・ババの御教え・
イシユワランマデー
今日はイシュワランマの日です。この日の意義は、それが子供の日として祝われるところにあります。この日は、小さな子供たちに理想について考えさせるべき日であり、イシュワランマがその理想を示した日であります。誰も死を免れることはできませんが、すべての人は死を迎えた瞬間に神を想うか、神聖な想いを心に抱くように目指さなければなりません。この日の大切さは、多くの人々が知っています。テルグ語の諺に『善人の証は、彼らの死に方である』というものがあります。死を迎えた時には、純粋な帰依心がはっきりと見られます。次にイシュワランマの善良さを示す小さな出来事を話しましょう。
バンガロールでは、夏季講習が行われていました。午前七時には学生たちに朝食を出さなければなりませんでした。学生たちはナガラサンキールタン(隊列を組んでバジャンを歌いながら歩くこと)に出かけて六時に帰って来ました。私は彼らがナガラサンキールタンを終えた時にダルシャンを与えました。その後、私は水浴に行きました。一方、イシュワランマは水浴を済ませ、いつもの通り朝のコーヒーを楽しく飲み終えて、館内のベランダに座っていました。すると突然彼女は浴室の方に向かって歩きだして「スワミ、スワミ、スワミ!」と叫びました。これを聞いて私は、「今、行きます」と答えました。その短い間に彼女は息を引き取ったのです。彼女の善良さを示すのに、これより偉大な徴があるでしょうか?彼女は世話人も看護人も必要としませんでした。息を引き取る間際に私のことを想う人はごく稀です。通常心は、宝石や、その他の貴重品か何かを求めて、その品物のことを思います。彼女は一階から「スワミ!スワミ!」と私を呼び、私は「今、行きます」と答えました。そして彼女は息を引き取ったのです。それは象が神を呼び求めて、神が祝福を与えるために象のいる所へ向かった話に似ています。二本の電線がつなげられ、その瞬間に魂が肉体を脱いだのです。
人の一生は、このような正しい最期を迎えるための努力でなければなりません。その時、彼女の側には、娘のヴェンカンマと孫のサイラジャがいましたが、彼女はスワミだけを呼び求めたのです。最後の瞬間にこのような望みを抱くことは聖なる純粋さの賜物です。それは理想的で称賛すべき人生のしるしです。そのような態度は、何らかの外からの力によってではなく、おのずから生ずるようでなければなりません。ここに我々の学ぶべき手本があります。
(1983年5月6日 イシュワランマの日におけるスワミの講話より)
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