学者や精神医学者たちが、霊性と精神医学を統合したいと考えていると言われましたが、その場合、霊性の定義とはどのようなものなのでしょうか?

サンドワイズ:そうですね、私たちが理解している「心」というものを超越する何かが存在するということ、つまり、高尚な存在というか、直観とか、多分、人間の神聖な本質なのでしょうが、ブッダやキリストのような偉大な人物による偉大な知識は、精神医学から、一般 的な情報へと統合されるべきです。私は精神医学を学んでいたとき、どうしてイエスやブッダや偉大な聖人の教えを取り入れないのか、なぜ私たちは霊性と精神医学との関係を理解しようと努力しないのかと考えて、人々に尋ねました。しかし、どういうわけか、人々にはそれほどの関心がなかったのです。しかし現在では、多くの分野と、精神医学や心理学のさまざまな部門に、このことに興味をもち、これを統合しようとしている人々がいます。

ヴェンカタラーマン:それは、学問的な興味なのでしょうか? それとも、精神的な病気を治療する上での新しい手法を開発することへの興味なのでしょうか?

サンドワイズ:そうですね、後者だと思います。ヨーガに興味を持つ人々がいます。ハタ・ヨーガ(*1)がこのこととどのような関係があるのか? パタンジャリの8つの段階(*2)はこれとどのような関係があるのか? 慈善行為はこれとどのような関係があるのか? 彼らは、高い段階の意識に到達するための霊的な技術と、精神の苦悶を抱える人々を救うための西洋的な技術とを統合しようとしているのです。

ヴェンカタラーマン:率直な質問をしたいと思います。先生は、ご自分の患者さんを治療なさるとき、スワミの御教えをお使いになることがありますか? もし、お使いになるのでしたら、どんな風にお使いになりますか?

サンドワイズ:すばらしいご質問ですね。私たちがひとたびスワミにお会いすれば、非常に深い探求が始まります。つまり、スワミとの出会いは私の人生にどんな関係があるか? また私はそれをどのような形で表現しているか? という探求です。なぜなら、人は、いったんスワミのような何かを見たり、経験したりすれば、それを忘れることはないからです。ですからもちろん私も、どのようにこの経験を自分の生き方に織り込んでいくかということについて、何度もよく考えました。私は非常に簡単に見えるけれども、明らかに非常に重要なことから取り組みを始めました。それは、親切な人間になって、他者を尊敬することです。私にとって、他者の内にスワミを見、他者に内在するスワミを尊重するという霊的テクニックが大切で、それをもとに、実際に彼らの言葉を聞き、その人がどのように人生を送っているのかを見、彼らが自分たちの義務の遂行において、価値観を実践しているのかを見るわけです。ただ、基本的なことだけを見るのです。というのも、スワミの教えには多くの異なったレベルが存在するからです。それは非常に複雑で、非常に難解です。でも、スワミは繰り返し繰り返し、何年も何年も、サティア、ダルマ、シャーンティ、プレーマ、アヒムサ、真理、正義、平和、愛、非暴力という基本的なレベルを説いてこられました。私たちは、基本的によい人間であるかどうか?ということについてです。本当に、何度も繰り返してその点を強調して私たちに教えてこられて、飽きることがありません。そして、私たちはそれを聞いていながら、その場を離れると次の瞬間にはそれと反対の行動をしてしまいます。ですから、いつになったら私たちは、スワミの言葉をよく聞いてそれを学ぶことができるのでしょう?たとえば、とても簡単な教えでも…。私には、非常に野蛮で、言葉遣いが悪く、威圧的に行動し、家では何人もの男性と同棲している、ひどい生活をしている患者がいました。

ヴェンカタラーマン:その女性は、ちゃんとした教育を受けた人ですか?

サンドワイズ:彼女はかなりの教育を受けた人で、看護婦でした。しかし、まるで悪魔のレベルまで堕落してしまっていたように見受けられました。彼女は、多くの精神的・身体的な問題を抱えており、あらゆる信仰と希望を失っていたかのようでした。そして、いつも悪態ばかりついていました。本当にひどいありさまでしたので、私が彼女に最初に言ったのは、「ここでは、そんな話し方をしてはいけません。相手を敬って話をしなければなりません」ということでした。すると彼女は、「先生、あなたは、精神科医です。私の父親ではありませんよ」と言ったのです。そこで私は言いました。「父親であろうと、母親であろうと、何でもかまいません。とにかく、それはあなたにとってよくないことです。実際、そのような話し方をするのは、あなたにとってとてもよくないことです。よい言葉を話すことが、非常に大切なのです。よい言葉は、心をコントロールし、私たちを優れた良心に結びつけ、人生に対する深い敬意をもつ生き方に結びつけてくれます。ですから、ここでは、感じのよい話し方をしなければなりません」。彼女は、「ごめんなさい。私は、今まで一度もそんな風に言われたことがありませんでした」と言いました。私は言いました。「いつでもここを出て行っていいですよ。ここにいる必要はないのです。しかし、もし、ここにいるのであれば、感じのよい言葉を使わなければなりません」というわけで、私たちは「よい言葉を使わなければならない」という約束をしました。ですから彼女はよい話し方をするようになりました。そうです、彼女は神様を呪うような言葉は言わなくなったのです。もし彼女が神様を呪うような言葉を口にするようなことがあれば、私は、「そのことは話したでしょう。そんな話し方をしてはいけませんよ」と言います。すると彼女は、「私が飲んでいた薬のせいであんな話し方をしたんだと思うわ。なぜって、その薬を飲むのをやめたら、すぐに少し話し方がよくなってきたから」と答えました。ただ、彼女は「少なくともいい話し方をしなさい、もう少し敬意を込めて話すようにしなさいと教えてくれてありがとう、先生」と、お礼を言うことはできませんでした。お分かりでしょう。こんな簡単なことに非常に深い意味があるのです。私たちはありとあらゆる高度なテクニックについて考えます。確かに高度のテクニック、瞑想のテクニックと言うものが存在します。しかし、私はかつて、スワミが「ある人が私のところに来て『50年間瞑想をしましたが、何の変化も感じません』と言いました」とおっしゃっているのを読んだことがあります。私は「その人は何という無駄 なことをしたのだ。彼はいったい何を言っているのだろう」と思いました。とにかく、人は一足飛びに高尚な瞑想ができるようにはなりません。まず、どうすれば立派な価値観を身につけることができるかを知らなければなりません。感覚のコントロールができなければなりません。そして、静かに座ることができなければなりませんし、呼吸に意識を集中することもできなければなりません。

ヴェンカタラーマン:パタンジャリのヨーガ(*3)の考え方ですね…

サンドワイズ:はい、ですから、一足飛びに第八段階(*4)に進んではなりません。

ヴェンカタラーマン:先ほどお話の、先生が「よい言葉を話す」ことを教えようとした女性についてですが、彼女はその後、状態はよくなったのでしょうか。

サンドワイズ:まだあまり時間が経っていないのです。改善した点は、彼女が以前のようなひどい話し方はしなくなったことです。彼女が診療所に来ているときは、ある程度の敬意を示します。たとえばまた別 な話ですが、看護婦をしているもう一人の女性がいて、私の診療所に通っているんですが、彼女は心を傷つけられた経験をもち、そのため体中にさまざまな痛みを抱えるようになりました。それ以来、生きていても無意味だと思うようになったのです。彼女は、診療所にやって来て、次から次へと、いつまでも不満を並べ続けるだけでした。そして、私が彼女と争うつもりがないということに彼女が気づいたあと、私が彼女に対して敬意と好意を感じているということを示す時間が必要でした。相手を尊重し、相手の言葉に耳を傾けるということは、非常に大切なスワミの御教えであるのです。彼女は、非常に多くの治療法を試みて、ひどく薬づけになっていたので、私は「今まで、人生において、宗教的な感情や、霊的な感情をもったことがありますか?」と尋ねました。彼女は、こういった風に育てられたと言いました。そこで私は「自宅に小さな祭壇がありますか?」と尋ねました。それは、ちょっとしたことを意識させるためです。ほんのちょっとした意識です。そういった、本当に簡単なことです。この世は、暗いことで満ちていますので、こうしたことにちょっと注意を向けさせるだけでよかったのです。すると彼女は、「いいえ、持っていません。先生は、お家に祭壇をお持ちですか?」と言って、初めて私に質問しました。というのも、それまで彼女は、不平ばかりいっており、自分のことしか考えていなかったからです。私は、「ええ、ここにも祭壇を持っていますよ」と答えました。彼女が「それはどこにあるんですか?」と聞きましたので、「この像が見えますか?これは、ヴィシュヌという名前の神様の像で、私たちを守ってくださる方です。私は、この像を見ると、神様の守護する力を思い、神様に、私たちを守護してください、安全に守ってくださいと祈るのです」と答えました。このとき初めて彼女は、私に穏やかなことを言わせたのです。そして、彼女は祭壇はどのように作ればいいのか、どこに作ればいいのか、祭壇には何を置けばいいのかなどと尋ね始めたのです。彼女は、心身ともに非常に健康を損ねていたのですが、霊性はこのようにして… 私は、あるとき、心理学者が書いた文章を読んだことがあるんですが、その人の名前は、今思い出せません。何らかの痛みで苦しんでいる人々は、霊的な経験をするというんです。そして奇妙なことに、人間関係がうまくいかずに、それが心につきまとって、重度の神経症に陥っている人の多くが、正真正銘の霊的な体験をするそうです。虐げられ、苦しんでいる人々が体験するある種の経験は、本物の霊的経験であると、精神科医でさえも考える傾向にあります。彼らは、「神の愛は、非常に親切で温かくて大きいので、神ご自身が苦しむ人々のところにやってくる」と聞かされているので、そうした体験をするのでしょう。

ヴェンカタラーマン:先生が彼女に対して、親切に、温かく話しかけたことが、彼女がよい方向へ向かうきっかけとなったのでしょうか?

サンドワイズ:私はこのとき、初めて、ヴィシュヌ神について話すことを通 して生まれる「愛」という経験を感じることができました。彼女がその「神の愛」を受け取っているのを、私は感じることができたのです。ですから、時々、人々は言うのです…

ヴェンカタラーマン:これこそが、スワミの御教えである「すべてを愛せよ」ということなのですね。

サンドワイズ:「すべてを愛し、すべてに仕えなさい」という教えですね。そして、これは、非常にかすかな形でやってくるのです。本当にかすかな形で。

ヴェンカタラーマン:そこで、お尋ねしたいのですが、実に「すべてを愛し、すべてに仕える」というのが最善の方法であるとき、もし先生が、この方法を使わずに、西洋の精神科医の標準的な専門医のやり方で患者に接していたとすれば、どのようにして彼女に対処していたでしょうか? 私はただ、ごく単純で美しい「人々に対する関わり方」と、複雑で入り組んだ専門的なやり方との大きな違いを知りたいだけなのです。

サンドワイズ:さあ、よく分かりません。私たちは…

ヴェンカタラーマン:先生ご自身ではなく、たとえばその患者さんが、先生以外の精神科医を訪れたとしましょう。その担当医師は、彼女をどのように扱うと思いますか?

サンドワイズ:まず、心に病をもつこれらすべての人が人間であることを忘れてはなりません。彼らは、普通 と違うところがありますが、善良な人々ですし、彼らのいかに多くが、人生を探求しているのかということに驚かされます。彼らは、正直な自分を追及しようとまじめに努力しています。心と心のふれあいの中で、さまざまな「見せかけ」を取り除こうとするわけです。精神医学者たちは、彼らと話をしようと試みます。実際、精神医学者たちは、患者に誠実に接しようとしています。私は、これを…

ヴェンカタラーマン:彼らは、直観的にそうするのです。ところが、先生は、スワミ御自身による直接の御教えと経験に基づいてそうなさったのですね。

サンドワイズ:それは、生き方の問題です。ですから、方法論ではありません。私たちは、ただ(患者という名の)一人の人物に話しかけようとして、正直な本心の部分に到達しようと試みているだけなのです。以前あなたから「大学で教えているとき、生徒たちは他者が見ている前で話し合いを始めると、ちょっと正直ではなくなって、ロボットのようになってしまうといった状況が起きる」という話をお聞きしたことがあります。ですから、問題は、いかにして本当の姿を出して見せかけを取り除くか、いかにして(思考による操作の加わっていない)「子ども」の部分を…私たちすべてが、たとえ高い理想や、概念、理論を抱いていても、私たちが本当にこのことに直面 してみると、私たちは誰もが子どもであり、私たちが互いに分かち合う根本的な「愛」は、実に大きな可能性をもっています。人々に対して、無邪気にその愛を分かち合うのです。セラピストが、トラウマによるストレスに苦しむ人々をどのように扱うのかについてですが、この女性患者は、トラウマによるストレスに悩んでいたので、セラピストは、心の傷になったのはどのような経験だったのかについて話して、あれやこれやのつらい感情を和らげようとするかもしれません。またセラピストはその患者に、さまざまな活動に対して、もっと十分に関わることや、ストレスを軽減する方法について学ぶことを勧めるかもしれません。これらのストレスの軽減方法のいくつかは、スワミの御教えによく似ています。つまり、呼吸や、思いや、思考を整えるのです。これらの多くは、精神科のセラピーに組み込まれており…

ヴェンカタラーマン:でも、スワミの御教えが、精神医学を正しい枠組みと展望の中に組み込むのです。

サンドワイズ:スワミの御教えによって、私たちは、目の前にあることすべてが、私たち自身の反映であることに気づきます。つまり、私たちが実践しようと努力しているのは、何か自分の嫌いなものがあれば、自分がオープンで正直になることができるように、自分の中から嫌う心を解き放とうと努めることです。また、自分が好きなことがあれば、好きだと思う心を解き放って相手の気持ちになろうと努めます。このようなやり方で自分と相手は一つであることに気づくのです。そして、その痛みが何かを理解し、それを解き放つように努めます。また、それを相手と共に経験するように努め、またそれを自分の中から解き放っていくのです。これは抽象的な言い方ですが、私たちがスワミとともにいれば、スワミはさまざまな感覚や欲望や思いに対処する特定の方法を、私たちに教えてくださいます。その結果 、私たちは、誰か他の人と一緒にいるときは、自分を空にして相手を深く尊重することを実践しようと努めるのです。もし、何かそれを邪魔するものがあれば、心の奥にあるそのような障害物を私たちの中から引き出してくださったのは、他者の姿をしたスワミであり、私たちは、その邪魔者を解き放つ努力をするわけです。そして、もし、私たちが、他者に語ることを実行しているならば、その人を教化することになるのです。彼らは、あまり興奮しないようにすることや、あまり自分を殺し過ぎないようにすることを、また、他者を深く尊重することを、私たちの示す手本を見て学ばなければなりません。

ヴェンカタラーマン:では、スワミは、あなたのお仕事の専門分野でもあなたを助けてくださっているとおっしゃるわけですね?

サンドワイズ:ええ、スワミは助けてくださっています。ただ助けてくださるだけではなく、スワミは私の人生のあらゆる側面 にほかならないのです。

ヴェンカタラーマン:先生は、日常生活のなかで、そのことに気づいていらっしゃるのですね?

サンドワイズ:それは、完全に…。精神医学の分野で私が学んだすべてのことは、スワミの御教えを実践することや、それを実践する努力をすることを通 じて学んだことなのです。スワミは、私たちにすべてを与えてくださいます。

以上は、サミュエル・サンドワイス博士が、最近このスタジオにお見えになったときのインタビューです。聞き手はヴェンカタラーマン教授でした。

 

訳注:
*1:ハタ・ヨーガ:ヨーガの一種で、神と合一し肉体を霊的に完成させる目的をもつ。
*2:パタンジャリの8つの段階:ヨーガ・スートラの思想の中心となる8部門(asta-anga)体系であり、(1)禁戒(yama)、(2)勧戒(niyama)、(3)座法(asana)(4)調気法(じょうきほう)(pranayama)、(5)制感(pratyahara)(6)凝念(ぎょうねん)(dharana)(7)静虜(じょうりょ)(dhyana)、(8)三昧(さんまい)(samadhi)の8種の行法をいう。8つ目が最終の段階。
*3:パタンジャリのヨーガ:パタンジャリの著わしたとされるヨーガ・スートラに詳しく説明されている。ヨーガ・スートラはヨーガの正当派であったサーンキャ・ヨーガ派の伝統の本典として編まれたものとして知られる。
*4:第八段階:三昧(さんまい)(samadhi)の段階をいう。

 

ディクテーション:Avni Kaushal
翻訳:サティア サイ 出版協会

 

 
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